昨日は図らずとも断食になった。いや「俺は断食したぞ!」という元気のいい話ではなく、風邪で食欲がなかっただけなのだが。今朝になってようやくミツコに雑炊を作ってもらい40時間ぶりに食べたら味がよくわかる。舌から塩分がしみ込んでくる感じがした。そしてさ湯は甘いね。
因みにこの断食や減食が三、四日に及ぶと黒っぽい宿便が出ることもある。胃腸や、肝臓、膵臓、腎臓などが消化吸収から解放されると、ここぞとばかりに体中の大掃除をはじめるのだ。今回はそこまでいかなかったけど、まあ断食には一定の効能があるという話に留めたい。
野口整体の食養生観には「食べたいものを、食べたい時に、食べたいだけ」食べる、というスローガンがある。「それはいいですね」と言われることもあるし、「とんでもないね」と思われることもある。但しこれは「身体の生理的欲求」が整っていることが大前提での話なのだ。
古来から「断食指導者・信奉者」というのがあるが、「その時その人にはマッチングした」という視点は大切にしたい。現代の日本では食べ過ぎ常習者が多いのだから断食・減食を謳えば一定の支持者を得られるのは間違いない。但し「その人」の身体に合わなければ、無益、或いは有害な断食だっていくらでもある。
つまり身体感覚を抜きにして行われたものが、例えどんなに良い結果を及ばそうともそれは無価値だと言いたい。「その」時は「それ」で良かったというだけの話で、「同じ状況」は二度はないのである。どんなに良いモノも「掴んだ」らそれはやはり執らわれなのだ。それよりも「〔今〕どうしたいか?」という身体の要求に沿って、どこまでも自然に行動できる身心を保つことが最優先されるべきだろう。
畢竟「断食」なんていらない身体になることだ。外から命令して「食を断つ」のと、裡なる欲求で「食べない」というのでは、外見は一緒でも中身は全く別物である。そうすると最後は「お腹がいっぱいになったらハシを置き、ハラが減ったら食べる」という話になる。こんな風に「真理」というのは近くにありすぎて有難味がないのだ。さらに言うと普通のことを勧めてもビジネスにはならないんだよね。
整体をやるからには是非「持って生まれたこの身体のままで結構だ」となっていただきたい。人為的な努力をやりつくしてみると、聡明な人は最後の着地点が〔今ここ〕しかないことに気が付く(努力の途上で終わる人もいっぱいいます)。平凡から非凡になることを説き、勧め、またそれに従がいならう人が多い中で、「平凡の真価」に気づく人はごく稀だ。平凡ほどすごいものはないのだが、余りにすごすぎてそれが平凡にしか見えないのだ。
話がアサッテの方に行った気がするが、そういう事情で断食は勧めない。それよりも身体感覚が直に判る「澄んだ頭」と「心の静けさ」を養うことを改めて説くのみである。これを静養という。