中庸

今日も夕方から子供の風邪の経過を看ていた。子供が生まれてから、何度も何度も、いつもいつも、体験してきたことだけど、病症経過を見守ることに「慣れ」はない。肉親だからかもしれないけど、ときおり「もしや・・」という不安が沸いてしまう。

ともかく人為的に「何とかしよう」と焦っている人にとって、「自然経過」という速度はとってもとってもおそく感じる。だけれども、何を考えて、何をしていようと病症経過には必要なだけ時間は掛かるし、そして必要以上には絶対掛からない。

その速度も期間も、「中庸」のまんま進んでいく。ずっと昔から、「自然」とはそういうものなのだ。

例えば川の流れを思い浮かべてみてもそうだ。上流の急峻な所を流れる水は「速い」だろうか。いや、そうではなくって、やっぱりその傾斜角にそった中庸の速度で流れているはずだ。

それを急とか速いとか見るのは人間の考え方だ。その見方をはなれた時、五官を刺戟する一切のものが中庸であることがよくわかる。

中庸を自分の中に見出したら、その瞬間から大安楽の生活がはじまる。その点、自分はまだ距離がある気がするのだけど。それで人に愉気する資格があるのかと問われると、少し下を向いてしまう。

それでもわずかに気がついた以上は中庸の生活を心掛け、実践あるのみだ。健康生活の原理と言った時、意識を静めること以外に何があろう。この期に及んで、「無我、無心」すらも余計なのだ。そのままでいい。それも頭の中に思い描いた「そのまま」ではなく、ただ本当に、そのまんまのそのままだ。

活元会

今日の座学では「体癖」を扱いました。

野口先生の『体癖 第一巻』から資料を用意したので、みなさんで音読を・・・の予定でしたが、今回は骨の模型を使ってざーっと1~10種類の体癖についての解説になりました。

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やっぱり野口整体は意外と知られていない、と言うか、ニッチ産業なのだと再認識。体験重視でやってきましたが、今後は教学も合わせて励行しようと思います。

もちろん活元運動もしっかりやりました。

来月もつづきもので、『体癖』を教材にする予定です。

次回は、6月25日(土)です。

ご参加いただいたみなさま、おつかれさまでした。

原始の心

ただ自分の命というものは、非常に大切なもので、死ぬということは大変なことである。唯一絶対の生命である。
大切な大切な生命である。その生命をおろそかにすることは最も愚かなことである。(吉田弘著 『手の妙用―大自然の治癒力―』 東明社 p.62)

整体の技術は愉気にはじまり、愉気におわる。「ただ手を当てる」という行為を技にまで昇華させたのが整体だ。

その根本は、自分の命と同じように他者の生命を大切にする態度である。たったこれだけの、本当に「あたりまえ」のことが希薄になっているのが現代という時代ではなかろうか。

人間の進歩を思う時に、この「共存共栄」という原始感覚を基礎としない活動は、先に進めば進むほど人間の世の中を先細りにし、また不安定にしていく。「手当て」はこれに対するアンチそのものだ。

古来から「手を当てる」行為というのは、何度も何度も注目されては消えていった。近年その効能の一部に科学的根拠が認められたことから、特定の分野では継続的に行われている。

教室で愉気法を行なう方を見ていると、人間が人間を慈しんだり大事にしようという行為は、その形に美しさが現れるものだと感じるものだ。

本来ならば「手当てを習う」というのも、滑稽な話かもしれない。人間が原始感覚を取り戻せば、整体操法も愉気の講習会も要らなくなるのだ。痛いところがあれば、すっと手が行く。これは万国共通の身体感覚なのだから。

しかしこれがなかなか容易でないのも事実だ。地球上で唯一人間だけが、「自然」を会得するための後天的な訓練を要する。少し変わった、面白い生き物だと思うのだが、野口整体の存在意義はここにある。

一人の人が命の大切さに目覚めることは大きなことだ。愉気がそのきっかけとなれば、こんな嬉しいことはない。「訓練」してこれからできるようになるわけではない。すでにあるものに「気づき」これを自在に使っていく。

その気づきのために訓練がいるのだが、訓練している姿が即実証なのだ。ただ手を当てればそれでいいのだから。ということで、何卒実践をよろしく。

触れる力

昨年の秋に自宅の本をかなり削減した。CD・DVDも入れると500冊に及んだのだが、まだ数十冊は手元に残っている。その中の一冊が山口創さんの『愛撫・人の心に触れる力』だった。

今日久しぶりにパラパラめくってみたが内容はほとんど覚えていない。ということは潜在意識に入っているのだが。

整体操法には技術を学ぶための「型」が数種のこされているが、それ以前に「触れ方」が習得できないと技術が「もの」にならない。この触れる力は先天的な素質によるものが大きいのだが、自分としてはできないなりにそこにテーマを絞って研究をしてきた。

それに因んで、「手を柔らかく保つ」のもこの仕事の義務だったりする。今日自分の手の皮が妙に突っ張っていることに気がついたのだが、近頃「手の使い方」が荒くなっていたので反省した。

人間の「手」というのは訓練次第で、医療器具(検査・治療の両方)として換算すると数億円はくだらない価値が眠っている。ところが使っていかなければ、それこそ二束三文のところで終わってしまうのだ。

どんな職業でも基本から学ぶと同時に、基本がそのまま究極なのだ。整体には合掌行気という手の基礎訓練法があるのだが、また気持ち新たに取り組めそうな気がしたのだった。

信仰の自由

朝から腹痛に苛まれた。いや、この2、3日の不摂生がたたったという話で、胃袋の優秀さには毎度のことながら感心してしまう。

夜まで何も食べずにいたら飲食には支障のない程度まで回復した。身体も軽い。今回はダイレクトな話だが、お腹に物を入れないというのは治癒力を高めるための一番手っ取り早い方法だ。

一節には、ヒトは6週間分のエネルギーを常時身体の中に溜めているそうな。だから一日、二日食べない程度なら、身体の中の滞ったエネルギーをひっかき回して刷新するきっかけになる。体内在庫の入れ替え、棚卸しのようなものだ。

「整体」を生きはじめてから「病症が身体を治している」というのは、年々歳々、体験を通じて実感が増す言葉である。整体指導をこれから受け始める方には、この意識の転換(常識からの離れ)が最初に求められるのだが、知識として理解できたとしても、心底切り替わるまでには早くても2~3年はかかるようだ。

当然そこまで続けられない方も大勢いるので、人が整体を選ぶのか、整体が人を選ぶのかは知らないけども、人生何を信ずるかで死に方も決まるなと思う。人間は最初に信じたものに優位性を見る習性がある様で、それが本当によければそのままでいいし、わるければやっぱりどこかで手放す必要があるのだ。

実際「信じる」というのはすごく人間臭い行為で、古来から「信仰」というものが自然界にはありえないような問題を、大小、さまざまに生んできた。「宗教はアヘン(麻薬)」という言葉もあるように、何かを「信じる」という態度は見る角度によっては敬虔なようだが、一方では自分自身の問題に生身でぶつかって行く気概を減じさせるものだ。

痛いときは痛いし、苦しいときは苦しい。信じても信じなくても、命の働きはいつだって、そのことがそのこととして完璧に行なわれているではないか。そこで人間の作った「観念」の方を信じるか、それ以前の「実体」の方から学ぶのか、いつでもその選択の自由性が与えられている。あとは、平たく言えば当人の好みの問題で、何を信じるかはその人の「質」によるものだと思う。

中毒

太郎丸が下痢をした。暑かったのでうっかり寝室の窓を開けていたうえに、半ズボンで寝かせて膝から下を冷やしてしまったみたいだ。水あたりのような気配もあったけど、これはちょっと正確にはわからない。昨日「汗の内攻」で冷えの注意を喚起したばかりだったので、なんとも不甲斐ない話になった。

食あたりで下痢をした場合は脚を湯につけて温めると経過が良い。脚は消化器の働きと一つだからだ。余談として、潮干狩りのあと貝にアタるケースが多いのは踝から下を海水で冷やしたためである。脚を冷やすと普段なら中毒を起こさないようなものでもアタってしまうのだ。こんな風に中毒には外的要因と内的要因がある。

今回は真夜中だったので脚湯はしないで、腹部の痢症活点(りしょうかってん)に手を当てて介抱した。場所は大腸の曲がり角と肝臓の重なる位置で、だいたい右肋骨の下あたりと覚えておけばいい。生理学的には腸のぜん動と肝臓の解毒作用を高めるのだと思う。

最終的にミツコに抱っこしてもらったまま眠ったら朝には全快だった。考えてみると日常生活でもっとも重宝するのは肝臓の手当てかもしれない。技術として行うには少しコツがあるので、教室でも実習しておこうか。

眠りの質

弛めるためには眠るということが一番役に立ちます。皆さんは整体指導というと、操法して弛めるつもりになっておられるが、操法してひと寝入りしたあとの体の状態というのが大事なのです。操法する場合に、必ず相手は眠るものとして、その眠りをどう活かすかということで進めていく。このことを知っているか知らないかで、上手か下手かに別れるのです。つまり整体では、眠りということを弛みの一番の代表として、操法の中に取り入れているのです。

ほんとうに深く眠れるようにさえすれば、あとは何も要らない。あとは自動的に恢復するように人間の体は出来ているのです。だから眠りの問題をもっと研究する必要がある。(野口晴哉著 『体運動の構造 第一巻』 全生社 p.66)

よく「寝ても寝ても寝足りない」などというように、同じ人であっても睡眠には長短の波がある。一般には長く眠れることが良いと考えられがちだけど、睡眠時間が長いのは身体があちこち偏って疲労しているのであって実は良い状態とは言えない。逆に全身くまなく疲労して眠ると短時間で済むのだ。

自身の体験として、大学時代に日曜日になるとまる一日空手の強化練習に出ていた時期がある。夕刻に練習が終わると駅まで歩いて帰るのもイヤになるような疲労度合だったのに、次の日は必ず日の出と同時に目が覚めるのが不思議だった。今から考えると、全身クッタクタになるまで使い切ったことで眠りが異常なまでに深かったのだ。あんなに身体を傷め付けるような練習(?)はもう絶対したくはないけれども、体験知としてはいい学びになった。

整体では身体を傷めずに、繊細な刺激を使ってその人なりの偏り疲労を正していく。これによって眠りが深くなるわけだ。しかもそういう状態が何日もつづくように身体感覚を発達させるのが目的である。

今から思うと、仕事を始めた当初は身体の固い人が来るととにかく「ゆるむ」まで粘ろうとして苦労していた。現在は拙いながらも「眠り」を技術として使うことを覚えたことで相手も自分もあまり疲れなくなったのだ。最近は特に、「技」というのは「力」の対極にあることを噛み締めている。

一点注意が要るのは、眠りが短くなると「眠れなくなった」と心配されることがある。巷では「睡眠時間」を重視する傾向が強いので当然と言えば当然だが、とにかく眠りは「時間」ではなく「質」に依っている。これを説明ではなく体験として理解していただけたら、一回の操法がきちっと当ったと思っていいだろう。

起きている時間の効率化は多くの方が取り組まれるのに対して、眠りの効率化は盲点になりやすい。ところが古来から一流と言われるような人たちはみんな眠りを大切にしてきた。一日の過ごし方は人生の縮図と言われるが、充実した一日は深い眠りからはじまる。だからこそ眠りの質を高める整体操法は「人生を充実させる技術」だと言えるのだ。

悩みが消える眠り

筋肉が緊張すると、体が硬くなります。弛むと柔らかになります。体中が硬くなっているときは緊張しています。体中が弛んだときは弛緩しています。そして、弛めているのに弛まないところがあれば、それは異常です。例えば、会社が終わったあとでも会社の仕事が頭から離れないでいるときは肩が弛まない。胸椎の五番から上が弛まないのです。それが異常なのです。そういう場合には、目が覚めても、体の疲れがとれていない。だから眠いのが続いて、もう一度寝直さないと目が覚め切らないのです。
もう一つは、腰椎の一番が硬直している場合で、この場合も、同じように弛みません。ところが深く眠ると、腰椎の三番が弛んできます。三番が飛び出しているうちは、深く眠っていないのです。だから腰椎一番、三番を観れば眠りの状態が判ります。(野口晴哉著 『体運動の構造 第一巻』 全生社 pp.65-66)

最近、整体の途中で受けている方がよくコクッと寝てしまう。仕事の時間的制約を考えれば決して褒められた技術ではないのだけど、眠くなってしまうのだからしょうがない。

上手な身体使いというのは「使い方より休め方」で、ゆるみの良い身体ほど、いざ使うときに無理・無駄なく全力が出せるようになっている。だから整体の技術というのは、おおむね、身体が弛むような刺戟を使うことで成り立っているのだ。

引用に出てくる胸椎五番というのはだいたい肩甲骨の間、中でも一番狭い辺りだ。現代人の疲労傾向として、この五番から上が硬いというのは非常に多く見受けられるのだけど、この硬さが進行してくるとやがては「うつ」とか「ノイローゼ」の状況にもなってくるから注意が要る。

うつは「心の病」という風に括られがちだけど、やはり身体の疲労状態ともリンクしているのだ。身体が上手く弛めば、そういう心的疲労も解消されるようになっている。

そして身心が弛むには「眠り」が重要だ。デール・カーネギー氏の『道は開ける』でも悩みを解決する良策の一つに昼寝や早寝などの「眠る習慣」を挙げている。それでは、ただ眠れば何でも良いかというと、そこで「質」という問題を無視できない。

この眠りの質を高める、ということが整体では重要な仕事だ。整体は「受けた直後」ではなく、「一晩眠った後の身体」で仕事の質が判る。次の日起きたときの身体を観ることが出来れば研究がはかどるのだけど、それはできない相談なのでなるべく前回からの経過を聞くようにしている。

共通して言えるのは指導中にふっと眠ってしまった方は、それ以前の「悩み」が消えている。当初は不思議に思っていたが、よくよく考えれば、問題事とか悩み事の正体は「思念」なのだ。眠りというのは尊い。どうにもならない問題をあれやこれ考えはじめたら、身体をよく弛めて深く眠ることを心がけたい。

柳腰

この10年余りは、とにかく体でも心でも「ゆるむことがいい」というのが流行であった。癒しブームというとやや懐かしいが、その「癒し」という行為も身体の各部が「ゆるんでいる」という状態があってはじめて成り立つ。

仕事をしていて、最終的にここが「ゆるんでくれば」というポイントの一つが大腰筋だ。少し前に、「腰の反り」について書いたが、腰椎部の弾力はやはり重要なのだ。その弾力の保持を担うのが大腰筋である。これが緊張すると全身の融通性が著しく低下する。逆に大腰筋がゆるむと、腰は自然に伸びてくる。臨床の仕上げではこの形をできるだけムリなく作りたい。

今行っている整体指導を煎じ詰めると、与えられた時間内で腰がどこまで弾力を取り戻すか、というのが主題とも言える。短時間で腰がふわっと柔らかくなっていく人もいれば、一時間以上かかってもほとんど姿勢が変わらない人もいる。個人差と言ってしまえばそれまでなのだが、この「差」の中に整体操法の存在意義がある。

そのためには相手の中の余計な頑張りをできるだけ排除したい。ところが現代教育の大半が困難な状況を努力で越えることを良しとしているので、そういう態度はどうしても「自分」と「問題」との間に拮抗を生む。真面目な人ほど、正しい姿勢を作り、そこを起点とした頑張りがクセになっている気がする。

したがって、いわゆる努力家の人は知らない間に身体を固くしていることが多い。そういう方には、まず自分の緊張状態に気づいたうえで、「その頑張りをやめたらどうなるか?」というのを体験していただきたい。整体ではよく「ポカンとする」と表現するが、平易な表現でありながら、この世の中から一切の問題が消すほどの極意なのだ。

うっかりすると観念論的な話に帰結しそうだが、一個人の観念の土台となるのが身体である。例えば「剛情」と聞くと、ぎっくり腰予備軍のようなガチガチの腰を連想する。頭が深く休まるためには、やはり大腰筋の脱力は重要な鍵となるのだ。仕事をしていてもあまりお目にかかることはないのだが、柳腰というのは男女を問わず理想の人間像ではないかと思っている。

5月 野口整体を学ぶ活元会

今月の活元指導の会についてご案内いたします。

・日時 5月28日(土)10時30分~13時00分(受付10時より)
・場所 せい氣院内
・費用 2,500円(初回3,000円)
・内容 坐学・活元運動・行気法(正坐での呼吸)
・終了後は茶話会を用意しております。(自由参加・14時頃まで)

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■坐学の内容

今月の教材は野口晴哉先生の『体癖』から資料を用意して音読をいたします。

体癖とは野口先生が整体指導の場で多くの人を見て触れて観察した経験をもとに、「身体の形」とその人独自の「感受性傾向」を10種類にまとめたものです。

整体特有の人間理解の方法ということになりますが、今回の坐学では「自分の体癖を知る」ということよりも、感情エネルギーと身体に現れる動作や疲労とのつながりを理解できるような内容を扱う予定でいます。

「心と体」が実際どのように相互に作用しているのかを体験的に理解を深めることは、自分自身が「どう動けばいいのか」、ひいては「どう生きればいいのか」を知るための大切な指針となるはずです。

当日は質疑応答もできるだけお受けしたいと思います。日頃から「体癖」に関心、疑問をお持ちの方はお越しになられた際にお訊ねください。

■お申し込み

初めて参加を希望される方は1週間前までに、HPの「予約・お問い合わせ」画面より必要項目をご記入のうえお申し込みください。その他の方は、前々日までにメールにて参加の希望をお知らせください。

よろしくお願いいたします。