野口整体を知ってからようやく10年経つ。それでいていまだに「体癖」はわからないことが多い。ただわからないなりに体験を積んで少しずつ「わかる」ことも増えてきたのだが、最後の最後まで見分けがつかなかったのが「開閉型九・十種」である。
個人的には「捻じれ型」が最初からわかりやすい方だった。情動を起こすと全体の格好も、椎骨もみんな捻じれてくるのだ(詳しいことはまた「捻れ型」として別に書こうと思う)。これに次いで、上下型・前後型・左右型もそこまで難しいという印象はない。だけれども「閉型(九種)開型(十種)」は、特に後者が未だに見分けにくい。
それでも分かる範囲で例を挙げると、例えば会社務めの人が「仕事(指示されたこと)に納得がいかない」といってじっと固まっている時には、まず「この人は九種ではないか」と疑ってみる。とにかく九種は「不合理」だったり「自分の価値観」から外れたことを、言われた通りにやることが耐えられない。「何故この人(たち)はこんな(愚かな)事をしているんだろう?」思ったり、嘘とか欺瞞を見つけると途端にやる気が失せる。
かといってパッパと仕事を辞めたり変えたりもできないと(だいたい辞めるが)、そういう不満が内攻してまず身体の全体に力が入って動かなくなっていくる。そうしてから「自分はなんでこんな風にやる気が出ないんだろう」と考えたり、「周囲に適応できない自分を駄目だ」と思って引きこもったりすることもある。
こんな事例を考えていくと、やっぱりお互いに体癖感受性を理解し合うことの意義は大きい。もともと九種の感受性はトラとかクマみたいに自分で考えて独りで行動する様になっているので、集団の中にいると本来の力を発揮できない。そうした集団生活の中で内向したエネルギーは、爆発のタイミングを謀ってじーっと待っているのだ。
九種が生活環境を容易に変えられないとすると、停滞した圧縮エネルギーはどうなるのだろうか。このような事情から鬱散の方法はどの体癖でも身体を余分にこわさないために重要なのだ。力が抜けない時は身体全体が凝固しているから、まず「ゆるむ」きっかけを与えることが必要だ。そして、ゆるみはじまると要求がはっきりしてくるから、その人の気が集まることをその人のタイミングで充分やらせるという方法を取ればいい。いわゆる「ガス抜き」みたいなことになるが、エネルギーの流れる「水路」を上手く作ってやるのが九種的圧縮エネルギーの自他破壊欲求を未然に消化するやり方である。
少し抽象的な話になったが、九種が集団の中に埋もれて力を出せないでいるのを見るとつい気の毒になる。個人的には「みにくいアヒルの子」の話を聞くといつも「体癖」を思い浮かべるのだが、あれは白鳥がアヒルより素晴らしいという話ではなく、「自分を知らず、他人もわからず」では社会全体に余分な摩擦や軋轢が増えるという話だと思う。
アヒルはアヒルとしての活動様式があり、白鳥は白鳥として生きると楽であり快感があるのだ。実際のところ「苦手」と「得意」は一つの特性の表と裏なので、苦労したことで自分なりの「個性」が見つかることもあるから、「適応障害」の多くは自己実現の前兆と考えていいのではないか。
話を九種に戻すと、最近新たに解ったことがある。「知音」という言葉があるが、九種は本当の理解者に出会うとようやく、少しずつ、心を開く。だから彼らを指導するときにはウソ偽りのない、深い共感的理解が必須なのだ。かといって変に「合わせられる」のも大嫌いである。
そういう気配があるというだけでさっと殻を閉じるから厄介なのだ。ずっと考えていくと、そもそもが人に相談するようなタマではない。だから九種を指導するには野性的勢いを引き出しつつ、放し飼いで育てるという高等技術が要る。早い話がただ信じて「待つ」という、それ以外にない。悲しいかな、全部自分の体験知なのだが。