いのちの本質

「何ごとも〈物事の本質を捉える〉ことが大切」 たしか‥、河合隼雄、鷲田清一両氏の共著『臨床とことば』の中で河合先生がそういうことを述べておられた。 つまり有象無象、あくたもくたには目もくれず、「要するにコレってこういうことでしょ?」ということがズバッとわかる。そういう力が人生の、特に大事な局面においては非常に重要なのである。 物事はなんでもそうで、一流人とか、その道の極みに近づく人ほど、その「核心 …

子どもの宇宙

太郎丸(息子3歳)の保育園放浪記が3園目でやっと相性の合うところに落ち着いた。 「保育園(幼稚園)に行かない」 「行こうと言うと泣いちゃう」 こういうことは世の中にたっくさんある話だけれども、子ども一人一人の中に別々の宇宙があるのだ。大人はその一人一人の世界を大切に守る義務がある。 サン=テグジュペリの『星の王子様』の冒頭には、みんな最初は子どもだったのに子供だったことを覚えている大人はいない、と …

うつは心の風邪か

体が風邪を引くように、心も風邪を引く。うつは「こころの風邪」みたいなもの。そういうフレーズをときどき目にする。 だいたいが「風邪」も「うつ」も定義があいまいなのだ。だからそうだといえばそうかもしれない。 おそらく「うつ」という病気が重篤なものになると相当に苦しいから、「今は苦しいけど、ちゃんと養生すれば必ず治りますから」という、心ある人からの励ましではないかと思っている。 野口整体の『風邪の効用』 …

糖質コントロール不要論

最近「白米を食べすぎると頭がぼやけるんだ」と先生が言っていたことを思い出す。科学的に原因を説明すれば血糖値の急上昇が原因である。 整体を長年やっていくと身体はどんどん敏感になる。それだけ食事の味と分量にもシビアになるのだ、と思っていた。しかし実際は、何のことはない自分も年を取ったら糖質類はあんまり食べられなくなった。 いや初老期を過ぎても毎日毎日もりもり食べて、せっせと身体をこわしてる人もいるのだ …

失感情の治療を考える

最近になってようやく自分の失感情傾向がわかるようになった。 思春期前後に深いストレスにさらされた体験が大きいと思うが、20~30代はほぼまるまる「失われた感情」と「身体感覚」を取り戻す作業に明け暮れた。 学生時代に競技カラテの道場で来る日も来る日もぼこぼこ!になっていたのも、あれは今にして思うえば緩慢な自傷行為であった。大けがをして辞めるに至ったが、まああれぐらいで済んでよかったと思うべきか。 空 …

治癒の苦しみ

身体上の症状でも精神面の病においても、共通するのは「治る」という現象には「苦しみ」を伴う、ということだ。 病気の苦しさはわざわざ語るべくもないが、治療者が真に患者の治癒を手伝うときには、まずその現れている症状を100%肯定し、病みながらもつき進んでいく生命時間の「流れ」を妨げるものを取り除き、徹底してその経過を保護する必要がある。 本来はこのような行為を称して「治療」と呼ぶべきなのだが、一般的には …

再びユング自伝

ユングの自伝をまた読みはじめた。 個人的には子どもの頃のエピソードはなかなか読むのに苦労する。というか、まあ訳本なのでどうしても読みがぎこちなくなる。 それはそれとして、やっぱり青年期以降、それから独自の精神分析態度による治療理論を構築していくプロセスは圧巻である(自伝1のⅣ精神医学的活動のあたり)。 その当時、いわゆる「精神の病」というのは医師でも手が付けられないものだったらしい。昔の早発性痴呆 …

6月 坐禅・活元運動の会

6月の坐禅・活元運動の会を下記の日程で行います。 ■日程 ○6/14(木)10:00-12:45 ○6/23(土)10:00-12:45 ※13:00頃まで茶話会(自由参加)   ■内容 背骨の呼吸(10分)坐禅(40分×2)活元運動(45分) 坐禅の時間はやや長めにとってあります。坐りたい方は時間いっぱいしっかり坐って、初心の方や不馴れな方は随時休憩をしながら行います。 深いリラックス …

整体指導は「整体」とは違う

先日「整体師」の方たちとお話する機会があったのだが、改めて自分の学んできた世界とは違うのだなあと、しみじみ思った。 ご承知の方も多いと思うけれど、野口整体が「整体を行なう」というときは整体指導のことを指している。よってカテゴリーとしては「医療」ではなく「教育」になる。 これはルドルフ・シュタイナーという哲学者が明らかにした見解とまったく同じであり、治療技術の究極は健康に生きるための教育となる、とい …

聖にあらず、俗にもあらず

野口整体というのは奇想の健康哲学だと思われるフシがある。 しかし、少し落ち着いた心でその本質を見つめてみれば、きわめて順当な生命観であることがわかるはずだ。 釈迦の悟りも達磨の廓然無聖も、俗を離れて聖を説くようなものではない。 俗世の真っただ中に聖を見出し、その瞬間にいずれも忘じて無を徹見した境をあらわしている。 病気が治ったから健康なのではない。病気の中にすでに健康の動きがある。 古人は既にこれ …