着眼を正す

人間の身体は放っておけば必ず治るものである。

治らないのは「何か」が邪魔をしているからなので、その邪魔している「何か」を見つけることが治療の本質なのだ。

その「何か」とは主に思考態度や潜在観念のことで、身体に触れることでこれらを特定し、取り除くことができればあとは漸次癒えていく。

メカニズムは非常に簡単であるが、このためだけに一定の歳月と確たる意志の持続が求められる。

無論病院にかかる場合は上記のいずれも不要であるが、「治る」という現象に突き当たる日はついに来ない。

最初のボタンを掛け違えているのだから当然と言える。

木に縁りて魚を求むる態度を改めないかぎり、「何か」は永遠に見えないのだ。

技術以前に着眼を正すことが整体指導の出発点である。

20年ぶりだと思うがほんのちょっぴりだけ、髪を伸ばしている。

いや19歳のときは後ろで束ねてお侍さん気分だったので、当時よりはずっと短いけれども。

今回気づいたことは髪が伸びると深く悩めるようになる。

小説家や作曲家、宗教家に長髪が多いのはそのためかと思った。

逆に職務上悩むことがゆるされない軍人やお坊さんはみんな短髪か坊主である。

個人的には髷(まげ)を結ったときの意識の統一具合を味わってみたいのだが、これは現実的には無理だろう。

髪型が精神に及ぼす影響をまとめた人の話はまだ聞いたことがない。やってみたら面白いのではないだろうか。

身体感覚を取り戻す

このブログではおなじみの一冊。

2000年の発刊だからそろそろ文庫化しても良さそうなのだが、その気配もなく淡々と増版され続けている。

まぎれもなく斎藤孝さんの渾身の一冊と思う。何度読んでもしばらく間をあけてからページをめくると、守備範囲の広さとそれに相反する深掘りにいつも新鮮な風を感じる。

今回、目にとまったのは次の段落である。

腰肚文化を二十一世紀に再生していくためには、畳の上での坐のよさを再評価していくとともに、イスの生活において上虚下実の自然体の身体感覚を技にしていくことが求められる。坐ることが構えの基本であり、文化であり技であるということをからだを通して実感することが先決である。…

…二十一世紀の身体は、欧米風の生活様式に、腰肚文化に代表される伝統的な身体感覚をどう活かしていくかということが課題となる。天秤棒を担ぐような生活に戻るわけにはいかないのであるから、現実の生活様式の中で身体文化を再生していく発想が重要である。身体感覚が磨かれることによって、それに合わせて生活様式をアレンジしていく方向性は十分考えられる。腰肚文化を過去の生活様式と不可分のものとしてではなく、基本を抽出して現代の生活に合うようにアレンジしていくべきであろう。(斎藤孝著『身体感覚を取り戻す』NHKブックス p.224 太字は引用者)

以上のことは最近つねづね考えていたことである。

「昔はよかった」とか、「最近の若い人は」、という嘆きは時代の変化について行けない人の言葉である。

かといって現代の生活様式や都市型の身体が良いかと問われれば、悪くはないかもしれないが、決してすばらしいとは言えない。

まず人間に落ち着きがなくなった。思考も動作も止まっていられる人は皆無である。

当然「それぐらい別にいいではないか」、という人もあるだろうが、不登校や引きこもり、そして自殺率の高さを前にそんな日和見主義は許されないと思う。

そういう観点から振り返ると、私の修業した整体の道場ではとにかく講義のあいだ中、延々正坐をし続けた思い出がもっとも印象深い。

私にとって野口整体とは即ち正坐なのである。

そう考えたら野口整体はもはや準伝統芸能とでも言ったらいいだろうか、「坐り」ができなければ整体操法は行えないのである。

かといって整体指導を受けられる人たちの全てにそんな生活を強いるわけにはいかない。

指導の実際は現代日本社会の中にありながら、伝統的な身体文化の顕現を模索していく、というやや消極的な対応になっているのが現状である。

前掲書の著者は身体訓練のセミナーなどを幾例も開き、具体的に身体感覚を取り戻すための試みを実践されている。

さりとて身体文化を取り戻すための決定打があるという内容ではない。

野口先生の場合は「正坐をすれば万事よし」と唱導されたが、これも昭和のひとけた代の話であって、そのまま現代に適用できるものではないと思われる。

やはり著者と同様に我々も「考えなければ」いけないのだろう。

しかし先ずは事実を知ることが第一歩である。個人的には全ての日本国民に読んで欲しい良書である。

可視化される無意識

お会いする方から以前のブログは面白いですね、と言っていただくことがよくある。「以前の」ブログはって、複雑な気持ちになるけれども‥。

2009年から断続的に続いてきたこのブログも、大きく分けるとココログ期、アメブロ期、ワードプレス期(現在)の3つに大別される。

その時その時で反応してお越しになるお客さんが違ったので、それぞれ思い出すと感慨深い。

思えばココログ期(2009~2011)というのは純粋であり、単純であった。というか、こちらの仕事もそれだけストレートだったのかもしれない。

お客さんは近所(大口)の人が大半で、来たらよくする、ただそれだけだった。よくならないことも多かったけど、兎も角、純粋だったという印象がある。

アメブロ期(2011~2013)は、ひと言でいえば動的。あっひー先生というペルソナを確立してやっさもっさ楽しく書いていたのだが、今から考えると西日本からもお客さんが来ていたのはこのアメブロ期だけである。

「面白い」と言っていただくのもだいたいこの辺りの記事が多い。

そして、結婚したのち妻にワードプレスを作ってもらってからは、複雑・混迷を極めている。野口整体がわけわかんなくなってきたのもこの時期であり、例えるなら小学生の算数のテストを前にしながら、「何故、1足す1は2なのだろうか」と頭を抱えているような感覚に近い。

「目的」や「手段」というものは単純であるに越したことはないのだが、単純だと思っていたものが続けていったら複雑だった、というのはどのような道でもよくある話である。

複雑性に気づいたのだからそれだけ深まったのだと思いたいが、ブログを読んでくださる方はある意味退屈かもしれない。

そうかと言って、面白かったと言われた時期に戻ることなどできず、このまま書いていくのみである。

とかなんとか、開業して9年たらずでセンチなノスタルジーに浸ってしまった。

野口先生は「過去は糞の如し」と言ったが、糞なら畑に撒けば肥料になる。過去にそんな有用性などないのだ。

昨日までの全てをご破算にして、無意識の自己実現は今日も続いてく。

腹圧の大事

昨日の記事に少し関連した腹圧の話。

「腹圧」とは呼吸に相応して下腹部に自覚される内圧のことである。

自分にとってはなじみ深い言葉だが、その認知度は存外に低い。

ヘタをすれば「死語」の領域だと思うが、認知度の低下した最大の理由は何より日常生活でこの腹圧の体感がなされなくなったからだろう。

先ずもって、かつての和式文化であるフンドシ、帯、床座(正坐)などの習慣にその身を委ねれば腹圧の自覚は容易である。

ところが現代は洋服、椅子・テーブルの文化が我が国に流入されてどれぐらい経つだろうか。詳しいことは分からないが少なくとも100年はくだるまい。

和魂洋才、和洋折衷という言葉はもはや過去の理想主義でしかなく、現代の日本は和洋混濁の様相を呈し、双方が入り混じった結果その身心は無自覚に濁ってしまっている。

そして洋式の文化と身体性においては、先の「腹圧」の感覚は著しく減少するのである。

少し余談を交えれば、西洋医療における分娩台なるものが、母体を仰向けにひっくり返えし無影灯に晒すという蛮行になんら良心の呵責を感じていないことからもそれは顕著である。

これは出産における主要原動力とも言える腹圧を全く無視した体勢であり、もはや母親は生命を誕生させる大舞台にありながら、脇役を通りこして蚊帳の外なのである。

これは悲劇を通り越し、医師主動の珍劇と言わざるを得ない。帝王切開の急増も西洋医療の自作自演なのである。

話を腹圧に戻すが、これが減少あるいは消滅することで生理機能上何が起こるかといえば、先ず頭脳だけが過剰に亢進し、腹の力は抜け血液の循環能力の低下を誘発する。またこれに付随して気力減退、意志薄弱となる。

これは即ち頭寒足熱と逆の体を成し、たちまちにして抑うつ症や自律神経失調症の予備軍となるのである。

野口晴哉先生はこの現実に先立ち、「諸君直ちに正坐を為せ、されば万難自ずから去る也」といった旨を唱導された訳だが、もはや今日に至ってにわかに正坐したぐらいでは到底どうにもならぬのが現状である。

この事態を収拾するための然るべき工程を順に挙げれば、先ず身体感覚(特に快感覚)の養成から始り、正坐に象徴される型の修養、そして深息の体認‥などなど、さながら屋根から家を建てる訳にはいかないように、現代の身体教育においてはその基礎過程に多くの時間を要するのである。

むしろこの業をもって整体指導の中核を為しているといっても過言ではない。

もちろん個人の成育環境によって身体レベルはさまざまだが、腹圧の体得・体認までにおよそ1~3年を要するのがスタンダードである。

こちらとしては息長く取り組んでいただきたいものだが、腹圧感覚の育っていない人にとってはこれがまた気の遠くなるような長さに感じる。

腹に力の入らぬ身体とは斯様に厄介なものである。

坐の文化論

現在、指導室にはカウンセリング用のソファーが置いてあるのだが、実はこの「椅子」は直近の3年余りで何回も出したり引っ込めたりしている。

日本人の身体文化、というか坐り方が現代的に全く統一されてないためにやむなくこんなことを繰り返してきたと言える。

椅子を置かないときは絨毯に正坐していただくのだが、そうなると正坐が出来ない人にとっては身心が非常に異質な感覚に包まれて対話どころではなくなってしまうのである。

ところがそういう人がソファに坐るとたちまち饒舌になるところが興味深い。下半身の体勢と口唇運動がこうも密接につながっているものかと、こちらは探求心を煽られる。

ともかくカウンセリングというのは話してもらうことがそのまま自己分析と治療みたいなものなので、これはこれでなかなか重宝するのだ。

一方でソファに坐るのを嫌がる方も一定いらっしゃる。全般に40歳以上の方に多いけれども、この様な方は腰が無格好に沈むソファーの方がかえって落ち着かないのである。

実は椅子座というのは意識活動が亢進して、身体感覚が希薄になりやすい。だから上述の人たちからすれば、整体指導を受ける身心の「構え」というのが事前に形成されにくいのである。

この、両極のはざまでどちらを取るか呻吟した結果として、最初に述べたようなソファ⇔正坐の行ったり来たり現象を生んだ。

従来なら野口整体と言えば和服に正坐、平伏だが、そうも言ってられないのが平成日本の現状なのだ。

そもそも野口先生がもっとも活躍された時代は昭和30~40年代である。この時代の日本人の身体にはまだまだ正坐の文化が活きており、また正坐は対話のための一つの礼式・型であった。

だから特定の場や人に対して改めて礼を示すときには当然正坐の構えを取るし、整体操法がきちっと決まり身体の中心軸と重心位置が臍下丹田にぴたっと決まれば身体はなお一層この型の中へ落着する。

いうなれば整体操法とは、その人が生まれてから培ってきた「身体の規定位置」までその身心を戻してやることが仕事の実態なのだ。

ところが現代はその身心の規定位置の具現体であった「正坐」の身についていない人が日々増え続けているのである。

かつてはもともと備えた規定位置に帰してやればよかったものが、現代的には身心の帰るべき「家」を新たに構築してやらなければならないのである。

つまり30歳を過ぎ不惑に手が届きそうな方々を相手に、人生初の身体教育を施すことが整体指導の実状となっているのだ。

だから往時に比べれば現代の整体指導はそれだけ歳月も要するし、苦労も多い。

しかし考えてみれば身体とは心を納むる大切な器なのである。

よってこの器の形成(体育)なくして精神の恒常的な安定を図ることなど到底不可能なのである。現代日本におけるうつ病や自律神経失調症の罹患率の多さはこの恐るべき事実を雄弁に物語っているのだ。

ちなみに「昔はよかった」というのは文化の変遷についていけない古老たちの嘆きだが、過去の文化やそれに直結した身体性がいかに素晴らしかったとしても人類史上、文化が逆行したためしはないのである。

「今をよく生きる」ということは現代文明と現代の身体性をフルに活用し、また新たな型を創造していく過程の中にある。

よって整体指導の中で何をやるべきか、ということを常に考えつづ進化させることは指導者の宿命とも言えるだろう。

現代日本社会の中で正坐を再興し浸透させようと頑張ることはナンセンスかもしれないが、一方でこれを求むる人に伝うるべく自ら修め、範を示すことにもなお意義を感じる。

ここで虎の威を借りるようだが、仏道の坐禅という行法があらゆる文化の変遷を超越して今日までその命脈を保ってきたという事実に倣いたい。

そしてこれからも日本人の身体と文化の潮流を見つめ続けることに、強い関心とある種の義務感を感じている。

坐禅・活元運動の会 2018.5.10

今日は坐禅・活元会でした。

いつもと変わらず、脊髄行氣10分、坐禅45分2炷、活元運動45分、仕上げにもう一度脊髄行氣の流れです。

活元運動をする人は老いて死ぬ時にも寝込まない、苦しまないといいます。

自分が活元運動をはじめた青年期には何とも消極的な健康法だと思ったものですが、不惑の年になってみたらこんな素晴らしい修養法はないだろうと認識を改めた。

死ぬ時にジタバタしない、ということはそれだけ「よく生きた」ということ。

今生でやり残しがないということ、自分の全部を使い尽くした、とそういうことです。

そのために無意識の扉を開き、裡の要求を明らめるための坐禅と活元運動を行なっています。

整体とは生活の中に〈たましい〉が現れるようにと祈る、生に対する敬虔な態度である。

人はふとした時に日常の惰性に流され、生命に対する礼を忘れてしまう。

そんな時に意識の活動水準をさげて無意識に耳を傾けることで、生命に対する畏れの念を思い出す。

〈いのち〉に畏れを抱く人は、今日を慎ましく丁寧に生きる。

今日を丁寧に生きる人は、きっと豊かな死を迎える、と思う。

整体とは〈いのち〉に対する学びである。

弱い人はいない

生命は本来丈夫である。

人によっては自分で自分を「か細い」なんて言うこともあるけれど、それは自分でか細く見せているだけで実際に「か細いいのち」というものはない。

もとはみんな丈夫だった。丈夫だったものがいつの間にか「自分は弱い」と思い込んだのである。

問い合わせでも「子供の頃から体が弱くて‥」と書いて送ってくださる方がいるけれども、実はそういうところは最初から信じないし見ないことにしている。

こちらとしては、弱いとうっかり思い込んだのはいつからなのか、誰にそうさせられたのか、が知りたい。

勘違いに陥った地点までさかのぼって、誤解に気づけばもうその時から健康で丈夫な生活がはじまっている。

病気も丈夫のはたらきだし、丈夫で健康に生きているから病気もしているのだ。

このあたりは知識を通りこして体感的に理解するところだが、ここを自得するだけでも年月のかかる人はかかる。整体に生きる、ということを志すなら初関とも言える大切なところである。

全般に高齢になるほど既成の価値観を払拭するのに難渋するけれども、若く見えても先入した観念に頭を占拠され、真理を目の前にしてもそれを受け入れられない人がいる。

昨日のお茶でいっぱいになった茶碗の如く、そういう頭には今日の清らかな水の入る余地はない。

こういう人は生理学的には若いかもしれないが、それだけ老いて死に近づいているのだ。

しかしそういう頭でも利口になることは可能である。

体中の筋をみんなゆるめて、顕在意識の運転を休止させればいい。

「ポカンとする」とはこういうことなのだが、古くなって死にかけているような人がその価値を本当に理解するには、思考の限界性と危険性をよく理解する必要がある。

最近はもっぱら頭を使うための訓練ばかりをどこでもここでも教えているが、休め方を教える人は少ない。そういうものは、さしてウケないのだろう。

あるいは教えていても首から下の生理的働きを無視した方法を平気で教えていたりする。

そもそもが頭脳だけを身体から切り離してコントロールすることに土台無理があるのだ。

本当に頭の働きを変えるには正しい身体智から出発しなければ、永久にゴールには辿り着けない。

釈迦も達磨も禅による救いを体現したが、身体の生理的プロセスに関する記録は乏しい。

その辺りは身心学道を説いた道元の普勧坐禅儀に少し言及されているけれども、言葉のみで万人の個人差に対応するには心もとないものである。

整体の必要を説くのはそのためなのだ。

整体とは「道を為すは日に損す」と言った老子のように、日々頭の中を空にするための訓練である。

自分の弱さを掴んでこれを何とか強くしようとしているうちは丈夫にはならない。

悟りとはある意味、勘違いを打ち消すことなのだ。

道はただ一つ、身体をよく整えること、これに尽きるのである。

本気でやれば

どんなことでも本気でやると非凡になる。

非凡というのは平凡の極まったもので、普通の中にあって、バランスが結集した状態だと思う。こうして考えてみると、一人の本気は世界に秩序を齎すものである。

誤解を受けやすいが本気というのは何も「突出したことをする」というわけではなく、とにかくそのことをそのまま、その通りにやればいい。行為自体は別に「非、凡」でなくていいのだ。

整体の場合なら人の身体に触れる、押える、という技術があるけれども、それは「ここ」という処を見つけてそこにすーっとと気を集めることである。

そうやって気の集注密度が一定以上に亢まると、それはただの行為から「技」という領域に昇華するのだ。

こういう話は整体の専売ではなく、禅の世界にもよく通じる。

鈴木正三老人という江戸時代の禅僧は「どんな仕事でも、自分が抜け殻になってしまったのでは何の役にも立たない」と喝破している。

老師はこういうのを「仁王の機」と言っているけど、ちょうどお寺の山門で仁王がぐっと突っ立っているような気でやれば何でもモノになる、と説くのである。

もちろん生活の全てにおいて本気を使い満たすには、「体力」がいる。

体力といってもこれがまた誤解されやすいが、興奮を伴う生の力ではなく、正しい身心の運用から流れ出る、きちんと筋目の通った永続性のある力である。

そういう体力を維持していくためにはやはり「整体」でなければならない。

そして身体が整い続けるために今度は息を乱さないこと。

息とは字の通り「自分の心」である。その心の中に異物やしこりを放置しないことが第一である。

ひと口に「本気でやる」ということでも、丁寧にみればこれだけの工程をきちっと踏むことではじめてそこに安定性が生まれるのだ。

気をリードするのは心であり、その心を縁の下で支えるのが身体である。

自らの生活を明朗にし、人生を拓くために整体的知見が必要なことは明白である。

すこし我田引水になるけれども、身体を敏感にする必要を繰り返し説くのはそのためなのだ。

だからこそ錐体外路系の訓練としての活元運動を本気でやる。本気でやれば、今までとどこか、何かが変わって来る筈である。

変わろう、変わりたいと口では言いながら変わらないのは、自分の生活に本気が使われてないからでないか、と一度身体を丁寧に点検してみることだ。

赤の書

横浜市立中央図書館でユングの『赤の書』を借りてきた。

書庫から出してもらって、思わず漏らした第一声が「え、でか!?」だった‥。

内容は…

自らの無意識を探究するために、マンダラの絵を描き続けたといわれるユング。

因みにユングが「曼荼羅」の存在を知ったのは、上のような絵を独自で描くようになった後です。

やっぱり歴史に名を残す人はなんか違います‥。

2週間で読めるかな‥。