病症が身心を治している

今日は2才の息子が保育園から早退してきた。昼食、お昼寝のあとで蕁麻疹が出たと連絡があったのだ。保育士さんからは「お昼に食べた物(が原因)ですかね?」と聞かれたけど、どうもそういう感じでもない。念のため脈をみる・・、とやっぱり中庸、というか普通だ。

もしかしたら一昨日、散歩でかなり歩いたからその疲れが出たのかもしれないし、原因は今のところちょっと判らない。ただ一息四脈ならそれでいいではないか。こういう時にはいつも「整体」の見方と一般の方が見た時との「病気観の違い」を痛感するものだ。

野口先生が整体を勧めていくのに取り分け苦心された、というか難儀したと言われているのが「常識」という壁だったと言われている。「常識」というのはそれだけ手ごわいのだ。

多くの場合は病症が出たときだけが「病気」と考えられて、その時を「異常」と診る。ところが整体をやっていくと、そうは観えなくなって来る。「病症が出た時にはもう治った時」と、こういう風に感じる。治り始めの僅かな動きを察知して、その時に「調子が悪い」と感じ、その後症状が出た時にはもうほとんど経過は終わったのだと、こういうことになる。

「その前」に必ず何か調子を乱すショックがあったのだ。それが身体を緊張させて病気の必要性を生んだ。病気のほとんどはそうした未消化のショックやストレス体験を処理するための弛み現象である。病気そのものが治る働きといわれる所以だ。

極論を言えば、何を正常と見て何を異常と見るかという、「正常・異常のライン」をどこにひっぱるかの違いなのかもしれない。

常識的には「病気がなくなることが健康だ」、こういうことになっているが本当に病気をしない人間などいたら薄気味わるいのだ。そもそも風邪だって黴菌が入ったからそれをやっつけるために熱が出るのだから。でもその一方で、「解熱剤」という薬があることを考えると、薬は黴菌に加勢していることになる。そうすると「薬」というのは「毒」ではないか。

こういう風に考えていくと、病気を治そうとしていろいろと手を加えていることの意義自体が疑わしくなってくると思うのだが。ここまで理詰めて考えても「そうは思わない」という人はごくごく「常識的」なのだ。そういう人はそのまま常識というお守り札を持って生きていけばいい。

ところがそういうお守り自体、もともとは人間が作ったものであって、それを握って安心を得ようというのは本来可笑しなことである。

%e5%a4%a9%e5%8b%95%e8%aa%ac「常識」というものは一日でひっくり返ることがある。これに対して真理は不変なものだ。真理と供にあることを選ぶ人は、何もしないで身体の感覚に委ねて生きはじめる。そうやって世の中を見渡してみると、いろいろなところに遍満する「常識の矛盾」に気がつくはずなのだが。

常識は人間が考え造りだしたもの。真理はその人間を生み出したもの。どちらでも選べる自由性を誰にも等しく与えられているのだ。どう生きればいいかなど最初から分かっている、自分の身体感覚に訊ねればそれでいい。

「感情がわからない」-失感情症(アレキシサイミア)のはじまり

失感情症という病気(心身症の一種)について少し書いてみようと思います。その前に、そもそも「失感情」という言葉自体やや専門的で耳慣れない方も多いのではないかと思います。

簡単に説明すると、その名のごとく個人の意識において感情を失っている状態を指します。「失っている」というと誤認があるかもしれませんが、本来は「感情が身体の中ではたらいていない人」はいないのです。但し当人がどれだけ自身の感情を明瞭に味わえているかは相当に個人差があります。

言語表現としては「嬉しい、楽しい、悲しい(哀しい)、苦しい…etc」などといった「感じ」ですが、特に着目すべきは後に書いたようなマイナスの感情です。こういった不快感(不快情動)が起きた時に、軽度のもの(それも一過性)ならばそのまま「不快」として認知されますが、中程度から重度のものがくり返し沸き起こってきた時に、人によってはそのストレスに対して「感じない」という対応をとる動きが出てきます。

今まで「苦しい、いやだ」と言っていた感情が遮断されて感じなくなるわけですから、当人としては「気にしないようにしている」から、やがて「気にならなくなった」、ひいては「精神的にタフになった」などと思っていることもしばしばです。

こういう方を実際に整体の臨床で見てみると、まずからだ全体に張りがなくぶねっとしています。そして全身的に冷たい感じがして、眼には光がありません。それでは言動まで冒され鈍っているのかと言うと、こちらはなかなか「しっかり」していて外見的には充分な社会生活が送れているケースが殆どです。ですがこれは「心身症」のごく初期の状態と言ってよいでしょう。

整体ではもとより、「本人が身心の異常を感じれば、その時から治りはじめる」と言うほどに、身心の異常感(=身体感覚の鋭敏さ)を尊んでいます。これが鈍ってくるということは、そこから病気の要求(必要性)が起こってきます。つまり病気(の苦痛)によって身体感覚を喚び覚まそうとする動きが出てくる訳です。

ところが西洋医療では多くの場合「治療」と称してその病気の中断ばかりを励行していきますので、身体はますます硬直して自身の感情と理性は切り離されていきます。こうした経緯で「失感情」がはじまり、そして深まっていくのです。

とりわけ、「こんなことでヘコタレてはいけない」、「自分は強い(はずだ)」、「みんな大変なのだから、私だけツラいなどと言えない」という様な態度でまじめにがんばって生活をしている方ほど陥りやすい症状です。しかも当人にとってはそれが自身のメンタリティと一体化してしまい、「当たり前」過ぎて、そのがんばりにも気がつかないこともままあります。

それでいて、生理痛や吐き気、めまい、偏頭痛、湿疹、腰痛などの慢性的な体調不良に悩まされています。「体の不調」は認知していても、心の苦痛に対して感性が働いていない(わからない)、そういう身心の分離が失感情症の現れとして見ることができます。多くの方が「身体の病気」だけに着目して、治療の効果もむなしくなかなか成果が上がらない時に、この「感情に対する気づき」という切り口からその人を観ていくことで、変化が見られることはよくあります。

では実際に「どうやって感情、感受性を取り戻していくか」、ということになるとその方法は多岐にわたります。考えようによっては「いかようにでも、何とでもなる」とも言えますし、相談者によってはこの「感情の回復」こそが生涯をかけての一大テーマともなりえます。ちょっと長くなりましたので、失感情に対応する具体的なセラピーや手法などについてはまた改めて書いてみたいと思います。

やさしい気持ちで

今日は坐禅と活元運動の日でした。参加者がお一人だったので、マンツーマン指導です。

坐禅会は全国いたるところにありますが、せい氣院は整体院ですから坐相(坐る時の姿勢)をその方に合わせて無理なく作れるように心掛けています。坐禅は苦行ではありませんから、リラックスがとても大切なのです。

なぜかはわかりませんが、坐禅につづいて活元運動を行うとやさしい気持ちになります 。坐る前と坐った後、外の世界は何も変わらないのですから不思議なものです。

禅修行はお一人でも基本的に問題ありませんが、やっぱり2、3名はいらした方が「場」が作りやすいかも、ですね。そういえば今月はブログ告知を忘れていました。Σ(・_・)あかん!

%e8%a6%aa%e5%ad%90%e3%83%8d%e3%82%b3今月は月末にもう一度活元会があります。9月24日(土)10時-13時 次回は活元運動・愉気(手当て)の教室です。先月同様に「つながり」と「関係性」をテーマにした手当ての実習を考えています。

ご参加希望の方は前々日までにメールをお送りください。それでは。

自己の現在地

一昨日の夜は禅会に行ってきた。整体指導を行う立場から言うと、禅という行法の特殊性から学んだことは多い。例えば一般的な習いごとやお稽古ごとなら1年も通えば自ずとやることも変わって来るし、それに付随して目に見えるいろいろな外的変化がある筈だ。ところがご承知の通り坐禅にはそういった変化はない。

しかしながら、変わり映えはないのだけれども、それだけに根気よくというか淡々と続ける方は一定数いる。長い方はそれこそ何十年単位で行なっているものだ。

その中でやはり特殊だと思うのは、生まれたときから禅門の中で生活してきたような本職の和尚さんも、今日生まれて初めてお寺に来たという人も、布団の上に坐ったらまったく同じことを同じ様に行なうということだ。世間一般から見たら稀有なものではないだろうか。

さらに「行」といっても坐り始まったら本当に外的な動作は何もない。現代では「歩きスマホ」などの問題が象徴的だが、今は「何もしていない」時間など、またそのような人を見つけることもむずかしい。ほとんどの方が身体的動作から頭の中の働きまで、引っ切り無なしに動いている。そういう意味でも、何かすることを学ぶ人は多いが、何もしないことを進んでやろうとする人はずっと少ないだろう。

そういう目まぐるしい変化の中で生活する人々が一たび坐禅堂に行くと、毎回まったく同じパターンで動作して、同質の空間で静止した身心と世界を味わう。一体これの何が良いのかと考えてみると、個人的には「今、自分がどうなっているのか」という自己の在り様が正確に点検できるところだ。

仮に「人の一生」というものをずっと煎じ詰めて考えていくと、「今、私が、どうか」ということに集約される。もっと端的に言えば、人間というのは生涯「今の身体と気分の良し悪し」だけなのだ。

だからその身体を「ある一定の形」に当て込んでみることで、今の自分の様子がよく判る。例えるなら、動いている電車からホームを観ても次々と景色が変化して捉えにくいのに対して、止まった電車からだとその在り様が観えやすいのと同じことだ(動いて観えているものも、間違いなく今の様子なのだが)。

いつも言うように、身体は世界を映す鏡である。身体がきちっと整っていれば、時々刻々と姿を変えるこの世界を、そのまま、その通りに映す。これこそが人類にとって究極的救いなのだ。そういう意味で禅修行と整体指導はその眼目を同じくする。

ウルル注意しなければならないのは、何事も導き手が最終的な着地点がわからなければ、人を惑わすということだ。何を失っても自己の現在地だけは見失わないことが肝要である。

訓練してそうなるのではなく、誰もがきちっとした〔今〕に生かされているのだが、この見極めがつかない間はしょっちゅう迷う。一体、人は眼(まなこ)を開けていながら、「何」を観ているのだろうか。自分の現在地はこんなにはっきりしているではないか。有り難いことだ。

『引き裂かれた心と体』 A・ローエン

健康な人の自我は、身体と同一視されており、病的な人の自我は、体との確固たる同一視を持っていない。アレキサンダー・ローウェン著 『引き裂かれた心と体』 創元社

IMG_3030上記は少し堅めの学術的な文章の引用だが、いわゆる「うつ」や「がん」のような現代的な病の原因を、肉体から引き離された自我(理性)にあることを看破している。

ここでの「肉体」とは「感情を有する生きた身体」のことで、この肉体から意識が離れることは生活から感情体験が薄れていくことを意味しているのだ。

生命活動の根源はやはり感情エネルギーであるといって相違ないもので、感情が希薄になることは生活からだんだんと温度や勢いがなくなっていき身体も固く冷たくなっていきやすい(凝りや冷えの慢性化)。

整体指導の場ではもっぱら身心の深いリラックスを促して、「感情の気づき」を介助することが主眼である。著作の中ではヨガから着想を得たバイオエナジェティックス・セラピー(生体エネルギー療法)という一種の体操(?)が紹介されている。一方野口整体では、この感情の解放を助ける方法に相当するのが活元運動(自働運動・霊動法)にあたるだろう。

ごく個人的感想として、過去4,5年の読書遍歴の中ではこのA・ローウェンの著作は秀逸である。これほど身体疾患と感情抑圧とのつながりを臨床例と供に学術的に述べた本を知らない(知らないだけで他にもきっとあると思いますが)。

洋の東西などという区分はあくまで思想的概念でしかなく、「人間」というのはある面では万国共通なものである。したがってその人間を探求していくとやはり答えも一つに集約されるのだろう。

こうして見ると病むことも治ることも、本来は難しいことは一つもない。頭を休めて、身体の自然の動きの任せる、というそれだけでいいのだから。

ただ「工夫」に慣れ親しみ過ぎた人は、この何もしないで任せる、ということがやっぱり難しいようだ。本来の自然界からみたら本当に可笑しなことなのだけど、何もしないでいるということが何か手持ち無沙汰で不安に感じるらしい。

今までのものを全部手放せば一挙に救われるのだが、それが中々できないのもまた人情である。やっぱり「これまで作り上げてきた自分」を惜しむ気持ちがあるのかもしれない。まずは思い(を断ち)切って活元運動をやってみていただきたい。身を捨てたとき、一体どのように「浮かぶ」のか。ぜひ自己の身心をもって実証していただきたいところだ。

坐禅と活元運動の会

zen2今日は午前中は個人指導、午後は坐禅と活元運動の会をやりました。

坐禅が静止して行う「静」の禅なら、活元運動は動きながら行う「動」の禅です。両方が相乗的に身体をゆるませて身心の静寂を確立することを期待しています。

心を静めるだけなら坐禅で充分、と言えなくもありませんが・・・、「禅病」という言葉もあるくらいですから身体が固い人が無理やり坐りつづけると時として健康を害することがあるのですね。

禅病には身心両面、いろいろな症状が挙げられます。

一般には頭痛や吐き気などが多いらしく、精神的にはいわゆるノイローゼに似たような状況になる方もいるそうです。実際そのような方にお会いしたことはないのですが。

考えられるのは背骨の上部(肩甲骨より上)から首にかけてゆるみがしっかり進んでいないと、やればやるほど身体が硬直して悪想念に見舞われる可能性があります(「うつ」的になる)。

一般の坐禅会などに行くと、身体が偏ったまま、首を固くしたままやられている方が多いのですが、これで結跏趺坐など組んだら身体はますますリラックスとは逆の方向に行ってしまうでしょう。だから身体を個別に丁寧に見て、余分な力を抜いてもらうようにしていけば良いと思ったのです。

それだったら「活元運動で充分身体をゆるめてから坐禅をやったらどうか」、と何度か自分で実験的に試みたのですが、活元の後は弛緩し過ぎてこれから「坐ろう」などという気がなくなってしまう・・。だから「坐禅→活元」という流れにしたのですが(まだまだ改善の余地はあります)。

話は「姿勢」に戻ります。とにかく首の「ゆるみ」を大事に考えています。アレクサンダー・テクニークなどにもあるように首をやわらかくして、両耳が両肩から上に上に向かって離れていくように使っていきます。

ポイントは力まないこと。禅を組むならば、何より先ず身体から一切の筋緊張を排除すべきです。

だから伸ばすのではなく伸びてく、伸ばされているように使う。ここが大切。

あとは参加者ごとに個別に対応しなければなりませんが、ここら辺が整体院ならではのメリットになればと考えております。

しばらく継続してご参加いただいた方のフィードバックや身体の変化を見ていきたいと思います。骨格のホームポジション(基底位置)が正しく確立されれば、整体指導を受けた時の「着地点」が良いところに定まっていくはず。

力まない、けど「芯」がある。しなやかな心と体を養える整体院を目指します。今月はもう一回、8/27(土) に活元・愉気の教室を行います。

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8月 活元運動の会

8月の活元会についてご案内いたします。

■日程
8/14(日)  14:00-17:00(坐禅・活元)
8/27(土)  10:00-13:00(活元・愉気)

■場所
横浜反町 せい氣院

■料金
各回3,000円
※当月・前月に当院の個人指導を受けられた方は2,000円

■服装
白系の柔らかい服装をご用意ください(インナー着用可)。

■内容
8/14は活元運動の前に静坐して禅を組みます。意識の鎮静を味わうために、ゆっくり息を吐いて、全身のゆるみと腰の自然な伸びを創ります。

8/27は活元運動の後に愉気(手当て)の実習を行います。統一した身心と柔らかい手で触れる感覚を訓練いたします。

初めてご参加を希望される方は、一週間前までに「予約・お問い合わせページ」のメールフォームよりお申し込みください。その他の方は前々日までにご参加の旨をご連絡ください。

以上、宜しくお願い申し上げます。

野口整体 せい氣院
朝比奈洋介

腹痛と発汗の関係

今朝は腹痛に見舞われた。お腹が痛いなんてめったにない話なのでいろいろ勉強になった。

原因は明らかで、寝床で汗を冷やしたのだった。「汗の内攻」の典型である。汗が風に当ると汗腺から引っ込んでしまう。そうすると内攻する。汗の内攻には、下痢などもよくあるけれど、腰が痛くなったりお腹が痛くなったりする。

いわゆる定番の操法は足の甲にある中指と薬指につながる骨を左右に広げるように押さえる。あとは半身浴などをして背骨から汗をシトシトかけば、1~2時間程度で経過する。冷えて汗が引っ込んでお腹が痛くなったのだから、温めて汗を出せば経過してしまうのだ。簡単な話なのだが、こういうものも内科などに行ってしまうと原因がわかりにくいのではないか。

先日暑ければエアコンをつけましょうといった矢先なのだが、今日はエアコンには注意が要るという話である。この「一貫性」を理解していただけると嬉しい。

7月 活元会

7月の活元指導の会についてご案内いたします。

・日時 7月30日(土)10時30分~13時00分(10時より受付)
・場所 せい氣院内
・費用 2,500円(当院初めての方5,000円)
・内容 坐学・活元運動
・終了後は茶話会を用意しております。(自由参加・14時頃まで)

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■内容

活元運動は人間の生理機能を無意識的に整えている錐体外路性運動系の訓練を行います。身体のすみずみまで脱力して、意識が深く休まることで身体は自然と整います。また、よく整った身体は良質な精神活動を生みだしますので、活元運動を続けていくことで身心ともに健やかな状態を自分で保てるようになります。

■お申し込み

初めて参加を希望される方は1週間前までに、HPの「予約・お問い合わせ」画面より必要項目をご記入のうえお申し込みください。その他の方は、前々日までにメールにて参加の希望をお知らせください。

野口整体 せい氣院
045-321-2521
info@seikiin.com

気合と勢い

・気合といふこと、操法の大事也。彼の実を虚ならしめ、我の実を彼に移す。彼の実、病気の塊り也、我の実、健康なる正気也。彼吐く時我吸い、彼の吐き切る時我が指に力を入れる、この呼吸適へば、忽ち彼満つ。
これを気合といふ也。(野口晴哉著『治療の書』全生社 p.118)

・私は先生の気合を思い出した。先生の気合は比類のないもので、琴を立てかけ、何本目といって買い合いをかけると、その糸だけがピーンと鳴った。山道で気合をかけると、他の人の声はみんな谷に落ちるのに、先生の気合だけは、遠い山脈に、唸るように、波打つように消えて行った。
そんな気合を、先生はここ(御岳)で会得したのだろうか。(野口昭子著『回想の野口晴哉』ちくま文庫 p.28)

今日は夕飯をすませたあと、子どもと家で気合をやって遊んだ。

整体法には呼吸法が伝わっている。邪気の吐出法、漏気法、深息法、気合法の4つだ。

もしかしたらもう少し、奥義のような秘密裏の呼吸もあるかもしれないけれども、そこまで奥のことは私は知らない。

 

気合法というのは、イエーイという音声を出して、下腹部に強い膨満感を生む呼吸法である。琴やキターのような弦楽器に向かって気合をやると反響するから面白い。

家には琴はないのでグレゴリオチャイムで遊んだ。エーイ!と気合をかけるとイーーン・・と鳴る。

1歳半の子供がキャー!と発声しても鳴るので、波長さえ合えば共鳴することが判った。神秘性はなくした。極めて物理的ではないか。

久しぶりにやってみると、発声とともに仙腸関節がぐーっ引き締まるのが如実にわかった。さらに両足の拇指球がぐさっと突き刺さるような立ち方になる。

 

腰がびーん!っと締まるような感じで、簡単に言うと「やってやろうじゃないか」の心境になる。

整体操法の究極は人間に潜在する力を奮起することなのだ。

こちらの勢いが相手に共振するようにする。

 

相手の勢いを喚び覚ますのはこちらの勢いなのである。

指導する者はそういう「圧縮した力」を瞬時に爆発させる技術が必要だ。

 

さて気合を繰り返しやっていたら、梅雨の鬱滞感もサッパリと消えていた。理屈をこねてもどうにもならない時は、自分で自分に気合をかけてしまえばいい。

本当のことを言えば気合に音声はいらない。いちいち大きな音を立てるのは虚の活かし方を会得するための実を使った稽古である。

 

単なる大声でガアガアいったって、それは形骸化した迷惑行為にしかならない。

実際に気合いと練るには「真剣に生きる」ということに尽きる。

 

裡なる要求を知り、その実現に向けて全生命を傾ける。

詰まるところ気合の要訣はこれだろう。

今を無駄にしてはいけない。

今を生きよう

今という「機」に間に合うからこその機合いなのだ。