どんなことでも本気でやると非凡になる。
非凡というのは平凡の極まったもので、普通の中にあって、バランスが結集した状態だと思う。こうして考えてみると、一人の本気は世界に秩序を齎すものである。
誤解を受けやすいが本気というのは何も「突出したことをする」というわけではなく、とにかくそのことをそのまま、その通りにやればいい。行為自体は別に「非、凡」でなくていいのだ。
整体の場合なら人の身体に触れる、押える、という技術があるけれども、それは「ここ」という処を見つけてそこにすーっとと気を集めることである。
そうやって気の集注密度が一定以上に亢まると、それはただの行為から「技」という領域に昇華するのだ。
こういう話は整体の専売ではなく、禅の世界にもよく通じる。
鈴木正三老人という江戸時代の禅僧は「どんな仕事でも、自分が抜け殻になってしまったのでは何の役にも立たない」と喝破している。
老師はこういうのを「仁王の機」と言っているけど、ちょうどお寺の山門で仁王がぐっと突っ立っているような気でやれば何でもモノになる、と説くのである。
もちろん生活の全てにおいて本気を使い満たすには、「体力」がいる。
体力といってもこれがまた誤解されやすいが、興奮を伴う生の力ではなく、正しい身心の運用から流れ出る、きちんと筋目の通った永続性のある力である。
そういう体力を維持していくためにはやはり「整体」でなければならない。
そして身体が整い続けるために今度は息を乱さないこと。
息とは字の通り「自分の心」である。その心の中に異物やしこりを放置しないことが第一である。
ひと口に「本気でやる」ということでも、丁寧にみればこれだけの工程をきちっと踏むことではじめてそこに安定性が生まれるのだ。
気をリードするのは心であり、その心を縁の下で支えるのが身体である。
自らの生活を明朗にし、人生を拓くために整体的知見が必要なことは明白である。
すこし我田引水になるけれども、身体を敏感にする必要を繰り返し説くのはそのためなのだ。
だからこそ錐体外路系の訓練としての活元運動を本気でやる。本気でやれば、今までとどこか、何かが変わって来る筈である。
変わろう、変わりたいと口では言いながら変わらないのは、自分の生活に本気が使われてないからでないか、と一度身体を丁寧に点検してみることだ。