雑念がないとは(愉気)

先月の活元会では久しぶりに愉気法の実習を行った。その場の空気でたまたまそうなったのだが、愉気法は野口整体の象徴だ。という訳でまたしばらく教室でやって行こうと画策している。

時々「愉気というのががよくわからない」という方に説明を求められるのだが、どこまで行っても「ただ手を当てる」だけである。これ以上のものは出てこない。坐禅は「只管打坐」の一語に尽きるが、これと外見は違えど質的には同じである。一切のものを打ち捨てて、「その時」、「その事」に成り切って行う。成り切って、成り切って、坐る、あるいは手を当てる。そうすると、一切合財カタが付くのだ。

こういう事を時に「無心」と言ったりするのだが、「無心になる」というとまたこれが「難しい」という人もいる。そういう方は「どうも後から後から雑念が湧いてきて、いろんなことを考えてしまう」という話をされる。ところが普通は目が覚めて活動していれば雑念が自然に湧いてくるのが「正常」なのだ。それに気づいたのだから一応は進歩と言っている。「念」というのは、そのまま「今の心」である。心にはいろんなものがどんどん去来して、それでいて一つも跡を残さない。それで万事上手くいっているではないか。

ここで少し、愉気について野口先生の言葉を引いてみる。

愉気は雑念があってはできない。欲があってもできない。天心になってやる。自信があるとか、きっとよくなるとかいうことも雑念なのです。そんなものも何も持たないで、ジーッと静かに息をして、息を一つにしていく。

深い息をしていく。それ以外の余分なことを考えないことが望ましい。だから愉気は、利口な人よりは、適当に間が抜けている人の方が効果がある。利口な人も、愉気している間はいろいろな雑念を払って、気をそこに集中すれば、できるようになります。

気を強くしようと思って、一生懸命努力する人もありますが、強い気がいいのではなくて、気は澄んでいることの方がいい。強い気なら、ラジウムや放射能の方がずっと強いです。しかし、それは人間を弱くします。有るか無いか判らない位の力で丈夫になっていることが一番いい。やったかやらないか判らないようなことで、健康を保つことが一番いい。(『月刊全生 増刊号』 晴風抄より)

という風に残されている。

真面目な方が愉気をしようと言うと、ついこの「雑念」が気になるらしい。ところがもともとの念に「雑念」という念はないと知ることが初関となる。例えば、庭を整備しようと言った時には「あそこの花は残して、こちらの雑草は抜いて」ということがある。草は草で全部が「ただ」生えているんだが、そこに人間的な価値で要否が立つと雑草というのが「出てくる」のだ。念というのもそういうもので、念自体には「よい」とか「わるい」とかは付いていない。だから浮かんでは消えていく、そのことに手を付けないで、ただ「そのまま」やっていればそれでいいのだ。

「またそれが難しい」というのも判らないでもないが、実際に手を当てて仕事していると次から次へといろんな思念が出てくる。そういうものがいくら在っても、やはり愉気をしているとお互いに呼吸は深くなるし、気が鎮まってくるのだから「手当て」はどこまで行っても「手当て」なのだ。講習会形式で、何かしら自信を持たせてからやる方法も有効と言えばそうだが、そういう「外」のモノを頼み、信じているうちは愉気にはならない。その時本気になってやれば誰でもできるし、気が抜けるとプロでも力にならない。

だから難しく考えているより、やはり実践に重きを置きたい。やっていれば「ああなるほど、こういうことか」と思う時が必ず来る。これを自覚したらはっきり自分の力となるのだが、そういう余計なことすら考えないで、いつでも「ただやる」ことだけで終わるようにするのが肝要だ。どこかに向かって行くのではなく、今の自分の在り様でさっと行えるようになると、どんな事に出会っても今の自分で「間に合う」人になれる。

愉気する人に資格があるとすれば、「ただ、そのまま」やれる人ということに尽きる。例え疑念が沸いたとしても、それとて「今の心」ではないか。とにかく最初に「愉気をしたい」という気持ちがあれば先ずはそれで充分だ。思念をどうこうするより、身体的実践を宜しく、と言う話である。心は形について来るのだ。

天心の愉気4