健康への正しい考え方

私は整体操法のお世話になるともに、健康の自己管理とその推進のため、四十年間、前述した自分で行なう健康法である活元運動を毎日やってきた。どこの病院をみても、待合室は、受診者であふれている。人は、自分自身の持つ治癒力をたよらず、すぐに無条件に病院をたよってしまうのであろう。この書が、一人でも多くの方に、健康への正しい考え方を、開眼させる指針となってもらえれば、と、私は祈ってやまない。(野口晴哉著『整体入門』ちくま文庫 pp.226-227 解説 伊藤桂一 潜在する自己治癒力 より 太字は引用者)

おとといの記事に通じる話だが、現代では亡くなる直前まで病院のお世話にならない方、さらに言えば自宅で亡くなられる方などは本当に少ないようである

いかに自分の人生を精力的に生きてきた人でも、こと自分の身体の問題となると本当に具合が悪くなるまで何の自覚もなく、気がついたときには重症か手遅れ、そして「専門家任せ」という流れに何の疑問も持たないことは異常である

自分自身も若い頃は「活元運動をやっている人は最後に寝込んで死なない」などと言われ、何とも消極的な効用を謳っているようでピンとは来なかった

しかし実際に介護とか老いというものの実態を目の当たりにしてみると、非常に価値のあることだと思えるようになった

また開業当初よりも自分の年齢が上がったせいもあって、いわゆる高齢の方もよくお見えになるようになったが、そういう方の中には「死を整えたい」という要求を暗に感じることがある

そういう意味では整体指導とは非常に宗教的でもあり、ある種の厳粛さを内包する職業なのである

これはもちろん受ける側も同じで、その「ある種の厳粛さ」を身の内に備えない人は縁が持てないし、持てたとしてもその縁を保てなかったりする

口先だけで「生命に対する礼」などといってみても、礼の心は一挙手一投足に現れるのでこれもやはり厳しいものである

礼というのは常に権威に対して生じるものだが、この場合は誰が偉いというわけでもなく、ただ一つ、生命に対する畏れを現しているのだ

ともすれば科学的医療に馴れ過ぎるとこの「畏れの心」が失われ、活元運動をみてもそこに潜在する価値を見い出せず、意識が妙な裁定をくだして忌避してしまう

もちろんそれはそれで個人の自由であるが、ある程度心の啓いた人でなければ整体の門をくぐるのは難しいのも事実である

どこにも門は無いのだけれども、自分で閉ざしてしまうのである

だからこそ「健康への正しい考え方」を学ぶためには、まず頭をカラッポにすることが前段階といえる

そうして理解と行い、この両輪が自然の整体への道となる

あとは本当に、みなさんやってくださいという、このひと言に尽きる