夏休みの最後に子どもと江ノ島に行った。今年はプールにはずいぶん行ったけど、海水浴はこれが最初で最後になりそうだ。

ライフジャケットを着せていたとはいえ、大きな波が来ると小学二年の体が一瞬消える。ひと時も目が離せないので疲れた。

こちらの心配をよそに、寄せては返す波の中で欣喜雀躍する子どもの姿を見ていたら瞬く間に3時間も過ぎてしまった。人工のプールではこうはいかなかっただろう。

ジャケットの浮力で小さい波が来るとふんわり揺らぐ。その度に声をあげて喜んでいた。

ボディボードをやったことのある妻に聞くと、「波に乗る」というのは楽しいらしい。

歌や踊りでも「リズムに乗る」、というのはある種本能的行為だが、これと同じように体の内なる波のリズムは外界の波と同調したがっているのかもしれない。

何故なのかな、わからないけれども、考えてみればこの世界に「波」は遍満している。

海辺のさざ波はもちろん、潮の干満はもう一つ大きな波だ。

春夏秋冬も波だし、草木が生い茂って、やがて枯れるもの波と言えるかもしれない。

当然人間の呼吸も波だ。脈も波だし、そもそも人が生まれて、成長し、老いて死ぬことも一つの波ではないだろうか。

そう考えるとみんな波の中で、波を意識することなく生きているのだ。

コロナも「第何波…」という具合に罹患者の増加率は波形をとっている。これも自然の妙だろう。

咳やくしゃみによる飛沫感染云々…という現状の科学的因果律だけではこの「波」の説明はつかない。

整体法では感染症の原因を病原細菌に置いていない。コレラ菌を飲んでもなんでもない時もあるが、体があるコンディションの時だけコレラ菌が増えて下痢をする。

同様に体に平衡要求が生じなければインフルエンザでも肺炎でも結核でも、いくら病原菌に接触しても発症しないのである。

これは「…かもしれない」「…だろう」「…のはずだ」といった観念主義的な妄信ではなく、事実の集積に拠って得られた一つの現象学的結論なのだ。

個人の体は発症の要求によってそれぞれ症状が生じるけれども、上に書いた罹患者の総数を見るとそこには集団としても何らかの合目的性がありそうだ。

人間がいくら個人主義を叫んでみても、その個人同士は何か見えざるつながりを持って、全体として、一つの波の中で生きていることを認めざるを得ない。

意識しようとしまいと、誰もが同じ波の中にいるのだ。

もしも海の水が引いている時に、これを満たそうとして子どもが水を撒いたら大人はその無知を笑うかもしれない。

だとすれば人間の意識で作り出した薬やマスクで自然の波に抗し得ると考えることも、同じ次元の行為とは考えられないだろうか。

海では波に逆らうと飲まれてしまうが、反対に波に乗れば快感がある。

海水を分析しようとしながら波をかぶってむせているよりも、自然に溶け込むように波を感じ、これに乗って生活する方が高度と言えないだろうか。

整体は原始の心である。それでもこの原始の心が未来を拓く可能性まで否定することはできない。

そのためにまず自分の波を感じられるように心を静かにする必要がある。

我々が整体であろうとするのはそのためである。しかし体が先なのでも、心が先なのでもない。

それらの総体としての何か、それを整体では「気」といっているけれども、体を忘れ、心も忘れ、自分さえも忘れて動いているときその人は気の波になっている。

海の波に乗ったときように、今の息の中にも、病気と言われる体の働きの中にも丁寧に観ると快感はある。

病気は恐ろしいという先入主から自由になれば、それは自然に感じられるものだ。自分を捨てて、意識を鎮め無意識に委ねることである。

決してむずかしいことではないけれども、意識の発達した人間が波に乗るには訓練がいるのだろう。

整体法はその訓練そのものである。

教養

妻から車内暴力のニュースを聞いた。50代の男が電車のガラスを割ったそうだが、昔だったら初老の域でも現代では力の余っている人が多い。

とはいえ火事と喧嘩は江戸の華とかいう古語もあるくらいだから、一口に現代だから…とは言い切れないかもしれない。

無論個人差を無視するわけにもいかないが、人間の生理構造上、暑くなると普段大人しい人でもイライラしやすくはなる。

戦争や内戦をしている地域が赤道付近に集中しているのも、もしかしたらこういう理由によるものかもしれない。

しかし暑いからといって誰もがカッカしているわけではない。涼しいモスクワにだってムシャクシャしている人はいるだろう。

生きものには自分の要求を果たそうという願望があるために、これがスムーズに行動化されないとエネルギーが鬱滞する。

この鬱滞したエネルギーが厄介なもので、そのせいで人間は他の動物よりも余分にイライラしたりカッカしたり、またクヨクヨしたり病気になったりしている。

先進文明国などといわれる地域では、人間がいつしか労役ということを忌避するようになったために、大脳を働かせることで肉体労働から解放されることが幸福だと考えられるようになった。

本来動物である人間は体を動かすことに快感があるはずなのだが、資本家という概念の誕生とともに労働者に対する不利益なイメージが定着してしまったのである。

先にも書いたように、面白いのはエネルギーが余ると余計に暴れたりカッとなったりするばかりでなく、陰気になることである。

子どもの意地悪や告げ口が、学校や親の過剰な行動制限と無関係であるとは言い切れない。

もとから意地悪く生まれて来た子などいない。思いっきり体を動かした後は大抵みんないい子なのだ。

意地悪で病気や怪我ばかりしていたような子供が野球やサッカーをはじめてから快活になった、という例などは上の理屈を裏付ける。

もちろんスポーツをやったおかげで健全な精神が養われた、とか立派な指導者が子供の人格を育てた、という解釈もわからなくもない。

そういう事例も確かにあるだろうけれども、個人的にはそれ以前の生理構造による面が大きいように思う。そして、とかくこちらは見落とされがちだ。

日本の都市型の生活だと大人はもちろん、子供の運動量も生理的欲求に比して圧倒的に少ない。

冒頭で書いた電車のガラスを割った男でも、電車移動ではなく仕事道具一式にお弁当、飲み水を4、5Lも背負って歩いていたら、また話は違ったのではなかろうか。

余剰エネルギーを抱えたままで、みんな仲良く平和に暮らそう、といってもやはり生理的自然に背いているだけ無理がある。

だから現代の場合は道徳や倫理を説く前に、人間の構造の見直しが必要だと思うのだ。その際は客観ではなく、主観から再出発したい。

既存の科学的な理論は後からでも役に立つ。今はそれを一度わきにおいて、現象学的接近法による事実の集積に注力すべきではないだろうか。

我が身つねって…という言葉があるように自分の感覚から丁寧に観ていけば人間に対する理解は今よりももう一つ深化するだろう。

今や情報はいくらでも手に入るのだから、情報などではどうにもならない、自分の体を自分で統制するという内的な教養の方がはるかに価値がある。

それも体温とか消費カロリーとかそういう客観によるものではなく、主観的な秩序感覚や快の感覚によって支えられるものが望ましい。

意識が外へ向かって探し回っている間は自分のことが判らないのである。だから意識を閉じて無意識に聞く。整体であるということは、意識が静まっていることでもある。

だからことさらにヨガや体操などしなくても、生理的欲求が落ち着けば体は自然に整う。すると自ずから自我は沈静化する。それと共に自分と世界の境界を忘れ、いのちの真相が現れる。

この自分とか世界とかを忘じた状態を道元は身心脱落といったけれども、1000年前に広めた教えでも、当時の人たちよりはるかに多くの知識を持った現代人が履行できないでいる。

現代に求められる教養、生きるための教養とはこういうものではないだろうか。

根性

子どもが少年野球のチームに入ったので父親の私も補佐役として止む無く球界入りを果たした。

生来運動音痴だった私は幼少のころから野球に近づくことなどありえなかったのだが、人間長く生きてみると何があるかわからないものである。

とはいえスポーツに疎かった私にも、ささやかな武道経験がある。高校の時に一念発起して空手の道場に入門したのだが、体育会に対するイメージはこの時に強く形成された。

向こうも商売だったのでそれなりのエンターテイメント性もあったけれども、そこはやはり空手の道場、厳しい所は厳しかった。

人間臭い理不尽さもあったし、後輩の態度が気に入らなければ組み手の場で制裁が行われることもままあった。かと思えば力量次第で下剋上もある。

まあ壮年期の男社会なら意地と面子の張り合いは付きもので、それは当たり前だったのだ。

そんな世界だから少年部の指導など言うことを聞かせるにはガツンと言えばそれで終わりである。

そんな印象しか持ち合わせてなかったものだから、現代のスポーツ指導の環境には隔世の感を禁じ得ない。うわさには聞いていたけど今の指導法はソフトでやさしい。

努めてそうしているのかわからないが、昔だったら「〇〇しろ!」で終わりだったものが今は「〇〇しよう」と語調もやわらかい。

それでもそれなりに秩序が成り立っているのだから、何ごともやってみなければわからないものである。

怒鳴り声とか体罰だとかは軍事教練がそのまま義務教育に流用された昭和の名残りだったのかもしれない。

そういえば最近は根性という言葉も聞かなくなった。

あれほど重要視されていた根性という概念も早晩死語になりつつあるのだろうか。

苦しいことや嫌なことでも耐え忍んでやり抜けば、その先に栄光も成功もある、といった考え方はある時期までは共通感覚だったように思われるのだが、今にして思うとそれも疑わしい。

野口整体では人間が全力発揮するためには自発性が大事であると説く。賃金をもらって担ぐ荷物は重いが、自発的に行くスキーやゴルフの荷物は軽い。一日重荷を担いで歩いてもその足取りは軽快である。

この論法から行けば先に書いたような根性論など全く無意味に思われる。

日本のプロスポーツの世界を見ても、昔ほど泥臭さや汗の匂いを感じさせない選手が増えた。それでいて世界のトップクラスで活躍する人の数は以前より増えている。

こうした選手たちの影の努力や根性を否定はできないが、そういった面を美徳として見せようとしたり、また周囲もこぞって取り上げようとする風潮はだいぶ失せたように見える。

実質的にはどんな指導法でもその是非は当事者に合うか合わないかなので、各々の優劣を一元的に定めることはできない。

とはいえ戦後70年以上が経過した現在は全般的に心の使い方、指導の仕方が洗練されたと言えそうである。

さて、そもそも根性という言葉の定義、ルーツを探ってみたらこれは仏教用語の「機根」という言葉が変性したものらしい。

これは生来の質(たち)とか、その人の持つもともとの性格などを表す意味あいが強かったようである。

少し厳しい言い方だが、素質のない人間はいくらむきになってガリガリ修行してもあさっての方向に突っ走ってしまうのが関の山なのである。

そのために指導者は志願者の機根をよく見極めて、入門の是非から厳しく見極めましょうという考え方があるのだ。

だから仏典には修行者の資質のことを上根とか下根とかに分ける話がよく出てくる。

これが一般用語になるときに転換して、俗にいう「根性」という言葉が出来上がったようだ。

語彙というのは得てして当時の世相や価値観の影響を受けて変質しやすい。だからかつてのような用法でなく、個人の資質にあった教育を施す意味で新たな「根性論」が形成されたら面白いかもしれない。

根性をいろいろ調べていたら『ウマ娘 プリティーダービー』というアプゲにはラストスパートに反映される〈根性〉というステータスがあるらしい。競馬と根性という昭和の風は姿を変えて今日も吹いているようである。

つながり

西洋史にも国際情勢にも疎い私は今欧州で起っていることを戦争といってよいのか、何といってよいのかわからない。けれども何か前近代を思わせるような人間の原始的な暴力に傷ましさを覚える。テクノロジーが進歩してもそれを扱うヒトの構造は昔と比べて全く変わっていないのかもしれない。

今回の事にかぎらず人間の世界を定期的に襲う不条理な感情の暴発の背景には、文明生活によって絶えず生じる余剰エネルギーの鬱積と、抑圧され行き場を失った性の欲求があることは見逃せない。

夫婦喧嘩から始まり車内暴力も戦争行為も、その要因を辿っていくと人間の生理と、生理に随伴して動く感情の問題に突き当たる。高等教育を受けた人がどんなに高尚な理屈を打ち立てても、その理性は最初に在った感情や生理的な要求の下位におかれて働いていることは否定しがたい事実である。

だから精神活動と不即不離の関係にある体の理解を深め、これと理性を親和的に統合させていく方法を学ばない限り、人間の世界はいつも予期せぬタイミングでふわっと荒んでしまう。

侵略という行為は自己の威勢を拡大しようとするものだが、そもそもが自己を拡大し威を示そうというのは生き物の原始的な生存欲求の一つである。

高度な教育を敷いているはずの「いわゆる」先進国においてなお然りなのだから、人間と言えど頭の中に道徳を教え込むだけで本能の活動を抑えることがむずかしいことは明らかである。

こうした現実を見るにつけ、人間がどれほど理屈や身なりで着飾ったところで、やはり自然の動物の一種であったことを忘れる訳にはいかない。

そして生態系の中で人間が増え過ぎたために自我の境界線が狭まり、そのために自分のことしか考えられなくなってきたのだすれば、それもまた増え過ぎた種が縮小へ向かう自然のリズム、淘汰の働きとみるべきかもしれない。

ネズミなどは一定区域内で増え過ぎると次第にオスがオスを、メスはメスを追い始めるそうである。人間にもこれと似たような傾向が起こっているけれども、ネズミの場合はそれでもさらに数が増え続けるとやがては食物を求めて大移動の果てに河川などに飛び込んで死んでしまう地走り現象というのが認められている。

人間も太古の時代は食料を求め移動の末に消滅することがあったらしいが、食料自給力が向上してからは特定の地域に定住し、人間の増え過ぎた所には決まって疫病が流行るようになった。ペストなどがその典型と言えるが、こうした伝染病の間隙には自然発生的に戦争が起こってくる。

現在のごとく生態系の中で人間の比率がこれほど増大しながらも梅毒もエイズも抑え込み、肺炎の蔓延防止に奔走するとなると、鬱積したフラストレーションの流れ着く先が大規模自壊現象としての戦争にいたるのは自然の生理現象と見るべきではなかろうか。悲痛な現実だけれども、人間からこうした「生理機構」を完全に排除することはできない。

一方で遠く離れた地域で起こった戦争の知らせを聞いて胸を痛めるのも、やはり人間に息づく原始の心によるものではないだろうか。自己保存と種族保存という本能の根源的な二つの要求の中には破壊の要素もあれば建設と愛護の要素もある。

だから自然界には弱肉強食などと言われる峻烈な競争原理があるかと思えば、次代を担う若い芽を互いに庇い育もうという太母(グレートマザー)の心もある。この力があってこそ人間も今日まで繁栄を保ってきたことは否めない。

言わばこうした他の生命を自己の延長として感じる、意識以前の「つながり」のようのなものが文字通り生物の生命線ではないだろうか。これに因んでアダム・スミスの主張した、「礼節」に先んじて要求される「共感(fellow feeling)」という概念を思い出したが、どこか通底するものを感じる。

とかく競争原理だけが強調されやすい近代資本主義の出発点において、過当競争による不幸な敗者や被害者を生み出さないために、個々人の内的良心に基づいた他者への配慮や道義の重要性を強調している視点は興味深い。

経済活動においてもこうした共同体としてのつながり感が意識されることで、互助的で永続的なコミュニティが形成されることは想像に難くない。

人間にとってこういう漠とした「つながり」がいつのまにか希薄になり、個人の孤立を生んだメカニズムは、科学を産み落とした近代文明における最大の陥穽ではないだろうか。

地球を飛び出して火星まで行くことも、また核爆弾を作ることも進歩には違いないが、むしろ人間同士の意識以前のつながりをより強固に、豊かにすることを考える方が、これからの世界に希求される人間の進歩であり深化のように思う。

近代科学文明はこれまでなかったような大規模な戦争を生む一方で、戦争開始の一報を聞くや株式のレートに噛り付いている、などというのも文明国の持つひとつの側面である。

他所の国の不幸を偲んで経済活動まで放棄する必要はないけれども、上記のような行為の中にもやはり心の「つながり」の希薄さを感じる。

人間は互いを理解するために言語を基礎として理性を発達させてきたと考えられるが、理性の発達に反比例するように言葉以前の気のつながりが退縮しているとしたら、意識の上だけでいくら言葉が飛び交ったところで、温かい心の交流は望めないのではないだろうか。

人間の世の中に繰り返し引き起こされる凄惨な争いの真因は、人間の理性が自我を小さく取り囲んでしまい個々のいのちが孤独感に苛まれているからかもしれないのだ。

整体法というものにわずかでも関わってきた者としては、人間がこうした個人、その中でも自我意識を最小単位とする生命の孤立状態から脱却するための道を開拓したいと願う。

それには人間一人一人が特定のイデオロギーや宗教観、民族などの分化を受ける前の「気」というような漠とした概念、あるいはそうした働きを前提とした生命の根源的な一如感を自覚するより他はないだろう。

このような世界を実現しようとすれば、これまで人間の中にも厳然と存在しながらも否認と排撃の対象でしかなかった「自然」、あるいは「野生」というものをいよいよ不問にしておくことができないのではなかろうか。

だいたい20世紀後半頃からしきりに生態系という概念が叫ばれるようになり、以来人間と外的自然との調和が問われている。これと同様に人間の内にも息づく裡なる自然とも旧交を温め、これを活用するための有機的な身体性を自得する新たな教養の開拓が必要だろう。

体制の変革というものは個人の改革を無視しては成し得ない。だからこそ「一人の人間を育てる」ということは今後ますます重要性を帯びてくるだろうし、幼児教育や胎教に関しても整体法の保有する知恵は、より高度な次元で共有されるべきだと私は考える。

そしてそれは学術や学問と呼ばれる知識の分野に収まるものではなく、修養とか修身、修行などと表現される、知識・人格・身体性などを合一させたホリスティックな教養体系でなければならない。

高度なテクノロジーによって人間だけが異常なパワーとスピードを手にしてしまった今だからこそ、一人一人が身体を自我に統合し、積極的に「自己を治める」高次の身体性が希求されている。

ここに至って、人間において外界を変えようとする努力は依然有効だが、それ以上に意識を積極的に静め、無意識による裡なる自然秩序を回復し身体を必然的に整えていく態度こそ、現代人に課せられた使命であるように思う。

これはたましいの救済と全人的教育を担う宗教という分野においてなお適用されるべきであろう。これにより、今まで個々の地方性や時代性故に互いの普遍性を否定し、紛争の火種となってきた宗教の負の面を払拭する可能性も生じてくる。

頭で作った観念ではなく、今ここで確かに「感覚される事実」から出発し直すことで、これまでの地域性と時代性という枷から自由となった本来の宗教、すなわち普く人間を律し、恒久的な安らぎ(涅槃)へ導かんとする普遍的宗教としての姿も自ずとそこに現れるのではないだろうか。

しかしながら学問は文字や数式によって伝えることができるけれども、上記のような身体を伴った教養というものは一代ごとに元に還って、ゼロに戻ってしまうのだから悩ましい。

また感性や情といった自他の生命を支える上で重要な心の働きはデジタルで画一的に学ぶことはできないものである。これらのものは親はもちろん、その他の保護者や養育者という立場にある、周囲の大人たちの熱意や愛情によって有機的に育まれるものである。

もちろんこういった心が人間の世の中から全くなくなってしまうこともないだろうが、科学や学術を主体とする知的教育(知育)の普及に反して、こうした生活上の利害得失と直接関係のないような心身の教育—徳育と、本来の体育―の成果はどこか捉えどころがなく、成否の判断もつきにくい。

この点については近年になって「非認知能力」という言葉が生まれるなど、数値化できない子どもの能力が注目を浴びるようになってきたことは、戦後教育に対する反省が生んだ一つの転機とも考えられる。

こうした視覚化しずらい問題に対して体制側が概念化して「画一的に取り組む」という姿勢に対して私は慎重な見方を支持するけれども、戦後ほとんど等閑視されてきた教育のソフトな面に対して公的な注意と関心が向けられたのはやはり進歩と見做すべきだろう。

このような傾向にあいまって、人間の情緒や感性の全き発育のために母胎内の十ヶ月に行われる豊かなコミュニケーションがいかに大切なことか。また産まれてからの十三ヶ月間に育まれる潜在意識の作用などについても、広く認知されるようになるかもしれない。

こうした世の中の動きにも目を配りつつ、整体法の世界は独自の視点を保ちながら研究の手を緩めてはならないと思う。整体指導者にとっては「生きている個人の体に向き合う」行為は貴重な臨床の知の生産点であることに変わりはない。

一方でここで得られた知恵を、内輪にしか理解できない体験知と決め込んで、公開し理解を求める努力を拒否してはならないと思う。現場で得られた事実を冷静に解析し、客観性や論理性を付与して広く開示しようという気持ちはあってしかるべきだ。

野口先生の生み出した整体法が今日まで良質な支持層を保ち続けてきた要因として、膨大な臨床例によって得られた事実の集積もさることながら、それを表わす際の高い論理性と平明な表現力を無視することはできないのである。私からすると大変高度であり難しいことだけれども、これからも微力なりにできることをやっていきたいとは思っている。

迎春

昔の思い出になるが私の実家に父が彫った寅年用の木版画があった。おそらく48年前のものだろう。

細密な虎の画のわきに「迎春」と彫られていたのが記憶に鮮明である。この寒いのに、花も付かないのに、どうして春なのか、とうのが子ども心に疑問だったのだ。

それから幾ばくかの歳月が過ぎた。すると迎春とか新春、あるいは頌春などと、年が切り替わる一月一日に春を見出した昔人の感性に親しみと敬意を覚えるようになってきた。

自然との共生が要であった往時の人々は、田んぼの水引きでも収穫でも、気候や天気と一体になって動かなければならなかったのだ。

自然から切り離された近代的な自我で、「我がまま」に生きるということは許されない。具体的事情をいえば我を通せばそれだけ生存率が下がるのである。

そして自然と共生するためには、先に起こることが予感、直感されなければならない。オーケストラの指揮者のように、演奏者の次なる調子を引き出すためには先を知っていたうえで半歩リードするという技術がいる。遅ければ無論だめだし、早過ぎても意味がない。

翌年の夏が冷夏になると予見して、米ではなくヒエを植えて難を逃れた二宮尊徳の話は有名である。

だから夜が明ければ朝になることは当然としても、その時に雨が降っているのか風が吹くのか、また月が出ているのかわからなければならない。

そして冬が明ければ当然春である。今日が寒いからと言って今日に適応するだけの動きでは次の波に間に合わない。考えて動くものは一つ遅れる。そしてその間に生命の機は去っていくのだ。

ここで「なるほど、昔の人はそれだけ優れていたのだ」といってしまうと、現代人としての学びも創造性もなくなってしまう。

実際的には現代を生きる我々の中にも「先を知る力」は常に働いているのだ。わかりやすい例をあげれば、受胎した人の体は10ヶ月後に何が起こるかを知っている。

たとえ当人がそのことを無自覚であったとしても、また解剖学など何も知らなくても、乳房は将来の赤ん坊のために発達し、腰椎や骨盤も来るべき出産に備えて日々なだらかに可動性が増していく。

また自分の体内だけでなく、外界との感応、外気や気候のようなものとの相関性もある。

例えば日本なら夏末にはもう筋骨が引き締まり、寒さに備え始めているし、そうかと思えば初夏を前にもう皮膚はゆるんでくる。つまりは地球の自転や公転、すなわち太陽系の動きと一つのリズムになって動いている自分というものが最初からあるのだ。

無意識の、こうした絶え間ない働きによって、平素から我々の無事は保たれているのである。

この無意識と親しむ時間が、現代を生きる我々からだいぶ縁遠くなってきている。文学的にはアダムがリンゴをかじった瞬間に「意識」という分別心が生じ、自分が世界から孤立したことになっている。

だからその「自分以外」のものの象徴として神様とか阿弥陀様とかいろいろな名前をつけて、もう一度親しみを取り戻そうとする動きが宗教の行為の中には沢山にある。

しかし意識化されたらそれはもう無意識ではない。多くの人はそれを神様とか仏様とか言っているけれども、客観的に示した人はやはりいない。いのちの真相は私から最も遠くて近い存在なのだ。

この無意識に最も近い認識作用が「感覚」なのである。

最初に感覚されるものがあって、のちに意識の窓を通り理性の検閲を受け、ようやく行動化されるというのが人間の特徴である。

この「感覚する(させられている)」という、生きるうえで重要な工程がだんだんと思考や文字の世界に圧迫され、一路萎縮の道をたどっているのが近代人の特徴といってよいだろう。簡単に言うと生の感覚が鈍っているのである。これによってどうなるかというと、思考が現実から遊離するのだ。「机上の空論」などという言葉は、思考の産物である科学の陥穽を簡潔に言い得た言葉である。

生活に則したところで考えると、天気予報や災害警報のインフラ拡充はこうした鈍麻に拍車をかける要因の一つではないか。いや鈍っているからこそ、そこに需要と供給が生じたのかもしれないし、これは鶏と卵の理論でどちらが先かはわからない。うるさいことをいえば、折りたたみ傘などというのも雨の予知ができなくなった人間には重宝な装備である。

実際、一度ふいの雨に打たれた経験のある人がいつでも傘を持って歩くことがある。羹に懲りてなますを吹くという言葉の通り、頭が記憶に占拠されて、今の現実認識がくもるのである。

その点で感覚という作用は原始的な生き物の方がむき出しに近い。我々は遠い海の海溝で起こった噴火をずいぶん後のなってから他人の作ったニュースで知る訳だが、海亀ならば津波のある年には海浜からずっと上がったところに卵を産むという。また樹木なども干ばつの起こる年はあらかじめ幹の中に水分を余分に蓄えている、という話も聞いたことがある。原始生命に近い両生類のカメや木々にはあたりまえの所作でも、大脳の発達した人間にはなかなか難しい芸当である。

東日本大震災の折には荒れる海をスマホで撮影していた子供がそのまま津波に吞まれてしまったという報道があった。

高度に発達した近代文明の象徴とも言える小型化されたコンピューターを握って水没する人間の姿に、私は人類の末期的症状を見ることを禁じ得ない。それが本来敏感であるはずの子どもであったという事実も傷ましい。

人間の子どもは一人でに大きくなるということはない訳で、高度な感受性を具えて生まれて来る子どもを鈍麻させる環境にこそ本当の災いがある、と思う。一方でその環境を配備した大人は大人の知恵で難を免れているというのだから、古きものが生き残り新しきが死んでいくという構図に、私は種としての未来を感じないのである。

年明け早々暗い話に傾いてきたが、ここからようやく整体愛好者の我田引水がはじまる。

こうして鈍りの一途をたどろうとする人間の生の感覚に活を入れ、再生せよというのが整体法の主張なのである。

無意識、そして錐体外路系のはたらきというのは宇宙の運行と機を一つにするものである。たとえ人間という種が姿を消しても、この世界から平衡運動が消滅することはない。つまり易経の天行健である。

どんなに鈍った鈍ったといっても、体温が10度以下で動いている人もいなければ、43度という熱を出す人もいない(もはや「人工的」には起こりうるかもしれないが)。アナログ体温計のメモリが42度までしないということがこの生命の秩序を黙して語る。

そして一分間の呼吸が18ならば、脈は72である。この一息四脈というリズムは整った体を象徴する数値であり、速くとも遅くとも、この比率からズレると元へ帰ろうとする動きが即座に起こる。熱や発疹などはこの平衡作用の代表的なものの一つである。

だから問題の核心は、この働いている秩序を害悪とみなして矯正または排除に奔走するのか、逆に善なるはたらきとみなして共感と活用へ向かうのかという分岐にある。

換言すると、病症のはたらきを生命を傷つけ死に至らしめる破壊作用としか認めないのか、あるいは破壊の中にある再建という生命の適応作用を観るのかという違いである。

後者であれば自らの病症経過の苦痛の中にも、自然整体作用の快感を見出すことも不可能ではない。

しかし現実は、病気は悪であり無病が善であるという二元論、そして病気の原因をウィルスや菌という外因にしか認ようとしない特定病因説が大勢を占めている。この事実からも近代科学のもたらした偏狭な視点がグローバル化の波と一体となって地球を席巻していることは明らかである。

その要因の一つが現代人の近視眼的視野狭窄があり、そのまた奥の要因として息の浅さ、そして不整体があるというのが整体愛好者による我田引水的視野狭窄である。

繰り返すが天行は健である。天地自然、この世界の全ての運行は最初から健やかさを失わない。この健の見えざるは近代自我の過剰亢進と似非科学の盲信によるものである。

人間の世の中が如何に変わっても、自分を離れていのちは存在しない。だから私は活元運動を通していのちの真相を自覚する人を、今年も一人でも多く増やしたい。それこそが人間の進歩だと考えているからだ。

ここに至って「たとえ、百年かかっても、二百年かかってもよい。一人一人が、整体の考えを実現するよう行動してゆけばよい」という野口晴哉が生前発した言葉に、自らが宇宙の息と一つになって全うした生の荘厳さと息の深さ、そこから生じる視野の遠大さを感じるのである。

真理というものは、世の中が乱れれば乱れるほど、対比の構造によって一層明瞭になっていく。だとすれば、今ほど整体の価値が光る時代もないだろう。晴哉の見い出したいのちの世界に理解と共感を覚える人を増やしながら、着実に歩を進めていきたいと意を新たにする次第である。

カウンセリングは時間がかかる

暗示やアファメーションで端的に自分を変えようという方法から比べると、正規のカウンセリングはだいぶ時間がかかる。

自分の性格変えたいとか、家族を含めた人間関係の悩み、あるいはもっと漠とした不安や意欲の減退など、これらをカウンセリングで解決しようと思ったら3~4年くらいは一人のカウンセラーのもとに通うこともざらである。

暗示療法とどちらがいいのか、というとこれは方法論の違いでどちらが優れているとは答えにくい。結果の成否もセラピストの力量やクライエントのパーソナリティにもよって変わるだろうから、なおさら平坦な比較は難しい。

ところで前の記事に書いたけれども、下手な暗示法はかえって身心の調子を乱してしまうことがある。臨床経験から言うと、暗示やアファメーションを「にわか」でやってきた人はお腹や背中など、体のどこかにに妙なこわばりを背負っていることがままあった。

このような場合、余分な暗示を入れ込むことで潜在意識に見えざる葛藤を作ってしまったのではないかと考えている。

そもそも催眠や暗示は心理療法の創成期に流行したもので、シャルコーやフロイトといった心理学創成期の治療家はみんな催眠の研究をしている。

ところが上手くはまれば即効性がある反面、クライエントが被暗示性の強い人だと内容の良し悪しに関係なく効き過ぎてしまう。また一方で催眠は効かない人には全く効果がない。

加えて治療プロセスの重心がセラピストにかかりやすいために依存関係になってクライエントが自立できなくなるなど、臨床を通じて徐々にその問題点が明らかになっていったのである。その結果、心理療法の主流は対話を中心としたカウンセリングに譲ることになっていった。

カウンセリングと催眠
しかしながら、現実にクーエのような暗示療法の大家もいたわけで、やはり人間から遊離した治療技法だけを取り上げて優劣を語るには限界がある。整体指導における野口先生の暗示の用い方も一流のものであったと言われている。とりわけ心身の生理的な波、呼吸の間隙といった整体流の観察と絡めて用いるそれは、余人には真似のできない無二の技術であったと思われる。

いずれにしても人間の生理やこれにともなう心の構造に精通してはじめて心理技法は奏功するもので、催眠や暗示法のメカニズムだけを知って素人が安易に扱えるものではないことは押さえておきたい。

現在の私は「急がば回れ」の思考でカウンセリングの方にやや信を置いている。それ以前に暗示法は難しくて使えない。実際の臨床においてはそこまで意識的な使い分けがなされているかというと、それも曖昧なのだが。

一般的なカウンセリングでもセラピストのちょっとした所作や言葉が暗示的に働いてクライエントを突き動かしていくこともあるだろうし、暗示療法を行いながらセラピストとクライエントに間にラポール(治癒的な心のつながり)が生じて、カウンセリング的に治療が進展していくことも充分考えられる。

特定の技法だけに限定して心理療法を進めるというのは現実から離れた考え方で、実際にはいろいろな技法を知識として学び、自らも治療と訓練を受けたセラピストの人格こそが治療現場では力になっていく。

まあともかく、暗示やアファメーションの良い面だけに捉われて、自分の心を安定的に作り変えられるという安直な考え方に疑問をぶっつけたかったのだ。

自我の再構成(心の治癒的変容)にはやはり正しく合理的な方法と一定の根気、そして歳月が不可欠であることを強調しておきたい。

成人ならば現在の「私」という自我が形成されるまでに要した時間は、年齢の数に母胎内の10か月を足したものがそれにあたる。人格の変容にも相応の時間と労力を想定した方がやはり順当ではないだろうか。

暗示

この2週間ばかり催眠、暗示の効果を検証していた。

例えば子供に「朝起きるとすっきり目が覚めて、起き上がる」という暗示を与えておくとその通りになる。

たしかにその通りにはなるけれども、果たして子供の様子は妙であった。考えてみれば当たり前のことで「朝すっきり目が覚める」ためには寝ている間に体の疲労が抜けてること、そして起きた先にある生活に意欲が持てること、という条件が必要である。

しかし目が覚めたところで1週間のうち5日間は学校に行かねばならない。小学校に上がれば行動の制限も増えるために、体力の充実した子供なら不自由を感じ「行きたくない」と感じるのも無理はない。その空想が暗に働くために、朝起きることが億劫になる。

心はいつでも体にくっついている。快活に行動してくための体の条件を無視して頭の中だけに「起きたらテキパキ学校に行く」という暗示を植え付けることは、心と体の同調性を乱す。こういう下手な暗示法は生命を傷つける行為だと後から気づいて恥じた。

自分に対しても何種類か暗示を試したが同様の理由でやめてしまった。やはり自己改革ということは個々の体の状態を無視して行うには無理がある。

今回の自分の感想とはうらはらに、世の中には暗示で健康に、暗示で優秀に、暗示で美しく、ということに関心を持つ人はなくならない。

いや暗示ではなく、これはアファメーションであるといってせっせとやる人の中には、旧世代から引き継いだ欧米に対する劣等感が反映されているのかもしれない。

これも欧米のものや横文字新しいものには効力があると思い込んだ暗示の一つではないだろうか。

しかし何と言おうと現在意識の都合で無闇に潜在意識に暗示を放り込むことには賛成はできない。

例えば潜在意識に劣等感のある人は無意識に自分を立派に仕立てようとする。いや、立派にしようとするのは意識であるが、その意識は知らぬ間に潜在意識によって動かされた結果である。

「劣等だ」とすでに刷り込まれている上に、「いやいや、これでなかなか優秀だぞ」という観念をさらに入れていくのだから、心の中には見えざる葛藤を増やすことになる。

こういう意識以下の矛盾がいざという時に微妙に作用して、体をこわばらせパフォーマンスを低下させる要因になるやも知れぬ。そういう種をいくつも潜在意識に蒔いていったら雑念は増える一方である。

例えるなら、海水に砂糖をいれて真水しようとするようなもので、それなら純粋な海水のままの方がまだ使い道があったかもしれない。

それでも「いやいや、とにかくこれがいいのだから」と思い込んでいれば、一定の効力があるのだから人間の思い込みはすさまじい。それはそれで楽しんでやれるかもしれないが、体の生理という観点から言えばやはり乱すものである。

そもそも生命に優秀も劣等もないのだ。ところが多くの人が過去の経験と記憶を引きずって生きているために、その結果として「…と、思い込んだ自分」を実際の自分だと錯覚して生きている。

だから本来であれば「劣等だ」という暗示を意識線上に浮上させて、無意識的な影響下から脱することだけが、その人の心を自然に戻す力がある。

「良い子」とか「悪い子」も同じ理屈で、はじめからそういう子供がある訳ではない。

実際は一過性の事情でそういう評価を与えて、それが暗示となって固着してしまったものが少なくない。そもそもが大人の便宜で、管理しやすい状態にある子を良い子と決めてしまっている。

しかし体の生理に背く命令でも「はい、はい、」と素直に聞く子の多くは、自分の意志を通そうとする体力がないか、大人の睨みのために委縮しているだけである。

そういう実態を無視して、親とか教師が作り上げた「良い子」を押し付けたり、「悪い子」という暗示を植え付けた上からさらに矯正したりしようというのだから無知であり、乱暴なのだ。

それでなくても普段から家の中でも外でも暗示は飛び交っている。そこにさらに暗示を加えるよりも、自分がかかっている暗示を解くためにその仕組みを理解し、潜在意識の掃除に努めた方が暗示の使い道としてよほど有益ではないだろうか。

臨床の現場から言っても、暗示をかけることよりも暗示からの解放の方が技術が要るし、人を自由に逞しくする道もむしろそちらにあるように思う。使い方次第といえばそれまでだが、暗示はそれほど重宝なものではないというのが今回得た学びである。

AI

知らぬ間に横浜駅の地下街にAIの案内設備が置かれていた。「aiさくらさん」で検索すると詳細が出てくる。

道を聞く用があったのでタッチパネルに触れながら口頭で質問をしたら、流暢な、しっかりした日本語で目的地まで案内してくれた。こちらもつられて「ありがとうございました」というと「お役に立てたようでうれしいです」との返事。(ついにここまで来たか…)と隔世の感を禁じ得ない。

メイン通路を少し奥に歩いていくと、そちらで人間の案内係を見つけてほっとした。でも、もしまた同じシチュエーションになった場合にどちらを利用するかと考えたらAIの方を利用するだろう。

何故かというと利用する際のストレスがほとんどゼロに近い。声をかける際に「相手を慮る」という人間関係の重要な要素が全くないのである。

やはりAIとは違って人間の心は複雑だ。アドラーやユングによって有名になった「コンプレックス」という言葉も、元は「複雑である」という意味である。

平素我々は、表面的には理性的なやり取りをしているけれども、その下には常に潜在観念がうごめいている。

そのせいで人間は突如として怒り出したり、会ったばかりなのに好きになったり嫌いになったりしている。

しかし「急に、○○したので驚いた」などと言うのは普段我々が表面の心しか見えないからで、当人の心の中にはちゃんと合理的な理由があるのだ。

にもかかわらず、潜在意識下のことは他人はもちろん、本人にも全くと言っていいほどわからない。

こうした心の複雑性のために心理学の理論や学派は枝分かれして増える一方だし、それぞれの学派も深化と分化を繰り返してその研究には終わりがないのである。

だから心理学のプロほど「人間の心がいかにわからないか」ということを骨身に沁みてわかっているし、経験を積むほどに慎重になっていくのだ。

人間関係の醍醐味も心の奥深さや複雑さにあると言っていいけれども、こういう複雑性は「道を聞く」というような場合はあまり必要ではない。

そのせいか従来からエレベーターガールとか案内嬢といった職業にある方は人格や個性をなるだけ出さないように要求されてきたし、これを突き詰めれば早晩ロボットに行き着くのも当然かもしれない。

便利だなと思う反面さみしさを覚えるのは自分が旧世代の人間だからだろうか。

ここからはほとんど妄想だけれども、AIに案内された道を歩きながら「そのうち医者とか教員もAIに置き換わるのではないか」などと考えていた。

今回のようなコロナ騒動の場合は別として、風邪のような症状の場合はタッチパネルを前に話して、熱や脈などが遠隔で測定される。

そしてAIの医者が流暢な話し方で診断して、出された処方箋をもって薬局に行く。そこで3日分とか1週間分の薬をセルフで受け取って帰るのだ。

いわば病院の簡易版とドラッグストアの進化版が融合したような状態である。

学校も小学校の高学年、中学、高校と年次が上がるほどに単なる知識の切り売りの割合が増えていく。

だから生徒一人ひとりに「学校AI」を渡しておけば、教師の性別や性格、見た目などを生徒が各々の好みにカスタマイズして、あとは当人の好きな時間に勝手に勉強すればいい。

個性的で魅力のある先生との出会いのチャンスは失われるが、多感な時期の子どもが人格に偏りや歪みをもった教師に翻弄される害もなくなる。

完全に実現はないとしても、方向的にはこれに当たらずと言えども遠からずという向きに流れていくのではないだろうか。

そこへ行くと整体は人と人との接触によって結ばれる対人関係の技術である。そのためにAIと置き換わる公算は低いし、そうなってはならない。

しかしこのまま人間の力が落ちてくれば整体すらも「AIの方がまし」ということになりかねない。整体操法の真意が失われ、型だけが残った伝統芸能みたいになったらおしまいだろう。

そもそも整体法の知名度や普及率の低さを思えばそんなことはあり得ないのだが。

整体指導者は時代がどう変わっても社会の価値観に左右されることなく、そこに生きる人間の要求にピタリと応えられるようでなければならない。

真の贅沢とはこういうものだと私は考えている。人がそれを求めたときに確かなものを提供できるように、整体操法を途切れさせたくはないなとは思っている。

などなど妄想している間にAIのおかげで目的地には無事に着いた。心がないとこうもスムーズなものかと妙な所で感心もした。しかしもはやAIには心がないといいきれるだろうか、そもそも心の定義とは何か、とか、その後もしばらく暇人の思案は続いた。

死の恐怖

コロナ禍の様子を外から眺めていて、何故ここまで衛生法や薬に頼ろうとするのかなかなか理解できなかった。

それをあるきっかけで「どうしてこんなにも病気を怖がるのか」と視点を変えると、少し見える景色が変わってきた。

「病気になったら早く治したい」「治す薬が欲しい」「完璧に予防したい」と渇望する心の背景には無意識の死の恐怖がある、ということだった。

あたかも自分で気づいたように書いていながら、実は野口先生の古い講義録を読んでいたらそのまま書いてあっただけなんだけども…。

そう考えると、去年あった店頭でマスクの奪い合いででケンカになったという海外のニュースも肯ける。「単純にマスクをよこせ!コノヤロー」という話ではなくて、潜在意識化にある死に対する怖さ、というのが意識を操った結果のできごとである。

だから「今回のワクチンは胡散臭い」、「いまいち信用できないので打たない」と言っている人の中にも二種類あって、「人間は生きるだけ生きて死ぬときに死ぬんだ」と達観している人もいるだろうし、「ワクチンは嫌だけど、とはいえ病気は怖いし」とマスクと手洗いでせっせと衛生に努めている人もいるのだろう。

つまるところ病気を完全に克服するには無意識にある死の恐怖を克服するしかないし、それには「生きている」ということの実体を自分で明らかにするより他はないのである。

生老病死を克服する真理は釈迦が2500年前に見つけたものとちっとも変わらない。これは洋の東西などを飛び越えた、生きること死ぬことを貫く真理である。

例えば「アブラハムが生まれる前から私は在った」というキリストの言葉は、そのまま「父母未生以前、自分はどこに在ったか」という禅の公案の答えになっている。

「救済」とか「悟り」とか言われるものの根本は一つなのだ。

そして、どうやら昔の日本人にとっては禅は一つの嗜みだったようである。

ただしこれは生活しているうちに「はっ」と気づくようなもので、親から子へ、または先生から生徒へ「教える」ということはちょっと難しい。

よしんば気づかなかったとしても特にどうということもないので、知ってもいいし知らなくてもいい。人格的にまあまあ育って何か職業につければそれなりにやってはいける。

そうこうしている間に西洋化の潮流の中で禅文化の風土は雲散霧消していったのかもしれない。

そうすると当然心の不安、生死にまつわる漠とした恐怖をぬぐえなくなってくるので、そのポッカリと空いた心の隙間にさっと入り込んだのがペニシリンやストマイをはじめとする科学的医療手段の数々だったのではないだろうか。

だから現代の医薬信仰は中世の人が十字架を握りしめたり、神棚とか仏壇に手を合わせているようなもので、これをふいに奪われると心の安定を失ってしまう。

柱に寄りかかって立っている間はどうしても柱に執着せざるを得ない。

そういう心理構造の背景に「漠とした死の恐怖」がある、と考えるとようやく自分なりに納得ができたのだ。

自分の場合は整体法を知った時から病気の見方がコロッと変わってしまったし(これは野口整体の潜在意識教育のため)、お世話になっていた整体の先生が「野口整体は禅文化だ」と言い始めてからちょくちょく参禅をしてある時期からポコッと禅に対する疑念が途切れて湧かなくなってしまった。

今からすれば「ああ、なんだ…」という程度のものだけれども、これがあるかないかで世の中の見え方がこうも違うものかなと思う。

一般に力のある宗教家というのはそばにいる人たちから漠とした死の恐怖を忘れさせてしまう。それはある面では結構なのだけれども、下手をすると主がいなくなったとたんその集団は総崩れみたいになってしまう。

親鸞でもその死後はすぐに法が乱れてしまったというし、病気や死の克服はやっぱり自分でするより他ない。

いのちの真相は常に自分の中にある。

自分の中といっても中のものは目の前に展開しているので、ちゃんと眼さえ開ければ一瞬で解決する。

人間ははじめから生死を飛び越えて躍動しているのだ。これに気づいた瞬間、無垢な自分がゴロッとそこにそのまま出てくる。そして禍も福も、病気も老いもみんな消えてしまう。

万病に効く薬、これより他になし。

野の医療

河合香吏,1987『野の医療 ー 牧畜民チャムスの身体世界』東京大学出版会

東アフリカ、ケニアに住むチャムスという牧畜民の医療(医学)を通じて現地の人々の身体観にせまろうとしたフィールドワークの記録と考察の書。

『野の医療…』というタイトルから野口整体の考え方に何らかの刺激を提供してくれるのではないかと期待して読んだ。

読む前の予想を裏切ったのは、彼らが様々な疾病現象に対して非常に薬(薬草類)を好んで用いるところであった。

当たり前だが日本の都市のように救急車と病院に取り囲まれた環境ではないので、彼らの病や怪我に対する認識は大きく異なることが想像される。

怪我をしても整形外科に行けばいい、入院して手術をすればいいという甘えはまずないだろう。

そのような環境下で、科学とは縁遠い文化に属するチャムスの人々の病気や怪我への対処は、個々の経験を重視した合理的な方法を数多く有している。

そして病気に対する眼差しは西洋医学のそれとは異なり、あくまで自分自身の経験として病気は自覚されるものであって、客観的に分析され理解されるものではない。

具体的に言えば、胃がしくしく痛む、頭がずきずき痛い、といったしくしく、ずきずきという感覚から先ず出発して、のちに客観を働かせるのである。

現代の日本のように、自覚症状のない人を捕まえて検査し重箱の隅でも突くように「異常」を探して認めさせるようなことはない。

そして身体の変化の一過程として病気があるのであって、これを「負」のものとして捉えてはいないように思われる、と筆者はいう。

その原因の一つとして病気と死が直線的に結び付けられていない、というチャムスの傷病観について述べられている。

「死」というものは病気の有無とは別の系で考えられており、結果的に病気と死が重なり合うことがあっても、そこに因果性を見出していないように見えるのだという。

死は体が朽ちたり、破壊されたりすることで訪れる即物的な現象ではなく、そうした物質的な理屈を超えた「何か」によって統制、もしくは支配されていると認識されているのかもしれない。

整体法においても「個体としての生命は、死ぬときに死ぬ」といったような、ある種因果律を超越したような達観がある。

現実に結核を乗り越える身体もあるし、風邪に耐えられない身体もある。また、癌の手術を何度も受けながら10年以上生きている場合もあるし、流感に一度罹って死んでしまうケースもある。

もっとも急変や急死などというのは、平素人間をモノとして観ているからそう見えるだけで、もっと丁寧に観察しておれば、その体がいよいよ鈍く硬直し死体に近くなっていることくらいはわかるはずなのだが。

ともかく病気と死は無関係とは言えないが、特定の病気が必ず死に至るとはいえず、病症の母体となっている「身体の状態」を見ずして人の生死を測ることは困難を極める。

整体ではこの「生きて動いて絶えず変化する身体」を「観察する」ことが技術の9割以上を占める。観察がある域に達すれば「死ぬか生きるか」ということがまず判る。「死なない」ということが判れば、相手の潜在体力を信じて静かに経過を待てる、これをもって技術の第一としたのである。

チャムスの「医」においてもそれに類似した死生観を匂わせる。そして病気というものを臨床経験と主観を重視して見つめていく態度にも親しみを感じる。

しかしながら整体法がやはり異質だと思うのは、病症に対して自然秩序の合目的性を見出し、これを合理的に活用する道を力強く開拓していったことだろう。

このことは『風邪の効用』という一著に集約されてるが、あれは風邪の対処法を纏めた本ではなく、東洋思想という水源上に結晶化した一つの哲学なのだ。

当然だがそれぞれが浴している文化が違うので、チャムスの医と整体法の優劣を安易に論じることはできない。

ただ日本の現状に照らして考えるならば、自然科学という一見強固なパラダイムの中で行われている医療でも、歴史的、地域的な視野を広くとればそれはごく一部なのだ、ということは知っておいて損はない。

現代において科学を疑う、というのはともすれば異常ともみなされる態度だが、チャムスの医や整体法のような主観経験を母体とする臨床の知というのは自然科学の死角になりやすいのである。

このような死角に生じた需要によって整体法は生まれ、今日まで命脈を保ってきたと言っても過言ではない。

野口整体と西洋医療という二つだととかく対置構造になりやすいが、『野の医療…』を読んだことでその閉ざされた構図にある種の広がりを感じることができた。

「人間の多様性」というのを改めて感じたし、人間を見る目の柔軟性も刺激されたように思う。

多様性と言えば、日本とケニアを往復しながら時に現地で年を跨ぐなどして12年もかけて本書を執筆した筆者の執念、というか興味の持続力には人間の感受性の違いというものをまざまざと感じる。

何にしてもこのフィールドワークの長編記録は大変に貴重な資料だ。一冊の本を読んで筆者にお礼、というのもあまり聞かないけれども女性でありながらこのような体験的考察を書きあげた著者に対し畏敬と感謝の念を禁じ得ない。