「コンステレーション」はユング心理学の臨床、精神療法における重要なキーワードの一つである。
臨床心理の分野では「布置(ふち)」と訳されるけれども、他には「星座」という意味もあるらしい。
だから感覚としては「それが、そこに、そのように在る」というニュアンスなのかもしれない。
臨床心理においては、心の病に苦しむひとりの人が治っていくときに見られる、治癒のプロセスとメカニズムを表現した言葉だ。
この場合「誰々が何々をしたからその人が治った」というような、科学的な因果論ではなくて、クライエント自身の「時が熟した」ことによって、彼(彼女)を取り巻くすべての環境が一つの目的に向かって動き出し、その結果「治るべくして〈自然に〉治った」という非・科学的、非・因果的な考え方である。
それは「共時性(シンクロニシティ)」などともいわれる「意味のある偶然の一致」を基盤とする見方といえる。
換言すれば「偶然」とか「たまたま」そうなった、ということになる。あらゆるできごとが共時的に起きた結果、何故か説明はつかないけれども、うまいこと治ったという考え方なのだ。
心理療法家の河合隼雄さんはコンステレーションのことを「めぐり合わせ法」などと訳しているけれども、その人のその時期が来ると、何かが結実することがあるようなのだ。
私が今までお会いした方の中にも、自律神経失調症とか抑うつ症などで悩んでいてうちのホームページはずっと前から見ているんだけど、実際に来院されるまでに1年とか2年くらいずっと考えて、それからやっと来院されるようなこともある。
それまでにいろんなところに行っていろんな治療家の話を聞いて治療を受けて、体験を積んで知見も深めて、うーんじゃあそろそろここにも行ってみようか、というような流れで。
で、せい氣院に来てすぐに「治る」のかというと、やっぱりあんまり良くならなかったりして‥(泣)。
それからまた他所に行ったり、前にお世話になっていた治療家の先生や団体にもまた行ったり来たりして、そうやってまた何年か経つうちに何となく良くなっていく、とか‥。
こんな風に、特に心の問題や精神的な病の治癒というのはある時に「ズバッ!と治りました!」というようなことは経験上あまりないように思う。
何となくゆらゆら‥ふらふら‥と揺れながら、いつもの生活がつづいていって、何となくどこかへ向かって流れていってる。
それである日気がついたら今まで必要だった「支え」がいらなくなってた、みたいなことがある。
ここでの支えというのは、ある価値観だったり考え方だったり、信仰だったりとさまざまだけど、まあとにかく「あら?」、という感じの治癒ケースにはたまさか出会うものである。
そういうことを広い視野で眺めてみると「めぐり合わせ」で治った、という考え方には共感できる。
およそ経験を積んだ治療者というのは、できるだけその「めぐり合わせ」とか「偶然の治癒」が発現しやすいように、可能な限り何もしない、という態度で「待つ」ようになっていく。
カウンセラーの中には、できるだけ自然体のあるがままに徹するようにして、ひたすら待っている、ということがたった一つの技術だという人までいる。
野口整体でもその点はちょっと似ていて、
例えば創始者 野口晴哉先生の『治療の書』の中にこんな表現がある。
我治めて治療あり 我慎みて治療あり。
我 我無くしてのみ治療あり。
治療といへること 我が行ふに非ず。人に施すことに非ず 治すことにも非ざる也。
たゞ我 我無くして靖らかなる為也。宇宙の靖らかなる為也。(野口晴哉著『治療の書』全生社 p.131)
つまりは私の方から相手に向かって何かはたらきかけをする、そういうことを徹底して慎むことを奨めている。
治療、治療といっても、「何かする」ばっかりが能ではないのだ、と。
「何にもしない」という中にも素晴らしい解決力があるんだと、そういうことを言っているように感じる。あえて解決しない、という解決策とでもいおうか。
そして実はこの「何にもしないときにものごとって一番うまくいく」という考え方が、実は中国の古典思想である「老子」とか「荘子」の中には繰り返し出てくるのだ。
ユングや野口先生は、自然科学が至上の時代に科学のおよばない領域を補償するかのように東洋思想を有効利用している。
だからこの「コンステレーション」は近現代の治療に於けるの「最後の砦」みたいなもの、と言ったら少し大げさかもしれないけれども、実際そんな側面があるのではないだろうか。
いろんな方法を試しても上手く治らない、どうしようか‥もう疲れちゃった‥みたいなときにこういう「めぐり合わせ」の方法ってのがどっからともなく、ひょっと現れたりして…「それで治る」ということは実際あるのだ。
かといって本当に何もしないわけではなく、「何か」はするんだけど。
何か「努力」、みたいなものを‥。
そういう人為的な「治療」とか「努力」はあっていいんだけれども、それだけではカバーしきれない何か、っていうのがやはりあって、そちらも心のどこかで大切にはする。そういう姿勢があると「偶然」がひょっくり味方してくれるような気がするのだ。
昔から「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるけれども、人間的努力と天の采配、というこの両方の力が事を為すようである。浄土真宗の「他力本願」なども同質のことを説いているのかもしれない。
長くなったけど、「コンステレーション」ていうのは大枠としてはこういう「見えない秩序」が宇宙とか自然生命の中にはあるんだ、という信頼に裏打ちされた概念である。
そういう「見えない力」がこの世にはある、ということを知っておくと「いよいよもうだめかな‥」というような局面になっても、もうちょっとそこで腹を括って待てる、みたいなところが出てくるんではなかろうか。
自分の力だけが全てじゃない、ということで‥。どっかで「何か」が味方をしてくれる。実は今までがそうだったし、そしてこれからも。
そういう運を味方につける態度を訓練しておくことも、心理カウンセリングとか整体指導の中には隠れた役割として入っているような気はする。
いってみれば「運命を味方につける」ことがユング心理学と野口整体の共通項、なのかもしれない。