整体生活

気がつけば「野口整体」という言葉を最近口にしなくなった。巷でもあまり聞かなくなったような気がする。

なんというか、2002年に『整体入門』がちくま文庫に入った時が第一次のピークだったように思う。

私が整体法の存在を知ったのが2005年だったので、今にして思えばインフラの波に乗っかった形なのだろう。

それから徐々に小康状態になりつつあるも、最近は「体癖」だけが整体法から遊離して一人歩きしている感がある。

さて本来の整体ということを考えていくと、つまるところそれは「生き方(=死に方)」に集約される。私の先生はそれを「心の態度」と言い表していたけれども、まあそういう面が強い。

野口先生が治療から体育指導、そして教養の付与という在り方にシフトしたことからいえば、同氏の最晩年10年間師事した私の先生が心の態度と表現したのは尤もである。

「整体」であるためには「整体を保って生きよう」という意欲がまず要求される。その結果整体生活が形成されていくのだ。

一口に整体生活といっても、それは何だろうか。この前の教室で整体生活とは何?という話しになって、ちょっと詰まってしまったので考えた。

風邪を引いたら足湯をすることだと思っている人もいるみたいだがそれは違う。足湯は一つの方法論で、これが整体だといったらそれはもう形骸化した死にものである。

薬を飲まない、ということが印象につよく刻まれる方もいるだろうがこれも違う。そもそも野口晴哉は薬を飲まないことを要求していない。

これらはみな整体生活の結果として生じてくる副産物であり、影に過ぎない。

整体生活を端的にいえば「裡の要求を活かす生活」ということになるだろうか。「全生」という言葉もあるけれども、こういう言葉は下手をすると人を観念の遊戯に陥れてしまうから注意がいる。

全生せよ、要求を活かせ、というとそれだけで何か立派なことをやっているような気がしてくる。自分が実質的に何にも変わってなくても、人が集まってお題目を唱えていると群集心理で昂揚する。

こういう類のものは目の前の憂慮から一時的に目を背けられるから中毒性がある。なかなか厄なのだが昨今は似非宗教でも自己啓発系の団体でもこういう心理構造を使って顧客を囲い込んでいるものが多い。

あるいは自分勝手な我見を振り回し、要求を垂れ流して生きることが自然でありそれが整体だと思われたらこれもとんでもない誤解である。

リベラリズムやアナーキズムと混同されることもある。整体実践者を標榜するものの態度や外見にも問題があるのかもしれない。

少なくとも上の二つには対立する別のイデオロギーがある。今まではこういう価値観や考え方だったからダメなんであって、これからはこうすべし、という行き方である。

しかしそれはもう相手の考え方に捕まっている。考え方は所詮考え方で、時代や地域が変わればいくらでも湧いて出てくる。そして決着を見ない。イデオロギーのある所には必ず対立と闘争がある。平和主義者も反平和主義者と対立し、時には戦争もする。

整体はただ一言、考え方を離れよ、という。そういう意味では禅に近い。というか同根である。つけた花の色が違うだけで、理想とする完成形は同じなのだ。

感じて、動く。そこに秩序がある。というか自ずと秩序が現れるように体を整え生活することである。体が狂っていれば要求もおかしくなる。こういうものを野放図にしてはならない。

人間を含む生命体にはもともと内的秩序がある。これを敬い、自我をその下位に置いて慎む。これは東洋的な自然観だ。文学的にいえば心を無にすれば秩序が現れる、という。それを老子は「道」といい、荘子は「遊」の中にこそ生命は輝くという。

これとは反対に西洋の機械論は「秩序は人間の智によって生み出すもの」と考えて来た。カオスは混沌と訳されるが、あれは言ってみれば滅茶苦茶という意味である。

荘子のいう渾沌は人間の手の付けられない域にいつも整然とあり続ける、絶対的秩序を意味している。

例えば「働かざる者食うべからず」というのは外からの強制であり、個人の中にある放縦を睨みつける心があるけれども、「一日為さざれば一日食わず」といったらこれは内的な自律の心である。動かなければ腹は減らないのも生理的な道理である。

誤解がないように言っておくと東洋が西洋よりも優位だなどと言うつもりは毛頭ない。西洋文明の優れている点は日本の近代史をみればいくらでも見出すことはできる。

だからといって近代以降西洋一辺倒で発展して来た我が国がその飛躍の影にいかに多くの問題を生んできたかを考えると、西洋と東洋のいずれが優位かという判定を一元的に下すことの難しさがわかるだろう。

ただ整体には整体の原理があるわけで、我々日本人がこれを理解するためには東洋的自然観及び生命観を再認識することが有効だと思うのである。

認識や分別心を極限まで鎮めた時に心の平安と体の平衡が実現する。これは工夫の上に工夫を重ねて病気を駆逐し、ようやく健康を実現させようという西洋医療の視点からは完全に死角になっている。

ではその自然の秩序を体現するにはいかにすればいいか、ということが最も重要である。整体も禅も観念の遊戯ではない。いまここで実践してはじめて現れるものである。

これはいろいろなことが言えるけれども、今の私が一言で表すならそれは「独りになる」ことである。

しかし集団生活を離れて勝手気ままな生活をする、ということではない。集団の中にあっても独りの時間を作り出しこれを大切にする、ということである。

なにも結跏趺坐を組まなくてもいいから心を虚とか空のようなイメージで、ポカンとした状態を作ってそのままそっとして置く(ただし眠ってはいけない)。そうすると自ずと考え方が止んでくる。

野口は自らの整体法を「虚の活かし方也 無の活動法也」と説いているが、ポカンとすることはその源泉ではなかろうか。

道元禅師は「心意識の運転を停め、念想観の測量を止め…」と言っているけれどもこれに非常に近いものを感じる。

そしてこんな軽微なことでもいざ実践するとなると現代はなかなか難しい。街に出れば無数の音や光が飛び交っている。家の中にいてもいろいろな刺激が飛び込んでくる。こう考えると、独りになることの難しさや価値がわかるだろうか。

「独りになる」をもう少し即物的にいえば脳の働きを切り替える、といったらわかりやすいかもしれない。

野口先生は「良い頭はみなポカンとするのです」といったそうだが、ポカンとしない頭はどんなに「優秀なこと」を考えていよう悪い頭だということになる。

最近の脳科学ではこのポカン状態の時に脳内にあるデフォルトモードネットワークなるものが活性化していることを発見した。意識と無意識を巻き込んだこころの創造的活動はこの時に行われるのだという。

ここからさらに静の状態を保ち続けるとやがて「ただ事実に触れている」というか、事実そのものになりきっている自分に「後から」気づく。

これを禅では見性とか成道(じょうどう)とかいうけれども、まあ別にそんな特殊な言葉を持ってこなくてもいいかもしれない。

ともかく現代はこういう心の状態、意識の状態を意識的に作ろうとしないことにはままならない。

これは新渡戸稲造が『修養』という本の中にも同様のことを書いているけれども、意識の働きを積極的に鎮めることが現代社会における修養、養生の急所なのである。

整体法の場合は、もう何度も言っているように活元運動がその方法である。整体生活とは取りも直さず活元生活なのである。

活元運動は決して不思議な健康法などではない。禅では「惺惺著」というけれども、あくまで合理的な自我の覚醒下に行われる高度に洗練された身体技法といって差し支えないものである。

この活元運動を行うこと、そして独りの時間を作ること、こういったことが整体生活を支える柱となるはずである。

やろうと思えば誰でも今すぐできる、やりたくなければやる必要はまったくない。大道無門の世界だが狭き門にするのも当人次第といったところだろうか。

体得

体得という行為が世の中から失われつつある。

体得は体を通じて自認されるべき知識や技術であって、スポーツとか芸事、あるいは職業的な技能などは当然ながらこの体験によって会得するというプロセスが重んじられる。

しかし上に述べたような事柄以外、いまは大半のものが「調べる、分かる」ということでカタが付いてしまう。

学校の勉強、あるいは試験勉強などがその典型といえる。これはインターネットの普及と切っても切れない問題だろうけれども、この「調べる、分かる」というプロセスが体得に代わって現代の価値観を席巻してしまった。

非対面であらかじめ作られたプログラムを受動するeラーニングなどが現時点の最終形態といってもよさそうだが、ひとことで言えば「知る」という行為が過剰に幅を利かせてしまったのだ。

これはこれで便利な側面もあることは認めるけれども、体、体験というものが忘れ去られてしまったことの損失は前者の利点のみで補いきれるものではない。

私の立場からいうと教育と医療というこの二つの分野において、経験よりも情報の授受が先立っていることが気にかかる。

学校ではとにかく「覚えさせる」という、記憶に重点を置いた教育になってから、かれこれ一世紀が経とうとしている。

物事に直面した時に記憶に頼らなければならないのは当人の創造性の欠如に他ならない。

したがって子どものうちから記憶することを繰り返し訓練することは、既存の知識群のインプット・アウトプットに頼ることであり、創造性という観点から見れば頭を良くするどころか却って悪くする行為となりかねない。

その証拠に記憶することが達者な子どもほど難関大学を出て国家の中枢を動かしているものだから、現今の日本の行政は未曾有の出来事に直面したときの応用力や瞬発力というものが著しく乏しい。

医療にしても同様である。科学によって標準医療と言うものが一律に定められているために、今では現場の医師が個人的体験を基に主観を働かせる余地は異常に狭くなっている。

予め決められた判定基準に基づいて患者を診断し、診断の結果が出たら同様に定められた処置をする。これなら医療者が人間である必要はないではないかと思っていたら、個人的にもっとも危惧していたオンラインクリニックなるものまで出来上がってしまった。

未熟な主観に頼るのは勿論よくないが、客観的事実の集積によって総体を理解し得るという考え方は旧世代から引き継いだ悪癖である。

当面はまだ人間の介入が必要だろうが、早晩システムの管理職を除いて、現場から生きた人間の体温は徐々に失われていくことになるだろう。

なんというか「時代の流れ」というひとことでは受容しきれない異臭を日々嗅がされている気分である。

こういう世相なものだから自分のような者にも仕事があると言えばその通りなのだが、どうにもならない潮流の中でどうにかしようと足掻くことがライフワークとなりつつある。

体得から焦点がずれてしまったけれども、総じて体というものが忘れられたことによって、歳月をかけて「体で学ぶ」という文化は今後さらに希少的価値を帯びてくるだろう。

そこで何を体得するかは重要である。それが西洋発祥の随意筋を主体とした競技スポーツ、あるいはそれに付随する体操や運動ではないというのがもっぱらの自論である。

スポーツは体育としてなかなか優秀な面も合わせ持ってはいるのだが、いかんせん「競わせる」という意識が強すぎるために個人の運動能力を無視して肉体に過度なストレスがかかりやすい。

体育を目的としたスポーツをやりながら怪我や故障が頻発するというのはパラドックスなのだが、こうした矛盾が看過されたまま青少年の健全な育成にまで適用されているのは問題だろう。

弾力のある丈夫な体を育むためには随意と不随意、意識と無意識といった身心の陰陽を同量に刺激するものでなければ片手落ちである。

現代は学業でもスポーツでも常に競争にさらされ、子どもたちは意識過剰の環境の中で日々苦闘をしいられているのだ。だからこそ感情や意識以前の心と一体となって動く不随意筋群と錐体外路系を主とした体育こそがいま暗に求められているのだ。

その具体的方法としてさしあたり活元運動と禅はどんな人にも一様に勧められる優れた方法なのである。

ここに至って、無意識的思考、無意識的動作の訓練に重きを置いて来た日本文化の奇特さを再考することが、近代文明の今後を考える上で大きな意味を持つ。

「意識が閊えたら意識を閉じて無意識に聞けばいい」といった野口晴哉の言葉は時代や地域性を超えた普遍性を有しているのだ。

いのちの力を解放する鍵は体なのである。体を畏れ、体を敬い、幽かな慎みをもって今日を生きてきた旧来の日本的霊性を一日も早く取り戻し、その上にもう一度近代文明を据えることができたらそれが私にとっての丘の上の町であり、一つの理想郷だとも考えている。そこに至る道はやはり体得より他にないであろう。

死の恐怖

コロナ禍の様子を外から眺めていて、何故ここまで衛生法や薬に頼ろうとするのかなかなか理解できなかった。

それをあるきっかけで「どうしてこんなにも病気を怖がるのか」と視点を変えると、少し見える景色が変わってきた。

「病気になったら早く治したい」「治す薬が欲しい」「完璧に予防したい」と渇望する心の背景には無意識の死の恐怖がある、ということだった。

あたかも自分で気づいたように書いていながら、実は野口先生の古い講義録を読んでいたらそのまま書いてあっただけなんだけども…。

そう考えると、去年あった店頭でマスクの奪い合いででケンカになったという海外のニュースも肯ける。「単純にマスクをよこせ!コノヤロー」という話ではなくて、潜在意識化にある死に対する怖さ、というのが意識を操った結果のできごとである。

だから「今回のワクチンは胡散臭い」、「いまいち信用できないので打たない」と言っている人の中にも二種類あって、「人間は生きるだけ生きて死ぬときに死ぬんだ」と達観している人もいるだろうし、「ワクチンは嫌だけど、とはいえ病気は怖いし」とマスクと手洗いでせっせと衛生に努めている人もいるのだろう。

つまるところ病気を完全に克服するには無意識にある死の恐怖を克服するしかないし、それには「生きている」ということの実体を自分で明らかにするより他はないのである。

生老病死を克服する真理は釈迦が2500年前に見つけたものとちっとも変わらない。これは洋の東西などを飛び越えた、生きること死ぬことを貫く真理である。

例えば「アブラハムが生まれる前から私は在った」というキリストの言葉は、そのまま「父母未生以前、自分はどこに在ったか」という禅の公案の答えになっている。

「救済」とか「悟り」とか言われるものの根本は一つなのだ。

そして、どうやら昔の日本人にとっては禅は一つの嗜みだったようである。

ただしこれは生活しているうちに「はっ」と気づくようなもので、親から子へ、または先生から生徒へ「教える」ということはちょっと難しい。

よしんば気づかなかったとしても特にどうということもないので、知ってもいいし知らなくてもいい。人格的にまあまあ育って何か職業につければそれなりにやってはいける。

そうこうしている間に西洋化の潮流の中で禅文化の風土は雲散霧消していったのかもしれない。

そうすると当然心の不安、生死にまつわる漠とした恐怖をぬぐえなくなってくるので、そのポッカリと空いた心の隙間にさっと入り込んだのがペニシリンやストマイをはじめとする科学的医療手段の数々だったのではないだろうか。

だから現代の医薬信仰は中世の人が十字架を握りしめたり、神棚とか仏壇に手を合わせているようなもので、これをふいに奪われると心の安定を失ってしまう。

柱に寄りかかって立っている間はどうしても柱に執着せざるを得ない。

そういう心理構造の背景に「漠とした死の恐怖」がある、と考えるとようやく自分なりに納得ができたのだ。

自分の場合は整体法を知った時から病気の見方がコロッと変わってしまったし(これは野口整体の潜在意識教育のため)、お世話になっていた整体の先生が「野口整体は禅文化だ」と言い始めてからちょくちょく参禅をしてある時期からポコッと禅に対する疑念が途切れて湧かなくなってしまった。

今からすれば「ああ、なんだ…」という程度のものだけれども、これがあるかないかで世の中の見え方がこうも違うものかなと思う。

一般に力のある宗教家というのはそばにいる人たちから漠とした死の恐怖を忘れさせてしまう。それはある面では結構なのだけれども、下手をすると主がいなくなったとたんその集団は総崩れみたいになってしまう。

親鸞でもその死後はすぐに法が乱れてしまったというし、病気や死の克服はやっぱり自分でするより他ない。

いのちの真相は常に自分の中にある。

自分の中といっても中のものは目の前に展開しているので、ちゃんと眼さえ開ければ一瞬で解決する。

人間ははじめから生死を飛び越えて躍動しているのだ。これに気づいた瞬間、無垢な自分がゴロッとそこにそのまま出てくる。そして禍も福も、病気も老いもみんな消えてしまう。

万病に効く薬、これより他になし。

「科学的」であるために

息子(6歳)が保育園で友達とケンカしたという。6歳児ならケンカぐらい毎日するだろうと思ったが、問題の焦点は石鹸で手を洗うべきか否かだったそうで、これでは先生も報告せざるを得ない。

息子が「ばい菌はちょっと残しといたほうが(体のバランスとして)いいから石鹸は使わない」というのに対して、相手のAクン(仮)は「ばい菌はキタナイから石鹸でしっかり洗い落とさなければならない」と言う。

そのままお互い譲らずワー!となったそうだが、先生が間に入って「いろいろな考えの人がいていいんだよ」と収められたそうである。

後で息子には「うちの考え方は少数派なのだ、(ばい菌を)怖がっている人たちの前では石鹸を使うという気遣いも必要なんだよ」と釈明したが、時節がら私がもう少し配慮しなければならなかった。

さて、この話を取り上げたのは「どちらが正しいか」を後から追求するためではなく、別な角度からこのやり取りが気になったからである。

それは「科学的」という視点についてである。「科学的に正しい」ということは言うまでもなく現代においては錦の御旗である。

一般にはAクンの主張は「科学的に正しい」とみなされがちである。免疫学による人体の抵抗作用の考え方よりも細菌学の感染症恐怖の主張が優勢なためにぱっと見正論に見えるのだ。

しかし事実に即して考えるなら、洗わない手でお菓子のつまみ食いをした人たちが毎回お腹が痛くなるわけでもなく、またほとんどの病気にもかからない。

石鹸で手を洗うのは人間の中でも一部で、それ以外の人間やもっと「不衛生な」環境下にいるネズミとかゴキブリがいつの世もあふれているのは野生が衛生知識に勝ることの実証であり、生命の恒常性(錐体外路系)の力を認めざるを得ない。

だからといって息子の態度がより「科学的である」という考えには当然至らない。

そもそもこれだけ科学の大好きな先進文明国の人間が、「科学的とは何か?」ということをどれだけ明確に答えられるかとなると、だいぶ怪しいように思われる。

「科学的」ということの定義をどんどん科学的に突き詰めていくと最後は大分あいまいになるそうだが、私流に言わせれば「それは本当だろうか?」という思考態度になる。

おそらくだが息子もAクンも「ばい菌」など肉眼でも顕微鏡でも見たことはないのだ。

息子は親の言葉を鵜吞みにし、Aクンにも世間一般の論理に対する鵜呑みがある。

お互いが「人がこう言っているからこうなのだ」という考え方を持ち寄り、それを比較してお互いの非をつっ突き合う。人間の争いのひな型がここにある。俗人の神学論争、宗教戦争といえどこの域を出ない。

もしAクンにジェンナーの種痘の話を聞かせて、「予防接種の注射器の中身にはばい菌も使うんだ」と教えたらどうなるだろうか。「鵜呑み」という態度の問題点に気づき、人の話を聞くときにもっと慎重になるかもしれない。

「毒をもって毒を制する」というのは古人の観念論ではなく、毒も薬も同じ物質の二つの側面であることを感覚的に掴んでいたことを匂わせる。

生活に直結しない知識の押し売りよりも、自発的に沸いた興味を丁寧に見つめ「事実に学ぶ」という意欲を育てることはもっと重要ではないだろうか。

息子にもコッホやパスツールの細菌学の話をしたら、ばい菌の怖しい面を理解するだろう。

一人の人間の身体には数えきれない微生物が共存しているが、その数はそれぞれが拮抗し、均衡を保ち、お互いの個体生命の全うに向かって動いている。

このはたらきがなくなったらいくら全身を消毒液で洗おうとも、予防接種を毎日打っても追いつかない。亡くなった人を一週間も放置した姿を思い浮かべればそれは明白である。

生きている間はその個体を腐乱させない「何か」がある。しかし腐乱と言ってもその腐って乱れている中にもやはり「いのち」は在る。

だから一つの微生物を取り上げればやはりそこにも生滅があり、個々が生まれたり死んだりしながら「全体が生きている」という事実が、我々には絶えず死角になりやすい。

これを禅の方では「万法一に帰す(ばんぽういちにきす)」と言ったりするが、その帰る「一(イチ)」というのが私であったりなかったりするから、結局この世は捉え処が無いということになる。

果せるかな、ばい菌を生かすもよし、殺すもよしということになろうか。ばい菌を自らの免疫活性の糧とするか、これを過剰繁殖せしめて死に至るかは宿主の「勢い」ということにかかっている。

畢竟いまの衛生観は人間からこの勢いを削ぐようにも見えるが、確かに先行きの不安に怯え委縮する人もあるかと思えば、苦境に負けないよう自分を鼓舞して働く人もある。またストレスを感じておらぬ人もある。

氷雨に濡れて風邪をひく人、冷水をかぶって丈夫になろうとする人、何もせずに平気に生きる人の違いはここにもあると見え、社会情勢がどうであろうと人間の傾向は変わらない。

「意欲」と「勢い」、この二つは依然として科学で取り扱うまでに至っていない。

結局この世界はよくわからないものがいつも無限の活動をしているだけである。科学はその中から一個を取り上げて、分析により理解させてくれる貴重な道具だが、その道具の使い手は何なのかを一人一人が自覚する必要があるのではないか。

その答えを「外に求めてはならぬ」といった臨済は、一体人々の目をどこに向けさせようとしたのか。頭が大きくなり過ぎた現代の人間こそ、この事を本当に見極めねば自分で自分の始末がつかない、納得がいかないということになりはしまいか。

出だしから話しの論点が大分ずれてきたが、科学を好む好まざるにかかわらず、現代人と呼ばれる我々は自然科学を基盤に思考していることをもっと意識する必要性を感じる。

科学的であるために科学の性質(利点と限界、問題点)を理解し、そのうえで活用すれば、やはり便利なものだのだ。このような冷静かつ公平な態度は次代を生きる子どもたちの思考態度をより上質に導くはずである。

人間の進歩とは、膨大な知識の上にさらに知識を積み上げていくことではなく、自己に対する信頼を代々分厚くして、惑わされない人間を作る術を磨くことにある。

これは「本当にそうだろうか?」という自分自身の眼で真理を求める本当の科学的態度と矛盾しない。人間のものの見方は依然として進歩が要求されている。

「コロナ禍」だって冷静に数字を観れば、他の病気に比して飛び抜けて恐れる必要のないものであることが解る。今までも病原菌は飛散していたし、口も鼻も肺もそれ自身がマスクの役目を果たしていた。泰山鳴動してネズミ一匹とはよく言ったものだが、現代的にはネズミ一匹に大のおとなが右往左往しているようなものである。これが果たして万物の霊長なのだろうか。

最初に戻って子供の問題行動と呼ばれるものを丁寧に観ていくと、それが大人の世界の不自然さや不均衡を代弁していることが多い。大人はうっかり見落としがちだが、よくある「子供のケンカ」と看過してはならに面はいろいろな所にある。

子供の無智を大人の無知と混同してはならない。子供の自然を守ることは次代の自然保護に直結する。真の冷静さや客観性が人間を愛する情熱によって支えられることも矛盾しないのだ。

冷たい試験管の中で展開される科学の世界に、温かい人間の血を通わせることも可能だろう。そうすれば真理を求める意欲はいよいよ増し、巷に横行するにわか科学でも、より科学的になるべく錬磨されていくのではないだろうか。

相変わらず

新年最初のネタを考えながら窓の外を眺めたら、今日は春一番を思わせる強風に、突き抜けるような快晴だった。

ふいに「青天白日」という『碧巌録』第四則の冒頭が頭に浮かんだ。

『碧巌録』は禅の愛好者なら誰もが知る宋代中国禅の指南書である。青天白日とは雲一つない青空のような禅の世界を表す一語だ。

人間の感覚を取り除けば、元々この世界には西もなければ東もない。加えて天地もなければ、過去も未来もない。どこにもとどまらない掴まえようのない世界である。

人間の世界からゴタゴタが尽きることはないけれども、その「人間の世界」とは何かを丁寧に突き詰めていくと、それは取りも直さず「自分の世界」である事がわかる。

世相がゴタゴタしているのではなく、そこに思いを巡らせている自分の頭の中が妄想しているだけなのだ。

妄やめば、寂生ず。自分自身のいろいろな想念に捉われなければ、誰もがそのままで、静かな世界に住めるのだ。自分の本当の世界は最初から何もない、澄み切った空の如しである。

達磨の廓然無聖(かくねんむしょう)も、このいのちの真相を武帝に示すために仕方なく吐いた言葉だ。

はたして武帝は達磨を見誤ったが、我々はこの事がわかれば相手にするのはいつも自分一人でいい。そしてその自分の母体である身体を整えることは何よりも尊い行為である。整った体は鏡の如くこの世界の真実をそのまま映す。

だからといって整えるために何かをする必要もない。むしろ「何かしなければ」という焦りはかえって自然の息を乱す。

「何もしなくても健康だ」ということが自覚されるためには人間の場合周到な訓練がいるが、整体法はそうした訓練法の集積であり総称だと考えたらよいと思う。

その基本となるのが活元運動なのだから、これを自ら実践して人の興味を刺激し伝播させることが整体指導者の役目だろう。

こうやって縷々考えていくと、年が変わっても結局自分の願いは変わらない。従来からずっと今を生きているのだから、以前の念から続く現在のこころはいくらでも進歩するし、また進歩などしない。

親の生まれぬ前から、相変わらず自分はずっと自分のままだ。

どうも「相変わらず」ということはすべての人間の出発地点であり、終着地点であるようだ。窓の外は変わらず日が差している。自分はやはりここにいる。

世界の中心は

そのむかし蒋介石を相手にせずといった政治家がいたが、コロナの相手もそろそろ飽きてきた。

いやもとより相手にはしてないんだけど、世相が右往左往するもんだから何をするにも不便である。

余談になるけども、この状況に小さいころ雪の日に父の車で出かけた時のことを思い出す。その当時たまたま車が4WDだったので自分たちは雪の弊を受けないのだが、次第に前後の車が動けなくなり結局坂道で立ち往生したのであった。その時母が「ウチだけ四駆でも周りが動けなきゃしょうがないね‥」と言ったのが妙に印象に残っている。

これと同じ原理で誤った衛生観念が盤踞するかぎり、自分一人楽土を歩むことはゆるされないことを今更ながらに痛感した。

与えられた状況で困る困らないは依然自分の勝手なのだが、現実問題、周辺の施設は閉鎖するし、マスクと手洗いを無言で迫る風潮にもそろそろ飽きてきた。

見ているとこうした社会倫理に疑念と違和感を持つ人は少なくないようだ。その証拠に某夫人が外で会食をしたというだけで批難が殺到した。民間でも休日にあそこの公園に大勢人がいた、不謹慎だ病気が蔓延したらどうするのか、と直接言うならまだしも後でポータルサイトのコメント欄やSNSに匿名で告げ口をしあう始末である。

言わずもがなだがこれらは「私だって我慢しているのに」という不満の投影に他ならない。雨の日に閉じ込められた子供が、体力を持て余したあげく陰気になって「○○ちゃんが○○してたよ!」と告げ口をしあうのと同じ原理で、これはこれで健全な生理現象と見るべきである。

したがってそういう行為に走る個人をいちいち取り上げても益なく、非効率である。もう少し因果的な視点で問題の根幹に目を向けると、そもそもが人間をそんな卑小で陰惨な姿におとしめているのは何かということになる。それは取りも直さず、現代の誤った衛生知識じゃないか。

ではその衛生を生み出したものは何か。それは外界探求を根本的欲求に据える自然科学のパラダイムである。さらにその科学を生み出したのは西洋思想の源泉ともいえる、自他分離の観念、我と彼とを真っ二つに分ける二元論である。

俺が俺が、という我。その「我」の境界線をどこに引くか。それこそが大問題なのである。その線をちょっと引き間違えただけで、時に何万という人間を一瞬で死に至らしめる蛮行まで生ずる。まあこの話は少々長くなるのでまた機会をあらためるとして‥。

本来健康に生きる道というのは本人も周りも楽しく生きて、元気よく互いの生の発展を感じさせるもの、お互いが生きているということに快を感じさせるものでなければならないはずである。

ところが現状は真逆であり、ちりぢりに分断された個人が憤懣やるかたなく息を詰まらせている。そうして遠くからお互いの自由でありたい要求を監視し合い、にらみ合い、突つき合う始末である。屈辱だ。むろん全ての人がこうでないことはわかっているけれども、少なからずこういう不健康な衛生観念が巾をきかせるような行き方が本当に人間の進歩なのだろうかと問いたい。

誰も彼もが何か妙だ、おかしい、と無意識では今の衛生観念の欺瞞を看破しているのに、もう一つそこに信が持てないのだろう。もしくは他に良案が思い浮かばないので、仕方なく現状の在り方につき従っているのかもしれない。そこは「カガク的」という言葉の魔力である。

無論中には長いものには巻かれろ式、事なかれ主義もあるだろう。加えて全体の意向を尊重し和を乱さないようにする日本的美徳とも相まって、多くの人が「今」という自由性を見失っている。

そもそもが病菌なんて人類発生以前からいたるところにいる。それをマスクをした、手を洗った、換気をしたからどうなるというのか。今だって無数に体に付着し、鼻からも口からもどしどし侵入しているのが真実である。無菌状態なんてどこの自然界のどこにも存在しない。

それこそ団子を一つ、刺身を一切れ食べたってそこに何万という雑菌がいる。そう考えていくと煮炊きしないものをそのまま口に入れるのは恐ろしいことである。それなら煮沸・滅菌という観念に囚われて、饅頭を茶漬けにしないと食えなくなった医者に範を求めるべきではないか。

しかし真実はいつも事実に現れるもので、その雑菌だらけの中で生活しながらケロッと生きているのが人間の実態である。たとえ当人が頭の中で病菌よウィルスよと震え上がっていても、残念ながら体の方にその必要がなければ何ら発症しない。錐体外路系の働きによるものである。

よしんば発症したところで、人々が病気よ、病魔よと怖れるそのはたらきは何のことはない単なる人体の抵抗作用なのである。咳くしゃみに始まり、発熱から下痢にいたるまで、病症とはすなわち身体の偏りを正し、正常な状態に返ろうとする生体の安全弁であることをおのおのが自覚せねばならない。

この大宇宙の生命は須らく一蓮托生であり、それはある一つの合目的性を有している。身体に必要があるときに周辺の生命体と協力して、鬱滞したエネルギーを振作し抵抗作用を発症する。これが病気と呼ばれる現象の正体である。

このはたらきによって古くなった組織は破壊され、偏った骨格もその発熱によって暫時正される。のみならず、体内に残留する不要な老廃物は下痢、小便、発汗、鼻水といったもろもろの排泄作用によってみんな体外に出されてしまう。

言わばこの新陳代謝の作用によって生きた体は絶えず刷新され、生を全うする道もこのはたらきによってはじめて開かれるのである。たった今もそうやって内外の環境に適合する身心を創造しつづけているではないか。破壊と創造とは別々に存在する真逆の作用ではなく、健全に生きようとする生命現象の両側面に過ぎなかったのである。

ところが全体から分断された局所的知識に囚われると、病症は死を近づけるだけの破壊作用にしか見えなくなっていく。そうしてこれを駆逐することが人類が生き延びるための唯一の道と錯覚し、カガク者を旗手として人類はあらぬ方向に驀進してきたのである。

やがて人間を活かすために追い続けた医学の知識は、気づけば病気を地球の主人とし、人間を病気の機嫌を伺いながら息を殺して生活する召使いにしてしまった。そうして病気の隙間を見つけては、人間がこそこそ怯えて歩く世界に染まりつつある。

ある人は言う。「でも現実に病気で死ぬではないか」と。確かに人は病気で死ぬのかもしれない。なるほど癌も怖いかもしれない。風邪も肺炎も怖いものかもしれない。しかしその人は病気にならなかったら死ななかったのだろうか。

そもそも病気を乗り越える体力や気力がなかったとは言えないだろうか。もしかしたら、病気を怖れる余りもちまえの抵抗力が委縮し、その恐怖心のために死んだのではないだろうか。

あるいは病気を治そうと焦り、処置を誤ったがために自然の経過を乱し、死ななくていいものを人為的に死に至らしめたのではないと、どうして言い切れるだろうか。もしそうだとすれば、果たしてそれは「病気で死んだ」と言えるだろうか。

また別な視点で考えても、風邪をこじらせて重症化するような鈍った体を作ったのは一体誰か。癌を作るような冷たい体のまま放置して鈍重な生活を繰り返していたのは一体誰の責任であろうか。

本来病気を必要とする体というものは、甲の病気を避ければすぐさま乙の病気に罹るようにできている。そういう偏り鈍った身体を正すことをまず考えるべきではないだろうか。

生まれたときはみな敏感で弾力のある身体をしていたのである。それをせっせと50年かけて、癌を作るような冷たく固い身体を育ててしまうずさんな態度や文明の在り方をわずかでもいいから正して行く、そういう道を開拓することはできないだろうか。

またある人は「病気を怖れず人々の接触を再開させろ」という。その論は結構だが、理由を問うと経済を回すためだという。

これもやはり金が主人になって人間を生かしているようである。病菌に追われて生きているのも妙だが、金に人間が生かされているような考えもやはりおかしい。人間が活発に生きているからこそ金も金としての価値が生ずるのであって、人間に力がなくば金もただの紙切れと数字になってしまう。だからこの論にもやはり主格顛倒は否めない。

経済のためではなく人間が主体を取り戻し元気よく生きるために、ありもしない不安を生み出し流行らせる行為はもうやめよと言いたい。

生命はみな一つの宇宙秩序ともいえる合目的性に向かって共存共栄しているのである。この事実を一人一人が本当に覚らねばならない時代がもう既に近づきつつある。

そのために何をすべきか。それは先ずもってみんな自分のいのちに自信を持たなきゃいけない。自分のいのちとは何か。それをまさか5、6尺の肉体と、せいぜい7、80年の寿命をもって我が「いのち」と思ったら大間違いである。

「自分」とは皮膚の皮一枚で外界と分断され、孤立した生命体と思っては誤りである。実際その自分を保っていくためには体内に水も米も魚も野菜も通過させなければならない。いやオレは魚は食わん、肉を食ったら残酷だという者もいるかもしれないが、そんな者でも息をしなければ5分と命が持たない。

現実に自分の肉体以外のものと絶えず接触し、流通を続けなければ何も為すことができないのがこの個体生命というものである。

しかしいのちとは、そんな卑小なものではない。一体自分のいのちとはいつから始まったのか。オギャアと生まれ出た時か、それともへその緒を切ったときか、はたまた母の体に入ったときか、父の体内に精子ができたときか、いやその父母のそのまた両親の中にすでに自分のいのちはあったのか。それはカガク的な追及手段では永久に掴み得ないのである。自己の生命の本体は、自分で覚る以外に絶対に分からないのである。

そういう内なる教養を育む教えが今何よりも必要だ。本当に身体が整い、意識が静止したとき、そこに現前するいのち。それを悟らなければ眼前の不安が去ってもまた新たな材料を見つけては不安になる。その不安だ、不安だ、という意識をまず止めなきゃいけない。「妄止めば、寂生ず」である。

意識の活動水準を下げるためには頭で「意識を止めろ」といくら考えていたって埒が開かない。身体の筋という筋が全部緩まなければ、筋紡錘から絶えず脳へ信号が送られその働きを停止しないからである。そのために身体から余分な緊張を抜き去り、自ずから整うように誘い、その本来の働きに任せきって生きられるよう新たに訓練をする必要がある。

少し論に飛躍があったけれども、兎に角一人一人が意志をもって、自分というものがこの世界の中心であることを自覚すれば、その生命に対する信は今この瞬間から強固なものとなる。

この信を得ればいたずらに恐病の風潮に惑わされることもなく、世間に横行するあまたの世迷い事にももはや流されない、万難不屈の大丈夫に至る道もかくて開かれるのである。

答えはいつも我が身の内に在り、である。一人一人がそういう幸運に恵まれていることを自覚し、たゆまず参究すればやがて必ず流れ着く処がある。そこが世界の中心だ。

臨在は「赤肉団上に一無位の真人あり」と言い、永嘉は「絶学無為の閑道人」と言った。またトルストイは物質現象以前の存在、未来永劫に失われない内なる霊を悟り、その不滅を説いた。

どれも言葉が違うだけで意味する所は同じである。物質の世界がどう変化しようとも不滅の健全さと共にある自分、いや歪みようのない、侵されようのない自分というものが本来の自己である。

なるほど誰も彼もがひょこひょこ得られる心境ではないかもしれないが、一方では誰も彼もが今この瞬間に自覚しさえすれば、そこにそのまま現れる健康の人がある。

外の世界のあくたもくたに追われるあまり、くれぐれも掌中の珠を見逃さないでもらいたいと願う。かくいう自分もよくこれを見失うので、是非ともそのような生き方をという願心を日々新たにする今日この頃である。

そう考えれば目下の時勢も事上磨錬にちょうどいいかもしれない。今日もぼちぼち歩いて行こう。

情報の価値

つい先ごろまでyoutubeのゲーム実況を観るのが唯一の楽しみだったのに、年明けぐらいからいろんな発信者が急に増えだしてなんだか一気につまらなくなった。つまらないだけならいいが、さすがに昨今のウィルス情報の氾濫には気分が滅入るのでしかたなくサイトを開くのを控えている。

いまの世の中は誰もかれもが情報を欲しているようだ。仏教では貪・瞋・痴を苦しみの根本原因として戒めるが、その最初にあるのが貪、すなわち貪りである。

何も服が欲しいとか車が欲しいとかいう物欲だけが貪りではない。どっかに面白いニュースはないか、誰か気の利いたことを言わないか、あの人はこー言った、だがこっちの人はこう言っている、はたしてどっちが本当なんだと延々やっている。

そうやって自分のいまの実生活を自ら捨てて絶えず駆けずり回っていたらそれは立派な貪りである。そうこうする間に自分の目の前の現実の方がほったらかしになり、ぐしゃぐしゃになっていくではないか。洗濯か掃除でもしてた方が近所迷惑にもならないし、はるかに生産性がある。

はっきり言えば「情報」など最初からどれも偽物である。群盲が象を撫でる例え話があるけども、人間というのは誰も彼もが自分の立ち位置から見たものに勝手な見解をつけて語るようにできているのだ。

例えば試しに茶を飲んでみればわかる。茶を飲むと飲んだ時だけ茶の味がする。そこでどんな味がしたか?と聞いたらある者は旨かったと言うかもしれないし、あるいは渋かったというかもしれない、あるいは甘かったという者もいるかもしれない。しかしここで改めてもう一度飲んでもらいたい。

はたしてその「旨い」ということはどこにあったろうか。「渋い」とか「甘い」などという現象が本当にあったろうか。そう考えていくと言葉による現実描写の限界にすぐ気づくはずだ。実体の現象の方は時間にしても規模にしても言語をはるかに超えている。

だからといってがっかりすることもない。真実・真理というものは誰一人として見捨てることなく、いつだってどこにも隠されていない。むき出しになって今も自分の目の前に展開されているじゃないか。そういう観点からいえば世界はいつも平穏であり、平等なのである。

いつの世もそうだろうが、何か事が起こった時に一緒になって騒ぐ人間にはまあ事欠かない。いくらでも、どっからともなく野次馬は沸いてくる。文明生活というのは基本的にエネルギーが余るようにできているもんだから、退屈しのぎがあればすかさず飛び付くようになる。

それも余剰エネルギーの鬱散をはかる生理現象だろうし、人間もまた自然の動物であったことを認めざるをない。そんな人間でも訓練次第では境遇に左右されずに静かな世界を生きられるようになるのだから面白い。

頭ではくだらない話にすぐだまされるような輩でも、いのちの方は絶対にだまされない。降っても照ってもその通りのことがその通りに、そのまま展開するだけだ。愚かな頭というのはあっても愚かな生命はない。いのちは太古の昔から未来永劫、完全無欠である。

それ故意識の活動水準を極限まで下げて、いのちとの深いつながりを自覚している者はいつだって事の真偽を正確に見分けることができるのだ。

そういう開かれた目のことを慧眼とか心眼とかいう。

臨済宗の禅僧である大森曹玄老師の『心眼』という本にはそういうことが書いてある。老師がまだお若い時分に関東大震災に遭われた。そのところを少し長くなるが引用してみよう。

それは関東大震災のときでした。私は従兄弟の安否を気づかって、下谷の彼の家を見舞ったのですが、そこは猛火に包まれていて寄りつけるものではありませんでした。やむなく上野公園を迂廻して帰りかけると、偶然にも寛永寺坂付近で避難中の従兄弟の一家と逢いました。彼らとともに一夜をそこで野宿して、翌朝、彼と一緒に焼け跡に行き、焼け残った釜を拾って戻りかけた時のことです。

突如、どこからともなく「津波だッ」という叫び声が起こり、群衆はワーッとばかり、われ先に上野の山を目がけて走り出しました。私も釜を投げ出して、群衆とともに一目散に走りました。

空は雲煙に覆われて夕方のように暗いし、鷗でしょうか白い鳥の集団が上野の森を目指して飛んで行きます。たしかに津波の来そうな不気味な状景でした。

そのとき一人の壮年が立ちはだかって、大声で群衆を叱咤するように、

「馬鹿ッ、この近くに海はないぞッ!どこから津波が来るんだい!」

と怒鳴りました。この一声で冷静になってみると、なるほど津波の押し寄せる条件は上野の山下には何一つありません。群衆は悪夢から目覚めたように、ぞろぞろと焼け跡へ引き返して行くのでした。私の徴兵検査の前の年でした。

そのとき、私はしみじみと目覚めた一人の真実の叫びの力づよさを感じました。…

これは現代でも変わらず言えることだろう。東日本大震災の折にも大小さまざまなデマが飛び交ったことを記憶している人はまだ多いはずだ。私の知る限りでも、もうすぐにでも東京に直下型の大地震が来る、などといって地方に転居してしまった人までいた。

当然だがどこに行ったって地震もあれば雷もある。疫病も流行るし不況もくる。それで困るか困らないかは、自分の力量次第なのである。例え火星に行って住んだって、自分に煩悶があればその自分自身からは逃げられない。

これほどしっかりとした自分といういのちを与えられていながら、本来の自己というものに目覚めない限りは一向に主体というものが現れない。そういう者は絶えず時流に流され、人間に生まれながら風に舞う紙屑のように右往左往してしまうのである。

『臨済録』の中でもっとも有名な「随所に主となれば、立つ処みな真」という一句が千年の風雪に耐えたという事実からも、優秀な頭を持つ人間が外境に惑わされずにいることの難しさを理解できる。

私の整体の師匠が言っていたけれども、何か事が起こった時でも昔なら「まあちょっと落ち着け」とか「まず座れ」とかいう人が必ずいたという。兎に角、ひと呼吸おいて冷静になれ、という「できた」人物がそこにもここにもいたというのだ。しかしながら今はみんな動いてしまっているので、周囲の動揺に冷静に気づける人物が少なくなったことを憂いておられた。

野口先生も生前「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」とか「気のしっかりした人がいなくなった」とおっしゃっていたそうである。またある所には「どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る」とも記してある。これが判らなければ「鈍っている」と言うべきで、体を整え、心を静めれば自ずから判るのだと続け、身心の感受性を鋭敏に保つことの重要性を繰り返し説いている。

引用にあった「壮年」氏も、右往左往する群衆の中から必死に情報をかき集め、考え抜いたあげくに声を上げたわけでないことは明白である。いのちの根源から突き上げてくる「直感」より発せられた一声であり、まさしく魂の叫びである。

これに類するものとしてキリスト教文化圏にはスティル・スモール・ボイスという概念があるそうだが、理性の過剰亢進によって意識が混濁しやすい現代人からしたら、こうした幽かな「魂の声」や「神の声」を聴くことは困難を極める。

逆に言えば、多忙な現代を生きる今だからこそ、自主的に意識の鎮静化に努める時間を持つことが求められるのではないか。野口晴哉も「意識がつっかえたら、意識を閉じて無心(無意識)に訊く」と言い、ここでも瞑想の必要性を暗に示唆しているように思われる。

「落ち着く」というのは一見すると体とは別個にはたらく精神力のように思われるが、その実、精神を支える土台となるものは身体に他ならない。換言すれば落ち着きとは即ち身体能力なのである。

話を病気の方にシフトすると、結核でも克服して丈夫になっていく身体もあれば、風邪を乗り越えられずに死ぬ身体もある。これは学説ではなく事実である。

つまり生きた人間が持つ抵抗力ということを度外視したまま健康も治病も語れないはずなのだが、現実は無機的な研究室の試験管の中で病原菌の研究ばかりが盛んである。その結果病気に怯える知識は蔓延したかもしれないが、個人を如何に理解し丈夫に導くかという人間探求の道は頓挫したままである。

忘れないで欲しい。生きた人間は外境という風に吹かれて漂うだけの木の葉ではない。訓練と修行のやり方次第では、強い意志と主体性を確立して世界を幾重にも塗り替える力を持つ、可能性に満ちた稀有な生命体なのである。そういう人間に生まれたという僥倖に気づかないまま、真剣に悩むことも心底苦しむこともしないでただ飯を食って生きているようならこんな馬鹿な話はない。

先ほどの落ち着きの話と重ね合わせても、本当におそるべきは環境や外的ストレスではなく我が身体である。身体性の低下こそが諸悪の根源であり、身体性の再考、再構築こそが全人類を上げて取り組むべき焦眉の急なのだ。

いま横行する過剰な情報も発信者の身体性以上のものは出てこないだろうし、受信する方だって身体性が低ければその低い程度の情報に飛びついて延々と踊らされるはめになる。

そう考えると九年間も壁の前に座り続けただけで名前が残った達磨大師はやはり偉かったのだ。外界からの一切の刺激をそのまま享受し、またこちらかは無駄な言葉を一切発しない。禅の象徴ともいえる黙の精神の峻烈な体現である。

意図的に一切の情報発信をしなかったということが逆に強力な主張に化けて、それが1500年も語り継がれるというパラドックス。それこそ水疱の如く出たと同時に消えていくSNSのつぶやきの対極ではないか。ありがたいことに答えはいつも優秀な先駆者たちによって示されている。その教えを受け取れるかどうは個人の資質と努力に委ねられるのだが。

ここまでくれば何もあくせく出かけて行って世界を取り変える必要はない。自分を治めれば万事収まるのだから。ただちに馳求を止め、正坐し深い息をしよう。そして茶でも飲んで、無用な買いだめと動画のアップのをやめてくれ。いやだから俺も黙って深い息をすればいいのか。自分の掘った穴に落っこちてしまった‥。

聖にあらず、俗にもあらず

野口整体というのは奇想の健康哲学だと思われるフシがある。

しかし、少し落ち着いた心でその本質を見つめてみれば、きわめて順当な生命観であることがわかるはずだ。

釈迦の悟りも達磨の廓然無聖も、俗を離れて聖を説くようなものではない。

俗世の真っただ中に聖を見出し、その瞬間にいずれも忘じて無を徹見した境をあらわしている。

病気が治ったから健康なのではない。病気の中にすでに健康の動きがある。

古人は既にこれを天行健と表したが、天行健もまた知識ではない。

自らの体験によって獲得しなければ、いかに真理といえど真理たり得ず。冷暖自知の心を知り、自らの体験を超える世界は何処にもないことを知るべきである。

身体即世界である。

身体(からだ)、それはつまり、空(から)だ。

もとより聖にあらず、俗にもあらず。

身心自然に整えば、霧は晴れ、最初に見ていた世界が現前する。

迷ったのは世界ではない。

自分自身である。

物を追うことを止め、直ちに身を整える可し。

これこそが聖俗を超え、真理に目覚める妙法である。

坐禅・活元運動の会 2018.5.10

今日は坐禅・活元会でした。

いつもと変わらず、脊髄行氣10分、坐禅45分2炷、活元運動45分、仕上げにもう一度脊髄行氣の流れです。

活元運動をする人は老いて死ぬ時にも寝込まない、苦しまないといいます。

自分が活元運動をはじめた青年期には何とも消極的な健康法だと思ったものですが、不惑の年になってみたらこんな素晴らしい修養法はないだろうと認識を改めた。

死ぬ時にジタバタしない、ということはそれだけ「よく生きた」ということ。

今生でやり残しがないということ、自分の全部を使い尽くした、とそういうことです。

そのために無意識の扉を開き、裡の要求を明らめるための坐禅と活元運動を行なっています。

整体とは生活の中に〈たましい〉が現れるようにと祈る、生に対する敬虔な態度である。

人はふとした時に日常の惰性に流され、生命に対する礼を忘れてしまう。

そんな時に意識の活動水準をさげて無意識に耳を傾けることで、生命に対する畏れの念を思い出す。

〈いのち〉に畏れを抱く人は、今日を慎ましく丁寧に生きる。

今日を丁寧に生きる人は、きっと豊かな死を迎える、と思う。

整体とは〈いのち〉に対する学びである。

弱い人はいない

生命は本来丈夫である。

人によっては自分で自分を「か細い」なんて言うこともあるけれど、それは自分でか細く見せているだけで実際に「か細いいのち」というものはない。

もとはみんな丈夫だった。丈夫だったものがいつの間にか「自分は弱い」と思い込んだのである。

問い合わせでも「子供の頃から体が弱くて‥」と書いて送ってくださる方がいるけれども、実はそういうところは最初から信じないし見ないことにしている。

こちらとしては、弱いとうっかり思い込んだのはいつからなのか、誰にそうさせられたのか、が知りたい。

勘違いに陥った地点までさかのぼって、誤解に気づけばもうその時から健康で丈夫な生活がはじまっている。

病気も丈夫のはたらきだし、丈夫で健康に生きているから病気もしているのだ。

このあたりは知識を通りこして体感的に理解するところだが、ここを自得するだけでも年月のかかる人はかかる。整体に生きる、ということを志すなら初関とも言える大切なところである。

全般に高齢になるほど既成の価値観を払拭するのに難渋するけれども、若く見えても先入した観念に頭を占拠され、真理を目の前にしてもそれを受け入れられない人がいる。

昨日のお茶でいっぱいになった茶碗の如く、そういう頭には今日の清らかな水の入る余地はない。

こういう人は生理学的には若いかもしれないが、それだけ老いて死に近づいているのだ。

しかしそういう頭でも利口になることは可能である。

体中の筋をみんなゆるめて、顕在意識の運転を休止させればいい。

「ポカンとする」とはこういうことなのだが、古くなって死にかけているような人がその価値を本当に理解するには、思考の限界性と危険性をよく理解する必要がある。

最近はもっぱら頭を使うための訓練ばかりをどこでもここでも教えているが、休め方を教える人は少ない。そういうものは、さしてウケないのだろう。

あるいは教えていても首から下の生理的働きを無視した方法を平気で教えていたりする。

そもそもが頭脳だけを身体から切り離してコントロールすることに土台無理があるのだ。

本当に頭の働きを変えるには正しい身体智から出発しなければ、永久にゴールには辿り着けない。

釈迦も達磨も禅による救いを体現したが、身体の生理的プロセスに関する記録は乏しい。

その辺りは身心学道を説いた道元の普勧坐禅儀に少し言及されているけれども、言葉のみで万人の個人差に対応するには心もとないものである。

整体の必要を説くのはそのためなのだ。

整体とは「道を為すは日に損す」と言った老子のように、日々頭の中を空にするための訓練である。

自分の弱さを掴んでこれを何とか強くしようとしているうちは丈夫にはならない。

悟りとはある意味、勘違いを打ち消すことなのだ。

道はただ一つ、身体をよく整えること、これに尽きるのである。