AI

知らぬ間に横浜駅の地下街にAIの案内設備が置かれていた。「aiさくらさん」で検索すると詳細が出てくる。

道を聞く用があったのでタッチパネルに触れながら口頭で質問をしたら、流暢な、しっかりした日本語で目的地まで案内してくれた。こちらもつられて「ありがとうございました」というと「お役に立てたようでうれしいです」との返事。(ついにここまで来たか…)と隔世の感を禁じ得ない。

メイン通路を少し奥に歩いていくと、そちらで人間の案内係を見つけてほっとした。でも、もしまた同じシチュエーションになった場合にどちらを利用するかと考えたらAIの方を利用するだろう。

何故かというと利用する際のストレスがほとんどゼロに近い。声をかける際に「相手を慮る」という人間関係の重要な要素が全くないのである。

やはりAIとは違って人間の心は複雑だ。アドラーやユングによって有名になった「コンプレックス」という言葉も、元は「複雑である」という意味である。

平素我々は、表面的には理性的なやり取りをしているけれども、その下には常に潜在観念がうごめいている。

そのせいで人間は突如として怒り出したり、会ったばかりなのに好きになったり嫌いになったりしている。

しかし「急に、○○したので驚いた」などと言うのは普段我々が表面の心しか見えないからで、当人の心の中にはちゃんと合理的な理由があるのだ。

にもかかわらず、潜在意識下のことは他人はもちろん、本人にも全くと言っていいほどわからない。

こうした心の複雑性のために心理学の理論や学派は枝分かれして増える一方だし、それぞれの学派も深化と分化を繰り返してその研究には終わりがないのである。

だから心理学のプロほど「人間の心がいかにわからないか」ということを骨身に沁みてわかっているし、経験を積むほどに慎重になっていくのだ。

人間関係の醍醐味も心の奥深さや複雑さにあると言っていいけれども、こういう複雑性は「道を聞く」というような場合はあまり必要ではない。

そのせいか従来からエレベーターガールとか案内嬢といった職業にある方は人格や個性をなるだけ出さないように要求されてきたし、これを突き詰めれば早晩ロボットに行き着くのも当然かもしれない。

便利だなと思う反面さみしさを覚えるのは自分が旧世代の人間だからだろうか。

ここからはほとんど妄想だけれども、AIに案内された道を歩きながら「そのうち医者とか教員もAIに置き換わるのではないか」などと考えていた。

今回のようなコロナ騒動の場合は別として、風邪のような症状の場合はタッチパネルを前に話して、熱や脈などが遠隔で測定される。

そしてAIの医者が流暢な話し方で診断して、出された処方箋をもって薬局に行く。そこで3日分とか1週間分の薬をセルフで受け取って帰るのだ。

いわば病院の簡易版とドラッグストアの進化版が融合したような状態である。

学校も小学校の高学年、中学、高校と年次が上がるほどに単なる知識の切り売りの割合が増えていく。

だから生徒一人ひとりに「学校AI」を渡しておけば、教師の性別や性格、見た目などを生徒が各々の好みにカスタマイズして、あとは当人の好きな時間に勝手に勉強すればいい。

個性的で魅力のある先生との出会いのチャンスは失われるが、多感な時期の子どもが人格に偏りや歪みをもった教師に翻弄される害もなくなる。

完全に実現はないとしても、方向的にはこれに当たらずと言えども遠からずという向きに流れていくのではないだろうか。

そこへ行くと整体は人と人との接触によって結ばれる対人関係の技術である。そのためにAIと置き換わる公算は低いし、そうなってはならない。

しかしこのまま人間の力が落ちてくれば整体すらも「AIの方がまし」ということになりかねない。整体操法の真意が失われ、型だけが残った伝統芸能みたいになったらおしまいだろう。

そもそも整体法の知名度や普及率の低さを思えばそんなことはあり得ないのだが。

整体指導者は時代がどう変わっても社会の価値観に左右されることなく、そこに生きる人間の要求にピタリと応えられるようでなければならない。

真の贅沢とはこういうものだと私は考えている。人がそれを求めたときに確かなものを提供できるように、整体操法を途切れさせたくはないなとは思っている。

などなど妄想している間にAIのおかげで目的地には無事に着いた。心がないとこうもスムーズなものかと妙な所で感心もした。しかしもはやAIには心がないといいきれるだろうか、そもそも心の定義とは何か、とか、その後もしばらく暇人の思案は続いた。