九種体癖の働き方・生き方

野口整体を知ってからようやく10年経つ。それでいていまだに「体癖」はわからないことが多い。ただわからないなりに体験を積んで少しずつ「わかる」ことも増えてきたのだが、最後の最後まで見分けがつかなかったのが「開閉型九・十種」である。

個人的には「捻じれ型」が最初からわかりやすい方だった。情動を起こすと全体の格好も、椎骨もみんな捻じれてくるのだ(詳しいことはまた「捻れ型」として別に書こうと思う)。これに次いで、上下型・前後型・左右型もそこまで難しいという印象はない。だけれども「閉型(九種)開型(十種)」は、特に後者が未だに見分けにくい。

それでも分かる範囲で例を挙げると、例えば会社務めの人が「仕事(指示されたこと)に納得がいかない」といってじっと固まっている時には、まず「この人は九種ではないか」と疑ってみる。とにかく九種は「不合理」だったり「自分の価値観」から外れたことを、言われた通りにやることが耐えられない。「何故この人(たち)はこんな(愚かな)事をしているんだろう?」思ったり、嘘とか欺瞞を見つけると途端にやる気が失せる。

かといってパッパと仕事を辞めたり変えたりもできないと(だいたい辞めるが)、そういう不満が内攻してまず身体の全体に力が入って動かなくなっていくる。そうしてから「自分はなんでこんな風にやる気が出ないんだろう」と考えたり、「周囲に適応できない自分を駄目だ」と思って引きこもったりすることもある。

こんな事例を考えていくと、やっぱりお互いに体癖感受性を理解し合うことの意義は大きい。もともと九種の感受性はトラとかクマみたいに自分で考えて独りで行動する様になっているので、集団の中にいると本来の力を発揮できない。そうした集団生活の中で内向したエネルギーは、爆発のタイミングを謀ってじーっと待っているのだ。

九種が生活環境を容易に変えられないとすると、停滞した圧縮エネルギーはどうなるのだろうか。このような事情から鬱散の方法はどの体癖でも身体を余分にこわさないために重要なのだ。力が抜けない時は身体全体が凝固しているから、まず「ゆるむ」きっかけを与えることが必要だ。そして、ゆるみはじまると要求がはっきりしてくるから、その人の気が集まることをその人のタイミングで充分やらせるという方法を取ればいい。いわゆる「ガス抜き」みたいなことになるが、エネルギーの流れる「水路」を上手く作ってやるのが九種的圧縮エネルギーの自他破壊欲求を未然に消化するやり方である。

少し抽象的な話になったが、九種が集団の中に埋もれて力を出せないでいるのを見るとつい気の毒になる。個人的には「みにくいアヒルの子」の話を聞くといつも「体癖」を思い浮かべるのだが、あれは白鳥がアヒルより素晴らしいという話ではなく、「自分を知らず、他人もわからず」では社会全体に余分な摩擦や軋轢が増えるという話だと思う。

アヒルはアヒルとしての活動様式があり、白鳥は白鳥として生きると楽であり快感があるのだ。実際のところ「苦手」と「得意」は一つの特性の表と裏なので、苦労したことで自分なりの「個性」が見つかることもあるから、「適応障害」の多くは自己実現の前兆と考えていいのではないか。

9種話を九種に戻すと、最近新たに解ったことがある。「知音」という言葉があるが、九種は本当の理解者に出会うとようやく、少しずつ、心を開く。だから彼らを指導するときにはウソ偽りのない、深い共感的理解が必須なのだ。かといって変に「合わせられる」のも大嫌いである。

そういう気配があるというだけでさっと殻を閉じるから厄介なのだ。ずっと考えていくと、そもそもが人に相談するようなタマではない。だから九種を指導するには野性的勢いを引き出しつつ、放し飼いで育てるという高等技術が要る。早い話がただ信じて「待つ」という、それ以外にない。悲しいかな、全部自分の体験知なのだが。

断食はすすめない

昨日は図らずとも断食になった。いや「俺は断食したぞ!」という元気のいい話ではなく、風邪で食欲がなかっただけなのだが。今朝になってようやくミツコに雑炊を作ってもらい40時間ぶりに食べたら味がよくわかる。舌から塩分がしみ込んでくる感じがした。そしてさ湯は甘いね。

因みにこの断食や減食が三、四日に及ぶと黒っぽい宿便が出ることもある。胃腸や、肝臓、膵臓、腎臓などが消化吸収から解放されると、ここぞとばかりに体中の大掃除をはじめるのだ。今回はそこまでいかなかったけど、まあ断食には一定の効能があるという話に留めたい。

野口整体の食養生観には「食べたいものを、食べたい時に、食べたいだけ」食べる、というスローガンがある。「それはいいですね」と言われることもあるし、「とんでもないね」と思われることもある。但しこれは「身体の生理的欲求」が整っていることが大前提での話なのだ。

古来から「断食指導者・信奉者」というのがあるが、「その時その人にはマッチングした」という視点は大切にしたい。現代の日本では食べ過ぎ常習者が多いのだから断食・減食を謳えば一定の支持者を得られるのは間違いない。但し「その人」の身体に合わなければ、無益、或いは有害な断食だっていくらでもある。

つまり身体感覚を抜きにして行われたものが、例えどんなに良い結果を及ばそうともそれは無価値だと言いたい。「その」時は「それ」で良かったというだけの話で、「同じ状況」は二度はないのである。どんなに良いモノも「掴んだ」らそれはやはり執らわれなのだ。それよりも「〔今〕どうしたいか?」という身体の要求に沿って、どこまでも自然に行動できる身心を保つことが最優先されるべきだろう。

畢竟「断食」なんていらない身体になることだ。外から命令して「食を断つ」のと、裡なる欲求で「食べない」というのでは、外見は一緒でも中身は全く別物である。そうすると最後は「お腹がいっぱいになったらハシを置き、ハラが減ったら食べる」という話になる。こんな風に「真理」というのは近くにありすぎて有難味がないのだ。さらに言うと普通のことを勧めてもビジネスにはならないんだよね。

整体をやるからには是非「持って生まれたこの身体のままで結構だ」となっていただきたい。人為的な努力をやりつくしてみると、聡明な人は最後の着地点が〔今ここ〕しかないことに気が付く(努力の途上で終わる人もいっぱいいます)。平凡から非凡になることを説き、勧め、またそれに従がいならう人が多い中で、「平凡の真価」に気づく人はごく稀だ。平凡ほどすごいものはないのだが、余りにすごすぎてそれが平凡にしか見えないのだ。

話がアサッテの方に行った気がするが、そういう事情で断食は勧めない。それよりも身体感覚が直に判る「澄んだ頭」と「心の静けさ」を養うことを改めて説くのみである。これを静養という。

普通道

南泉斬猫にみる「いのちの真相」

南泉斬猫(なんせんざんみょう)
猫でなければ、公平に等分であろうに、猫だったため、猫を失った。死体だけ分けたことになる。
猫だと何故、二つにすると猫が居なくなるのか、分けられないのか。
生命とは何ぞや。
何が猫なるか。
(野口晴哉著 『碧巖ところどころ』 全生社 p.111 )

前項で書いた「分けてしまったら判らないもの」という話は、野口整体の思想の根底を貫く生命線である。この「判らないもの」は漠としているが、〔今〕という次元には必ず在る、〈いのち〉とか「宇宙」とか呼ばれるものがそれにあたる。

上に挙げた引用文は禅の有名な公案からきている。「公案」というのは仏道修行者に対して指導者が与える、答えのない無理難題のことである。理詰めていったら絶対に解答のない「問い」を投げかけ、行住坐臥の修行中にひたすら工夫(考え)させて古今無二の独自の答えを持って来させようとする。これによって修行者の段階や力量を図るのである。

先の引用だけでは内容不充分なので、さらにもう少し本筋を下に引いてみることにする。

南泉和尚は、たまたま東西の禅堂に起居している門人たちが、一匹の猫をめぐってトラブルを起こしているところに出くわされた。彼は直ちにその猫をつまみ上げると、「さあお前たち、何とか言ってみよ。うまく言えたらこの猫を救うことが出来るのだが、それが出来なければ、この猫を斬り捨ててくれようぞ」と言われた。皆は何も言うことが出来なかった。南泉は仕方なく猫を斬り捨ててしまった。晩になって、高弟の趙州が外から道場へ帰ってきたので、南泉はこの出来事を趙州に話された。話を聞くと趙州は、履いていた草履を脱いで自分の頭に載せて部屋を出ていってしまった。南泉は、「お前があの場にいてくれたら、文句なしにあの猫を救うことができたものを」と言われた。(西村恵信訳注 『無門関』 岩波文庫 pp.71-72 ‐十四 南泉斬猫)

これが一通りの内容である。余談だがこの公案を海外(欧米)でそのまま話すと場が凍るのだという。もちろん動物愛護とかそういう観点から見たらこれは大変な話な訳で、それ以前に「仏教の不殺生戒は何処へ行ったか!」と言われそうである。

こんな時「殺すとは何か?」ということまで徹見している和尚でなければ、東洋宗教に目の肥えた外人を相手にお茶を濁して逃げ帰るしかあるまい。もちろんこれは「公案」として、象徴的に読むべきである。

原典には猫トラブルの理由までは書かれていないから詳しい事は判らない。おそらく東西どちらの飼い猫なのかとか、エサやり、糞尿の始末の事とか、いろいろ考えられるがここでは「理由」にさほどの意味はない。それ以前に真理に目覚めて涅槃寂静の生活を営むはずの僧たちが、子猫を間に挟んで寺を二分し争っているのだからこれは問題である。その晩に趙州が草履(サンダル)を頭の上に乗せたのは、本末転倒を暗に指摘し痛罵したとも取れる。

南泉和尚はその争っている渦中にツカツカ出ていって、いきなり「何か(法にかなった一句を)言って見よ」という。当然こちらは「間違いのないモノ」をはっきり掴んでいる。片一方は迷っている。迷っている者はいつでも「自分の」言葉を発せられないように出来ているのだ。そこで南泉は一閃、刀を振るって迷いの元である「猫」を斬ってしまった。その瞬間「猫」と一緒に、イザコザも消えてしまった。折角の公案に蛇足を継ぎ足せば、概ねこういう注釈になるだろうか。

簡単な話だが、もしここに一人出でて、「猫を斬らないでください!」と言えばどうなったか。言葉というものは使いようである。使い方を知らずに発し、知らずに受け取るものは、いつも言葉に迷うから頭の休まる暇がない。追わない、探らない、そのことがその通りに発し、聞こえればいつも自由なのだ。

さて、ここで話を最初の引用の方に戻すと、野口先生は二つに分けたら「猫」が消えたという。物体以前の無形の力としての「生命」を追い続けた師ならではの切り口である。それほど多くは知らないが、この南泉斬猫の公案をこういう読み方をした人はあまりいないのではないだろうか。

それまでは活き活きとピチピチとそこに活動しているそれそのものは確かに「猫」であった。二つになった途端、肉だけが残って活動体としての「猫」は消え失せたのである。それでは猫を「猫」にしていたモノはいったい「何」だったのか。

それが「分けてしまったら判らないもの」の正体である。猫という存在は、生きている「猫」の方にあったのか、それともこちら側の「認識」の方にあったのか。そもそも我を中心に展開するこの名もなきこの一大活動体は、果たして主体と客体、「あちら」と「こちら」に分けることなどできるのか。

分けて知ろうとするのは要素還元主義という科学の芸当だが、そういう我他彼此(ガタピシ)根性を禅は徹底的に嫌う。まさしく、単(ひとつ)を示す、と書いて禅である。我々はいつだって分ける前の〔今〕に用があるのだ。

斯く如くいのちの真相はぶっ通しの〔今〕だけに在る。〔今〕は「今」として認識すると途端に消えてしまう。〔今〕は捕まえてはならない。捕まえればたちまち悟りに迷う。

だから〈いのち〉は確かにここに在って、同時に何処にも無いのである。盤珪禅師はそれを「不生」と言い斬った。〈いのち〉は最初から生きてなどいなかったのである。だからこれから取り立てて死ぬこともない。

〈いのち〉は追うものに非ず、また、眺めるものにも非ず。自分が生きていることを自覚したら、そこに安住することなく直ちに動くことだ。そうすればいつでも我は失われることなく「ここ」にいる。降雪片片、別所に落ちずだ。

公案では、自分で動けなかった者が南泉に「そこ」を斬られた。そして「迷い」と一緒に「猫」を失った。そして失ったと同時に得たものが「いのちの真相」である。

こういうように、一つの事実にはいつも二つの見方が用意されている。「認識」か「実体」か、「知る」ことか「在る」ことか。確かなのはいつも事実の方なのだが、自分が望めば世界を好きなように飾り、色々な世の中を生きることができるのもまた人間の能力の一つであろう。

この能力に縛られるものは生きていても死んでいる。使いこなせば随所に主となることもできる。いつでも〔今〕この瞬間の〈いのち〉に目覚め、この自在性を自分の力としたいものである。

分けてしまったら判らないもの

健康生活の原理と言っても、栄養をどう摂れとか、睡眠は何時間とれとか、ということではありません。体と体の使い方の問題だけであります。体の問題と言っても、胃袋がどうなるとか、肺がどうなるとか、心臓がどう脈をうつとか、というようなことではありません。そういうような医学的な面での体のことは、皆さんの方がよくご存知だと思うからであります。

 私がお話するのは、いままでの学問的な考え方だけでは考えきれない体の問題なのであります。私たちの胸の中に肺臓と心臓があるということはどなたもご存じですが、それを動かしているある働きがあることには気がつかないでいる。例えば、恋愛をすれば食事がおいしくなるし、好きな人に出会えば心臓が高鳴ってくるが、借金をしていると食事もまずいし、顔色も悪くなってくる。このように恋愛とか借金とかいうものによって生じてくるある働きと、肺臓とか心臓とかいうものが関係ないとはいえない。ところが胸の中を解剖してみても、レントゲンでいくら探してみても、そういうものは出てこない。だから人間の生活の中には解剖してしまったら判らない、また胃袋とか心臓とかいうように分けてしまったら判らないものがある。電報一本で、途端に酒の酔いが醒めてしまうこともありますが、どういうわけで醒めるのか判らない。その判らないもののほうが、却って人間が健康に生きて行くということに大きな働きを持っているのです。(野口晴哉著 『健康生活の原理』全生社 pp.3-4)

これは野口先生が最後に出されたご本、『健康生活の原理 活元運動のすすめ』の冒頭です。

かつて心理学者の河合隼雄さんは欧米人に「魂とは何ですか?」と問われた時に、「本来分けられないものを無理やり分けた時に消えてしまうもの」と答えたそうなのだ。ああ、成る程なと思う。そう言う風に、分けてしまったら判らないものが確かに実在して、それが絶えず命を保っている。そしてどんなに発達した治療技術でも、その「ある働き」という大前提の上に成り立っているのだ。具体的に言うと、血が出れば、その血が固まって止血する。その下に皮膚ができると、あとは何もしなくてもぽろぽろ落ちる。また、水をかぶれば、体温が上がる。暑ければ汗が出る。一体「何」がそうしているのか判らないけれども、生命にはそうやって平衡を保つ力が絶えず働いている。そしてこの力は生きている限り働き続けて、また誰にも止められないものだ。

現代の多くの治療法や健康法の中には、この平衡の力を無視したものが含まれている。健康法という言葉の影には「不健康」という健康の失われた状態を匂わせているのだ。ところがよく見ると、その不健康とか病気とか言われる状態の中にもその「ある働き」は厳然として失われていない。野口先生が徹頭徹尾説いたのは、その「ある働き」の自覚と発揚であった。先覚者とは斯くいうものである。時にそれを「気」と言い、またある時は「錐体外路系」とも言い、また「命」と言ったり、「天行健」と言ったりと言葉にして切り出すと、日本語だけでも複数ある。ただそういう言葉で掴まえるずっと以前から、人間もその他の生命もこのある働きに依拠して活動してきた。「不変を以て万変に応ず」という言葉もあるが、物の世界がどんなに移り変わっても、この生命の平衡要求というのは変わらないのだ。

さて、ではこのある働きの自覚と言うにはどうすればいいのか。経験的にこれを人に感得していただくことの難しさを味わってきた。いわゆる多勢に無勢で、健康や病気と言うものに対する情報量が圧倒的に違うのだ。ほとんどのものは外から補ったり、付け足したり、庇ったり、鍛えたりするものばかりで、最初から命に対する不信を育てることに余念がない。スタートにもう「一線」が引かれているものだから、どうしてもその線を跨いで、「現在地から目的地に向かう」という気配が抜けきらないのだ。そういう人は「今」と「健康」の間に必ず距離がある。これが多い。だけれども、一人一人を丁寧に見ると、誰一人そんな風にはなっていない。本人が何をどう考えていようと、生きているものは命を保つ方向だけに働いている。保つということが順に行われれば、やがて自然に死に至るのだ。本来なら「そのまま」とか「あたりまえ」ということには、苦を伴わないものである。

その「あたりまえ」の王様みたいなのは、「生きているものが死ぬ」ということだろう。その生老病死ということが肯えないことから、自然に背こうとし、その背くことが「治療」としてまかり通る。そしてその結果無益な煩労は増すばかりだ。野口整体をやると言った時には、先ず最初にこの着眼を正さなければならないのだ。愉気法、活元運動、整体操法と、形として整体であっても、内容を見るとまったく整体になっていないということが沢山ある。何ごとも「初心」、あるいは「着手」というものは後々の結果を決定づける大切なものである。「自分のいのちは今どうなっているのか?」、この近過ぎて見えない「健康生活の原理」を示すのが、こちらの最初の仕事であると同時に最後の目的とも言える。偏界曽て蔵さず。

2016桜

逆子体操では直らない逆子

昨年の今頃、「逆子体操を毎日やっている」という方をみていた。「28週から毎日、いくらやっても直らなくて・・」と悩んでいらしたのでその場で実演していただくと、大変キツそうだった。

「逆子体操はあなたの身体には合いませんから」、といって初回の時に止めていただいたのをよく覚えている。それよりも不安で腰が縮こまっているようだったので、カウンセリングでストレスの原因を伺っているうちにだいぶ腰の形が正常に戻ったのだ。2回目にお見えになったときにはもう表情が明るくなっていたので、言わずもがなの結果であった。逆子体操を止めた直後の7日の間に戻ったのだ。

誤解のないように言っておくと、「逆子体操」が悪いという話ではない。どんな刺激であっても、「その時のその身体に、合う、合わない」という診断が正確につかななければ、闇鉄砲と一緒で当るかもしれないし当らないかもしれない。先のケースではむしろ弊害であったのだ。整体は命に触れる御業である。厳しいようだがこういう「やってみなければわからない」ようなものを技術と見做す訳にはいかない。

何事も原因が解らなければ対処のしようがないのだ。だから整体はいつ如何なる時も「原因を観る」ということに集中する。自身で探求するなら、一つの目安はやはり「快・不快」の感覚だろう。身体に合うものは快く、合わないものは不快に感じる。「他はこれ吾にあらず」という言葉の示す通り、この快・不快は自分にしか判らない。野口整体が身体感覚の保持、向上を説くのはそのためなのだ。

今回は体操だったからこの程度だが、運動にしろ、食事にしろ、薬にしろ、自身に合う合わないかを判らないで生きているということは危なっかしい。産まれた当初はみんな100%の「感覚」が働いているのに、成長するにつれて大なり小なりそれがくもってくる。原初的な身体感覚が「良い意味でむきだしになる」ということが、整体指導の目的の一つだ。野口整体を「野生の哲学」と説いた例もあるが、言い得て妙である。

実のところ、逆子になってからで訓練するのではちょっと遅いのだ。だが「気づかないでいる」よりはずっといい。逆子が直る、直らないという事よりも、それを機会に自分自身の感覚に目を向ける人になることが観ていて一番嬉しい。自分を守るのは自身の身体感覚である。しかもこれから備えるのではなく、今あるものを最大限に使うのだからなお良いのだ。自分自身が、自分自身を、自分自身で救うのだから、これが一番間違いがないではないか。人間がいるかぎりこういう学びには用があるし、誰かが説き続ける必要がある。養生とは自然を知り、その自然を人体上に現すことなのだ。

逆子体操

 

離乳食に偏食はない:子供の「食べない」には理由がある

今春から太郎丸は保育園だ。事前に下見に何回か行ってるけど、やっぱり泣かない。人見知りしないのだ。幼児が知らない人をみて泣くのは、かつて「初めて会った人」でこわい思いをしたからである。

具体的には、まず産湯とか。これが熱すぎると、やっぱりこわいと感じる。だけど生まれたばかりの子は「熱い!」とは思わないで、「!っ・・」と思う。次に「これはとんでもない世界に来た」とそう思う。そうするとまず初めて触れるものに対する「警戒」が生まれるのだ。

それから「病気の予防」だといっていきなり注射を打つ。これも当人には理由がわからないから、「ビョウインはイタイ!」という連想が固着する。そうやって「事実」に触れる前の観念の方が身体につよく影響するようになってくる。「と、思い込んだ」ことは身体上に実現するのである。

それはそうと保育園のアンケートに「特に好きな食べ物」と「嫌いな食べ物」の欄があって、固まってしまった。好きなものは「その時食べる物」と書きたいところだが、それじゃあ困るのだろうし‥。でも実際はそうなのだ。

ところが大人は過去に体験したことを「そうだと決め込んで」与えるから、「はい、○○ちゃんの好きな、好きな○○よ」といって、例えばトマトを出したりする。ところが食べない。

それはこの前食べた時はおいしかったというだけの話で、今日はまた別問題である。別に「キライ」ではないのだけど、「キライになったのか」と考えたりする。こうやってるうちに大人の方がいろいろと複雑に考えるようになる。

そもそも、そうやっている大人の方は自由に食べられるはずなのに、案外自分で自分を縛っていたりする。「わたしはコレが好き」と思い込んでいると、いま腹が減ってなくても出てくるとつい食べてしまう。タイミングも量もお構いなしにそうやってしまう。そうやって「うまいか、まずいか」もわからない大人が、純粋な感覚をたよりに生きている赤ちゃんに食べさせるのだから無理がある。

ともかく子供に「偏食」はない。

いつだってからだの要求に寸分くるわず食べている。

砂糖でも塩でも、そのときからだに用があるもの(合うもの)はうまいし、からだに合わなければうまくない。身体が疲れれば甘いものが食べたくなるし、頭が疲れれば辛いものが食べたくなる。

そういうふうに感覚(この場合は味覚)は偏らない。偏るのは身体に良いとか悪いとか過去に覚え込んだ「観念」の方で、その偏った観念と並べて比較するから、「今の味覚」という正確な指標の方が歪んでいるように錯覚してしまう。

また食べないとしたら、その食べない原因には味とか量だけじゃなく、あげる速度とか、スプーンの色・形・温度とか、またその口に持っていく角度とか、あるいは天候、お母さんのキゲンの良し悪し、声のトーン、昨日の運動量などなど、いろんなものが複雑に作用して、赤ちゃんの胃袋というのは動くのである。

だから「なぜ食べないのか」を感じとる力がないうちは、前の「食べた、食べなかった」という記憶の方に踊らされるより他はない。そういうわけで子供の偏食に悩む前に、大人の感受性を見直す方が正解なのである。

身体感覚を鈍らせていては育児はできない。いや育児にかぎった話ではないが、感覚こそが真実なのである。その働きを保つために体を整えるべきなのだ。ここに至って食育以前の体育の必要性を改めて世に問いたい次第である。

整体教育概論

来院される方を職業別に見ると、医療関係者以上に学校の先生が多い。もしかしたら歴代トップかもしれない。

最初はみんな身体の不調の相談で来られるが、問題が消えるにしたがって「整体指導を受ける目的」は多様に枝分かれしてくる。

ただ全般的にいって、「痛みが消えたらもう用がない」という人は稀で、当初の問題が解決する頃には「よりよい生き方」を模索して身体感覚の変化と成長を楽しまれる方が多いようだ。

そう言う中でも学校の先生は「教育」というものについて野口整体に何かを求めているような気配がある。思春期の多感な子供と向き合う上で、「どこに向かって、何を示すべきか」がわからないことは職務上大変なことだと思う。

いろいろな先生方とお話していると、法的な制約が増える中で無軌道な子供の感受性に対応しなければならない実状が伺える。20年前に自分が通っていた男子校には、ほっぺたが充血するほどビンタをかます教師がいたが、これも今となっては善悪とか時代性という言葉だけでは片付けられない話だ。

教員の方々とは最終的に「結局、教育って何でしょうね」という事に話が及んで、お茶を濁して終わることが多い。自分自身が仕事をする上でも、この「教育」の概念は絶えず更新し続けている。

「野口整体」の出所にあたる「公益社団法人 整体協会」は文部科学省の認可を受けている体育団体である。その初代理事長であった野口晴哉先生の言葉には次のようなものがある。

整体ということを突き詰めれば、健康に生きるための教育ということになる。…教育ということ、心に発し、形に至る。しかし人間の心、その現れとしての行動は複雑不合理で、同じ事に出会って、泣く人もあれば、笑う人もある。
 教育の前提として、人間の動きを丁寧に観察し、そこから出発して導いてゆくのでなかったら、教育は単なる知識の着物になってしまう。あく迄、人の本性を伸ばすことを考えねばらなぬ。(『風晴明語2』より)

つまりは「個人を丁寧に見る」ということが教育の前提条件で、この「見る」という力がない内は、相手に何を施したらいいのかが正確には判らないはずだ。「何を教え、何を育む」かというこの「何」が判明しないかぎり、行き当たりばったりの主観に頼るためにぶれてしまう。

もしかしたら、その「何か」を満たしたくて野口整体を学ばれるのかもしれない。先の「教育の前提として、人間の動きを丁寧に観察し、そこから出発して導いてゆく」ということが、一般の教育現場には存在しえない。

こういう事は各先生方が人生経験を基にした個人的裁量から「やってもいいし、やらなくてもいい」という範疇のもので、むしろ組織としてはもっと団体の存続や利潤に貢献する行動をして欲しいというのが「本音」ではないだろうか。

そういう点で知識と意欲、情熱のある先生ほど、「人間はみな同じという前提で教え、出来不出来を数値化する」だけの教育には早々に失望するようだ。その結果「教育って何?」という葛藤の中で呻吟しながら、半ば諦めて就業するようになる。

少なくとも「義務教育」に象徴されるような、知識の切り売りだけが教育の真の姿でないことはできるだけ早く認めた方が先に進める。

しかしながらどんな職業でもそうだが、「自分のやりたいことを無制限にやれる」ということはない訳で、そこで如何に独自の思いを行動化していくかということが社会生活の醍醐味とも言える。

煎じ詰めると「今この瞬間に自分自身が活き活きする」ということ以上の教育はないかもしれない。そこに着眼が定まれば、何十年と言えど意欲を維持できるのではなかろうか。

立場的にもう一つ加えるなら、やはり生理的感覚に基づいた「体育」を無視して人を育てることには限界があると言いたい。

少なくとも正坐が体罰として認められるような価値観である内は義務教育の質的向上は難しいように思う。

公人である以上「公」の価値観に適う人間を育てなければならないのだから、自分自身が本当に納得のいく教育がしたければ松下村塾のようなゲリラ的手法が一番現実的かも知れない。

最後は自分が自分に諭しているみたいな気がしてきた。

妊娠中の恥骨痛の原因

先月はじめて来られた妊婦さんが「恥骨がすごく痛い」という。「すごく痛い」は稀かもしれないが、妊娠期に恥骨に違和感を感じる方はだいたい1~2割位いる。妊娠期はリラキシンというホルモンの影響で恥骨(骨盤)だけでなく全身の関節、靭帯が柔らかくなっているので普段ではあまり見ないような故障も起こしやすいのだ。

野口整体ではこの妊娠期の「弾力と波」を上手く使って、妊娠・出産によりいろいろな持病を治したり、さらに出産前よりも丈夫にすべしと考える。小さい刺激でも大きく身体が変化するのが利点で、いつもよりもずっと負担を少なくやれるのだ。一般的には出産前後になると肩がこったり、腰痛になったり、問題事が増えるのだが、それはこの骨格の柔らかい時期にいろいろと間違った身体の使い方をしているからだ。

ただ「恥骨が痛い」という方に関しては、身体の様子を見る前に「着衣による骨盤の締め付け具合」を確認する。妊娠初期にはまだ細いジーンズをはいている人もいるし、お腹が一定大きくなってもきつい下着をつけている人がざらだ。これらのものはみんな骨盤の両側から「微弱な圧」をかけていることになる。ごくごく小さい力だが身体は常にその力に抵抗を強いられるので、特に妊娠期はこの小さな刺激が無視できない。

見ていると何故かはわからないが、頭が合理的によく働く人ほどきピチッとした服を好む。妊娠が解ったら出来るだけ早い段階で、たっぷりした感触のやさしいものを身に付けることを勧める。整体を受ける際に着替えをしていただくが、着替えただけで恥骨痛が消えている人がいる。こういうのが盲点だ。

さて、件の方は骨盤ベルトをしていた。お聞きすると1ヶ月ほど前からかなりきつく巻いていたので、恥骨を痛めたらしい。因みに骨盤ベルトで外から仙腸関節を補助したことで、かえって身体が怠けてしまった例を見たことがある。産後の肥立ちで苦労されていた。身体の適応能力をなめてはいけない。身体は守る暇があったら使うことだ。散歩をしたり、相撲の腰割りをやって、体力をつけて「その時」に備えて欲しい。

逆子は何週までなら直るのか

一般的に逆子はだいたい28週~30週以降で胎児の頭が上になっている状態を指すようです。それ以前のものはまだ胎児が動いているうちの一過程と見ます。まだこの位の時期ですと病院・助産院でも「まだ大丈夫、戻りますから」と言われることが多いようです。

確かに逆子のまま出産を迎える割合は3~5%位とされていますから、「ほとんどの妊婦さんが直る」と思っていても間違いはないでしょう。出産の割合が最も多い週が40週ですから、仮に30週で逆子だとしてもまだ10週間(2ヶ月半)ある訳ですね。

せい氣院に逆子で相談に来られる方の多くはだいたい33週、34週以降です(逆子体験談)。何故なら多くの病院や助産院で「35週目の検診で逆子が直らなかったら帝王切開の日程を決めましょうね」と言われるからです。それであわてて来院されるのですが、30週の時点から比べれば当然逆子が直る率は少しだけ減ります。もちろん身体をよくみて、原因さえ解決できればまだ充分に対処できます。

ですが、逆子の対応は早いに越したことはないのです。

本音を言えば逆子になる前から身体を整えておいた方が良いですし、さらに言うと受胎がわかったならすぐに「楽に産める身体」を作っていく方がずっと良いですよね。整体でお腹の中から丁寧に観てきた赤ちゃんはみんな丈夫ですし、生まれた後の美容的な観点からもはっきりそう言えます。特に30週からの1ヶ月は本当に大切。

なのに、この大切な期間にまったく何もしないのは「もったいない!」と、いつも思います。

逆子には、逆子になるようなお母さんの「身体」があり、赤ちゃんの「気持ち」があり、また逆子になるような「生活」があります。そしてこれらの「原因」には共通点があります。

それは、みんな病院の検査には写らないもの、ということです。

人が人を観て、触れて、よくお話を聞くことではじめて見えてくるものばかりです。ただお医者さんが「大丈夫ですよ」といってもそこには確率以外の根拠はありません。いつも言いますが何ごとも「原因がわからなければ対処のしようがない」のです。野口整体が「観察」という技術を重要視するのはそのためです。

ですから「逆子は何週まで直るか」と考えるのはちょっと変ですね。ただ待っているだけでは「直るかもしれないし、直らないかもしれない」。それはただの偶発性ということ。それよりも「なぜそうなったのか」をよく考えて行動することで直る必然性がぐっ!と増すのです。もし原因がわかれば自分でも対処できることが沢山ありますから。ですがもし逆子のケアの仕方がまったくわからないという方はこちらも参考にしてみてください。(自分でできる逆子ケア

逆子は「あとどれだけ日数があるか」心配するのではなく、「どのように行動するか」の方がずっと大切だということです。ここの所をよく間違えやすいので、いま逆子で不安になっているお母さんは少し気を付けて原因を考えてみてください。

パソコンが原因の生理不順対策

事務仕事の女性は液晶画面の見過ぎでよく生理不順になられます。特に夕方以降も目に強い光を浴びていると、生理不順や生理痛になり易い。

一般に「生理」のような身体の波は「自律神経」のバランス作用によって整っています。自律神経は朝日を浴びることで交感神経優位になって「起きる」モードとなり、日が落ちる(辺りが暗くなる)ことで副交感神経優位の「寝るモード」になります。現代は夜でも目や身体全体に光を浴びすぎているので、寝つきが悪かったり朝スパッと起きられなかったりしています。

そうかといって、今時パソコンを見ない仕事なんかほとんどありませんね。ということで、当院に通われる方にお教えするやり方をご紹介します。

先ず基本的なところで、「画面を暗くする」ということ。実行している方も多いと思いますが、液晶画面の設定、「明るさの調整」で変えられますね。これを必要最小限にします。

次にf.luxという無料ソフトで対応します。これも今やご存知の方が多いかもしれません。設定方法などは検索するといろいろ出てきますので、サイトを観ながらトライしてみてください。ただしこのソフトをダウンロードしたら「動作がおそくなった」という方が一人いました。そのあたりは自己責任でお願いします。。

最後に、知られているようで意外とみんなやっていない方法が、「表示文字を白くする」。ディスプレイの「個人設定」でハイコントラストを選択すると、黒い画面に白い文字で表示することができます。

これらを上手く活用すると、目の疲労が軽減されて生理不順も改善されることがあります。全部が「無料」かつ、いつでも元に戻せますので、お悩みの方は一度試してみてください。