腹圧の大事

昨日の記事に少し関連した腹圧の話。

「腹圧」とは呼吸に相応して下腹部に自覚される内圧のことである。

自分にとってはなじみ深い言葉だが、その認知度は存外に低い。

ヘタをすれば「死語」の領域だと思うが、認知度の低下した最大の理由は何より日常生活でこの腹圧の体感がなされなくなったからだろう。

先ずもって、かつての和式文化であるフンドシ、帯、床座(正坐)などの習慣にその身を委ねれば腹圧の自覚は容易である。

ところが現代は洋服、椅子・テーブルの文化が我が国に流入されてどれぐらい経つだろうか。詳しいことは分からないが少なくとも100年はくだるまい。

和魂洋才、和洋折衷という言葉はもはや過去の理想主義でしかなく、現代の日本は和洋混濁の様相を呈し、双方が入り混じった結果その身心は無自覚に濁ってしまっている。

そして洋式の文化と身体性においては、先の「腹圧」の感覚は著しく減少するのである。

少し余談を交えれば、西洋医療における分娩台なるものが、母体を仰向けにひっくり返えし無影灯に晒すという蛮行になんら良心の呵責を感じていないことからもそれは顕著である。

これは出産における主要原動力とも言える腹圧を全く無視した体勢であり、もはや母親は生命を誕生させる大舞台にありながら、脇役を通りこして蚊帳の外なのである。

これは悲劇を通り越し、医師主動の珍劇と言わざるを得ない。帝王切開の急増も西洋医療の自作自演なのである。

話を腹圧に戻すが、これが減少あるいは消滅することで生理機能上何が起こるかといえば、先ず頭脳だけが過剰に亢進し、腹の力は抜け血液の循環能力の低下を誘発する。またこれに付随して気力減退、意志薄弱となる。

これは即ち頭寒足熱と逆の体を成し、たちまちにして抑うつ症や自律神経失調症の予備軍となるのである。

野口晴哉先生はこの現実に先立ち、「諸君直ちに正坐を為せ、されば万難自ずから去る也」といった旨を唱導された訳だが、もはや今日に至ってにわかに正坐したぐらいでは到底どうにもならぬのが現状である。

この事態を収拾するための然るべき工程を順に挙げれば、先ず身体感覚(特に快感覚)の養成から始り、正坐に象徴される型の修養、そして深息の体認‥などなど、さながら屋根から家を建てる訳にはいかないように、現代の身体教育においてはその基礎過程に多くの時間を要するのである。

むしろこの業をもって整体指導の中核を為しているといっても過言ではない。

もちろん個人の成育環境によって身体レベルはさまざまだが、腹圧の体得・体認までにおよそ1~3年を要するのがスタンダードである。

こちらとしては息長く取り組んでいただきたいものだが、腹圧感覚の育っていない人にとってはこれがまた気の遠くなるような長さに感じる。

腹に力の入らぬ身体とは斯様に厄介なものである。