野の医療

河合香吏,1987『野の医療 ー 牧畜民チャムスの身体世界』東京大学出版会

東アフリカ、ケニアに住むチャムスという牧畜民の医療(医学)を通じて現地の人々の身体観にせまろうとしたフィールドワークの記録と考察の書。

『野の医療…』というタイトルから野口整体の考え方に何らかの刺激を提供してくれるのではないかと期待して読んだ。

読む前の予想を裏切ったのは、彼らが様々な疾病現象に対して非常に薬(薬草類)を好んで用いるところであった。

当たり前だが日本の都市のように救急車と病院に取り囲まれた環境ではないので、彼らの病や怪我に対する認識は大きく異なることが想像される。

怪我をしても整形外科に行けばいい、入院して手術をすればいいという甘えはまずないだろう。

そのような環境下で、科学とは縁遠い文化に属するチャムスの人々の病気や怪我への対処は、個々の経験を重視した合理的な方法を数多く有している。

そして病気に対する眼差しは西洋医学のそれとは異なり、あくまで自分自身の経験として病気は自覚されるものであって、客観的に分析され理解されるものではない。

具体的に言えば、胃がしくしく痛む、頭がずきずき痛い、といったしくしく、ずきずきという感覚から先ず出発して、のちに客観を働かせるのである。

現代の日本のように、自覚症状のない人を捕まえて検査し重箱の隅でも突くように「異常」を探して認めさせるようなことはない。

そして身体の変化の一過程として病気があるのであって、これを「負」のものとして捉えてはいないように思われる、と筆者はいう。

その原因の一つとして病気と死が直線的に結び付けられていない、というチャムスの傷病観について述べられている。

「死」というものは病気の有無とは別の系で考えられており、結果的に病気と死が重なり合うことがあっても、そこに因果性を見出していないように見えるのだという。

死は体が朽ちたり、破壊されることで訪れる即物的な現象ではなく、そうした物質的な理屈を超えた「何か」によって統制、もしくは支配されていると認識されているのかもしれない。

整体法においても「個体としての生命は、死ぬときに死ぬ」といったような、ある種因果律を超越したような達観がある。

現実に結核を乗り越える身体もあるし、風邪に耐えられない身体もある。また、癌の手術を何度も受けながら10年以上生きている場合もあるし、流感に一度罹って死んでしまうケースもある。

もっとも急変や急死などというのは、平素人間をモノとして観ているからそう見えるだけで、もっと丁寧に観察しておれば、その体がいよいよ鈍く硬直し死体に近くなっていることくらいはわかるはずなのだが。

ともかく病気と死は無関係とは言えないが、特定の病気が必ず死に至るとはいえず、病症の母体となっている「身体の状態」を見ずして人の生死を測ることは困難を極める。

整体ではこの「生きて動いて絶えず変化する身体」を「観察する」ことが技術の9割以上を占める。観察がある域に達すれば「死ぬか生きるか」ということがまず判る。「死なない」ということが判れば、相手の潜在体力を信じて静かに経過を待てる、これをもって技術の第一としたのである。

チャムスの「医」においてもそれに類似した死生観を匂わせる。そして病気というものを臨床経験と主観を重視して見つめていく態度にも親しみを感じる。

しかしながら整体法がやはり異質だと思うのは、病症に対して自然秩序の合目的性を見出し、これを合理的に活用する道を力強く開拓していったことだろう。

このことは『風邪の効用』という一著に集約されてるが、あれは風邪の対処法を纏めた本ではなく、東洋思想という水源上に結晶化した一つの哲学なのだ。

当然だがそれぞれが浴している文化が違うので、チャムスの医と整体法の優劣を安易に論じることはできない。

ただ日本の現状に照らして考えるならば、自然科学という一見強固なパラダイムの中で行われている医療でも、歴史的、地域的な視野を広くとればそれはごく一部なのだ、ということは知っておいて損はない。

現代において科学を疑う、というのはともすれば異常ともみなされる態度だが、チャムスの医や整体法のような主観経験を母体とする臨床の知というのは自然科学の死角になりやすいのである。

このような死角に生じた需要によって整体法は生まれ、今日まで命脈を保ってきたと言っても過言ではない。

野口整体と西洋医療という二つだととかく対置構造になりやすいが、『野の医療…』を読んだことでその閉ざされた構図にある種の広がりを感じることができた。

「人間の多様性」というのを改めて感じたし、人間を見る目の柔軟性も刺激されたように思う。

多様性と言えば、日本とケニアを往復しながら時に現地で年を跨ぐなどして12年もかけて本書を執筆した筆者の執念、というか興味の持続力には人間の感受性の違いというものをまざまざと感じる。

何にしてもこのフィールドワークの長編記録は大変に貴重な資料だ。一冊の本を読んで筆者にお礼、というのもあまり聞かないけれども女性でありながらこのような体験的考察を書きあげた著者に対し畏敬と感謝の念を禁じ得ない。