虚を活かす

最近になっていよいよ「何もしない」ことが増えてきた。

臨床の話である。

以前はどうしても「治るように、治るように」という気持ちが先だって、クライエントさんと一緒になってくたくたになっていた。

近頃はただひたすら「どうなっているのか?」という探求の心だけをふところに忍ばせて、ひたすら時間を供にするようになっている。

いや、こういう紋切り型の態度でやれるほど生きた人間の臨床は甘くはないのだが、全般に「どうにかしよう」と躍起になるようなことはなくなってきた。

野口整体というのは一言でいえば「何故そうなったのか?」なのである。

話を聴く、身体を読む、全体の様子を感じ取る、そうして今日に至ったイキサツを知ることがその全てなのだ。

あらゆる問題事は原因がわかった時点で解決したも同然である。

これを生きた人間に当てはめれば、「理解」と「治癒」は同じものなのだ。

だから何故かが解れば結果論的に「何もしないでも良くなる」ということが起こってくる。

決して治療者がすばらしいのではない。クライエント自身の情熱によって自己分析が深まった結果なのだ。

このときには人格もかつてのものより全体性に向かって変容成長し、より安定的な人間像を現すことになる。

真の治療は「有限である人間が無限の人間を理解しようとする」、そのダイナミズムの中にのみ存在する。

ヒポクラテスの時代から、いやおそらくそれ以前から医学はあったが、この核心に至った治療者はわずかと思われる。

くり返すが個体の生命は有限である。

その有限の生命時間の中で無限に活動する〈いのち〉を自覚したら、その瞬間から「自分だけの生命」という小さな牢獄から一気に解放される。

しかしその事実に目覚めなくともこの世に奇跡は絶えず起こり、次々と人が人を癒していくのだから絶妙なのである。

悟っても悟らなくても、この世界は一切ぐらつく気配はない。

もはや「治療」の主体は何処にもない。治療者はただ雰囲気と環境を提供する援助者であり、受療者も何が何をしているのかわからないうちに刻々と姿を変えていく。

だから厳密に見れば「何もしていない」とは言えないのだが、援助者が無力であればあるほどかえって治癒がはかどるというパラドックスが生じるところが臨床の醍醐味でもある。

野口晴哉先生がその辞世の謳「我は去る也」の中で「我が説きしこと 一言にいえば 虚の活かし方也 無の活動法也」という言葉を遺されている。

「虚を活かす」ということが本当のところ何を意味するのかは今後も深く吟味すべきところではあるが、一つには治療者が虚に徹することで治癒者が実になるという構図を今の私なら思い浮かべる。

老荘的に言えば「無為」という一言に帰結しそうである。この無為を真に体得するために「実」を積み重ねる、つまり技術を修めその使用を慎むというプロセスが求められるのではないだろうか。

最初から何もないものをそのまま「何もしない」では、その「虚」に力を持たせることは無理であろう。虚を活かすにはそれだけ「実」を充実させることである。

具体的には理論の習得と技術の練磨は終生必須ということである。「技はその使用を慎むために修める」という先師の言葉もつづけて思い出される。

もとより人間の探究に到達地点などはないのだから、現在地などさっさと通り過ぎて新たな景色を求めたい。無為の底知れぬ力を本当にものにするのはまだまだ先だろう。

夢分析ー表出化する無意識の動き

妻が面白い夢を見た。

自宅の前の住宅がなくなってサラ地になっている。そこへ私と妻が見に行くと黒い岩のような塊が二つ、地面から顔を出していた。邪魔なので掘り返そうかと思ったが、想定したよりも土中の体積が大きいようである。私がその場ですぐに掘り返すのはあきらめ「これはほうっておいて、またいずれやろう」といって引き返し、妻もそれに従がう。

内容は以上である。妻の夢はいつも抽象性と複雑性に富んでいるのだが、これは比較的解釈をつけやすいのではないだろうか。

というのも最近は私がもっぱら無意識とか個性化の話ばかりをしていたことが遠因と思われる。つまりこの黒い二つの岩というのは顕在意識に表出し始めた私たちの二人の無意識のようである。

しかし無意識が意識の領域に登ってきたからといって、「意識的」にそのすべてを顕在意識の俎上に上げられるかといったら、それは不可能である。

無意識と顕在意識の交流が活発になるということは、取りも直さず心理的な「治癒」を意味している。

しかし無意識というのは劇薬なのだ。無意識の力に急激に飲み込まれると、治癒どころか社会生活そのものが一時的におぼつかなくなる。

だから夢の中の「私」は土中の岩を掘り起こさずに、「自然に任せる」ことにしたのだと思われる。

この夢のように無意識像が黒い大きな岩のような塊として現れる例を、過去にクライエントから何度か聞かされたことがある。

また今回の例のように、その大岩は夢の中でも「これ」といった仕事や役割を果たすわけではないし、さして邪魔にもならないということがほとんどである。

一方で夢を見ている当人に理由のない安堵感をもたらしたり、何か「意味ありげ」な中心的存在として登場することが共通している。

こういう夢を見た(覚えている)からどうなのかと問われると答えに窮するが、自身の心の成長プロセス(個性化の過程)を客観的に査定する結果にはなりそうである。

何にせよ意識的には活性化する無意識の動きを邪魔しないで、むしろ保護するような立ち位置で「見ている」他はないのが常である。

経験上、中年期というのは顕在意識と無意識の力がちょうど均衡した後、入れ替わるときだと思っている。この時期に体から余分な力みを抜けば抜くほど、心のエネルギーの流れはスムーズになるから、より体を整えることが要となるのだ。

野口整体流にいえば「ポカンとする」という一言につきるが、日に一度は全身をゆるめて意識の統制力を弱めてやることが、自分なりの人生を豊かに創造していくための要訣である。

このときに土中から顔を出した無意識が示唆的にはたらく。もちろん何か目に見える「はたらき」をするわけではないが、生命の進むべき方向を暗に示して、気がつけば自分の歩んだ後ろにいかにも自分らしい道が出来ているものである。

そこで夢の中の「私」のように「そのうちなんとかなるだろう」と成り行き任せでいられるかが鍵だ。禅の方では「任運自在」という言葉があるが、運を味方につけるために努力は無用なのである。

もちろん努力そのものはしても構わないが、努力「だけ」で人生が構築されていると思っているとしたらそれは視野狭窄である。

大抵は意識できる思考の部分だけを指して、「これが自分だ」と思っているが本当は顕在化していない広大で漠とした心の領域に主体はある。

おそらく昔の人はこういう「サムシング・グレート」のような存在に手を着けることは「祟り・障り」の元であると考えて、「それ」から一定の距離を保って畏れ敬う態度を心得ていたものと思われる。

実際は「そのようなことはすっかり忘れて」目の前のことに努めるのが賢明である。「人事を尽くして天命を待つ」とはこのことで、「精神的なこと」に取り組もうとしてそちらに偏るとかえって精神性は堕ちる。

具体的に言えば、神社に行って合格祈願や商売繁盛を祈願する暇があったら、その時間を受験勉強や仕事に精進した方がずっと効果的に運を引き寄せられるのである。

話が飛躍したが、元来何もしなくても無意識はその生活に反映されていくものである。我々にできることは、「それ」が見えやすいように時折り意識の波を鎮めて心の中にサラ地を作り出すことぐらいだろうか。

私の中にいる私ならざる〈わたし〉が一体どのように生きようとしているのか、これを〈わたし自身〉に頭を垂れて問いつづける態度のことを私は「敬虔」、と呼んでいる。

そういう意味からも、夢は私が〈わたし〉へと通じる、貴重な連絡経路なのである。夢を軽視することなく、その訴えのもとに照準を絞って傾聴してみると意外な声を拾い出して、その内容にしばしば驚かされる。

人生最大のミステリーは〈自分〉なのである。決して全てを見せない土の下に一体全体何があるのか、それを見究めるために今日のいのちがあるのだ。

そのためには、ただ一つ一つ行動していくだけでいい。見えないものが一つ一つ現象化していくその全てにドラマがあり、一寸先は闇もまた楽しみである。

夢は時折りその先の光を垣間見せてくれる、案内人のような役割を果たすものなのだ。

メンタルは弱めでいい

何ごともメンタルは強いに越したことはない。

こういう考え方が一般的だが、いろいろな人にお会いしてみるとメンタルが弱い(と思っている)人の方が身体は健全だ。

健全だ、というのは病気をしないという意味ではなくて、身体感覚が正常にはたいている、ということである。

逆にいうとメンタルが強い、とか精神が不安定になりにくいタイプの人というのは大きく二通りに分かれる。

自分の心の全体性をしっかり把握したうえで安定している人と、心の大部分が蓋をされたように閉じられており、狭い自我意識の世界だけが固定的になっている人である。

やっかいなのは後者のタイプで、自分の病的な部分に光があたりにくいので心身症的に体の不調だけは訴えるが、メンタルが「強い」ために深層の問題が明るみに出にくいのだ。

心理カウンセリングや整体指導を受けるとこうした「仮」の安定性はやぶられ、文字通り不安になる。あるいは出どころのわからない不快情動に自我が脅かされ、メンタルの弱さを感じはじめるようになる。

こうなると、心の「治癒」がはじまった、とみていい。

心でも体でも異常を異常と感じれば治るのだ。

このとき当然「苦痛」を伴うのだが、擦り傷でも心の傷でも本当に治るときというのは痛みや苦しさを伴うものである。

メンタルが弱い、と思っている人はこうした心の治癒と自我の再構築が常に行われている場合が多く、不安にさいなまれて心がぐらぐらと揺れているのは生命の平衡要求の現れだと言っていいだろう。

だからメンタルの弱い人というのは、当人的にはつらいが客観的にそのメカニズムを解読してみれば、ある種の健全さが理解されるはずだ。

しかし「弱いことがだめだ」と思ってそれを隠したり強くなろうと足搔いているうちは、その健全な面が死角になりやすい。

忘れてはならないのは病気を治すことや心の欠陥を補償するためにあくせくしすぎて、自分の立ち位置を忘れてしまわないことである。大事なことは「将来に向けて治す」ことではなく「今日をしっかり生きていく」ことなのだ。

自分の欠点や弱さを認め、弱いまま平気で生きられるようなったらそれこそが本当の「強さ」ではないだろうか。

自己実現までの距離

「自己実現」は心理治療を行なう上で最も重要なタームである。

自己実現(self realization)の原型は個性化(individuation)という、クライエント自身が本来の自分らしさを求めて変容成長していく動きのことだ。

言いかえるならその人に内在する、生命が要求実現に向かう心のダイナミズムのこといっている。

〈私〉が〈わたし自身〉になる、ということから目を背けたままで「治療」を完成させるのは片手落ちだし、それ以上に不可能なのだ。

「個性化」という言葉を精神療法の中心に打ち出したのはユングだが、それがいつのまにか彼の手を離れていって「自己実現」に表現がすり替わり、その後だんだんと時間の経過とともに意味内容まで変化していった。

もともとの「個性化」は、一切の社会的価値観や道義的制約から離れた「本来の自分らしさ」へと向かう無目的な動きである。

それが徐々に一般社会の需要に引きずられるように「富と幸福」の追求みたいなステレオタイプの成功学に堕ちてしまった。

さらに巷ではそのような「自己実現」の歳末大安売りが跋扈して、一日30分の瞑想で「自己が目覚め」たり、三泊四日の集中セミナーで「本当の私に出会え」たりするから、これらに引っかかって余計な浪費と引き換えに「道草」を食う人もあとをたたない。

もっともこういう道草すらも中・長期的、大局的視点に立てばその人也の個性化へつづく布石だったりもするのだけどね‥。

しかし実際問題、真の「自己実現」はそこらで販売しているようなものではないのである(もちろん価格の大小も関係なく)。

本来はたった一人になって、自問自答する「自分」すらもそこから締め出して、無意識の活性化をじっと待つことなのだ。

知ってる人はわかってるけど、これはけっこうしんどい。

いわゆる「瞑想」の必要もここにあって、これも現代的には猫も杓子も瞑想ブームで、質の高低において雲泥の差があるということも知らない人が多いのではないだろうか。

ひとつのキーワード、というか「鍵」となるのは「身体」だ。

これを有効に使う方法から着手することが近道なんだな、本当は。

何をモデルにするかで得られる結果も変わるけれども、そこは個人の勘と好み次第だ。

何が言いたいのかというと、昨今、「自己実現」が日常から遠く離れたお月様の世界にあると歌って、地球人を謎のツアーに連れて行こうとする人たちが多いのが気になったのだ。

数多あるガイドラインから何を選び、そして誰を信じて行動するかはその人の質によるのだが、いつだっていまここで生命の光が身体上に現れるようにすれば万事おーけーなのだ。

身体から遊離した、あるいは身体を誤用・悪用する精神論ほど恐ろしいものはない。

100年経っても1000経っても、「整、体」の価値は失われない。真理というものは、一切の時間的・空間的制約から解放されているから真理と呼ばれるのだ。

身体上に自然の秩序を顕すことが、自己実現の必要条件であってそれ以外の何ものでもない。実は今ここで、しっかり自己実現している。

コンステレーションのこと

「コンステレーション」はユング心理学の臨床、精神療法における重要なキーワードの一つである。

臨床心理の分野では「布置(ふち)」と訳されるけれども、他には「星座」という意味もあるらしい。

だから感覚としては「それが、そこに、そのように在る」というニュアンスなのかもしれない。

臨床心理においては、心の病に苦しむひとりの人が治っていくときに見られる、治癒のプロセスとメカニズムを表現した言葉だ。

この場合「誰々が何々をしたからその人が治った」というような、科学的な因果論ではなくて、クライエント自身の「時が熟した」ことによって、彼(彼女)を取り巻くすべての環境が一つの目的に向かって動き出し、その結果「治るべくして〈自然に〉治った」という非・科学的、非・因果的な考え方である。

それは「共時性(シンクロニシティ)」などともいわれる「意味のある偶然の一致」を基盤とする見方といえる。

換言すれば「偶然」とか「たまたま」そうなった、ということになる。あらゆるできごとが共時的に起きた結果、何故か説明はつかないけれども、うまいこと治ったという考え方なのだ。

心理療法家の河合隼雄さんはコンステレーションのことを「めぐり合わせ法」などと訳しているけれども、その人のその時期が来ると、何かが結実することがあるようなのだ。

私が今までお会いした方の中にも、自律神経失調症とか抑うつ症などで悩んでいてうちのホームページはずっと前から見ているんだけど、実際に来院されるまでに1年とか2年くらいずっと考えて、それからやっと来院されるようなこともある。

それまでにいろんなところに行っていろんな治療家の話を聞いて治療を受けて、体験を積んで知見も深めて、うーんじゃあそろそろここにも行ってみようか、というような流れで。

で、せい氣院に来てすぐに「治る」のかというと、やっぱりあんまり良くならなかったりして‥(泣)。

それからまた他所に行ったり、前にお世話になっていた治療家の先生や団体にもまた行ったり来たりして、そうやってまた何年か経つうちに何となく良くなっていく、とか‥。

こんな風に、特に心の問題や精神的な病の治癒というのはある時に「ズバッ!と治りました!」というようなことは経験上あまりないように思う。

何となくゆらゆら‥ふらふら‥と揺れながら、いつもの生活がつづいていって、何となくどこかへ向かって流れていってる。

それである日気がついたら今まで必要だった「支え」がいらなくなってた、みたいなことがある。

ここでの支えというのは、ある価値観だったり考え方だったり、信仰だったりとさまざまだけど、まあとにかく「あら?」、という感じの治癒ケースにはたまさか出会うものである。

そういうことを広い視野で眺めてみると「めぐり合わせ」で治った、という考え方には共感できる。

およそ経験を積んだ治療者というのは、できるだけその「めぐり合わせ」とか「偶然の治癒」が発現しやすいように、可能な限り何もしない、という態度で「待つ」ようになっていく。

カウンセラーの中には、できるだけ自然体のあるがままに徹するようにして、ひたすら待っている、ということがたった一つの技術だという人までいる。

野口整体でもその点はちょっと似ていて、

例えば創始者 野口晴哉先生の『治療の書』の中にこんな表現がある。

我治めて治療あり 我慎みて治療あり。

我 我無くしてのみ治療あり。

治療といへること 我が行ふに非ず。人に施すことに非ず 治すことにも非ざる也。

たゞ我 我無くして靖らかなる為也。宇宙の靖らかなる為也。(野口晴哉著『治療の書』全生社 p.131)

つまりは私の方から相手に向かって何かはたらきかけをする、そういうことを徹底して慎むことを奨めている。

治療、治療といっても、「何かする」ばっかりが能ではないのだ、と。

「何にもしない」という中にも素晴らしい解決力があるんだと、そういうことを言っているように感じる。あえて解決しない、という解決策とでもいおうか。

そして実はこの「何にもしないときにものごとって一番うまくいく」という考え方が、実は中国の古典思想である「老子」とか「荘子」の中には繰り返し出てくるのだ。

ユングや野口先生は、自然科学が至上の時代に科学のおよばない領域を補償するかのように東洋思想を有効利用している。

だからこの「コンステレーション」は近現代の治療に於けるの「最後の砦」みたいなもの、と言ったら少し大げさかもしれないけれども、実際そんな側面があるのではないだろうか。

いろんな方法を試しても上手く治らない、どうしようか‥もう疲れちゃった‥みたいなときにこういう「めぐり合わせ」の方法ってのがどっからともなく、ひょっと現れたりして…「それで治る」ということは実際あるのだ。

かといって本当に何もしないわけではなく、「何か」はするんだけど。

何か「努力」、みたいなものを‥。

そういう人為的な「治療」とか「努力」はあっていいんだけれども、それだけではカバーしきれない何か、っていうのがやはりあって、そちらも心のどこかで大切にはする。そういう姿勢があると「偶然」がひょっくり味方してくれるような気がするのだ。

昔から「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるけれども、人間的努力と天の采配、というこの両方の力が事を為すようである。浄土真宗の「他力本願」なども同質のことを説いているのかもしれない。

長くなったけど、「コンステレーション」ていうのは大枠としてはこういう「見えない秩序」が宇宙とか自然生命の中にはあるんだ、という信頼に裏打ちされた概念である。

そういう「見えない力」がこの世にはある、ということを知っておくと「いよいよもうだめかな‥」というような局面になっても、もうちょっとそこで腹を括って待てる、みたいなところが出てくるんではなかろうか。

自分の力だけが全てじゃない、ということで‥。どっかで「何か」が味方をしてくれる。実は今までがそうだったし、そしてこれからも。

そういう運を味方につける態度を訓練しておくことも、心理カウンセリングとか整体指導の中には隠れた役割として入っているような気はする。

いってみれば「運命を味方につける」ことがユング心理学と野口整体の共通項、なのかもしれない。

いのちの本質

「何ごとも〈物事の本質を捉える〉ことが大切」

たしか‥、河合隼雄、鷲田清一両氏の共著『臨床とことば』の中で河合先生がそういうことを述べておられた。

つまり有象無象、あくたもくたには目もくれず、「要するにコレってこういうことでしょ?」ということがズバッとわかる。そういう力が人生の、特に大事な局面においては非常に重要なのである。

物事はなんでもそうで、一流人とか、その道の極みに近づく人ほど、その「核心部分」をいやというほど知っている。

整体法や心理療法の世界では野口晴哉やユングという人たちが大先達だが、いずれも「人間生命」とか「心の核心部」における「何か」を掌握していた気配がある。

そしてそういう人は生前にあった世間の批判や無理解とはうらはらに、没後30年、50年と経ってから、そういえばこんなことを言っている人がいたぞ、となって注目され始めるのだ。

それはその人の生命が本質や核心、真理とともにあったからだろう。

例えば日本を代表する芸術家であった岡本太郎氏なども、本質とは何かを考える人だった。

岡本氏は十代の後半からパリに留学した訳だが、同時期の日本人留学生というのはその当時の有名無名の洋画家(現地の画家)のスタイルをまねたり、金髪のモデルを画いて日本に帰ったら絵を売ることを考えるのが大半だったようである。

ところが岡本氏の場合は「絵とは何なのか?」「芸術とは何なのか?」「人間とは何か?」ということを考え悩みぬいたあまり、まったく絵が描けなくなったのである。そしてパリ大学の哲学科に入り、後はマルセル・モースのもとで民族学を学んだ。

その結果、芸術家として一個人として前人未到の域に達し、死後もその名と仕事が残ったのである。

もちろん「偉業を成す」ことや「大人物に成る」ことばかりが人生ではないが、この世に生を受けて、自分が何者なのか、自分以外の誰でもない〈わたし〉とは一体何か?ということがさっぱりわからないまま死ぬのはこの上なく惜しいことである。

そうならないためにも、〈わたし〉にとっての本質や真理に向かっていくひたむきな心が欲しいと思う。

そんなことに時間を使って一体何の腹の足しになるのか?と思われる人もおられると思うが、そのような「合理主義」の人が中年期以降、それまで固定化していた価値観を大きく揺さぶられて、自らの「根っこ」の弱さを露呈するようなケースをこれまでもいろいろと見てきた。

大体想像はつくと思うが、自分なりの「本質」に至る道というのは容易でないのである。

だからこそ、「そこ」に至るまでの遠く険しい道のりを一日、また一日と着実に歩んで来た人は充実した中年期、老年期、そして死期を迎えられるのではないか。

もしかしたら「道」には到達点などというものはないのかもしれない。だが、それならそれでなお結構だ。人生50年の退屈をしのいで余りある。

整体も心理療法も、その本質は生命あるいは自己の「中心」にアクセスするための方法だ。

自分が解き明かしたところまでなら、かろうじて他者を導くことができる。いや、もはや他者のことなどかまっている暇などないのかもしれない。

〈わたし〉とは何者なのであろうか。そのために日々「人」と会って、「世界」を共有する。本質はいつも我と彼が融け合う「そこ」に在るのだと、現在のわたしは信じている。

子どもの宇宙

息子(3歳)の保育園放浪記が3園目でようやく落ち着いた。

「子どもが保育園(幼稚園)に行きたがらない」

「行こう、というと泣きだす」

こういうことは世の中にいくらである話だけれども、河合隼雄先生によれば子ども一人一人の中に別々の宇宙があるのだ。周囲の大人にはその一人一人の世界を大切に守る責務がある、という。

これに因んて思い出すのが、サン=テグジュペリの『星の王子様』の冒頭、みんな最初は子どもだったのに子供だったことを覚えている大人はいない、という一節である。

子どもの心がわからなくなるのは、それだけ大人の心と体が日々ストレスにさらされ、鈍ってしまうからかもしれない。

鈍りも身体の防衛反応の一種なので、一概に「悪い」と言えない複雑さが人間には、ある。

野口晴哉は「子どもの目の輝きをよく見てそれを守ること」そして「抱き上げたときの重さ(リラックス度合)をよく感じとること」の重要性を説く。

身体がずっしりと重く感じれば、それだけ安心して、世の中を信じて生きていることがわかる。

大人が整体を保つのは、人類の未来を担う子どもの心に広がる宇宙を守るため、といってもいい。

そういう風に「大切に」されて育った子どもたちが大人になり、そういう大人がまた子どもの宇宙を大切にしていく。

これをくり返せば人間の世の中が少しづつ豊かになっていくはずである。

大それた話になったが、まずは我が子の中にある唯一無二の宇宙を守りたい。

そのためにときどき自分のこころの扉を開けて、光を入れ、風通しをよくしておきたいと思う。

 

うつは心の風邪か

体が風邪を引くように、心も風邪を引く。うつは「こころの風邪」みたいなもの。そういうフレーズをときどき目にする。

だいたいが「風邪」も「うつ」も定義があいまいなのだ。だからそうだといえばそうかもしれない。

おそらく「うつ」という病気が重篤なものになると相当に苦しいから、「今は苦しいけど、ちゃんと養生すれば必ず治りますから」という、心ある人からの励ましではないかと思っている。

野口整体の『風邪の効用』という本があるけれども、これによれば風邪は体の自然良能、すなわち発熱・発汗・下痢等々‥症状はいろいろあるが、その風邪を途中で止めないでしっかり経過すると身体の偏りは消失することを説いている。

もうちょっとわかりやすくいうと、自分の力で自然に体は整うってことを意味しているのだ。

ここでいう「偏り」って具体的にどういうことかと言えば、「骨格の位置」とか「重心バランス」のことである。

つまり発熱と発汗で筋肉がゆるむから骨格が正常な位置に戻るし、筋骨のバランスが整えば内臓機能も正常化し、そして最大化するのだ。

それなら、「うつ」にもそういう自然良能の力があるのか?と問われれば、それは間違いなくある。

「うつ」状態が体と心の偏りを正している、と考えて相違ない。

だいたい人間が治る時、というのは全てにおいて苦しみを伴うものなのだ。

「苦しいから治っている」といっていいだろう。

風邪もそう、そうなのだ。

「うーん…」と寝込んで唸っているときに、必ず身体のどこかが治っている。

共通しているのはうつでも風邪でも必ず、過去に何らかの「不快」を味わっているということだろう。「その時」の情動が消化しきれずに、体の内、あるいは心の中に居座っているのだ。

それを遅ればせながら、1年後でもいい、いや10年、20年後でもいいから身体上に表現して、感じ直して、苦しみ直すことで心身ともにクリアになる。

心でも体でも、きちっと病気をすることが治るためには必要なのである。

ときどき心理カウンセリングを受けた後で「具合が悪くなった」とか、「かえって気分が落ち込んだ」とかいうことが起こるのは、過去に感じ、出しそびれた不快情動が記憶の底から浮かび上がってきたからだと言える。

感じはじめたらそれから何日後か何週間後かはわからなけれども、やがては消えていくのだ。

暗がりに繁殖したカビとかキノコがお陽様にあたると消えてしまうように、心の底にも意識の光が指し込むとクリアになる。

ただまあ、人によってはそういうカビとかキノコみたいな不快な情動体験が「生きがい」とか、「生きるための燃料」みたいになっている人もいるから、心の治療というのはむずかしいのだが‥。

場合によっては、少しくらい偏りがあった方が「人間味」がある、と言えなくもない。

まあでも、せっかく心の風邪を引いたのならこれを上手く使わない手はないだろうと、わたしなら思う。

風邪をきちんと経過したあとは身体がさっぱりする。

これと同じように、うつを経過したあとで、今までとは違った創造的な自分だけの人生の道が拓けた、という例を、日々の臨床でたまさか見させてもらっている。

いずれにせよ病気は外から無理やり治すものではない。

「いのち」という全体性の中でその目的を正しく理解し、善用するべきだ。

苦しいときはその苦しさの中心を見据え、本質を見極めようとする態度を学ぶことである。

やがて必ず、その病の中に「道」が見えてくる。

糖質コントロール不要論

最近「白米を食べすぎると頭がぼやけるんだ」と先生が言っていたことを思い出す。科学的に原因を説明すれば血糖値の急上昇が原因である。

整体を長年やっていくと身体はどんどん敏感になる。それだけ食事の味と分量にもシビアになるのだ、と思っていた。しかし実際は、何のことはない自分も年を取ったら糖質類はあんまり食べられなくなった。

いや初老期を過ぎても毎日毎日もりもり食べて、せっせと身体をこわしてる人もいるのだから、少しは整体の恩恵にあずかっているのかもしれない。

何にせよ食べ過ぎは若さの特権だ。

いくら食べたって余剰カロリーは運動エネルギーや性エネルギーに化けていつの間にか消費してしまう。

年を取ると内燃機関が弱まるので、ふつうなら食べられないようになっていくのである。

だからある人が急に「減食や断食すると元気になるんだよ」とか言い出したら、見た目は若くてもその人は「老い」ているのだ。

自律神経失調症に絶食が有効であるという話を聞いたのだが、上の事情を加味すれば、個人差を無視して如何なる治療法も健康法も確立しない。

老いも若きも、身体の「適」がわかるように感覚の平衡を保つのが整体だ。

まったくもって当り前の話なのだ。

ふつうの食事のなんたるかがわかったら、運動も休息も、その適度をやぶらないで生活しているはずだ。

一つがわかればそれは全てに通じる。

その「全て」も最初から「いのち」が全部知っているのだ。

失感情の治療を考える

最近になってようやく自分の失感情傾向がわかるようになった。

思春期前後に深いストレスにさらされた体験が大きいと思うが、20~30代はほぼまるまる「失われた感情」と「身体感覚」を取り戻す作業に明け暮れた。

学生時代に競技カラテの道場で来る日も来る日もぼこぼこ!になっていたのも、あれは今にして思うえば緩慢な自傷行為であった。大けがをして辞めるに至ったが、まああれぐらいで済んでよかったと思うべきか。

空手のあと今後の人生まで含めて大きな影響をもたらしたのは「野口整体」だろう。人を倒す技の修練を断念したのちに、人の苦しみを共感する道を歩み始めたというところが「物語」である。

思えば失われた感情と身体感覚を取り戻すために、身体に取り組んで来たのだ。

野口整体の愉気や整体操法が現代的に最もその力を示せるのは、「失感情」に対する対応ではないかと思っている。

日々くり返される荒んだ刺激によって麻痺した心の感度は、身体を媒体にして伝える慈しみと癒しの心によって息を吹き返す。

釈迦の慈悲もキリストの愛も人間の救いを象徴するものだが、その根底にあるのは相手に対する深い理解と共感の精神である。

もともと健全であるはずの人間の心を麻痺させるのは、その身の内に偏りを抱えた人間の所業である。その反面、その凍りついた身心に再び血を通わせることができるのもまた人の心なのだ。

愉気は人と人のつながりを象徴する概念だが、現代にこそ愉気の精神は重用されるべきだろう。

野口整体ばかりが全てではないが、その根本精神には汎用性と不変性がある。身体と社会から失われた感情を取り戻し、心と体、人と人、その「つながり」を取り戻す道としてその有用性を実証し、後世に残したいものである。