子供のころの思い出になるが、家によく『あさりちゃん』が転がっていた。
『あさりちゃん』とは、勉強が苦手だが運動が得意で元気な「あさりちゃん(小4)」と秀才だが運動オンチでちょっとイジワルな姉「タタミ(小6)」を中心に物語が展開するホームコメディ漫画である。
今にして思えばこれが高度経済成長期の一つの典型的家庭ではないかと思っている。
お母さんはいわゆるオニババ的な顔を持つ存在感のある母であり、父はと言えば登場自体が他の三人よりずっと少なく、育児にも家庭にもほとんど関与していない。それでいて、毎日会社に行ってお給料だけを淡々と入れるマジメなお父さん像である。
仕事で30~40代の方とお話すると、存外この「父親不在」という家庭環境に育った後、いろいろな面で苦労をしいられたようなケースによく出会う。
もちろん各ご家庭で人間模様はさまざまなのだが、「お父さんが〈父親〉をやっていない」家に育った人は中年期以降のぐらつきが大きいように思える。
元来、「父」の役割というのは社会規範の象徴、代弁者である。
だから子供が何か自主的に行動すると言ったときに「ここからここまではいいけれども、これ以上はダメだ」ということで、ピタッとした枠をその子供に与えてやらなければならない。
ところがその当時のお父さんというのは会社勤めに時間と体力の大部分を奪われ、またGHQによる家父長制度の解体の余波も手伝って、家にはいても家庭的役割としては「いない」に等しいのである。
そういう「忙しさ」のために子供には申し訳ないとも思うし、そのぶん顔を合わせればできるだけ「理解のあるやさしいお父さん」になっていることも多い。
そうすると今度は母が父親の役割もやらなければならなくなり、必然的にオニになる頻度も増え、結果家庭は常に母性も父性も欠乏気味になる、という構図である。
もともとが日本は母性原理の強い国であるために、メンターのような役割にある人は父性的な厳格さが求められる傾向にある。
具体的には、ズバッ!とモノを言ってくれる心の指導者というのは常に需要があるのだ。
また父親というのは「厳しい社会規範」としての役割だけでなく、男性的包容力も求められる。
こんなことを仕事の合間にもやもや考えているうちに、自分の今やっている職業はこういう社会的役割を担っている面が結構あるなと気づいたのだ。
ただ「包容力」という点では全くもって心もとないし、この辺りはもっと「人生」を学ばないといけないなと思う。
現代的にはイクメンなんていう新しい父親像も生まれているので、当然あさりちゃんの頃とは「家庭」も変わってきているだろう。
生まれ育った家庭環境と身体は切り離せない。次世代の身体はどのような家庭像を表現するのだろうか。