いのちの本質

「何ごとも〈物事の本質を捉える〉ことが大切」

たしか‥、河合隼雄、鷲田清一両氏の共著『臨床とことば』の中で河合先生がそういうことを述べておられた。

つまり有象無象、あくたもくたには目もくれず、「要するにコレってこういうことでしょ?」ということがズバッとわかる。そういう力が人生の、特に大事な局面においては非常に重要なのである。

物事はなんでもそうで、一流人とか、その道の極みに近づく人ほど、その「核心部分」をいやというほど知っている。

整体法や心理療法の世界では野口晴哉やユングという人たちが大先達だが、いずれも「人間生命」とか「心の核心部」における「何か」を掌握していた気配がある。

そしてそういう人は生前にあった世間の批判や無理解とはうらはらに、没後30年、50年と経ってから、そういえばこんなことを言っている人がいたぞ、となって注目され始めるのだ。

それはその人の生命が本質や核心、真理とともにあったからだろう。

例えば日本を代表する芸術家であった岡本太郎氏なども、本質とは何かを考える人だった。

岡本氏は十代の後半からパリに留学した訳だが、同時期の日本人留学生というのはその当時の有名無名の洋画家(現地の画家)のスタイルをまねたり、金髪のモデルを画いて日本に帰ったら絵を売ることを考えるのが大半だったようである。

ところが岡本氏の場合は「絵とは何なのか?」「芸術とは何なのか?」「人間とは何か?」ということを考え悩みぬいたあまり、まったく絵が描けなくなったのである。そしてパリ大学の哲学科に入り、後はマルセル・モースのもとで民族学を学んだ。

その結果、芸術家として一個人として前人未到の域に達し、死後もその名と仕事が残ったのである。

もちろん「偉業を成す」ことや「大人物に成る」ことばかりが人生ではないが、この世に生を受けて、自分が何者なのか、自分以外の誰でもない〈わたし〉とは一体何か?ということがさっぱりわからないまま死ぬのはこの上なく惜しいことである。

そうならないためにも、〈わたし〉にとっての本質や真理に向かっていくひたむきな心が欲しいと思う。

そんなことに時間を使って一体何の腹の足しになるのか?と思われる人もおられると思うが、そのような「合理主義」の人が中年期以降、それまで固定化していた価値観を大きく揺さぶられて、自らの「根っこ」の弱さを露呈するようなケースをこれまでもいろいろと見てきた。

大体想像はつくと思うが、自分なりの「本質」に至る道というのは容易でないのである。

だからこそ、「そこ」に至るまでの遠く険しい道のりを一日、また一日と着実に歩んで来た人は充実した中年期、老年期、そして死期を迎えられるのではないか。

もしかしたら「道」には到達点などというものはないのかもしれない。だが、それならそれでなお結構だ。人生50年の退屈をしのいで余りある。

整体も心理療法も、その本質は生命あるいは自己の「中心」にアクセスするための方法だ。

自分が解き明かしたところまでなら、かろうじて他者を導くことができる。いや、もはや他者のことなどかまっている暇などないのかもしれない。

〈わたし〉とは何者なのであろうか。そのために日々「人」と会って、「世界」を共有する。本質はいつも我と彼が融け合う「そこ」に在るのだと、現在のわたしは信じている。