変われるのか 変われないのか

最近の研究テーマというか「人間というのは結局変われるのか、変われないのか」ということを深く考えていた。野口整体の根幹は「潜在意識教育」で、これが抜けてしまうといくら技術で身体を整えてもまた戻ってしまうのだ。だから基本的には自我意識の変容、成長ということが伴わないと、仮に「治った」としてもまた元に戻ってしまう。

それではどの辺まで変わるのか?ということなのだが、当然自分自身の変化の幅でしか他者はリード出来ない。一般に言う「性分」とか「性格」、「気質」など表現は諸々あるとして、自分が整体指導を受けてきた経験からも言えるのだが、「自分で自分をこうだ」と無意識に思っていることはなかなか変わらない。逆に言えば自我がしょっちゅうコロッコロッと変わってしまうようでは、自他ともに社会生活全体がままならなくなるだろう。昨日まで知っていたAさんが、今日になったら全く違うAさんになっていた、というような事が横行したら個人にも公にもさまざまな支障が出る。だから自我というのは生来強固な造りになっていると言えばそうなのだろう。

だからといって、「変わらないのか」と諦めてしまえば心理療法も整体指導も成り立たない。そう言う観点から、「変わる」も「変わらい」もなく続けていると、やはり何かが違ってくるのも事実だろう。実はこの辺りの所は河合隼雄さんの著作からヒントを得ながら、ある時期から熱心に取り組んでいるのだが・・。「人間が少しでも変わるというのは大変な事なのです。」という氏の弁は、実体験から出てきた重みのある言葉だ。

人間は「変わらない」ということと「変わる」ということが両方矛盾なくあるというのが実態かもしれない。臨床ではそう思って見ていくとお互いにとって一番負担がないし、長期にわたって同じ人に粘り強く取り組める心構えにもなる。具体的な方法としては「待つ」という技術になる。治療の方法論で「何かする」ということは沢山あっても、ただ「一緒にいる」ということはなかなかやれない。実際のところ「何もしない」ということが、生命の成長要求を一番シンプルに発現させる方法という気もする。天心で行う愉気というのがその象徴かも知れない。

治療者が相手の「自我」というのを掴んでいるうちは、そこに執らわれてどうにもならないということがやっぱり出てくる。だからその「どうにかしよう」ということがなくなれば、元来自然の相というのは次々を変わっていくものだから、その力をそのまま使えるようになるのではなかろうか。そう言えばこの辺りのことは河合さんの『心理療法序説』という本の中に、「自然モデル」という表現で著されていた。また復習してみようかな。いつもながら書いていると、どこからともなく答えが出てくるから不思議だ。誰だか知らないけど、「無意識」はありがたい。

野生の哲学

仕事のあい間にベランダの洗濯物をしまおうとしたら、屋根の下に大きなハチがうろうろしていた。よく見ると巣を作り始めているではないか。知り合いが昔スズメバチに頭を刺されて、救急車に乗った話が思わず頭をよぎった。

頭から白い布をかぶってささっと追い払おうとしたら、案の定こちらに真っ直ぐ飛んできた。気がついたら頭を股下に突っ込んで前方回転受け身で交わしたが、起き上がりざまに物干し台にしたたか頭を強打ス。ディズニーの実写みたいだった。

野口整体をはじめたころは「身体が整うとどうなるの?」と思ったけど、最近はやればやるほど自然体になってくることを実感している。活元運動をやっていると、「反射運動」とか「危険回避」能力とか本能的なものがさっと出やすいのだ。整体では「錐体外路(性運動)系」という言葉であらわすけど、自然治癒力とか、恒常性維持機能とか生命のバランスを勝手に取る力が大切だ。整体の目的はこれがしっかり発揮される条件を整えることで、そのためにじゃまをしているもの取り除いていく。そのほとんどのものが人間の「頭のはたらき」なので、思考がよく休まれば大抵のものは良くなるのだ。

最初から備わっているものを使うのだから「何も訓練などいらないのかな」とも思えるけど、逆に「最初からあるもの」を有効に使おうとする人は少ない。「自然」とか「野生」とかそういうものが身体に現れるためには、人間の場合は後天的な「訓練」がいるだろうなと思う。何かを「身に付ける」のではなく余分なものを取っていくという話で、やっぱり活元運動が近道なのだ。これで頭をぶつけてなければ説得力も増すんだけど。

久しぶりに愉気のこと

天心の愉気

それなら陰気を退けて、陽気な活発な気を送り込んだらどうなるだろう。そこで愉気ということをやってみました。実際は触らなくてもいい。気が感応すればいい。愉気して気を送ると、どこが変わるか判らないが元気になる。けれども不安や闘争心はいけないのです。平静な気持ち、天心をいいますか、自然のままの心でスッと手を当てるとよくなる。

良くしようと思うのは人間の作った心です。使えば減るなんて思うのも、人間が作った心です。体の自然は腕を使うと太くなる。足を使うと足が太くなってくる。頭を使うと深く考えられるようになってくる。使って減るようなものでない。気だって、陽気を愉気すれば、いよいよ陽気が増えてくる。活気を送れば、いよいよ活気が増えてくる。使って減るということはない。

ただ、伝えても相手に伝わったのか伝わらないのかが判らない、しかし愉気をして心を集中すると変わってくるのです。体が変わるのか、心が変わるのか、気が変わるのか、それは判らない。判らないが、その人も、相手も感じる。障子越しの明かりのように気持ちがいいという程度です。けれども、いろいろと変化を起こしてくるのです。怪我をしたらそこへ愉気すると、外側の怪我でも内側の怪我でも簡単に治る。やってみると妙なもので、私はそういうことを、触手療法として教えたことがありました。みんな手を当てているとよくなる。手を当てたくらいでよくなるわけがないと言う人がたくさんいました。やるまでは不安であっても、自分でやってみると信じないわけにはいかなくなる。そしてだんだん熱心になります。(野口晴哉著 『愉気法1』 全生社 pp,38-39)

気がつくと、最近「気」のことを語らなくなっていた。整体をはじめたばかりの頃は「気の感応」というのが面白くてしょうがなかったけど、それはもう「あたりまえのこと」になってしまったのかもしれない。身体は触れても変わるし、触れなくても変わる。死ぬまで一時も留まることなく、生命は生命に反応して動いていく。

骨盤矯正などということでも、やっぱり気があるから骨も自然に動いていくのだ。だから物理的な力だけで骨を動かそうとしても変わらないし、うっかりすると毀してしまう。特に仙腸関節などは、「関節」とはいうものの可動性はほとんど目には見えない程度の作りになっている。それでもただ触れていると身体にとって自然な方向へ動いていくから「気」というのは便利だ。身体を整えるためには細かな技術をあれこれ覚えるよりも、気の誘導法としての「愉気」を覚える方がずっと役に立つ。

もとより整体は気を重んじる世界だけど、改めて考えてみるとやはり気は目に見えないし、どこまでもぼんやりしたものだ。探し回るととまったく見つからないのに、何もしないで放っているとあちらこちらに「気」は感じる。次の活元会でまた愉気の実習をするので、しばらくぶりに文献に目を通したら初心の頃を思い出して懐かしく感じた。「自然のままの心でスッと手を当てるとよくなる。」というのだから、特に「初心」の頃の愉気は素直で通りやすい。教室で学んだ人から「愉気したら色々なものが良くなった」という報告をよく聞く。技術はたいてい時間とともに向上するものだけど、「素直な心」とか「無邪気さ」というのは時間とともに隠れてしまいやすい。そういう観点からも初心は天心にも通じる純粋さを備えている。教えようと思っている人から教えていただくことは存外に多いのだ。

慈眼

昨晩お風呂の給湯器が故障したので、今日は太郎丸のお迎えに行きつつラジウム温泉「鷲の湯」へ。最初は反町浴場に行こうとしたら、水曜日はお休みだったのだ。。

とういうことで、かなり久しぶりの鷲の湯です。

夕方に行くと大抵は肉体労働のおじさん、おじいさんが沢山見えます。刺青している人もちらほらいるし、いろんな体の人がいるんだけど、銭湯は一度に大勢の人の勉強が出来るから便利だ。

こうやって見ているといろんな体の人がいて、それでもみんなちゃんと上手く動いているんだとつくづく思う。日々人の身体を観るが、やっぱり命には「是非・善悪」という見解はつけられない。

臨床の場ではこれまでもずっと「どうなっているのかな?」ということだけを淡々と見てきた。「ただ」見ていると、何もしなくてもより良い方向へ伸びていくから面白い。

いのちというのはそういう風にできている。

「自分」が見ると色がつく。自分がいないときは「そのまま」なのだ。だから、それでいいのだ。

野口整体(活元運動)の理解-ポカンとするとは-

この二か月ほど紹介などで「野口整体」を経由せずに個人指導を受けられる方が続いた。何が何だかわからないけど、とにかく「良くなる」と聞いて来られるのだが、整体の方法はすべて常識的な健康観や病気観とは真逆の視点で成り立っている。そのため「思想と価値観の共有」がない方には、うかつに技術など使えないなあと思ったし、力不足も感じた。西洋医療に例えて言えば、「手術」ということ一つとっても、多くの方に医療(治療)行為として認知されているからいいものの、少し見る角度を変えれば身体に傷を負わせる行為である。お互いに「これは治療だ」という共通認識がなければとても出来ない話だ。

そういう意味から言えば、整体というのは先ず生命の完全性を肯定した上で、如何にそれを阻害せずに(生命活動に則った刺戟で)最大限の成果を得るか、を考えている。ここでの刺戟というのは何も皮膚を介在するばかりでない。言葉でもいいし、表情でもいい。服装も、部屋の温度も、あらゆることが刺戟となってこれに呼応して身体(いのち)は動いていく。だから刺激が小さくて済むならそれに越したことはない。その変化の妙も個人個人まちまちであるし、またそのタイミングでもみな違う。頬をはたかれても表情一つ変えないような人が、さ湯を一杯出されただけで泣き出すこともあるのだから、人間心理の複雑雑性とは斯くの如しと言えよう。

一般医療の関係者とお話をしていると、やはり整体との決定的な違いは「個人の理解」ということに至ると思う。当然のことながら同じ人は二人といないし、また同じことは二度起こらない。「その人が何故そうなったのか?」ということに関して言えば、「そうなっている、その人」からしか学べないのだ。だから徹底その人を観ることが、治療の第一歩となるのは当然と言える。平たく言えば「観察」が第一義的問題であり、またそれが全てである。ここのプロセスに「価値」を見い出せない方には整体指導はむずかしいな思うこともよくある。

さて、身体に起った事というのはその時点では、「善い」も「悪い」もない反応(適応)である。「痒い」とか「痛い」とかいう事は生涯ついて周る話で、それをただ「悪い」という角度からしか見ないところが医療的視点の落とし穴である。それと同時に「良いと見る」ことも、また捉われであることを知らなければならない。そういう人間的見解を離れた上で、「どうしてそうなったのか?」ということを只ひたすら感じ、考えると、時に「妙だ」ということが見つかるのだ。そういう時には身体から「自然」や「美」というものが、大なり小なり減じている。

整体指導の方向性としては、生きた身体から「有機的な調和を害するもの」を徹底的に排除したい。大ざっぱに言えば、自然界で人間だけが有機的調和から逸脱している、といっても良いわけで、その自然性から離れるものが「理性」である。だからこそ、この理性の完全休止状態を「ポカン」と説き、この時の生じる動き(活元運動)にこそいのちの調和を取り戻す力が100%現れると言えるのだ。

しかるに、いろいろな治療方法方を探してきた人の中にはこのことが中々肯えない方がいる。「何かする」ということ数多くをやってきた人には、「何もしない」という選択肢にはガラクタ程度の価値も見い出せないのかもしれない。ポカンとすることは、身体の「自然」がフル稼働している状態で、そこに邪魔(理性)の入り込む余地がない。言うまでもなく、このとき身体は一番巧く動いているのである。

矛盾するようだが、常識的な健康観を脱することが容易ではないこともよく判っているつもりだ。逆にこれさえ成ってしまえば整体生活の95%は完成したとも言える話で、あとは実践あるのみとなる。生命を扱う世界も玉石混合なので、何が「真」であるかは自身で嗅ぎ分けていただくしかない。個人指導を受けるなら、まずは「そうかもしれないな」という程度でもよいので、野口整体と活元運動の理念に理解の姿勢が見えないとこちらも触れられないのだ。一方で説明責任も充分果たせていなかったことを反省した。そういう訳で自身の発信している言語をもう一度点検していこうと思っている。

助からないと思っても 助かって居る

助からないと思っても 助かって居る
河井寛次郎著 『いのちの窓』 東峰書房

人間にとっての本当の「救い」が判らなかったときは、愉気することが大変だったな。

人は救えない。

何故なら最初から救われているから。

最初に「助かっている」から、悩むことができる。

最初に「助かっている」から、苦しむこともできる。

「助かっている」は誰もが平等に与えられている最前提条件だ。

自分の目玉は生涯自分の目では見えない。

これから救われるようでは〔今〕に間に合わない。

助からないと思っても 助かって居る。

「考える前」に世界はあった。

はてしない土地
新しい世界
― からだ

袋の中のネコ

睡眠薬の効果

睡眠薬というのは飲んだことがない。子供の頃の記憶として、近所のお兄ちゃんが学校の試験前に緊張して眠れなかったらしく、「しかたなく睡眠薬を飲んで寝たのよ」とそこのお母さんがお話していたのが印象的だった。「何でそんなことするのかな?」と子供ながらに疑問を抱いたものだった。身近な所にもこういう疑問を抱く人は少なくないのだが、以前としてはっきりしない方も多いので自分なりの気づきを記しておくことにした。

指導を受けられる方の中には睡眠薬を飲まれた経験のある方、服用中の方などが一定の割合でいらっしゃる。いろいろな経緯があるけれども、一様に話されるのは「睡眠薬を飲んで寝ても、寝覚めはまったく良くない」ということだ。生きた身体を見ている立場としては当然そうだろうなと思う。斯様に「今日の意識活動」と言うのは直近の「眠り」が直接的に反映されるのだ。

薬学的には睡眠薬は向精神薬に分類されるそうな。「向精神薬」とは「脳の中枢神経系に作用し精神機能(心の働き)に影響を及ぼす薬物の総称」とされている。因みに人間における中枢神経とは「脳と脊髄」だから、厳密に言えば脳に影響のない投薬など皆無だと思うのだが。

身体上の疾患、その中でも特に「原因不明」として扱われるものの多くは、この中枢神経系に直に働きかけるのが的確な治療法となる。一般に「不眠症」は「自律神経失調症」にも分類されるが、失調と言うよりは大脳皮質・前頭葉(前頭前野)の過剰亢進によって、身体全体の働きが自然の波(昼夜など)から逸脱している状態である。失調と言えば言えなくもないが、それが「自然の生理的反応だ」とも思うのだ。だから自分自身で、脳の働きをノーマルに戻せる生活に切り替えるなり、またそのような「身体性」を身に付けなければ一向に解決しないのが不眠症の正体である。

整体操法では始めにうつ伏せになってもらい、相手の背骨に手を当てる型から始まる。これを愉気という呼び方をするが、万病が全て心より発し、その心の働きを司る中枢神経系に最初に触れていくことをが生命着手の王道である。これを行うと、あるタイプの人は初めてでもカクっと眠ってしまうことがある。話しかけるとまたすぐ起きてやり取りはできるのだが、対話が終わった途端にまた「グ~・・zzZ」といったりするのだから特殊な意識状態だと言っていいのかも知れない。当然だがこれをもって「不眠症を治す」という事ではなく、脊髄神経(首から下の身体・骨格)を刺激して整えることで脳の働きも変わるという事実が垣間見える。

整体指導の時間内で前頭葉の働きがなかなか休まらない時には、仙骨を直接蒸しタオルで熱すると短時間で変化しやすい。一般に眠れない方は尻が小さくなっている。骨盤(仙腸関節)が締まり過ぎて息が浅くなっているのだ。その場合の自律神経は交感神経優位の状態になっているのだが、仙骨を温めるとそこに隙間ができて副交感神経に切り替わりやすくなる。

心理学の世界では古典の時代から、「精神から身体へ」なのか「身体から精神へ」なのか、という学説が並立しているが、それらをバラバラに考えている内は生命の実体がわからない。身体の刺激と言うのは即精神的刺激であり、逆もまた真である。つまりは、眠れないという意識の在り様は、眠れないという不眠体(たい)を意味してる。この不眠体のまま、睡眠薬を飲んでも眠ったことにはならないばかりか、服用がつづけば精神状態が変性してくるから厄介なのだ。

ただ、ほとんどの方が、何か調子が悪ければ医薬に頼る以外の方法を知らされていないので、「眠れない」となると病院へ行き、原因はさておき眠ったように見える「薬」を受け取るという構図になるのだ。ここまで行くと西洋医療の「盲点」と言うよりも、科学的視点から見えるものは生命活動全体の幅からいえばかなりの広範囲が「死角」になると言っていいだろう。結局のところ睡眠薬で不眠症は「治らない」し、不眠症自体が「治すような病気」ではないとすら思うのだ。すなわち夜眠れないという時には、その不眠体を正すということが正当な対応策である。

何にせよ意識活動と身体の形を切り離して診ることから生命に対する複雑性が生じる。「身体」という活動体をまるごと直観的に見ることではじめて観えるものがあるのだ。もとより「症状」と「原因」は切れ切れに存在するものではなく、生きた身体をよく見れば「症状」が如実に「原因」を語っている事が殆どだ。逆に観察を怠って、原因のわからないまま不快感の解消だけを渇望すると、自然の調和性を破壊するような方法へと偏りがちである。

畢竟、自分の身体の問題を他に任せる以上、カスを掴まされても誰にも文句は言えない。身体に現れたものは一切自己責任であると知り、自身の身体感覚の向上をひたすら求める人にとっては愉気と活元運動は光になる。各々が「何を信じるか」はそれぞれの感受性に拠るものだが、〔生命〕以上の確実性を示せるものは人間の知恵からは出て来ない。いま息をしているその身体意外に「聖医」は存在しないのだ。

太極拳の思い出

20代に太極拳の教室には2度ほど通った。2つ目に行ったところの先生が大変個性的な方だったこともあり、一時期興味をもって通った。

途中でやめてしまったけれども、基本功と呼ばれる基礎訓練はいまの仕事にも役立っている。特に放鬆(ファンソン)という身体中が液体のようにゆるゆるなリラックスの概念は、スポーツ空手で固める事ばかりをやっていた自分にとっては革命的に見えたものである。

俗に「東洋的身体」などというとアジア人が全部一纏めに扱われがちだが、「歌舞伎」と「京劇」があれだけちがうように、とりわけ日本は東洋の中でも独特の身体性を発達させたと考えられる。太極拳の先生は「アジアで身体が固いのは日本ぐらいだ」とおっしゃっていた。「ムエタイもテコンドーも、みんな柔らかいだろ?」と。ただこれは純粋の日本的身体ではなく、伝統的な身体が近代教育によって毒された結果の固さであろうと思う。特にスポーツ空手の型は腰を意識的に反らせて固める傾向に流れがちでなので、上半身と下半身の連絡性が極端に制限されるのだ。

太極拳の場合は仙骨を重力に任せたままである。日本語でいう「腰を落とす」ということは、「膝を曲げる」のとは別次元の感覚で、腰の中心寄りの筋肉(大腰筋等)が最大限にリラックスしていることを意味する。

今さら何でこんな話かと言うと、最近指導の現場で「どうすれば良い姿勢をとれるのか?」ということを個人個人、徹底考え抜くようになったのだ。そこでふと「はて?自分はどうやってるんだっけ?」と省みたら、ルーツは空手と太極拳にあったことに気づいた。将来的には「歩き方」、「坐り方」などを自身の体験からまとめられれるといいのだが。

自分として「これならまちがいない」という身体は未だに定まっていない。もしかしたらこれはずっとこのままかもしれない。

体の探求は今日まで続いている。

4月 横浜活元会のお知らせ

4月の活元指導・愉気の会を下記の日程で行います。

・日時 4月30日(土)10時30分~13時00分(受付10時より)
・場所 せい氣院内
・費用 2,500円(初回3,000円)
・内容 坐学・活元運動・正坐法(時間があれば最後に愉気法(手当て)の実習を行います)
・終了後は茶話会を用意しております。(自由参加・14時頃まで)

坐学は先月につづき、野口晴哉著『偶感集』から資料を用意して音読を行ないます。(内容は一回読み切りですので、どこからでもご参加いただけます)骨盤をしっかり使って正しく声を出し、頭と背骨を訓練をすることが目的です。

活元運動のあとで、先月行いました正坐呼吸法と愉気(身体に手を当てて気を送る)の訓練を合わせて行います。背骨に気を通し、意識を深く静めることは、「頭寒足熱」を重んじる東洋的養生法の基本です。

愉気の会

当院の整体指導は「自分の健康は自分で保つ」を目的としています。
教室での実習を通じて、自立した健康生活の実現にお役立て頂ければ幸いです。

初めて参加を希望される方はHPの「予約・お問い合わせ」画面より必要項目をご記入のうえ、1週間前までにお申し込みください。
その他、二回目以降の方は前々日までにメールにてご参加の希望をお知らせください。

野口整体 せい氣院
朝比奈洋介
045-321-2521
info@seikiin.com

雑念がないとは(愉気)

先月の活元会では久しぶりに愉気法の実習を行った。その場の空気でたまたまそうなったのだが、愉気法は野口整体の象徴だ。という訳でまたしばらく教室でやって行こうと画策している。

時々「愉気というのががよくわからない」という方に説明を求められるのだが、どこまで行っても「ただ手を当てる」だけである。これ以上のものは出てこない。坐禅は「只管打坐」の一語に尽きるが、これと外見は違えど質的には同じである。一切のものを打ち捨てて、「その時」、「その事」に成り切って行う。成り切って、成り切って、坐る、あるいは手を当てる。そうすると、一切合財カタが付くのだ。

こういう事を時に「無心」と言ったりするのだが、「無心になる」というとまたこれが「難しい」という人もいる。そういう方は「どうも後から後から雑念が湧いてきて、いろんなことを考えてしまう」という話をされる。ところが普通は目が覚めて活動していれば雑念が自然に湧いてくるのが「正常」なのだ。それに気づいたのだから一応は進歩と言っている。「念」というのは、そのまま「今の心」である。心にはいろんなものがどんどん去来して、それでいて一つも跡を残さない。それで万事上手くいっているではないか。

ここで少し、愉気について野口先生の言葉を引いてみる。

愉気は雑念があってはできない。欲があってもできない。天心になってやる。自信があるとか、きっとよくなるとかいうことも雑念なのです。そんなものも何も持たないで、ジーッと静かに息をして、息を一つにしていく。

深い息をしていく。それ以外の余分なことを考えないことが望ましい。だから愉気は、利口な人よりは、適当に間が抜けている人の方が効果がある。利口な人も、愉気している間はいろいろな雑念を払って、気をそこに集中すれば、できるようになります。

気を強くしようと思って、一生懸命努力する人もありますが、強い気がいいのではなくて、気は澄んでいることの方がいい。強い気なら、ラジウムや放射能の方がずっと強いです。しかし、それは人間を弱くします。有るか無いか判らない位の力で丈夫になっていることが一番いい。やったかやらないか判らないようなことで、健康を保つことが一番いい。(『月刊全生 増刊号』 晴風抄より)

という風に残されている。

真面目な方が愉気をしようと言うと、ついこの「雑念」が気になるらしい。ところがもともとの念に「雑念」という念はないと知ることが初関となる。例えば、庭を整備しようと言った時には「あそこの花は残して、こちらの雑草は抜いて」ということがある。草は草で全部が「ただ」生えているんだが、そこに人間的な価値で要否が立つと雑草というのが「出てくる」のだ。念というのもそういうもので、念自体には「よい」とか「わるい」とかは付いていない。だから浮かんでは消えていく、そのことに手を付けないで、ただ「そのまま」やっていればそれでいいのだ。

「またそれが難しい」というのも判らないでもないが、実際に手を当てて仕事していると次から次へといろんな思念が出てくる。そういうものがいくら在っても、やはり愉気をしているとお互いに呼吸は深くなるし、気が鎮まってくるのだから「手当て」はどこまで行っても「手当て」なのだ。講習会形式で、何かしら自信を持たせてからやる方法も有効と言えばそうだが、そういう「外」のモノを頼み、信じているうちは愉気にはならない。その時本気になってやれば誰でもできるし、気が抜けるとプロでも力にならない。

だから難しく考えているより、やはり実践に重きを置きたい。やっていれば「ああなるほど、こういうことか」と思う時が必ず来る。これを自覚したらはっきり自分の力となるのだが、そういう余計なことすら考えないで、いつでも「ただやる」ことだけで終わるようにするのが肝要だ。どこかに向かって行くのではなく、今の自分の在り様でさっと行えるようになると、どんな事に出会っても今の自分で「間に合う」人になれる。

愉気する人に資格があるとすれば、「ただ、そのまま」やれる人ということに尽きる。例え疑念が沸いたとしても、それとて「今の心」ではないか。とにかく最初に「愉気をしたい」という気持ちがあれば先ずはそれで充分だ。思念をどうこうするより、身体的実践を宜しく、と言う話である。心は形について来るのだ。

天心の愉気4