人生を拓く瞑想法

整体は「全生」という言葉を信条としている。整体的に生きていれば、死ぬ時も苦しまない、という考え方である。死ぬ時なぜ苦しまないかというと、与えられた生命を完全に燃焼し切れば、苦しむ必要がないからである。死の直前まで、生き生きと仕事ができる。何年も、身体不調で寝込んでしまう、という厄から免れたいのは人情である。そのため、整体を知っている人は、つとめて整体的な生き方(つまりは死に方)を心掛けている。(野口晴哉著『整体入門』ちくま文庫 p.225 解説 伊藤桂一 潜在する自己治癒力 より 太字は引用者)

今年はじめに母が体調をくずしてから、整体の存在意義を再認識した

母は70歳、私は40歳、これぐらいになって「ようやく」というか人生をお尻から考えたときの実感が違ってきた にぶいだろうか‥

母の付き添いで久しぶりに病院という所にも行ったが、お年寄りが沢山「暮らして」いたのが感慨深かった

医療管理が行届くということはありがたいとこなのかもしれないが、これが現代日本の実状なのかと思うと素直に喜べない

多くの人が自分の力で生きることを放棄しているように見えてしまう

そこから脱する手段として整体という体育教育が大変有効なのである

ただし、引用にある「整体的に生きていれば」という但し書きが非常に肝腎である

整体的に生きていれば、というのが先ず「どういうことなのか」をよく考えねばらない

こうした一文が一般の人に触れた時に、多くの場合はただ「薬を飲まない、手術をしない」とかそういう次元でしか捉えられないのは本当にさみしいことである

もう一つ踏み込んで、自己の生命活動の要求というものに耳を傾け、その実現に向かう動きが日々の生活に現れることが「整体的に生きる」ということの一つの側面なのである

狭い顕在意識によって頭が支配されている内は、このような生活はままならない

もう少し意識の活動水準を下げて無意識と闊達に交流できる時間が欲しい

整体流に言えばポカンだが、現代人はテレビもスマホを手放して、ぼんやり、ぼーっとする時間をもっと重用すべきである

活元運動の潜在的需要もこういった社会事情にある

野口整体が風変わりな健康法という理解からもう一歩二歩進んで、人生を拓く体育的瞑想法であることを多くの人に知って欲しいと思う