保育園に太郎丸をお迎えに行ったら、園長先生から「今日はこんなの画いたのよ♪」といって、わたされました。
何だかわからないけど込み上がてくる・・・。なにコレ。(;Д;)親心?
じーっと観ていたら、自分が23歳の時に一度だけ絵画教室に通って絵を習ったことを思いだした。子どもの頃から絵を描くことは好きだったけど、「こういう風に画く」ということを習ったのは本当にこのときが初めてのことだったのです。
そこで「習う」ってどういうことなのか、を、すごく考えたんですね。先生とも議論したし。
「こういう風に画けばいい、なんておかしい」
「じゃあキミは何しにここに来てるの?」
「・・・・・・?」(それもそーですね。。)
大筋としてこんな感じだった。先生は楽しそうだったけど。
例えば、算数を習うっていう時には、「九九」を覚えれば、一桁の掛け算はさっさとこなせますね。その結果は・・・覚えただけ・・、です。
算数は日常のいろんな場面で役に立ちます。けれども、先人の知恵を学ぶことは、それと引き換えにそこに新しいアイデアが生まれる可能性は減じるのかもしれません。自分の頭で「考える力」っていうのかな・・。
ここが難しいところですね。
せっかく昔の人が、「こうだよ」ということを遺してくれているだから、その知恵を使わない手はない。だけども、「習って」しまったら、やっぱりそこに縛られる要素も出てくる。「不自由」っていうことが出てくるんですね。
絵を画くのでもそうかなと思う。
うちの子はまだ、「絵を描いた」と思ってないだろうけど。まあとにかく、巧いとか下手だとか、そういうものが一切ないだろうし。
何が何をやっているのか、わからないような「からっぽ」の活動体です。
版画家の棟方志功は晩年になって、「ようやく自分は自分の作品に責任を負わないで済むようになった。」と言ったそうです。つまり「私」が彫っているんではない、ということです。何がどうなって、誰が彫っているのかもわからない。だからそれが人の心をうつのかもしれない。
直近の話では「整体操法」を身に付けるときにも、「まなび」ということの本質を何度も考えたものです。
今も考えています。
「教える」ってどういうことなのか。
「教わる」ってどういうことなのか。
・・・ちょっと、これは長くなりそうなので、またつづき物にします。