失感情の治療を考える

最近になってようやく自分の失感情傾向がわかるようになった。

思春期前後に深いストレスにさらされた体験が大きいと思うが、20~30代はほぼまるまる「失われた感情」と「身体感覚」を取り戻す作業に明け暮れた。

学生時代に競技カラテの道場で来る日も来る日もぼこぼこ!になっていたのも、あれは今にして思うえば緩慢な自傷行為であった。大けがをして辞めるに至ったが、まああれぐらいで済んでよかったと思うべきか。

空手のあと今後の人生まで含めて大きな影響をもたらしたのは「野口整体」だろう。人を倒す技の修練を断念したのちに、人の苦しみを共感する道を歩み始めたというところが「物語」である。

思えば失われた感情と身体感覚を取り戻すために、身体に取り組んで来たのだ。

野口整体の愉気や整体操法が現代的に最もその力を示せるのは、「失感情」に対する対応ではないかと思っている。

日々くり返される荒んだ刺激によって麻痺した心の感度は、身体を媒体にして伝える慈しみと癒しの心によって息を吹き返す。

釈迦の慈悲もキリストの愛も人間の救いを象徴するものだが、その根底にあるのは相手に対する深い理解と共感の精神である。

もともと健全であるはずの人間の心を麻痺させるのは、その身の内に偏りを抱えた人間の所業である。その反面、その凍りついた身心に再び血を通わせることができるのもまた人の心なのだ。

愉気は人と人のつながりを象徴する概念だが、現代にこそ愉気の精神は重用されるべきだろう。

野口整体ばかりが全てではないが、その根本精神には汎用性と不変性がある。身体と社会から失われた感情を取り戻し、心と体、人と人、その「つながり」を取り戻す道としてその有用性を実証し、後世に残したいものである。