野口整体というのは奇想の健康哲学だと思われるフシがある。
しかし、少し落ち着いた心でその本質を見つめてみれば、きわめて順当な生命観であることがわかるはずだ。
釈迦の悟りも達磨の廓然無聖も、俗を離れて聖を説くようなものではない。
俗世の真っただ中に聖を見出し、その瞬間にいずれも忘じて無を徹見した境をあらわしている。
病気が治ったから健康なのではない。病気の中にすでに健康の動きがある。
古人は既にこれを天行健と表したが、天行健もまた知識ではない。
自らの体験によって獲得しなければ、いかに真理といえど真理たり得ず。冷暖自知の心を知り、自らの体験を超える世界は何処にもないことを知るべきである。
身体即世界である。
身体(からだ)、それはつまり、空(から)だ。
もとより聖にあらず、俗にもあらず。
身心自然に整えば、霧は晴れ、最初に見ていた世界が現前する。
迷ったのは世界ではない。
自分自身である。
物を追うことを止め、直ちに身を整える可し。
これこそが聖俗を超え、真理に目覚める妙法である。