2月 活元会の日程 (2017)

2月の整体教室をご案内いたします。内容は引きつづき「整体という生き方」を学ぶための坐学と、活元運動の実修を行います。

■日程・場所

2/2 (木) 坐学・活元 大口

2/11(土) 坐学・活元 白楽

2/16(木) 坐学・活元 反町 せい氣院

2/25(土) 坐学・活元 白楽

■時間

9時45分~12時15分

■参加費

2,000円

梅1■初めての方へ

詳しい場所についてはお申し込みの際にお教えいたします(横浜市神奈川区内の公共施設)。ご参加を希望される方は前々日までにメールフォームにてお申し込みください。内容について詳しくお知りになりたい場合もメールにてお問い合わせください。

※3月以降も原則的に、第1・3木曜日、第2・4土曜日の月4回を予定しております。但しブログ・HPに掲載するまでは変更の可能性がございますので、必ず事前にお申し込みの上ご確認いただきますようお願い申し上げます。

1月 活元運動・坐禅教室

1月の教室を下記の日程で開催いたします。内容は坐禅と活元運動の実践と、「整体という生き方」を学ぶための坐学を行ないます。

 

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■日程・場所

○1/5  (木) 坐学・活元 大口

○1/10(火) 坐禅・活元 せい氣院

○1/14(土) 坐学・活元 白楽

○1/19(木) 坐学・活元 大口

○1/24(火) 坐禅・活元 せい氣院

○1/28(土) 坐学・活元 白楽

 

■時間img_3179

9時45分~12時15

■参加費

2,000円

■初めての方へ

詳しい場所についてはお申し込みの際にお教えいたします(すべて神奈川区内)。ご参加を希望される方は前々日までにメールフォームにてお申し込みください。内容について詳しくお知りになりたい場合もメールでお問い合わせください。

12月 活元会

12月の活元会を下記の日程・内容で行います。

■日程・場所

○12/10(土) 坐学・活元運動 9:30-12:30 反町(せい氣院内)

○12/20(火) 坐禅・活元運動 9:30-12:30 反町(せい氣院内)

○12/24(土) 坐学・活元運動 9:30-12:30 白楽(公共の和室)

■参加費

2,000円

■服装

シャツは白系を基本といたします。ズボンは色柄可。できるだけ柔らかくてゆるいものが坐禅・活元運動に適しています。

■内容

<坐禅>

禅の組み方(形)をご指導いたします。また姿勢や形式以上に、「坐っている時間に何をするか」が大切です(坐禅は瞑想とは異なります)。

出来るだけ実践の時間を多く取るよう予定しておりますが、時間が余りましたら岩波文庫『無門関』を読み解きます。

<活元運動>

例月通り活元運動の前に野口整体の資料を使って音読による坐学を行います。知的理解と実践による体認の両方を重んじます。

参加を希望される方は各開催日の前々日までにメールにてお申し込みください。

白楽活元会

先週の土曜日は久しぶりに家の外に出て活元会を行った。白楽駅から程近い16畳の和室は明かりの調整が自在で利用しやすかった。

今回は初めての方にご参加いただいたのだが、いつも新しい方がお見えになると活元運動の効能をつぶさに感じることができる。続けていると一種独特の身体になってくるのだ。自然は自然なのだが、そこにもう一つ「秩序」を感じられるようになってくると、少し成果が上がったと見ていいだろう。

それともう一つ、整体では「弾力」という概念を重視するが、これを養うにもやはり活元運動は近道である。最終的にはやわらかい身体が一番長持ちする。

しかし意識的に「ゆるめましょう」といってもこれがなかなか難しい。やはり意識を静めて、無心の働きに任せるという方法が心にも体にも易しい。

月に一回程度、それで1年も続けるとだいぶ変わってくる。何と言うか、自分で自分を扱いやすくなる感覚だ。もっと平たく言えば楽になってくる。苦しいのはみな間違いである。

■日程
12月は24日(土)は同じく白楽で行ないます。10日(土)は場所が確定しておりません。近日中に再アップいたします。参加をご希望の方はこちらからメールをお送りください

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掛け軸は「閑坐聴松風」

11月 禅会・活元指導の会

昨日は坐禅会だった。10時から13時、つまり3時間で4炷(1炷は線香一本40分)坐る予定で始めた所、ご参加のみなさんが2炷目でだいぶお疲れの様子だったので途中から立禅、活元運動へと差し替えることにした。

こういうものは必要以上に身心を苦しめることはないので、無理は禁物だ。大切なことは「意識の鎮静化」と、これに伴い「本来の自己を見極める」ということであって、俗にいう忍耐力などとは無縁の世界である。

苦しいことに耐えていれば報われるという話ではない。苦しいのは苦しいだけ。それ以上でもそれ以下でもない。この辺りがはっきりしてくると後の話がはやいのだが。

それでも気になる人はとことん苦行的にやってみるのもいいかもしれない。それだってどこまで行っても結果は同じで、苦しいものは苦しいだけなのだ。

とにかく一度鎮まってみなければ判らないものがある。そのためにただひたすら坐っているだけだ。単純な話である。暫くはこのような形で月に2回ほど続けるつもりだ。

と思った矢先、お問い合わせがあってHPの日程更新とブログでの公募を忘れていた事に気がついた。

11月の今後の予定は下記のとおりです。

○11/26(土) 元 9:30-12:30 神奈川区内公共施設

○11/29(火) 坐禅  10:00-13:00 せい氣院内

内容はいたって真面目なので、特に坐禅の方はお試し・体験目的でご参加されるとなかなか御辛いと思います。本当に坐りたい方のみご参加ください。

事前のご質問はメールにてお願いいたします。

柔軟心

道元禅師が真の仏法を求めて宋に渡った後、日本へ何を持ち帰りましたか?と問われた時に一言、「柔軟心(にゅうなんしん)」と応えられたそうである。禅師の示された柔軟心が「何」を指すかは言明できないが、一応のそれらしいイメージは沸くものだ。

性質は違えど整体でもやはりこの「柔軟心」を大切にしたい。

言い替えると「こだわりがない」ということでもあるし、「執らわれない」と言ってもいいだろう。できればもう一つ、その「こだわらない」とか「執らわれない」という動きすらないことが最良だ。「何もない」ということが根元的自由の源泉なのである。

その「何もない」を、時には「無」とか「空」とか表現されるが、これも「強いていえば・・」という話でとにかく何かしら表現されたらその途端に無も空も失われる。

とにかく目の前の現実に手を着けない、今の自分自身にも手を着けない。そうしてずっとやって行くと、そういう自他の見解から一辺「放れる」時節が必ず来る。そこからが人生の、本当のスタート地点だ。

そこで満足することなく、更にずんずんやっていって、「何もしない」ということを鍛えて行った先に、本来の自由性をそのまま戴ける人になっていけばいい。

 

人間は年をとれば誰でも固くなるもので、身心の柔らかさを保つには訓練が要るのだ。

そのために自律神経系、そして錐体外路系を的確に刺激する禅と活元運動は近道だ。体育のためにいろいろなスポーツをやることも結構なのだが、そういうことが余分な怪我を誘発したり、また心や体を余計にこわばらせることもあるから、どれも丁寧に観ていく必要がある。

柔らかさを保つためには勝ち負けや体の格好(ポーズ)の追求ではなく、先ず「柔らかさを保つ」ということを第一義的に考え行動していかなければならない。

そういうものが極めて少ないからこそ、改めて人間の生理機能に順じた体育の必要性を考えさせられる。何か特定の信仰や宗教観に浸らなければいけないということでもない。もっと自然で自由なものに気づけばそれでいい。

そのために難しい方法がいるわけでもない。頭を深く休めて、身体の自然の動きに任せるというそれだけだ。活元運動という名前を呈すこと自体もどかしいのだが、月を示すために指がいるように、形のないものを体認するためにまず言葉が要る。

あとは、本当にやってください、というそれだけだ。やってみて「間違いない」ということがわかった人はそれでもう柔らかい。自身の可能性を開くためにはこの柔軟さが不可欠だ。そのように感じる人だけでいいので、あとはただ、本当にやってくださいと言うしかない。そのように思う人たち同士で勧めていけばそれでいいという話でもある。

気、不増不減

今日は仕事をしながら何処からともなく気の充実感を覚えた。いつもそうかというと、そうでない日もあるのだから不思議なものである。

相手のコンディションが良し悪しとは無関係に、感応道交がぴたっと行われれば気は共振して増幅する(そもそも善・悪は人間の価値基準である)。

代替療法の世界には俗に「悪い気をもらう」という概念があるが、これは観る側の腰が抜けていると冒されやすい。何ごとも力のある方が場を制し、イニシアチブをとるものだ。

整体操法の基柱は「不変を以て万変に応ず」で、こちらはいつだってただ真っ直ぐ立っていればいい。蓬だって麻に触れれば真っ直ぐになるというのだから、況や人間などその影響の程は想像に難くない。

大切なことは自分に正直に生きることなのだが、これが易しいようで案外難しい。故に修行のしどころでもあり、人間に生まれた醍醐味とも言える。

自然生命の要求実現を奨励するのもこのためだ。生あるものは須らく、余すことなく生きるべきなのだ。力の出し惜しみはもったいない。苦しむのは生の価値を知らないからだ。生ある者はみな今日の命を無駄にしてはいけない。

養生を求めて駆け回る暇があったら、脚下に現前する「自然生命の原理」に着眼を正すべきなのだ。

整体は自分がやるもの

「(整体になるには)どうすればいいのか」と問われれば、

それは深い呼吸(深呼吸ではなく)、重心の沈下、全身のゆるみ、言葉にすればだいたいこういった類になる。ところがそのどれもが整うための条件ではなくて整った結果訪れる精神身体現象である。

こちらは最初から余すところなく伝えているつもりでも、お互いの機が熟さなければ伝わらない。受け取り方がわるいのだと居直るのはもちろんよくない話で、「その時」を見極めて的確な刺戟で説くべきである。啐啄の機は何においても指導の急所である。

その一方で「整体」には完成もない。成ったと思っても次の瞬間はもうわからない。心の僅かな凝滞によってまた乱れる。ちょうど自転車が倒れないように絶えずハンドルを修正しつづけるようなものだ。言ってみればその無意識の平衡要求が一定に働いている状態を「整っている」と、こう呼んでいいのかもしれない。

面白いもので整えようとしている間は整わない。その「整えよう」をやめると秩序は現れる。出来ることなら人間が頭に描く「健康」など忘れて、今日一日精一杯生きることを勧めたい。「一日」の中にはそんな忘我の時節が何度も或るのだが、その時は気が付かないのだからそれを「妙」というべきか、面白いものだ。

とにかく一度でいいから徹底的に自我が落ち切る体験をするしかない訳で、「ああなるほど、これのことか」という、そういうもの。それは自分がやることで、人にどうこう言われるようなものではないのだ。

もとより整体をやるなら他人に一切要はない。自分自身が自分自身のためにやるだけだ。力があるなら「それ」を取れるはず。窮していればなお良し。悩みと成長は一つの現象の両側面である。それだけに「気づき」も早いはずだ。

但しインスタントを求める人にはインスタントが手に入る。何を求めるかはその人、生来の質によるところが大きいのも事実である。

命は雄大だ。その雄大さを人間の卑小な知識で狭めてはいけない。知識も智慧も、その他の一切合財も捨てた時に、必ず「残るもの」がある。それを見極めたら一先ずの「安心」は得られるだろう。更にそこから十年一日の心で鍛えていくことが肝要である。それを信じられる者だけ黙って門を叩けばいい。

しかし実際は千里の道など在りはしない。何時だって目前の一歩が全てなのだ。

西洋と東洋の間

先日来の医学批判のような話をいつまでもうろうろしたくないのだが、整体を実践するとどうしても周囲との医療的価値観のギャップに悩むことになる。

それもまあよく考えてみれば現代医療があるからこそ整体の死生観も存在意義があると言えるのだから、お互いに因果な間柄とも言えるだろう。

時代性・地域性ともに広い視野に立って世界を見渡せば、原始的な生活をしている部族や社会集団はいくらでもある。そういう地域では「文明生活を見直そう」という整体の存在意義もうすれるのではないか。

日本においては西洋化という潮流の終盤(完成の一つ手前)あたりで整体は産声を上げた。いわば西洋という概念あっての東洋である。何ごともアンチがあってはじめてその価値は高まるのだから、お互い相手を大事にしながら切磋琢磨すべきなのかもしれない。

そうは言っても、知に働けば角が立ち、意地を通せば窮屈なものだ。注射一本、薬一錠飲む飲まないで、いちいち摩擦が生まれるというのも人間の世の中の可笑しさを物語る。

「痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る」という弘法の言葉もあるように、酔っているものでも自分だけは目醒めていると思うものである。自分自身の目が本当に開いているかどうかは各自が本当に自己の責任で点検しておきたい。

最終的に「自分自身が今どうなっているのか」という、人間は生涯その問題だけなのだ。そう考えれば身体を整えるというその行為こそが、真理へ至るための貴重な導き手あることがわかるだろう。本来指導者は自分の中にのみ在るのだ。

それも普段は無意識層に住んでいて現れない。意識の休息状態(ポカンとすること)の必要性を説くのはそのためである。決断できず動けない時、いつまでも意欲の出ない時には、いっそのこと、そういう自分に一度引っ込んでもらうといい。

上手くすれば自身の内と外、全ての歯車が秩序をとりもどして動き出す。世界は最初から一つなのだ。分断するのは理性であり、それがやめばいつでも同じ「一」が顕現する。道は常に近くにあるのだ。平常心是道とは正に「これ」である。

愉気について

この数日、愉気についてまた改めて考えていた。実際は「考えさせられた」という体なのだが。最終的に「ピタッとする」という、これに尽きる。これ以外の何ものでもない。それは「静止」ということでもあり、それと同時に「適合」ということも意味する。

ここで「同調する」などというと、なにやら解ったような気にさせられるから自分としては肯えない。そういうテクニカルな気配が残っていてはだめだ。

「無心にやる」などとい言うのもあやしい。無心などあったとすれば、それはもう「無心」ではないではないか。もっと自身の内奥の命がそのまま出てくる感覚だ。

一方で「やさしい、やわらかい」気であるということは必要条件である。最終的に人格から滲み出る深い愛情のちからが育ってこないことには話にならないだろう。

毎日仕事で行っているのだから中にはうまくいくこともあろうが、「うまくいった」と思ったらそれもまた邪魔だ。兎に角、淡々と静を養うことだけがそれを可能とする。

愉気は整体の基本であり根元でもある。どんな人にも、はじめたその日からできるし、一方でいわゆる「熟練者」でも力を失うことがある。経験の積み重ねによって気が研ぎ澄まされたり、逆に経験故にナマクラにもなるのだから妙なものだ。

一切の努力も汗も放擲して「そのまま」やるというところに、東洋人が好む「無」の本質があるようだ。この価値観に触れられるまで自分は十年を要した。

ただし掴みどころのないものに掴むところができた時は注意が要るのだ。直ちに手放して、からっぽにしておきたい。余計なものをみんな打ち捨てた時に、また最初のまっさらのスタート地点に立ち戻る。「普通」とか「今」とか言われるものがそれだが、もう一つ無理やり表現しようとすれば「黙」の一字になるだろうか。

結局のところ万言はたった一つの黙を表すためにあるのかもしれない。そして「何もない」ということを表現するにはやはりこれしかないのか。無と有は同じ事象の別称なのである。そのどちらのスパッとない、そういう有りもしないものが厳然として在ることが判ると、自身に最初から与えられている本来の自由性に気づく。全くよくできているものだと思う。