神仏の正体

私がお話するのは、いままでの学問的な考え方だけでは考えきれない体の問題なのであります。私たちの胸の中に肺臓と心臓があるということはどなたもご存じですが、それを動かしているある働きがあることには気がつかないでいる。例えば、恋愛をすれば食事がおいしくなるし、好きな人に出会えば心臓が高鳴ってくるが、借金をしていると食事もまずいし、顔色も悪くなってくる。このように恋愛とか借金とかいうものによって生じてくるある働きと、肺臓とか心臓とかいうものが関係ないとはいえない。ところが胸の中を解剖してみても、レントゲンでいくら探してみても、そういうものは出てこない。だから人間の生活の中には解剖してしまったら判らない、また胃袋とか心臓とかいうように分けてしまったら判らないものがある。電報一本で、途端に酒の酔いが醒めてしまうこともありますが、どういうわけで醒めるのか判らない。その判らないもののほうが、却って人間が健康に生きて行くということに大きな働きを持っているのです。(野口晴哉著 『健康生活の原理』全生社 pp.3-4)

生き物を生かす不思議な力

サムシング・グレートとは、具体的なかたちを提示して、断言できるような存在ではありません。大自然の偉大な力ともいえますが、神といってもいいし、仏といってもいいような存在です。とらえ方は自由なのですが、ただ、私たち生命体の大本には何か不思議な力が働いていて、それが私たちを生かしている、私たちはそれによって生かされている、という気持ちを忘れてはいけないと思います。(村上和雄著 『スイッチ・オンの生き方』 致知出版社 p.90)

活元運動を指導し始めて6年余りになるけれども、「活元運動をやると、何がどうなるのですか?」という直接的な質問を受けたことは一度もない。

何だかわからないけれども、お集まりいただいて、手を当て合って、活元運動をして来た。

ところがこの「何だかわからない」というものの中に、生命の働きが内包されている。人の頭でわかるようなものは精々その程度なのだと思ってしまう。

人間が生まれる、ということ一つとってもその活動の実体はほとんどわからない。

一個の生殖細胞がおなかの中で数十兆に膨れ上がり、「その時」になると陣痛がはじまって外界に現れる。

何故そうなるのか、それがわからない。わからないまま、人類創生以来、ひとつも困ることなく命を継いできた。

文明生活はそのわからないものを暴こうとして、生命を捏ね繰り回し、難解にし、調和に抵抗してきた。

調和させよう、させよう、という絶え間ない知的探求が、自然の精妙な均衡を脅かしてきたのだ。

それならば、その「わからないもの」をわからないまま、煥発して、ぐんぐん生きて行く方が都合がいいのではなかろうか。そういう考えが沸いてくるのも自然であろう。

元来、祭りや舞踊、歌にはそういうちからがある。

ただそれには、文化や風土、宗教観、時代性、地域性、いろいろなものが付随してくっついてくる。それらは、相互に対立や矛盾を生む可能性も孕んでいる。

人の「考え方」というものには、対立が付きまとうのだ。

そういういっさいの付属物を剥がし、純粋な生理機能に濾過したものが活元運動であると言っていい。

生き物は、生まれた瞬間から、絶えず「そういう風に」動いている。

何故かはわからない。

わからないけれども、わからないことで一つも困らない。

不自由もしない。

知ろうとすれば、わからなくなる。真を求ればたちまち真に背く。

わからないままでいい、というと全てがわかるようにできている。

むずかしいことは一つもない。

五官に任せれば、全てが一度に手に入るではないか。

感じて動く。

生命体とは、感じて動く感動体なのだ。

認識には誤りがある。

感じ方に間違いはない。

神も仏も、みんな、はじめから生命に宿っている。

その光が、そのまま現れるようにすればいい。

そのためにどうすればいいかも、自分のいのちで感ずればわかるようになっている。

発病の原理

ガンになる遺伝子も、高血圧になる遺伝子も、人間は誰でも持っているのです。ガンの遺伝子を持っているというと非常に悪いイメージを抱くと思いますが、これらの遺伝子は何も病気を引き起こすことを目的としているわけではありません。身体にとって必要な遺伝子であり、細胞の中でおとなしく調和していれば、何も問題はありません。

ただ、それがなんらかの原因で一定水準を越えて増殖してしまうと、病気として現れてくるのです。(村上和雄著『スイッチ・オンの生き方』致知出版社 p.53)

西洋医療にみる難病・奇病について専門書をあらってみると、発病のメカニズムはわかっていても根本の原因についてはよくわからないことが多い。

「それが何らかの原因で」そうなる、と括られていることがほとんどだ。

本来なら原因がわからなければ対処のしようがないはずなのだが、病気の苦悩を目の当たりにするとどうしても表面的な症状の除去に流れて行ってしまう。

ところが医原病という言葉が示す通り、発症しているものを人為的にプッツリ止めてしまうことは生命の秩序を脅かす、危険な行為なのだ。

「病気は命を脅かす悪いもの」という固定的な観念が払拭されない限り、遺伝子工学の医療的発展は近々頭打ちになってしまう。

ボタンの掛け違いというよりも、袖を通す以前の間違いに気づいたうえで再出発が必要だ。

お釈迦様は「病気は衆生の良薬」と言ったそうだが、病気は生命保持の安全弁、時にこれが最後の砦ともなる。

疾病は調和を欠いて起こるのではない。

実際は人間的な精神活動の偏りを正すのが身体上の病であり、疾病そのものが自己の身心と外界との調和を恢復する働きなのである。

これを理性から出発した科学的処置によって自然の調和力に抵抗をしているのが、現代広く行われている「治療」の実体だ。

理性が過剰に働いているうちは、いのちの妙を感じることはできない。人の為すことは偽りであると知り、無為の力に目覚めよう。

そのためにむずかしい方法が要るのかというと、そんなことはない。ポカンとして身体の自然の動きに任せるという、それだけでいい。簡単な話なのでありがたみがないのだが、真理はいつも近すぎて見えない。逆に目を閉じた方が判るのではないか。

理解と自覚

「整体」になるのにどれくらいかかるだろうか。

うちに通われている方を見ていると、一応の段階までだいたい2、3年くらいが目安かなと思う。

「風邪を引いて熱が出ると、骨格筋がゆるんで、身体が整う」という風邪の効用を例にとっても、理解はすぐにできる。

それでも、実際に「うん、これは間違いないね」と自覚に至るにはやっぱり年月がいるのだ。

理解に力はないが、自覚したものは力になる。

しかし自覚するためには理解の入り口が必要だ。

それも感受性という門が開いていなければ、はじまらない。

人が整体を選ぶのか、整体が人を選ぶのかはわからないけれど、

最初に響き合うものがある。

自分の中に「信」を見い出そうとする人には、いつでも門は開かれている。

閉じてしまうのも自分自身だ。

自分、自身が、どう生きたいか、

感性に問いかけてみよう。

道ははじめから拓かれている。

と、思う。

魂の点火者

「人生二度なし」を説いた教育者 森信三氏は「魂の点火者」と呼ばれていた。

魂に火がつけば、あとは心も体も勝手に燃えていく。

指導者というのは皆、心を動かすことが仕事の根幹だ。

本来、医も仁術である。

心の温度を使うものなのだ。

当然だが、あちらに火を灯すには、こちらが燃えていなければいけない。

もとより人間は赤々と燃えているのだから。

いのちを高められるは、いのち以外にない。

愉気とはそういうものだ。

人間がいる限り、人間はつながりあっていく。

つながりを見失いかけたら、背骨を感じ、手を当て合って、活元運動をしよう。

人間がいる限り、人間はつながりあっていく。

このことはずっと変わらない。

燃え移るものがある限り、光はつながっていく。

それだけで、ずっと大丈夫なのだ。

パラダイムシフト

病気を全うする

すべて調和というのは、一つ違っても調和ではないのです。そういうことは体が知っている。

私は、初めは病気を治すつもりで治療ということをやっておりました。そのうちに、人間が病気になるということは全く無駄なことだろうか、と思うようになりました。そう思って観ると、病気をする人は、病気しないといけない状態になっている。そして病気して経過すると、今までの疲れが抜ける。眠っている力が出てくる。ひょっとしたら、病気はそういう居眠りしている力を喚び起すためになるのではないだろうか。

…前屈みの人は、ある状態以上に屈んでくると風邪を引く。それを通ると腰が伸びてシャンとしてくる。そこで、風邪や下痢は体を調整するための働きではないか、それなら人間が病気になるということは、無意味なことではないと思いました。とすれば病気を治すよりは、病気の経過を全うした方がいい。そう思って観ていますと、大部分の人は病気のあと元気になります。けれども、その経過の中でちょっと気が乱れたり、不安な気があったり、臆病な気があったりすると、病気になって却って体が弱る。それは焦るからなのです。

病気を全うするということを考え出したのは、病気を自分の体力で経過した人が、その後みんな元気になるということをみたからです。顔色を見てもスーッと透き通って、濁りがなくなっているのです。

…それを経過の途中で止めたり、抑えたりした人は、病気をやっていよいよ弱くなってくるし、病気をやったあとも濁った顔になっている。そしてまた病気をするのです。本当は病気をやっているうちは蒼くとも、経過し終えたならばスッキリと透き通って、綺麗になってこなくてはならない。働いても疲れない体になっていなくてはならない。それがそうならないというのは、経過を全うさせなかったからです。(野口晴哉著『愉気法 1』全生社 pp.36-38)

以前は慢性病・難病系統の方が一定の割合で来られていたが、最近の方をみていると姿勢の問題や肩・背中・腰周辺の痛みや違和感などを訴えられる方が多い。いわゆる「整体院」の領分という感じを受ける。ホームページの内容が少しずつ変わっているのでその影響だろうか。

身体が硬張って姿勢が偏っているような方は、いわゆる風邪など何年も引いていないということがめずらしくない。手を当てていても、はじめの内は気が通るまで何十分もかかる。ところが数回通ううちに下痢をしたり、熱を出すようになると、そこを境に姿勢が変わってくる。まるで熱で身体のこりが解けていくように、正しい位置に戻っていく。

風邪に限らず病気というのは身体の平衡を保つための調整役を担っている。その病気を「わるいもの」として駆逐していけば、身体は知らないうちに鈍り、老朽化してくる。

何年か前に、すい臓がんの治療中の人を観たら操法の数日後に肺炎を起こして入院してしまった。愉気によって潜在体力が煥発したものと思ったが、その方はそれっきり来なくなってしまったので予後についてはわからない。

西洋医療とは身体の見方、持って行き方、理想形がほぼ真逆なのだ。我々と共有できない部分がない訳ではないが、整体によって丈夫な身体を保つ、育てると言った場合には、どこかでパラダイムシフトを要求される。

うちの整体に関して言えば、30、40代で始められる方が圧倒的に多い。このぐらいが考え方の転換期としてちょうどよいのかも知れない。物事には「その人の、その時」というのがあるのは間違いないが、整体をやるには早いに越したことはない。これはまぎれもない事実なのだ。

ただ歳をとっても頭の柔軟な人は、腰もやわらかい。逆に整体の必要な人ほど身体も考え方も固く、新たな価値観が受け入れにくい。こんな時ほど指導者の力が問われるわけだが、論より証拠で自ら元気な姿を見せることが何よりだろう。

手を着けない

「整体」というのは、一つの完成形だ。「整っている」ということがどういう状態を指すのか、個人で研鑚すべき処である。

道元禅師の有名な言葉に「仏道をならふというふは、自己をならふなり」というのがある。「自分という活動体が一体どうなっているのか」がわかれば、この世のあらゆる問題事は「今、この場」で決着がつくようになっている。

これを「健康」という観点から言えば「腰の調子が悪い」、「病気がなかなか治らない」という所が自己探求の入り口になるのだが、「治そう治そう・・」といじくりまわしている間は既に治っているはたらきが見えないのだ。

言ってみれば一番高尚な方法は、手を着けないということになる。ところがそう聞くと途端に「手を着けない」という着手がはじまる。

自然経過というのは、こちらから何かをして「経過をさせる」訳ではない。何もせずに経過させられるように、心胆を練っていく。人間にはそれができるようになるための訓練が要るのだ。

本来自然であるはずの人間が、活元運動を修るのはそのためである。自然を信じきれないうちはつい手を着けたくなるけれども、その疑念や、心配する心の働きにもやはり自然の相がある。

健康とはこれから工夫を費やして作るものではない。着眼を正せば、いつでもそこにあらわれる。理性の完全休止、ポカンとすることを解くのはそのためなのだ。その着眼、着手と離れれば、既に解脱の境となる。

斯様に自然というのは、はじめから、誰にも等しく与えられている。この世には、これからなるようなものは一つもない。〔今〕に信が及べば、それでいい。信じようと信じまいと、人間は本来無事なのである。

6月 野口整体を学ぶ活元会

今月の活元指導の会についてご案内いたします。

・日時 6月25日(土)10時30分~13時00分(受付10時より)
・場所 せい氣院内
・費用 2,500円(当院初めての方5,000円)
・内容 坐学・愉気(整体操法の実技)・活元運動
・終了後は茶話会を用意しております。(自由参加・14時頃まで)

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■内容

先日の記事に書きましたとおり、今月は活元運動に加えて整体操法(化膿活点)の実習を行います。梅雨時のむくみ解消と、虫刺されなどの処置に使える整体の技術です。また技術以前の「整体操法の心」を学べるように、教材となる資料を用意します。型の手順を覚えても、生命に対する礼を欠いては整体とはなり得ません。人にふれる際に必要な、「心・技・体」を創るための練習をいたします。

■お申し込み

初めて参加を希望される方は1週間前までに、HPの「予約・お問い合わせ」画面より必要項目をご記入のうえお申し込みください。その他の方は、前々日までにメールにて参加の希望をお知らせください。

野口整体 せい氣院
045-321-2521
info@seikiin.com

愉気の領分

以前書いた「内外一如」のつづき。

…けれども、愉気をする場合に、そういう外から見えない心の内側のことを頭において手を当てるのと、見える処だけに手を当てて治そうとするのでは大分違ってくる。例えば、相手のいっている言葉じりだけをつかまえて議論したら、その議論に勝ったところで相手は負けていない。くだらないことで上げ足をとられたと思っているだけです。そういうように、見えるところだけで話し合うには、人間にはもっと奥があるんです。だから、その奥にある人間に手を当てることによって、こちらの奥にあるものと交流するのか、それともこちらの手と相手の体とが接触してそこで感応するのか、この二つは似ておりますが違うのでありまして、体に手を当てるだけなら、皮膚の傷は治っても心の傷は治らないのです。人間の体の毀れている中には物理的な打身で毀れているものがたくさんありますけれど、心の打身で毀れているということの方がもっと多いのでありまして、体に手を当てることが愉気だと思っている人は、皮膚の奥になると感じないから治せないのです。

“これは木綿だろうか。御召だろうか、銘仙だろうか”なんて思って触ると、これは銘仙だ、御召だということはすぐに分かるが、その体の中は決して分からない。そうでしょ。自分の注意の集まる処だけしか分からない。それが体の中や心を感じようと思って触ると、体の中や心も感じられるのです。

ただその人の注意や、考え方、感じ方、気の集まり方で、その人の感じ方が違ってくる。だから愉気しても、気なんか感じないという人は、着物しか触らない、「あらウールだわ」と、ウールに愉気しているだけなのです。

ですから、人間に心のあることを知り、更に奥にある生命の働きというものにぶつかるつもりで愉気をして、気が集まると、そういう働きを直接感じるようになるのです。だから自分の中身が拓かれていくと、それに応じて触って分かることが違ってくる。違ってくるとその働きかける場面も違ってくるのです。(野口晴哉著 『愉気法1』 全生社 pp.103-105)

野口整体を受ける方にとっては、やっぱり愉気について関心が集まりやすいみたいだ。指導を受けている感覚を頼りに、自分の家族に手当てをされている方もいる。何故かはわからないけれども、手を当てたり当ててもらうことには本能的な快感が伴う。

古来より「手当て」というものには不思議な解釈がついてまわってきた。「薬も飲まないで、手を当てるだけで何故治るのだろうか」と思われることが多いのだが、実際にやってみるといろいろなことがわかる。まるっと「野口整体」という生き方にシフトするには何年か浸る必要があるが、やがては手を当てることが治療の原型であって、投薬などは疑似治療だと思うようになってくるものだ。

薬というのは論理性の結晶だが、手当てなどは近年になって少しその効能に科学のメスが入ったくらいで全体としては判らないことの方が多い。愉気というものはそもそもが、訳のわからないままやっているくらいの方がいいのだ。アマチュアの場合は特にそうだと思う。鰯の頭も信心からで、お守りでも、お祈りでも、念仏でも、訳がわからないから「効く」のだ。ところがプロになる過程でだんだん訳がわかってくる。この辺りがむずかしいところで、一時的に愉気の力が失われやすい。そこでもう一つやり込んでいくと、もう一度その「漠」とした何かに突き当たる。ここではじめて盲信が本覚に変わる。

そもそもが「病症」や「痛み」などは人間の奥にある生命活動が噴出したものである。表層の痛いとか痒いとかに振り回されている間は、延々と後手を踏むはめになる。できることなら頭が痛くなってから頭を抑えるような間の抜けたことはしたくない。いろいろな身体現象の奥には絶え間なく動きつづける「何か」がある。そしてその「何か」には絶対的な秩序が備わってるのだ。その「何か」がお互いにぶつかり合う様なつもりで触れていくと、純粋な感応が起こる。

不思議なことは何もない。母親が子供を抱いてあやすのと同質のものだ。体の異常を治しているわけではないし、心を癒そうなどとも思わない。ただ抱いている。何万年もそうしてきたのだから、何より事実が証明している。本来は技術とも呼べないようなものだし、当然名前も付いてない。だけれども、命を繋いできた「何か」があるのことだけは間違いない。この力を一応は愉気と呼ぶことになっている。

最初からあるものだけども、それに気づくために修行はいる。それでも修行してこれからそうなるのではない。着眼点が変われば、自分の全部が相手の或る処に集まる。自分自身をよく見てみたって、結局は何が動いているのかわからない。そのわからないもの同士がピタッと当たるようにする。今はそういう感覚で行くのが一番無理がないなと思うようになった。そう言いつつもまだまだ愉気の研鑚の途上である。これというものに執らわれないことが、進歩の秘訣だ。

子供の発熱の処置

…そういう教育は、繰り返し行われると、潜在意識の中に滲み込んでしまって、滲み込むとすぐ体を支配するのです。例えば、“四十度の熱が出たらもう駄目だ”などと思うと、すぐ元気がなくなり食欲もなくなる。けれども整体に来ている人達には、熱が出て食欲がなくなるなどという人は極めて少ない。「三十八度しか出ない」「まだ九度なんです」ときまり悪そうに言う。「なんだ、あなたの体力はそんなものですか」と言われそうで、四十度を越さないと幅が効かない。事実、四十度を越しますと、親から貰った梅毒のようなものでもなくなってしまうのです。だから子供の病気に高熱が伴ない易いということは、一面、親から遺伝してきたものに対する消毒の意味があると思うのです。だから私は、子供が高い熱を出すと、“これで安心だ”と思うのです。それがなくて大人になってから早発性痴呆になったり、脱疽になったりしたのではたまらない。ところが近頃では、熱のでることまで予防するようになってきました。ひょっとすると、もう二、三十年の内には、二十歳位になって突然気が狂うような早発性痴呆の人達が多くなるのではないか、その他にも、まだいろいろ抱えている病気の消毒が済まないまま成人していくのではないかと、その点では大変怖いと思うのです。(野口晴哉著 『整体法の基礎』 全生社 pp.22-23)

今日は“まくら”の引用文が重厚になってしまった。太郎丸の風邪の経過記事が途中になっていたので、まとめることにした。

結果から言えば発熱はおとといがピークで39.5℃まで上がった。40℃の大台も予期したが、今回はそこまで至らず、しかもデジタル体温計だったので実際はもう少し低めだったかもしれない。

野口先生の時代には「発熱は怖くない、活用すべし」と言ったら方々から非難を受けたそうな。ところが現在は西洋医療でも熱は下げない方がいい(下げるなキケン)ということが、ほぼ明らかになっているみたいだ。ただこれまで発信し続けた「常識」の手前、明言できずにお茶を濁しているというのが実情ではないだろうか。

「真理」は絶対無二だが、「常識」というのは流動的で薄弱なものだ。だがそれと同時に常識は頑迷でもある。常識に抗して地動説を唱えたガリレオはそのために処罰された。常識が覆ってからも、彼が死んでからも刑は解かれず、罪を許されたのはなんと20世紀に入ってからである。権力というのは凄まじい。今だったら天動説が非常識ということになるのだろうが、本当は天も地もはじめから動いてなどいない。発熱に対する「解釈」も似たようなものだろう。熱はただ熱として出ているだけである。

何にせよ現代に至って、それだけ野口整体と一般常識との落差が減ったのは、やりやすい反面やりがいも減じた気がする。カウンター・カルチャーが徐々にサブ・カルチャーになり、メイン・カルチャーとなった時にはその存在意義も消えてしまう。これはこれで寂しい。

少し熱の処置のセオリーを書いておくと、整体では発熱のピークに差し掛かったところで後頭部に蒸しタオルを当てることがある。本来、体力充分であるはずの1歳児ならこんなことをする必要もないのだが、今回は緊張がゆるみきらないので少し熱刺戟を使うことにした。ここからリズムが順になって、経過が良好になったうようだ。

注意したいのは、「子供が熱を出したら後頭部を温める」と覚え込むと、いま実際に、目の前で活動している〔身体〕を見失う。いわゆる自然界には「同じことは二度起こらない」という一大法則がある。その一回性の出会いに対して適合する方法は、過去の知識の堆積から見つけることは不可能だ。

〔今〕を知りたければ、〔今〕から学ぶ意外にない。整体操法とは元来、即興力の連続で構成されているのだ。そのヒントは過去の事例の中にもあるが、過去の中には答えそのものはない。記憶の蔵を漁るのをやめて、いま目の前で燃えている命の色を観ることだ。さすれば今何をすべきかは自分の命で感じ、自分の身体でわかるように出来ている。これがわからないようでは、鈍っているのだ。

他人の自然に立ち入る前に、自分の自然を守ることだ。自分の自然が表出すると、「あちら」と「こちら」の垣根は消える。それは看病、整体操法における基本であると同時に、充分条件でもある。方法論は何処まで行っても方法であり、手段でしかない。手段の奥にある理合いを感じ、そこを出発点として感じ、考える頭が欲しい。そしてその頭が消えさえすれば、愉気は無量の光となる。

生理痛は頭を休めて寝ること

このブログ内でも何度も書いてきたが、女性の体調不良に関するスマホとパソコンの被害は軽視できないと思った。

生理痛や生理不順にはじまり、妊娠中のつわりや腰痛・腹痛などは、だいたい2日くらいパソコンを見ないだけで軽減できるものが大半である。

これは40年以上前の野口先生の文章にも見つかる話で、「キーパンチャーのような仕事は女性に向かない」といった内容が記されている。おそらく、指の使い方、それから目の負担などを総合的にみた結果であろう。

そうはいっても今時パソコンを使わない仕事を探す方が大変である。だからといって全く希望の持てないような話かというと、その気にさえなればある程度はコントロールできるものだ。

可能な方はパソコンを使用する時間帯をシフトするだけで、なかなか良好な結果が得られることがわかった。簡単に言えば寝入りばなに画面を観ない、というそれだけでもかなりいい。

どうしてもやめられない仕事なら仕方ないけれど(これも本気になればやめられるのだが)、個別にお話を訊いてみると用もないのに電車の中や夜中にネットサーフィンをしてる人は存外に多い。

試しにデジタルデトックスを実践していただくと、一週間で身体は相当変わる。一番は頭蓋骨の形と頭の働きだ。出どころの判らない余計な不安や怒りが消えていく。そうなると一気に自分の住む世界が静かになるのだ。

生理痛・生理不順や妊娠前後のトラブルで病院や治療院にかかるなら、ますその前に1週間の早寝と脱液晶画面を勧めたい。必ずや効果を感じられるはずである。