睡眠薬の効果

睡眠薬というのは飲んだことがない。子供の頃の記憶として、近所のお兄ちゃんが学校の試験前に緊張して眠れなかったらしく、「しかたなく睡眠薬を飲んで寝たのよ」とそこのお母さんがお話していたのが印象的だった。「何でそんなことするのかな?」と子供ながらに疑問を抱いたものだった。身近な所にもこういう疑問を抱く人は少なくないのだが、以前としてはっきりしない方も多いので自分なりの気づきを記しておくことにした。

指導を受けられる方の中には睡眠薬を飲まれた経験のある方、服用中の方などが一定の割合でいらっしゃる。いろいろな経緯があるけれども、一様に話されるのは「睡眠薬を飲んで寝ても、寝覚めはまったく良くない」ということだ。生きた身体を見ている立場としては当然そうだろうなと思う。斯様に「今日の意識活動」と言うのは直近の「眠り」が直接的に反映されるのだ。

薬学的には睡眠薬は向精神薬に分類されるそうな。「向精神薬」とは「脳の中枢神経系に作用し精神機能(心の働き)に影響を及ぼす薬物の総称」とされている。因みに人間における中枢神経とは「脳と脊髄」だから、厳密に言えば脳に影響のない投薬など皆無だと思うのだが。

身体上の疾患、その中でも特に「原因不明」として扱われるものの多くは、この中枢神経系に直に働きかけるのが的確な治療法となる。一般に「不眠症」は「自律神経失調症」にも分類されるが、失調と言うよりは大脳皮質・前頭葉(前頭前野)の過剰亢進によって、身体全体の働きが自然の波(昼夜など)から逸脱している状態である。失調と言えば言えなくもないが、それが「自然の生理的反応だ」とも思うのだ。だから自分自身で、脳の働きをノーマルに戻せる生活に切り替えるなり、またそのような「身体性」を身に付けなければ一向に解決しないのが不眠症の正体である。

整体操法では始めにうつ伏せになってもらい、相手の背骨に手を当てる型から始まる。これを愉気という呼び方をするが、万病が全て心より発し、その心の働きを司る中枢神経系に最初に触れていくことをが生命着手の王道である。これを行うと、あるタイプの人は初めてでもカクっと眠ってしまうことがある。話しかけるとまたすぐ起きてやり取りはできるのだが、対話が終わった途端にまた「グ~・・zzZ」といったりするのだから特殊な意識状態だと言っていいのかも知れない。当然だがこれをもって「不眠症を治す」という事ではなく、脊髄神経(首から下の身体・骨格)を刺激して整えることで脳の働きも変わるという事実が垣間見える。

整体指導の時間内で前頭葉の働きがなかなか休まらない時には、仙骨を直接蒸しタオルで熱すると短時間で変化しやすい。一般に眠れない方は尻が小さくなっている。骨盤(仙腸関節)が締まり過ぎて息が浅くなっているのだ。その場合の自律神経は交感神経優位の状態になっているのだが、仙骨を温めるとそこに隙間ができて副交感神経に切り替わりやすくなる。

心理学の世界では古典の時代から、「精神から身体へ」なのか「身体から精神へ」なのか、という学説が並立しているが、それらをバラバラに考えている内は生命の実体がわからない。身体の刺激と言うのは即精神的刺激であり、逆もまた真である。つまりは、眠れないという意識の在り様は、眠れないという不眠体(たい)を意味してる。この不眠体のまま、睡眠薬を飲んでも眠ったことにはならないばかりか、服用がつづけば精神状態が変性してくるから厄介なのだ。

ただ、ほとんどの方が、何か調子が悪ければ医薬に頼る以外の方法を知らされていないので、「眠れない」となると病院へ行き、原因はさておき眠ったように見える「薬」を受け取るという構図になるのだ。ここまで行くと西洋医療の「盲点」と言うよりも、科学的視点から見えるものは生命活動全体の幅からいえばかなりの広範囲が「死角」になると言っていいだろう。結局のところ睡眠薬で不眠症は「治らない」し、不眠症自体が「治すような病気」ではないとすら思うのだ。すなわち夜眠れないという時には、その不眠体を正すということが正当な対応策である。

何にせよ意識活動と身体の形を切り離して診ることから生命に対する複雑性が生じる。「身体」という活動体をまるごと直観的に見ることではじめて観えるものがあるのだ。もとより「症状」と「原因」は切れ切れに存在するものではなく、生きた身体をよく見れば「症状」が如実に「原因」を語っている事が殆どだ。逆に観察を怠って、原因のわからないまま不快感の解消だけを渇望すると、自然の調和性を破壊するような方法へと偏りがちである。

畢竟、自分の身体の問題を他に任せる以上、カスを掴まされても誰にも文句は言えない。身体に現れたものは一切自己責任であると知り、自身の身体感覚の向上をひたすら求める人にとっては愉気と活元運動は光になる。各々が「何を信じるか」はそれぞれの感受性に拠るものだが、〔生命〕以上の確実性を示せるものは人間の知恵からは出て来ない。いま息をしているその身体意外に「聖医」は存在しないのだ。