生き物を観る眼

赤ちゃんの観方で一番大切なのは、他から抱きとったときの重さの感じである。異常のおこる前は、その重さの感じがフワッと軽いし、充実してズシリとした感じのするときは調子がいいときである。これは物理できな目方の問題ではない。「留守にして帰って、まず子供を抱きとる。その瞬間の重さの感じで留守中どんなに扱われたか判る。また皮膚のつやと張り、眼の色と光とちから、便の量と色、及び掌心発現の状況などから、観る眼を養うことが大切である。そういう生き物を観る勘は、生き物に注意を集めて。興味をもって観ることによって育つ」と(野口)先生は言う(野口昭子著『子育ての記』全生社 p.7)

先月太郎丸をつれて一歳半検診に行ってきた。診るものと言えば、身長・体重、歯科検診、それから言葉がどれくらいわかるのか、である。「言葉の遅れ」がないかどうかを確認したいようだ。

それはいいとして、歯の検査の時に無理やり口をこじ開けられたみたいで太郎はかなりショックを受けてしまった。顔が小さくなってしまって、翌日は熱も出した。結局調子が正常に帰るのに三日はかかったのだった。

診察室に入っては泣き出す子供の集団を見ると、やっぱり人情的には憤懣やる方ない気持ちにはなる。申し訳ないのだが、こういうものが「人間」の健全な発育を点検するものとは到底思えない。ただし、それは極々少数派の主観的な価値観で、ふだん我々が職能的に使っているような「生き物を観る眼」の方が相当「異質」なのだということも知っているつもりだ。

簡単に言うと、「動いている物を動いているまま、全体性を観る」というのがこちらの仕事で、一般医療(科学)では「動いているものを一時的に止めて、部分的に測り」たいわけである。

もちろん、こういう風に部分的に専門性を高めることで解ることもあるのだ。それはそうなのだが、部分的になることで観えなくなることも沢山ある。そして我々はいつだって、その専門分化によって「見えなくなる」ものに用があるのだ。具体的には先に引用した、「皮膚のつやと張り、眼の色と光とちから」というものがそうだし、もっと端的に言えば「いのち」というものが「それ」である。

整体というのは発生当初から、近代医療の見地で「見落とされるもの」を相手に仕事をしてきたのだ。科学的な分析は生命活動から出てくる燃えカスを調べているだけで、「いのち」そのものを捉えることは絶対にできない。

だから「人間の健康生活を指導する」といったときには、やはり整体の独壇場というのが実状ではないかと思う。我田引水も甚だしいのだけど、本当のところそうだとしか思えないのだからしょうがない。縁のあった人たちと向き合って、一人一人、直にこの価値を伝えていくより他ない。多勢に無勢なのだが、それは職業としての存在意義とセットなので複雑な気分だ。

健康のための軽い運動

先週までは指導室で時おりストーブを付けていたのにすっかり初夏の陽気になった。春先につづいて身体を動かしたくなる時だ。

整体ではよく「鬱散の要求」という言い方をするけど、人間は体力が余るとそれぞれの身体的特性に合った運動でエネルギーを消化したくなる。それというのも現代人は食事の栄養価に対して運動量が足りないからだ。

「栄養はできるだけ多くとるほうがいいだろう」という考えの方も依然として多いのだが、栄養を多くとりすぎても病気とかケンカの材料になるだけなので、身体に対して「中庸」という感覚を育てることは大切だ。

整体を一定期間つづけていくとほとんどの方に食欲の安定が見られる。それだけでなく余剰エネルギーの解消法も上手くなってくるから鬱散目的のケガや病気も減ってくる。具体的には趣味でスポーツをはじめたり、山歩きに行くようになったり、自分で自分を快活に使う欲求が開いてくるのだ。

内科のお医者さんが「健康のために何か運動をしましょう」ということがあるが、じゃあその「何かって何?」というとまったく曖昧なのが実情だ。自然と自分に合った運動をしたくなるように「身体感覚」を目覚めさせることも整体の仕事だったりする。

安産しやすい妊婦さんの服装

妊娠期に着る服の注意点を聞かれたので、自分なりに気づいた注意点を少し書いておきます。

まずゴムのような圧迫感のある服は極力排除しましょう。きつくてもゆるくても、いずれも外からの圧はない方がよいです。よく伸縮性の腹巻のようなものを付けている方がいますが、外から支えつづけると全般に身体がたるみやすくなるのでおすすめしません。

腰痛の方が骨盤ベルトを勧められることもあるようですが、これもお尻がたるんだり、人によっては恥骨が痛んだりします。

それから足元ですね。妊娠期はいつも以上に、「冷える」ということの注意が必要です。それも気を付けなければならないのは「足首」です。夏場に素足にサンダルで電車に乗ったりすると、思った以上に冷房で足を冷やします。足を冷やさない工夫をしましょう。

また、かかとの高い靴やサンダルを履きますと、膝、腰に負担がかかります。また足を挫いたりしますと、骨盤に影響が行きやすいので、妊娠期は靴底の平らなものを努めて履くと良いですね。

ですから、まとめると・・

・身体を締めたり圧迫するもはできるだけ着ない

・冷えに注意する(特に膝から下、足首やくるぶし)

・靴は平ぺったいものを履く

このへんを守っていただければ、まずまずじゃないでしょうか。

あんまりおっかなびっくりにならなくても大丈夫ですけどね。妊娠中は細かいことを「気にしすぎない」でぽんわり生活することも大切です。ただ「着衣の問題が気になる」という方は、一応の参考にしてみてくださいね。

裡の自律性 躾は必要か

以下は、昨日の活元会で使用した資料です。

躾は必要か

この間広島へ講習に行った時、その講習中に若い人達の座談会が行われた。その座談会の録音テープを昨日聞いてみたら、共通してみんなの心配していることは、人間を自由に放り出しておいたら始末におえないものになってしまうのではなかろうか、人間にはどうしても躾ということが必要なのではなかろうか、第一、食事でも自分の食べたい時に食べるようにしたら家中バラバラになって困る、みんながやりたいことをやり出したら統制がとれなくなって困るだろうというようなことから、子供を叱らなかったら悪いところだけ伸びてゆくというような心配まで出ていた。出席者の中には学校の先生も大分おられ、家庭のお母さん方ならそういう考え方をしてもしようがないが、人の子供を預かって心を導こうとする人達がそれくらい人間の心に無理解な態度を示すということは、私は考えてもいなかった。

私達は別に誰に習わなくても、心臓は一分間に七十八の脈を打ち、体温は三十六度五分を保っている。そういう自然の規律を、体は意識しないうちに守っている。大脳の細胞の並び方から、食べるとそれを消化して体が必要とする部分に栄養を運ぶことに至るまでそうである。栄養をたくさんにとれば、それがみんな栄養として吸収されるかというと、体は余分なものは捨ててしまう。そうして自然のバランスを保とうとする。

体は非常に緻密で、繊細な統制のもとに行われているが、その体のはたらきの現れとして心があるということを忘れているのではなかろうか。煙だって気流に対し気圧に対して一定の動きがあって、それ以外に乱れるということはない。風に逆らって風上に流れてゆくことがないように、自然律の現れである以上、心にも統制があり宇宙全体としての調和を保っているのである。人間自体、そういう調和を保つための自律的な統制の上に息をしているのである。

人間の心というものは本来自由なもので、圧迫すればそれに対してどうかして自由であろうとする余分な反発が起こるが、やはり自由な本来の方向に向かって進んでゆく。川水を堰止めれば安全だと、ダムなどをつくって安心していると洪水になることがあるように、余分な堰止めをしなければ水は自然に流れてゆく。心も同じで、堰止めたとしても流れてゆく、あらゆる隙間から流れてゆく。だから心が自由に流れるという裏には、そういう規律正しい体の動きがあるということで、その反映として心が動くものである以上、そこに自然の規律、自然の統制が常に行われていることを見逃せない。

だから食べたい時に食べたとしても、みんなのお腹の空く時間はそうは違わない。もし何時に食べたければならないと決めておくことがなかったならば、その日の温度、湿度、気圧に従がって、みんなのお腹の空く時間ははなはだしくは違わない。自然に統制されてゆく。食べたものがご馳走だったかそうでなかったとか、みんなで非常に忙しい思いをしたかどうかどか、頭の疲れ具合とかで自然に調整されて、食べたくなる時間はそう違わない。食べ遅れた人は、人の食べているのを見ると途端にお腹が空いてくる。そういう規律から外れるということは非常に少ない。ところが何時に食べなくてはならないと決めておくために、自由に食べるということはわざわざその時間を外すことなんだと、まず考える。そう考えることが体に実現してくるだけで、はじめから何時に食べなくてはならないということがなかったならば、そういう何時に食べるということに対する反抗が、自由という名を借りて現れる理由がない。やはり同じにお腹がすく。だから空腹になったら食べるということが、何か非常の生活の混乱を増すように考えられているが、おそらくそういうことはない。あるとすれば、何時に食べなくてはならないという、“ならない”という規則に対する反抗である。水の流れは堰止めると、その時は従がっても、その勢いがだんだん増していって、それを乗り越え、隙間からでも溢れてゆく。堰止めることさえしなければ、水はその流れに従って淀みなく流れる流れる。だからもし心が反動を持ち、反抗を持ち、人に迷惑をかけ、自分の体を壊すようなことがあったとしたら、それはこうしなければならないという規則をつくった、或いは何とか抑えようとした、そういうことに対する反動であって、本来は人間は自由のものである。

私は新潟県に疎開していた時に、日本が敗けたというニュースを聞いた。そうして特高警察が解体になった。これはアメリカに敗けたからなんだと頭では思いながら、何か体の中が軽くなった。どこかでホッとしている。話し合ってみると、ホッとした感じがみんな共通している。人間の体と心の中には、そういったように自由を欲する分子が本来ある。それを抑えれば反動が生ずる。その反動は何だろうかというと、それが放縦というものである。人の迷惑なんか考えないで何でもやる。子供がお隣の柿が美味しそうだったから取って食べた。これは統制をしないからだというように考えるが、統制をしないからではない。統制したために、それに対する反抗の表現として、抑えられた反動がやりたいところに溢れただけで、川は堰止めさえしなければ、川筋以外のところを外れないように流れ、放縦に走ることはない。堰止めたために横に流れてゆく。洪水が出たのは堰止めるものがあったからである。叱言を言い、いろいろの行為を抑制して、躾たと思っていると、それは洪水を招くことになりかねない。(野口晴哉著『潜在意識教育』全生社 pp.55-58)

人間の心の構造、中でも反発や反抗心について触れられています。ここにありますように、人の潜在意識は「右に行くな、左に行け」と言われると、途端に「右に行きたくなる」というような習性があります。ところが自分から「左に行きたい」と空想するように導いておいて、最後に「実は左に行くとちょっと困るんだけどね・・」と僅かに抵抗をかけると、そちらにざーっと動いていってしまう。おしるこを甘くしておいて、最後にちょっと塩を聞かせるようなことをするのと同じです。整体「指導」と言った場合にはこういう技術が自在に使えないと技としては生きません。

ときどき「自分は生まれつき体が弱い」と思っているような人もいますが、人間も含めて動物は弱いのは生まれてこないのです。受胎して、尚且つお腹の中で成熟して生まれてきた、ということはそういう生き物としての丈夫さがあるのですけれど、人間の場合は生まれてからうっかり「弱いと思い込む」ようなこともあるのですね。最初に無かったものを、どこかでそう思わされたのです。そういう人に、「あなたは強いんですよ」といくらいっても自分が弱いせいで励まされたような気がするだけで、はじめに「弱い」と思たことは打ち消せない。それよりも、自分から「自分は丈夫だ」と空想してしまうような方向で刺戟を与えると、心も体も同時にすっと変わってきます。

最初にこれさえ出来てしまえば、不整脈でも、胃弱でも、逆子でも、何でも正常な方へ動いていってしまう。精緻な心の誘導ということです。誘導が正確に行われるためには、その構造を先ず知らなければなりません。ですけれども、そういう人間を方向付けることが仕事の中心である「親」とか「教育者」において、その出発点として人間の感受性や心の構造を知らないから問題が尽きないのではないでしょうか。身体の生理的働きを起点として、そこから生まれる精神の動きを観察しなければ、真に丈夫な人間は育てられないでしょう。こういうところが本当に見直される必要性を感じます。少なくとも「教育=知識の詰め込み」と考えられている間は、掛け違えた最後のボタンは止められません。

どこから間違えたのかわかりませんが、少なくとも理屈と強制では動かせないというごく基本的なことが、先ずもって多くの方に理解されるべきでしょう。知識を増やすだけの教育や、心のみを切り出して扱う心理学ではなく、身体の生理的働きの理解を含めた潜在識教育の必要性をもっと知っていただきたいと思っています。

活元会

今日は活元会でした。ご参加の皆さまおつかれさまでした。

R0013747

2009年の開業からこの活元会はこつこつとやってきました。月日とともに変わったと言えば変わったし、変わらないと言えば何も変わっていません。

野口整体に興味を持たれる方のおかげで、淡々と続いてきました。これからもこつこつやって行こう、ということで来月もやります。

日時)5月28日(土) 10時30分~13時00分

よろしくお願いします。

惺惺著 喏喏

開業して2年くらい経った頃からずっと、仕事の前に食べる物をあれこれ模索している。当然の事ながら、指導が始まった時に一番意識が醒めているようにコンディションを持っていきたい。基本的にはあるものを食べることが殆どだけど、重要なのは味の濃淡と穀類の量だったりする。

お米を食べるといい意味では気持ちがゆるむが、一口でも余分に摂ればお腹に血が下がり過ぎてぼんやりしてくる。お腹がコテーっとしていると、まず「目」がぼやっとしてくる。ピントがぼやけるという感じではなくって、「目」がきちっと働かないのだ。それなら空腹状態がいいのかとも考えたが、そうすると自分の場合はどうも「食べていない」という空想に負けてしまう。落としどころとしては、重湯やおじやのようなものがいいのかなと今は思っている。

実際ここまでこだわって仕事の精度にどの程度影響があるかというと、本当に微々たるものなのだが。ところが「神は細部に宿る」という言葉もあるように、100%と99%の違いというのはやっぱり結果の成否を分ける。100%というのが百発百中なのに対して、99%だと「外れる可能性」が出てくるのだから。出来るかどうかやってみなければ判らないというようなものは、職能的な「技」とはいえないと思うのだ。

これが例えば野球の打者みたいな仕事だったら、「打率」とか「打てた・打てない」という成績として白黒はっきりするけれども、整体の場合は「効いた」か「効かない」かというのはお互いの主観が決めている。しかも健康とか幸せとかいうものは、マルかバツかという二分法のものではないので、下手をすると安易なところで妥協に流れやすいので注意が要るのだ。

最終的には仕事の前に、自分で自分が「いま目が醒めているのか?」と問い続けることになる。事に臨んで自分の意識さえ明瞭なら、仕事はすでに完成したに等しい。大鵬幸喜の言葉で、「土俵に上がった時には、すでに勝ち負けは決まっている」というの目にした事があって、年々歳々身に染みている。

人間の中にある自然の心

言葉では潜在意識教育を説きながら、自分自身の心の全体性をどれくらい自由に使ているかというと疑問に思うことが増えてきた。整体指導の場ではよく対話をするけど、仕事として行う以上は日常会話と同じようなものではだめだなと思う。あたりまえなんだけど・・。

「説明」とか「説得」で促されたものは意識的に「そうですよね」と納得できても、腹の底では「でもやっぱり・・」と言っていたりするので身体が変わっていかないのだ。ましてや押しつけられたような考えでは反発しか生まれない。だからお腹の底まで変わっていくように心も体もを誘導する力が必要なのだろうな。

人間の潜在意識は、抑えられると飛び出したくなる。認められて、受け入れられるとその要求は消えてしまう。大まかにいえばたったこれだけの構造なのだ。ここが公に理解されるだけでも、世の中に遍満する余分な軋轢は相当に減るだろうなと思う。「理解」まで行かなくても、「そうなんだよ」と知らされるだけても、人間を無駄に縛るような枷は大分減るんじゃなかろうか。

自分で自分の中に「悪」とか「不善」を作りだして、それを縛り付けている間は本当の全力発揮はできないのだ。ブレーキを踏みながらアクセルを踏むことの非合理性は誰もがわかるのだけど、こういうことを「努力」と表現されるだけで、ちょうど杖か浮袋にでもしがみ付くようにそれを掴んで手放せなくなることもままある。

人間が本当に力を発揮できるのは、「自発的に興味をもったこと」なのだ。自分自身の「氣」の集中・分散の波にうまく乗ればそれが一番自然に物事が運ぶ。早くもなく、遅くもなく、早くても、遅くても、それぞれが中庸という波の間に流れていってどこにもぶつからない。「任運自在」という言葉があるけれど、人間がその身体上に自然の相を現すには、やはり人為とも無為ともつかない、その両方が混ざり合ったような訓練がいると思う。

活元運動はそういう人間と自然を矛盾なくつないでいける方法だ。「ポカンとする=理性の完全休止=自然との親和」という図式なんだけど、自分にとってもこれは仮説なので、これを見極めるために自分自身の生き方で確かめて行きたい。もとより人にやってもらって納得いくよう世界ではないので、用のある人だけが実践して、自分の中の「自然」を見極めればそれでいいのだ。

整体は人間に内在する「自然」を紡ぎ出していくような行為で、簡単なように見えるけど人間にとっての自然てどんな状態か考えると容易でない気もする。でもどんなに時代が変わっても、生きている間に自分の心の力を掘り起こせるような「体育」が必要なのだ。人間の全力発揮を可能にしよう、というのが本当に役に立つ「教育」だと思う。内在する力をいかに発揮させるか、という所にの人間生命の醍醐味はあるのだ。

学ぶ力 要求する力

野口 人間が生きているというのは、自分の裡の力で生きているんです。健康を保つのも自分の力、人に治して貰っているように見えても自分の力、だからその一番最終に、丈夫に生きたい要求がなければ丈夫にならないんです。自分の感じた要求を実現しようとしている時は、体の中に力が入っているんです。

中川 そう、そういう風にして僕なんかも勉強してきましたね。僕はもう、教わったということないんです。学校に行って教わったり、先生について教わったことがないんです。教わるということは、目を塞がれちゃうんですよ、下手な教わり方したら。自分の要求でもって、人から取ることがあれば取ればいい。人から与えられていたんじゃ駄目なんです。こっちから取ればいいんです。そういう考えでやってきたのはよかったと思うんです。(『月刊全生 増刊号』 中川一政×野口晴哉 対談より)

いま一歳半の子供の活動をみながら、人間の「学び」に因んでつらつら書いています。昔から「まねる」、「まねぶ」、「まなぶ」と言い替えたりします。だから学びの根本は「模倣」なんですね。だから、最初に自分が「どうありたいか」という方向性のもとに、「必要なモノ」だけを身に付けて行けばいいと思うのです。要らないものまで、「あれもいるかもしれない」、「これもあったほうがいい」、とやっていくとだんだん「自分」が重たくなってくる。それは不安から出発して持ち物を増やしているだけで、無駄な重量でしょうから。また、他人の老婆心でいろいろ教えられることも多いから、「これは何のためにやっているのか」、「どこで役に立つのか」、という感受性がくもらないように気を付けなければならないでしょうね。

それこそ現代型の教育で「目を塞がれて」しまって、それからから学ぼうとするとどうしても与えられたものを鵜呑みにしてしまったり、今現実に困っているのに誰かが教えてくれるまで待ってしまったり、そういう受け身の学びになってしまう。最初に自発性を削がれてしまうと、やっぱり自然の力として伸びていく「勢い」を失ってしまうのかもしれない。

そうすると、学びや教育の「要」というのは如何に潜在的な自発性を煥発できるか、ということになるのでしょうか。人間ですから、誰でも最初に要求があるんです。必ず。それが良いとか悪いとかって言うのは、その後の持っていきようでどうにでもなるんです。また、「要求」そのものは教われません。ただし自然に要求が現れる「身体性」を育てていくのは、ある面で他動的にやれなくもない。整体指導というのは本来、個人の要求の発動、実現のためだけに行うもの、といっていいのでしょう。

やはり整体の仕事をしていてやりずらいなと思うのは、「何に向かって全力発揮したらいいのかがわからない人」です。だから要求が現れる身体というのをまず考える必要があるのでしょうね。脱力して、頭もゆるめば、「狭い合理性」から自由になったその人本来の感受性が出て来ますから。そちらの方がしっかりしてくれば「元気」とか、「体力」というのは、もうどうにでもなるとも言えなくもない。だからそちらの方をもっと研鑚していく必要があるのでしょう。こうやって考えていくと、ますます「治療」なんていらないんじゃないかと思うんですね。

「腰の反り」について考える

心理学の話から急に身体の話になった。よく考えれば体とか心という分類は「科学的分析」の産物であって、生きた身体というのはこれらの境界があいまいなのだ。あいまいというか、もともとそんな風には分かれていないのが実状で、「心」も「体」も同じ一つの活動体の別称と考えた方がいい。言葉というのはその時々で都合の良いところを切り出すだけで、良い悪いではなくそういう道具なのだ。

さて、タイトル通り「腰の反り」ということが論点なんだけど、これについては毎日の整体(個人指導)の最後に、大体8割以上の人に正坐で坐っていただきます。それ以外の方は高齢であったり、その他もろもろの事情で腰が充分に伸びないのでそんなに無理はしません。見た目的には腰骨は「反って」いるのだけど、一人一人みると腰を「反らせて」いたり、脱力して自然に「入って(伸びて)」いたり、形は同じでも内側で起こっている現象はちがう。

かれこれ2~3年くらいは、この坐り方を仕上げとしていたけど、自分で点検してみるとどうもこの坐り方ばかりが固定的に「正しい」かというと、「一概には言い切れないな」という気がしてきた。今にして思うと「考える」姿勢を失っていたのだ。

「進歩」というのは常識の延長線上に見ることが出来るのに対して、「飛躍」や「革新」というものは常識を否定することから生じる。身体の問題を扱ううえでも、直線的に「悪い」から「良い」に向かわせるだけなら話は簡単だけど、人間の身体も含めて「自然界」というのは異なる状態や方法論がどっちも「正解である」ということが起こりうる。客観的数値を基準として再現性と普遍性を追求する科学は前者で、宗教というのは後者の不確実性をあつかうための感覚的行為である。整体も非科学に類するもので固定的な良い悪いという答えはない。突き詰めると「治療とはなにか?」を考え続ける態度ともいえるかな。

前置きが長くなったけど、健康指導するうえで最終的に「コレ」という固定的概念があることは便利な反面、不自由さもあるなと思ったのだ。こちらが絶対的な答えを持っていて、一方的に「教える」という構図では生きた「人間」に対応しきれない。よく「患者さんが一番の師です」という治療家さんは多いのだけど、今さらながら、自分自身もご多分に漏れずそういうことなのだと一人うなったのだった。

タイトルからしたら期待に沿えない内容かも知れないけど、考えてみた結果、否定も肯定もない、「考え続ける」という着地点を見つけられたことで意識の広がりを感じた。また「自由性」というのはいつも知らぬまに減じるものだと再確認したのだった。実は腰の柔軟性は思考の融通性と一つだったりする。

人は変われる

昨日さらっと取り扱ってしまったけど、「人間は変われるのか」という話は心理療法の急所だった。整体の潜在意識教育でも、「人格の変容・成長」はその人が本当の意味で「治るか治らないか」をわける分岐になる所でもある。今日はまずいろいろしゃべる前に、河合隼雄さんの『心理療法序説』から引用してみます。

4 心理療法家の成長

心理療法を行なう上で、もっとも重要なのは「人間」としての治療者である。従がって、治療者は常に自分の成長ということを心に留めておかねばならないし、またそのようなことを考えざるを得ないように、クライエントがし向けてくれる、と言っていいだろう。クライエントは心理療法家にとっての教師である。

治療者の人間としての在り方といっても、いわゆる「人格高潔」などという理想像を掲げるつもりはない。しかし、ユングの言っている「個性化の過程」ということは参考になるだろう。まず、この世に生きてゆくために必要な強さをもつ自我をつくりあげ、その自我が自分の無意識に対して開かれており、自我と無意識との対決と相互作用を通じて、自分の意識を拡大・強化してゆく。無意識の創造性に身をゆだねつつ生きることは、相当な苦しみを伴うものであるが、それを回避せずに生きるのである。このことをクライエントに期待するのなら、治療者自身がその道を歩んでいなくては話にならない。(『心理療法序説』 岩波書店 p.282)

この先にいくと、心の成長や自己実現の実際について書かれています。長くなるのでそれはまた明日以降に引くことにして、この文脈から言えることはまず「人間は変わる(成長する)」可能性を内在させているということですね。「何をもって成長か」と考えると一言では括るのがむずかしいけれども、この場合は「自我と無意識との対決と相互作用を通じて、自分の意識を拡大・強化してゆく」過程を指す訳です。まちょっとむずかしいので分解してみます。

「自我」というのは生まれてから(あるいは受胎前から)〔今〕までに作られた、かつての環境に適合する意識のことを指します。「無意識」というのはそういう表層的な意識ではなくずっと奥に隠れたようになっていて、全き人格へと向かう要求を備えているものですね。簡単に言うと「成長したい」、とか「もっと良い人格になって存分に生きたい」という意欲の水源みたいなものでしょうか。

ただ考えてみると、人間の活動を広く見渡した時に、成長欲求とか、自己実現の要求を伴っていないものはないと思います。と言うことは、人格の変化というのは「整体指導」とか、「心理療法」とかいう限られた場所だけで行われる「特殊」なものではなくて、多くの方に日々展開されている「日常」の中で絶えず微量に繰り返されていると言っていいのかもしれません。

では「整体指導の役割って何?」というと、その「成長」を、他力を伴ってより積極的に主体性をもって行うということ、と言えるでしょう。整体のとっかかりとしては「病気」、というのが鍵になることが多いのだけど、この病気というのを西洋医療では「命を脅かす可能性をもった活動であり、人体上から速やかに排除すべきもの」としか見ない訳です(大まかに言えば)。ところが野口先生という方は「これは生命の全体性から見れば、むしろ積極的に平衡を保とうとする大切な働きである」と看破した。「病気が生命維持に貢献している」という、いわゆる「コペルニクス的転回」みたいなものですね。それも子供の直観的に、生命活動の真相を徹見した訳です。

そしてこれと同じ見方をユングもしていた。それもほぼ同時代のことです。河合さんは別の著書で「人が治るということは、本来しんどいことなんです。」と言っていますけど、つまりそれは病的な痛みとか、不快感にも広げてみることが出来る考え方です。痛いから、〔今〕治っている、ということですね。さらさらさらと横滑りで話の焦点がずれてしまったが、とにかく「人は変われる」、あるいは良くも悪くも「変わっていってしまう」、ずーっと同じなどとということはありえない、と。こういうところで一応の昨日の疑念に対する着地点までは来た気がする。ここから面白い話になるのだけど、今日は早めにパソコン閉じて休みます。つづきはまた明日。^^