暗示

この2週間ばかり催眠、暗示の効果を検証していた。

例えば子供に「朝起きるとすっきり目が覚めて、起き上がる」という暗示を与えておくとその通りになる。

たしかにその通りにはなるけれども、果たして子供の様子は妙であった。考えてみれば当たり前のことで「朝すっきり目が覚める」ためには寝ている間に体の疲労が抜けてること、そして起きた先にある生活に意欲が持てること、という条件が必要である。

しかし目が覚めたところで1週間のうち5日間は学校に行かねばならない。小学校に上がれば行動の制限も増えるために、体力の充実した子供なら不自由を感じ「行きたくない」と感じるのも無理はない。その空想が暗に働くために、朝起きることが億劫になる。

心はいつでも体にくっついている。快活に行動してくための体の条件を無視して頭の中だけに「起きたらテキパキ学校に行く」という暗示を植え付けることは、心と体の同調性を乱す。こういう下手な暗示法は生命を傷つける行為だと後から気づいて恥じた。

自分に対しても何種類か暗示を試したが同様の理由でやめてしまった。やはり自己改革ということは個々の体の状態を無視して行うには無理がある。

今回の自分の感想とはうらはらに、世の中には暗示で健康に、暗示で優秀に、暗示で美しく、ということに関心を持つ人はなくならない。

いや暗示ではなく、これはアファメーションであるといってせっせとやる人の中には、旧世代から引き継いだ欧米に対する劣等感が反映されているのかもしれない。

これも欧米のものや横文字新しいものには効力があると思い込んだ暗示の一つではないだろうか。

しかし何と言おうと現在意識の都合で無闇に潜在意識に暗示を放り込むことには賛成はできない。

例えば潜在意識に劣等感のある人は無意識に自分を立派に仕立てようとする。いや、立派にしようとするのは意識であるが、その意識は知らぬ間に潜在意識によって動かされた結果である。

「劣等だ」とすでに刷り込まれている上に、「いやいや、これでなかなか優秀だぞ」という観念をさらに入れていくのだから、心の中には見えざる葛藤を増やすことになる。

こういう意識以下の矛盾がいざという時に微妙に作用して、体をこわばらせパフォーマンスを低下させる要因になるやも知れぬ。そういう種をいくつも潜在意識に蒔いていったら雑念は増える一方である。

例えるなら、海水に砂糖をいれて真水しようとするようなもので、それなら純粋な海水のままの方がまだ使い道があったかもしれない。

それでも「いやいや、とにかくこれがいいのだから」と思い込んでいれば、一定の効力があるのだから人間の思い込みはすさまじい。それはそれで楽しんでやれるかもしれないが、体の生理という観点から言えばやはり乱すものである。

そもそも生命に優秀も劣等もないのだ。ところが多くの人が過去の経験と記憶を引きずって生きているために、その結果として「…と、思い込んだ自分」を実際の自分だと錯覚して生きている。

だから本来であれば「劣等だ」という暗示を意識線上に浮上させて、無意識的な影響下から脱することだけが、その人の心を自然に戻す力がある。

「良い子」とか「悪い子」も同じ理屈で、はじめからそういう子供がある訳ではない。

実際は一過性の事情でそういう評価を与えて、それが暗示となって固着してしまったものが少なくない。そもそもが大人の便宜で、管理しやすい状態にある子を良い子と決めてしまっている。

しかし体の生理に背く命令でも「はい、はい、」と素直に聞く子の多くは、自分の意志を通そうとする体力がないか、大人の睨みのために委縮しているだけである。

そういう実態を無視して、親とか教師が作り上げた「良い子」を押し付けたり、「悪い子」という暗示を植え付けた上からさらに矯正したりしようというのだから無知であり、乱暴なのだ。

それでなくても普段から家の中でも外でも暗示は飛び交っている。そこにさらに暗示を加えるよりも、自分がかかっている暗示を解くためにその仕組みを理解し、潜在意識の掃除に努めた方が暗示の使い道としてよほど有益ではないだろうか。

臨床の現場から言っても、暗示をかけることよりも暗示からの解放の方が技術が要るし、人を自由に逞しくする道もむしろそちらにあるように思う。使い方次第といえばそれまでだが、暗示はそれほど重宝なものではないというのが今回得た学びである。