竿頭進歩

野口整体は「整体になる」ということが一応の目標だが、整体になるという完成が本当にあるかというと、やっぱりこれはあってないに等しい

あるけれども、ない

整体操法によって整体になる、といえば聞こえはいいけれどその実なにをやっているかと言えば、日常的に作られる「偏り疲労」を解消させるために身体をある方向に刺戟している

その刺激はいわば内的秩序をおびやかす、外界からの闖入者なのだ

もう少しくだいて言えば、内的身体を整えるために他者が乱している

つまり「毒」のような役割をしている

これによって全身の平衡要求が煥発され、活きた気が働いて整う方向へ動き出すのである

メカニズムはこのようだが操法がピタッと決まれば、これは大変心地よくカラッポになって清々しい心境を味わうこともしばしばである

ところがこれでめでたし、終わりかと言うと、なかなか物事はそう上手くはいかない

整ったものをキープするためには、その人なりに「心得るべき点」と言うものがある

これにちなんで、無門関 第四十六則に「竿頭進歩」という経論がある

まずある和尚が言う

「百尺(約31メートル)の竹竿(たけざお)のテッペンにいるとする、ここからどのようにしてさらに一歩進めるか」

また別の和尚がかぶせて次のように言う

「このテッペンにある人(いわゆる禅の極致≒悟った人)は確かに立派なものだがまだ本物とは言えない。何故か。それは〈悟り〉に掴まって、かえって囚われているからである。そこからもう一歩踏み出れば、本の木阿弥の世界に落っこちて本来の自由自在の姿を現すだろう」

さらに続く後半は割愛するけれども、何を言いたいのかといえば「整った」ということにこだわったらそれもまた偏りの因(もと)なのである

人間は絶えず何かしている、そういう何か、仕業をやめたときにはじめて拓ける地平というものがある

これに近いところを臨済禅師は「無位の真人」と表現しているけれども、何にもない「無垢である」ということはどういうことかをよく考えねばならない

整った、でもまた偏るのである

その整ったり偏ったりしている「はたらき」の中に、既に見えない秩序が働いているのである

こういう生命原理とでもいうものに信を養っていくことを本当の養生というのだ

また別の視点から考えれば「整う」という現象に際限はないのである

竿頭進歩と言うのも、むしろこちらの方が解り易いかもしれない

完成の中にも未完を見出し、さらにもう一歩進む

自己の完成に向けて、未完の身体を投げ出してまっさらで生きる人を育てたい

そういう願心をもって、自分の垢を削ぐ日々である