「腰の反り」について考える

心理学の話から急に身体の話になった。よく考えれば体とか心という分類は「科学的分析」の産物であって、生きた身体というのはこれらの境界があいまいなのだ。あいまいというか、もともとそんな風には分かれていないのが実状で、「心」も「体」も同じ一つの活動体の別称と考えた方がいい。言葉というのはその時々で都合の良いところを切り出すだけで、良い悪いではなくそういう道具なのだ。

さて、タイトル通り「腰の反り」ということが論点なんだけど、これについては毎日の整体(個人指導)の最後に、大体8割以上の人に正坐で坐っていただきます。それ以外の方は高齢であったり、その他もろもろの事情で腰が充分に伸びないのでそんなに無理はしません。見た目的には腰骨は「反って」いるのだけど、一人一人みると腰を「反らせて」いたり、脱力して自然に「入って(伸びて)」いたり、形は同じでも内側で起こっている現象はちがう。

かれこれ2~3年くらいは、この坐り方を仕上げとしていたけど、自分で点検してみるとどうもこの坐り方ばかりが固定的に「正しい」かというと、「一概には言い切れないな」という気がしてきた。今にして思うと「考える」姿勢を失っていたのだ。

「進歩」というのは常識の延長線上に見ることが出来るのに対して、「飛躍」や「革新」というものは常識を否定することから生じる。身体の問題を扱ううえでも、直線的に「悪い」から「良い」に向かわせるだけなら話は簡単だけど、人間の身体も含めて「自然界」というのは異なる状態や方法論がどっちも「正解である」ということが起こりうる。客観的数値を基準として再現性と普遍性を追求する科学は前者で、宗教というのは後者の不確実性をあつかうための感覚的行為である。整体も非科学に類するもので固定的な良い悪いという答えはない。突き詰めると「治療とはなにか?」を考え続ける態度ともいえるかな。

前置きが長くなったけど、健康指導するうえで最終的に「コレ」という固定的概念があることは便利な反面、不自由さもあるなと思ったのだ。こちらが絶対的な答えを持っていて、一方的に「教える」という構図では生きた「人間」に対応しきれない。よく「患者さんが一番の師です」という治療家さんは多いのだけど、今さらながら、自分自身もご多分に漏れずそういうことなのだと一人うなったのだった。

タイトルからしたら期待に沿えない内容かも知れないけど、考えてみた結果、否定も肯定もない、「考え続ける」という着地点を見つけられたことで意識の広がりを感じた。また「自由性」というのはいつも知らぬまに減じるものだと再確認したのだった。実は腰の柔軟性は思考の融通性と一つだったりする。