死の恐怖

コロナ禍の様子を外から眺めていて、何故ここまで衛生法や薬に頼ろうとするのかなかなか理解できなかった。

それをあるきっかけで「どうしてこんなにも病気を怖がるのか」と視点を変えると、少し見える景色が変わってきた。

「病気になったら早く治したい」「治す薬が欲しい」「完璧に予防したい」と渇望する心の背景には無意識の死の恐怖がある、ということだった。

あたかも自分で気づいたように書いていながら、実は野口先生の古い講義録を読んでいたらそのまま書いてあっただけなんだけども…。

そう考えると、去年あった店頭でマスクの奪い合いででケンカになったという海外のニュースも肯ける。「単純にマスクをよこせ!コノヤロー」という話ではなくて、潜在意識化にある死に対する怖さ、というのが意識を操った結果のできごとである。

だから「今回のワクチンは胡散臭い」、「いまいち信用できないので打たない」と言っている人の中にも二種類あって、「人間は生きるだけ生きて死ぬときに死ぬんだ」と達観している人もいるだろうし、「ワクチンは嫌だけど、とはいえ病気は怖いし」とマスクと手洗いでせっせと衛生に努めている人もいるのだろう。

つまるところ病気を完全に克服するには無意識にある死の恐怖を克服するしかないし、それには「生きている」ということの実体を自分で明らかにするより他はない。

生老病死を克服する真理は釈迦が2500年前に見つけたものとちっとも変わらない。これは洋の東西などを飛び越えた、生きること死ぬことを貫く真理である。

例えば「アブラハムが生まれる前から私は在った」というキリストの言葉は、そのまま「父母未生以前、自分はどこに在ったか」という禅の公案の答えになっている。

「救済」とか「悟り」とか言われるものの根本は一つなのだ。

そして、どうやら昔の日本人にとっては禅は一つの嗜みだったようである。

ただしこれは生活しているうちに「はっ」と気づくようなもので、親から子へ、または先生から生徒へ「教える」ということはちょっと難しい。

よしんば気づかなかったとしても特にどうということもないので、知ってもいいし知らなくてもいい。人格的にまあまあ育って何か職業につければそれなりにやってはいける。

そうこうしている間に西洋化の潮流の中で禅文化の風土は雲散霧消していったのかもしれない。

そうすると当然心の不安、生死にまつわる漠とした恐怖をぬぐえなくなってくるので、そのポッカリと空いた心の隙間にさっと入り込んだのがペニシリンやストマイをはじめとする科学的医療手段の数々だったのではないだろうか。

だから現代の医薬信仰は中世の人が十字架を握りしめたり、神棚とか仏壇に手を合わせているようなもので、ふいに奪われると心の安定を失ってしまう。

柱に寄りかかって立っている間はどうしたって柱に執着せざるを得ない。

そういう心理構造の背景に「漠とした死の恐怖」がある、と考えるとようやく自分なりに納得ができたのだ。

自分の場合は整体法を知った時から病気の見方がコロッと変わってしまったし(これは野口整体の潜在意識教育のため)、お世話になっていた整体の先生が「野口整体は禅文化だ」と言い始めてからちょくちょく参禅をしてある時期からポコッと禅に対する疑念が途切れて湧かなくなってしまった。

今からすれば「ああ、なんだ…」という程度のものだけれども、これがあるかないかで世の中の見え方がこうも違うものかなと思う。

一般に力のある宗教家というのはそばにいる人たちから漠とした死の恐怖を忘れさせてしまう。それはある面では結構なのだけれども、下手をすると主がいなくなったとたんその集団は総崩れみたいになってしまう。

親鸞でもその死後はすぐに法が乱れてしまったというし、病気や死の克服はやっぱり自分でするより他ない。

いのちの真相は常に自分の中にある。

自分の中といっても中のものは目の前に展開しているので、ちゃんと眼さえ開ければ一瞬で解決する。

人間ははじめから生死を飛び越えて躍動しているのだ。これに気づいた瞬間、無垢な自分がゴロッとそこにそのまま出てくる。そして禍も福も、病気も老いもみんな消えてしまう。

万病に効く薬、これより他になし。