11月 禅会・活元指導の会

昨日は坐禅会だった。10時から13時、つまり3時間で4炷(1炷は線香一本40分)坐る予定で始めた所、ご参加のみなさんが2炷目でだいぶお疲れの様子だったので途中から立禅、活元運動へと差し替えることにした。

こういうものは必要以上に身心を苦しめることはないので、無理は禁物だ。大切なことは「意識の鎮静化」と、これに伴い「本来の自己を見極める」ということであって、俗にいう忍耐力などとは無縁の世界である。

苦しいことに耐えていれば報われるという話ではない。苦しいのは苦しいだけ。それ以上でもそれ以下でもない。この辺りがはっきりしてくると後の話がはやいのだが。

それでも気になる人はとことん苦行的にやってみるのもいいかもしれない。それだってどこまで行っても結果は同じで、苦しいものは苦しいだけなのだ。

とにかく一度鎮まってみなければ判らないものがある。そのためにただひたすら坐っているだけだ。単純な話である。暫くはこのような形で月に2回ほど続けるつもりだ。

と思った矢先、お問い合わせがあってHPの日程更新とブログでの公募を忘れていた事に気がついた。

11月の今後の予定は下記のとおりです。

○11/26(土) 元 9:30-12:30 神奈川区内公共施設

○11/29(火) 坐禅  10:00-13:00 せい氣院内

内容はいたって真面目なので、特に坐禅の方はお試し・体験目的でご参加されるとなかなか御辛いと思います。本当に坐りたい方のみご参加ください。

事前のご質問はメールにてお願いいたします。

柔軟心

道元禅師が真の仏法を求めて宋に渡った後、日本へ何を持ち帰りましたか?と問われた時に一言、「柔軟心(にゅうなんしん)」と応えられたそうである。禅師の示された柔軟心が「何」を指すかは言明できないが、一応のそれらしいイメージは沸くものだ。

性質は違えど整体でもやはりこの「柔軟心」を大切にしたい。

言い替えると「こだわりがない」ということでもあるし、「執らわれない」と言ってもいいだろう。できればもう一つ、その「こだわらない」とか「執らわれない」という動きすらないことが最良だ。「何もない」ということが根元的自由の源泉なのである。

その「何もない」を、時には「無」とか「空」とか表現されるが、これも「強いていえば・・」という話でとにかく何かしら表現されたらその途端に無も空も失われる。

とにかく目の前の現実に手を着けない、今の自分自身にも手を着けない。そうしてずっとやって行くと、そういう自他の見解から一辺「放れる」時節が必ず来る。そこからが人生の、本当のスタート地点だ。

そこで満足することなく、更にずんずんやっていって、「何もしない」ということを鍛えて行った先に、本来の自由性をそのまま戴ける人になっていけばいい。

 

人間は年をとれば誰でも固くなるもので、身心の柔らかさを保つには訓練が要るのだ。

そのために自律神経系、そして錐体外路系を的確に刺激する禅と活元運動は近道だ。体育のためにいろいろなスポーツをやることも結構なのだが、そういうことが余分な怪我を誘発したり、また心や体を余計にこわばらせることもあるから、どれも丁寧に観ていく必要がある。

柔らかさを保つためには勝ち負けや体の格好(ポーズ)の追求ではなく、先ず「柔らかさを保つ」ということを第一義的に考え行動していかなければならない。

そういうものが極めて少ないからこそ、改めて人間の生理機能に順じた体育の必要性を考えさせられる。何か特定の信仰や宗教観に浸らなければいけないということでもない。もっと自然で自由なものに気づけばそれでいい。

そのために難しい方法がいるわけでもない。頭を深く休めて、身体の自然の動きに任せるというそれだけだ。活元運動という名前を呈すこと自体もどかしいのだが、月を示すために指がいるように、形のないものを体認するためにまず言葉が要る。

あとは、本当にやってください、というそれだけだ。やってみて「間違いない」ということがわかった人はそれでもう柔らかい。自身の可能性を開くためにはこの柔軟さが不可欠だ。そのように感じる人だけでいいので、あとはただ、本当にやってくださいと言うしかない。そのように思う人たち同士で勧めていけばそれでいいという話でもある。

整体は自分がやるもの

「(整体になるには)どうすればいいのか」と問われれば、

それは深い呼吸(深呼吸ではなく)、重心の沈下、全身のゆるみ、言葉にすればだいたいこういった類になる。ところがそのどれもが整うための条件ではなくて整った結果訪れる精神身体現象である。

こちらは最初から余すところなく伝えているつもりでも、お互いの機が熟さなければ伝わらない。受け取り方がわるいのだと居直るのはもちろんよくない話で、「その時」を見極めて的確な刺戟で説くべきである。啐啄の機は何においても指導の急所である。

その一方で「整体」には完成もない。成ったと思っても次の瞬間はもうわからない。心の僅かな凝滞によってまた乱れる。ちょうど自転車が倒れないように絶えずハンドルを修正しつづけるようなものだ。言ってみればその無意識の平衡要求が一定に働いている状態を「整っている」と、こう呼んでいいのかもしれない。

面白いもので整えようとしている間は整わない。その「整えよう」をやめると秩序は現れる。出来ることなら人間が頭に描く「健康」など忘れて、今日一日精一杯生きることを勧めたい。「一日」の中にはそんな忘我の時節が何度も或るのだが、その時は気が付かないのだからそれを「妙」というべきか、面白いものだ。

とにかく一度でいいから徹底的に自我が落ち切る体験をするしかない訳で、「ああなるほど、これのことか」という、そういうもの。それは自分がやることで、人にどうこう言われるようなものではないのだ。

もとより整体をやるなら他人に一切要はない。自分自身が自分自身のためにやるだけだ。力があるなら「それ」を取れるはず。窮していればなお良し。悩みと成長は一つの現象の両側面である。それだけに「気づき」も早いはずだ。

但しインスタントを求める人にはインスタントが手に入る。何を求めるかはその人、生来の質によるところが大きいのも事実である。

命は雄大だ。その雄大さを人間の卑小な知識で狭めてはいけない。知識も智慧も、その他の一切合財も捨てた時に、必ず「残るもの」がある。それを見極めたら一先ずの「安心」は得られるだろう。更にそこから十年一日の心で鍛えていくことが肝要である。それを信じられる者だけ黙って門を叩けばいい。

しかし実際は千里の道など在りはしない。何時だって目前の一歩が全てなのだ。

愉気について

この数日、愉気についてまた改めて考えていた。実際は「考えさせられた」という体なのだが。最終的に「ピタッとする」という、これに尽きる。これ以外の何ものでもない。それは「静止」ということでもあり、それと同時に「適合」ということも意味する。

ここで「同調する」などというと、なにやら解ったような気にさせられるから自分としては肯えない。そういうテクニカルな気配が残っていてはだめだ。

「無心にやる」などとい言うのもあやしい。無心などあったとすれば、それはもう「無心」ではないではないか。もっと自身の内奥の命がそのまま出てくる感覚だ。

一方で「やさしい、やわらかい」気であるということは必要条件である。最終的に人格から滲み出る深い愛情のちからが育ってこないことには話にならないだろう。

毎日仕事で行っているのだから中にはうまくいくこともあろうが、「うまくいった」と思ったらそれもまた邪魔だ。兎に角、淡々と静を養うことだけがそれを可能とする。

愉気は整体の基本であり根元でもある。どんな人にも、はじめたその日からできるし、一方でいわゆる「熟練者」でも力を失うことがある。経験の積み重ねによって気が研ぎ澄まされたり、逆に経験故にナマクラにもなるのだから妙なものだ。

一切の努力も汗も放擲して「そのまま」やるというところに、東洋人が好む「無」の本質があるようだ。この価値観に触れられるまで自分は十年を要した。

ただし掴みどころのないものに掴むところができた時は注意が要るのだ。直ちに手放して、からっぽにしておきたい。余計なものをみんな打ち捨てた時に、また最初のまっさらのスタート地点に立ち戻る。「普通」とか「今」とか言われるものがそれだが、もう一つ無理やり表現しようとすれば「黙」の一字になるだろうか。

結局のところ万言はたった一つの黙を表すためにあるのかもしれない。そして「何もない」ということを表現するにはやはりこれしかないのか。無と有は同じ事象の別称なのである。そのどちらのスパッとない、そういう有りもしないものが厳然として在ることが判ると、自身に最初から与えられている本来の自由性に気づく。全くよくできているものだと思う。

息をしていない身体

仕事として身体を見ていると、息が止まってしまっている人は大勢います。もちろん生理学的には息をしていますが、少し文学的に表現すると呼吸が停止している身体には毎日のように出会います。

一般には「息が詰まる」とか「息を飲む」という言葉が使われますが、正確に言えば「深くてゆったりとした息」が出来ていないことを言っているのでしょう。息は「自分の心」と書くことからもわかるとおり、その時のその人の心境を如実に現すものです。

そもそも呼吸自体は生きて行くうえでは欠かせない筈なのに、どうして息を浅くしてしまうのでしょうか。実は無自覚に息を止めている時には、本人の無意識層に「自分一人では抱えきれない感情」が潜在しているのです。人が深くしっかりと息をしている時には自分の心が鮮明に感じられるようになりますから、これとは逆に息を止めることで感受性を鈍くして絶えている訳です。

生きていれば病気の不安であるとか、家庭環境、職場での悩みなど、苦しい思いはいろいろとあります。そういう抱えきれないものをどうにかしなければならない時に、無意識に息を固めて身体の硬直させて、防衛線を張るようになっているのです。

一般的にはこの時点で体調不良を感じたり、病院に行ったりする方はほとんどいません。仮に違和感を感じて検査を受けても、その多くは場合何ら異常が認められないことが殆どでしょう。そういう時に現代では各種の民間療法やセラピーが求められることが多いようです。そして整体やカウンセリング、また様々なボディワークによって身体の各所がゆるんでいくと、だんだんと息を吹き返していきます(実際にはそう簡単にはいかず「無意識の抵抗」に遭うのですが)。

呼吸が身体の隅々まで入って来ると今まで判らなかったいろいろな心理的問題(辛さや苦悩)が感じられるようになりますので、当然その大変さを一人では抱えきれません。そこをセラピストやカウンセラーなどは「あなたのその気持ち、わたしが半分持ちますからいっしょに何とかしていきましょう」という風に共感・共有していくことが医療者の根元的な仕事であると思うのです。

考えてみれば、今まで何も感じていなかったのに、治そうとする過程で苦しくなるというのも妙に思われるかもしれません。ですがそうでなければ敏感な身心(=健康体)を保って生き生きとした生活を送ることはできないのです。一般には感情を喜怒哀楽という風にも表現しますが、喜や楽のような快情動を味わうためには、怒も哀もひっくるめて心が躍動していなければならなりません。そうでない身体には「現実」から乖離した、無色無臭・無味乾燥の生活が延々と連なっていくことになります。

当り前ですが、生きるとは息することです。息を詰めていればそれは死んでいないだけで、本当に生きているとは言えないでしょう。人間の意識をテレビの画面に例えるなら、深い息は電源のようなものなのです。息が入ってくればさまざまな光が躍動しますが、息を止めれば美しいものも醜いものも、何も映らないのです。

今この瞬間に於いて、感じる世界と感じない世界、人間はそのどちらも選べるようになっています。そういう自由性の中を好きなように生きているのが人間です。真に生きることを求めるなら、今すぐ全身をゆるめて、深い息を取り戻すことです。感じても感じなくても、一日は一日、今日は今日でおしまいなのですから。

%e3%81%82%e3%81%8f%e3%81%b3%e7%8c%abでも本来は、生と死、そのどちらでもない〔今〕の真っただ中にみんな生きているのですが・・。これに気づいた人は何もしなくても、いつでも宇宙と一つの深い息をしているかもしれませんね。

やさしい気持ちで

今日は坐禅と活元運動の日でした。参加者がお一人だったので、マンツーマン指導です。

坐禅会は全国いたるところにありますが、せい氣院は整体院ですから坐相(坐る時の姿勢)をその方に合わせて無理なく作れるように心掛けています。坐禅は苦行ではありませんから、リラックスがとても大切なのです。

なぜかはわかりませんが、坐禅につづいて活元運動を行うとやさしい気持ちになります 。坐る前と坐った後、外の世界は何も変わらないのですから不思議なものです。

禅修行はお一人でも基本的に問題ありませんが、やっぱり2、3名はいらした方が「場」が作りやすいかも、ですね。そういえば今月はブログ告知を忘れていました。Σ(・_・)あかん!

%e8%a6%aa%e5%ad%90%e3%83%8d%e3%82%b3今月は月末にもう一度活元会があります。9月24日(土)10時-13時 次回は活元運動・愉気(手当て)の教室です。先月同様に「つながり」と「関係性」をテーマにした手当ての実習を考えています。

ご参加希望の方は前々日までにメールをお送りください。それでは。

自己の現在地

一昨日の夜は禅会に行ってきた。整体指導を行う立場から言うと、禅という行法の特殊性から学んだことは多い。例えば一般的な習いごとやお稽古ごとなら1年も通えば自ずとやることも変わって来るし、それに付随して目に見えるいろいろな外的変化がある筈だ。ところがご承知の通り坐禅にはそういった変化はない。

しかしながら、変わり映えはないのだけれども、それだけに根気よくというか淡々と続ける方は一定数いる。長い方はそれこそ何十年単位で行なっているものだ。

その中でやはり特殊だと思うのは、生まれたときから禅門の中で生活してきたような本職の和尚さんも、今日生まれて初めてお寺に来たという人も、布団の上に坐ったらまったく同じことを同じ様に行なうということだ。世間一般から見たら稀有なものではないだろうか。

さらに「行」といっても坐り始まったら本当に外的な動作は何もない。現代では「歩きスマホ」などの問題が象徴的だが、今は「何もしていない」時間など、またそのような人を見つけることもむずかしい。ほとんどの方が身体的動作から頭の中の働きまで、引っ切り無なしに動いている。そういう意味でも、何かすることを学ぶ人は多いが、何もしないことを進んでやろうとする人はずっと少ないだろう。

そういう目まぐるしい変化の中で生活する人々が一たび坐禅堂に行くと、毎回まったく同じパターンで動作して、同質の空間で静止した身心と世界を味わう。一体これの何が良いのかと考えてみると、個人的には「今、自分がどうなっているのか」という自己の在り様が正確に点検できるところだ。

仮に「人の一生」というものをずっと煎じ詰めて考えていくと、「今、私が、どうか」ということに集約される。もっと端的に言えば、人間というのは生涯「今の身体と気分の良し悪し」だけなのだ。

だからその身体を「ある一定の形」に当て込んでみることで、今の自分の様子がよく判る。例えるなら、動いている電車からホームを観ても次々と景色が変化して捉えにくいのに対して、止まった電車からだとその在り様が観えやすいのと同じことだ(動いて観えているものも、間違いなく今の様子なのだが)。

いつも言うように、身体は世界を映す鏡である。身体がきちっと整っていれば、時々刻々と姿を変えるこの世界を、そのまま、その通りに映す。これこそが人類にとって究極的救いなのだ。そういう意味で禅修行と整体指導はその眼目を同じくする。

ウルル注意しなければならないのは、何事も導き手が最終的な着地点がわからなければ、人を惑わすということだ。何を失っても自己の現在地だけは見失わないことが肝要である。

訓練してそうなるのではなく、誰もがきちっとした〔今〕に生かされているのだが、この見極めがつかない間はしょっちゅう迷う。一体、人は眼(まなこ)を開けていながら、「何」を観ているのだろうか。自分の現在地はこんなにはっきりしているではないか。有り難いことだ。

坐禅と活元運動の会

zen2今日は午前中は個人指導、午後は坐禅と活元運動の会をやりました。

坐禅が静止して行う「静」の禅なら、活元運動は動きながら行う「動」の禅です。両方が相乗的に身体をゆるませて身心の静寂を確立することを期待しています。

心を静めるだけなら坐禅で充分、と言えなくもありませんが・・・、「禅病」という言葉もあるくらいですから身体が固い人が無理やり坐りつづけると時として健康を害することがあるのですね。

禅病には身心両面、いろいろな症状が挙げられます。

一般には頭痛や吐き気などが多いらしく、精神的にはいわゆるノイローゼに似たような状況になる方もいるそうです。実際そのような方にお会いしたことはないのですが。

考えられるのは背骨の上部(肩甲骨より上)から首にかけてゆるみがしっかり進んでいないと、やればやるほど身体が硬直して悪想念に見舞われる可能性があります(「うつ」的になる)。

一般の坐禅会などに行くと、身体が偏ったまま、首を固くしたままやられている方が多いのですが、これで結跏趺坐など組んだら身体はますますリラックスとは逆の方向に行ってしまうでしょう。だから身体を個別に丁寧に見て、余分な力を抜いてもらうようにしていけば良いと思ったのです。

それだったら「活元運動で充分身体をゆるめてから坐禅をやったらどうか」、と何度か自分で実験的に試みたのですが、活元の後は弛緩し過ぎてこれから「坐ろう」などという気がなくなってしまう・・。だから「坐禅→活元」という流れにしたのですが(まだまだ改善の余地はあります)。

話は「姿勢」に戻ります。とにかく首の「ゆるみ」を大事に考えています。アレクサンダー・テクニークなどにもあるように首をやわらかくして、両耳が両肩から上に上に向かって離れていくように使っていきます。

ポイントは力まないこと。禅を組むならば、何より先ず身体から一切の筋緊張を排除すべきです。

だから伸ばすのではなく伸びてく、伸ばされているように使う。ここが大切。

あとは参加者ごとに個別に対応しなければなりませんが、ここら辺が整体院ならではのメリットになればと考えております。

しばらく継続してご参加いただいた方のフィードバックや身体の変化を見ていきたいと思います。骨格のホームポジション(基底位置)が正しく確立されれば、整体指導を受けた時の「着地点」が良いところに定まっていくはず。

力まない、けど「芯」がある。しなやかな心と体を養える整体院を目指します。今月はもう一回、8/27(土) に活元・愉気の教室を行います。

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8月 活元運動の会

8月の活元会についてご案内いたします。

■日程
8/14(日)  14:00-17:00(坐禅・活元)
8/27(土)  10:00-13:00(活元・愉気)

■場所
横浜反町 せい氣院

■料金
各回3,000円
※当月・前月に当院の個人指導を受けられた方は2,000円

■服装
白系の柔らかい服装をご用意ください(インナー着用可)。

■内容
8/14は活元運動の前に静坐して禅を組みます。意識の鎮静を味わうために、ゆっくり息を吐いて、全身のゆるみと腰の自然な伸びを創ります。

8/27は活元運動の後に愉気(手当て)の実習を行います。統一した身心と柔らかい手で触れる感覚を訓練いたします。

初めてご参加を希望される方は、一週間前までに「予約・お問い合わせページ」のメールフォームよりお申し込みください。その他の方は前々日までにご参加の旨をご連絡ください。

以上、宜しくお願い申し上げます。

野口整体 せい氣院
朝比奈洋介

体が整う意識

ゆる体操が発案・発表されてからどれくらい経つのだろうか。

身体運用法の極意としてリラックス(=ゆるむ)ということが着目されてから、スポーツの世界から日常の故障予防、治療にいたるまで身体論の世界は飛躍的に変容した。

そういう観点から整体操法の要点をまとめるなら、「無意識的に入った力を如何にゆるめるか」ということに集約される。

極端な事を言えば、ゆるむのだったら方法はなんだっていい。

手技療法ならば、やさしく触れればそれだけでゆるんでくるし、対話で感情を吐露することも効果的だ。カラオケなどで発散することもできるし、泣くことや笑うことでも長びく緊張を緩和、解消してくれる。

そして、これらはどれもみんな普段から無意識的にやっている。

潜在意識には平衡要求というバランサーが備わっているので、何もしなくてもどんどん良くなろうという力が働いているのだ。

「じゃあなんで私は治らないの?」と思われる方もいるかもしれないが、よくよく観るとやはり一年前と同じということはない。

やはり何か変わっている。

悪くなっているように見えても、内実は良くなる方向へ変わっている。

いわゆる中庸という速度なのだが、人間が慌てるとこの中庸がおそく感じる。すると焦って何かしてしまい経過が乱れるのだ。

だから、「整体」というのは他動的な技術ではなく、自分自身が積極的に自然に任せる態度を意味している。

何もしないということに全力を懸ける。

実際は「何もしない」などということはありえないのだけど、人為の中の無為を生かすということだ。

科学的に言えば理性の働きを最小に抑えるということになる。

妄息(や)めば、寂生ず。

無心となって整う。

整体とは意識の形だ。