夏休みの最後に子どもと江ノ島に行った。今年はプールにはずいぶん行ったけど、海水浴はこれが最初で最後になりそうだ。
ライフジャケットを着せていたとはいえ、大きな波が来ると小学二年の体が一瞬消える。ひと時も目が離せないので疲れた。
こちらの心配をよそに、寄せては返す波の中で欣喜雀躍する子どもの姿を見ていたら瞬く間に3時間も過ぎてしまった。人工のプールではこうはいかなかっただろう。
ジャケットの浮力で小さい波が来るとふんわり揺らぐ。その度に声をあげて喜んでいた。
ボディボードをやったことのある妻に聞くと、「波に乗る」というのは楽しいらしい。
歌や踊りでも「リズムに乗る」、というのはある種本能的行為だが、これと同じように体の内なる波のリズムは外界の波と同調したがっているのかもしれない。
何故なのかな、わからないけれども、考えてみればこの世界に「波」は遍満している。
海辺のさざ波はもちろん、潮の干満はもう一つ大きな波だ。
春夏秋冬も波だし、草木が生い茂って、やがて枯れるもの波と言えるかもしれない。
当然人間の呼吸も波だ。脈も波だし、そもそも人が生まれて、成長し、老いて死ぬことも一つの波ではないだろうか。
そう考えるとみんな波の中で、波を意識することなく生きているのだ。
コロナも「第何波…」という具合に罹患者の増加率は波形をとっている。これも自然の妙だろう。
咳やくしゃみによる飛沫感染云々…という現状の科学的因果律だけではこの「波」の説明はつかない。
整体法では感染症の原因を病原細菌に置いていない。コレラ菌を飲んでもなんでもない時もあるが、体があるコンディションの時だけコレラ菌が増えて下痢をする。
同様に体に平衡要求が生じなければインフルエンザでも肺炎でも結核でも、いくら病原菌に接触しても発症しないのである。
これは「…かもしれない」「…だろう」「…のはずだ」といった観念主義的な妄信ではなく、事実の集積に拠って得られた一つの現象学的結論なのだ。
個人の体は発症の要求によってそれぞれ症状が生じるけれども、上に書いた罹患者の総数を見るとそこには集団としても何らかの合目的性がありそうだ。
人間がいくら個人主義を叫んでみても、その個人同士は何か見えざるつながりを持って、全体として、一つの波の中で生きていることを認めざるを得ない。
意識しようとしまいと、誰もが同じ波の中にいるのだ。
もしも海の水が引いている時に、これを満たそうとして子どもが水を撒いたら大人はその無知を笑うかもしれない。
だとすれば人間の意識で作り出した薬やマスクで自然の波に抗し得ると考えることも、同じ次元の行為とは考えられないだろうか。
海では波に逆らうと飲まれてしまうが、反対に波に乗れば快感がある。
海水を分析しようとしながら波をかぶってむせているよりも、自然に溶け込むように波を感じ、これに乗って生活する方が高度と言えないだろうか。
整体は原始の心である。それでもこの原始の心が未来を拓く可能性まで否定することはできない。
そのためにまず自分の波を感じられるように心を静かにする必要がある。
我々が整体であろうとするのはそのためである。しかし体が先なのでも、心が先なのでもない。
それらの総体としての何か、それを整体では「気」といっているけれども、体を忘れ、心も忘れ、自分さえも忘れて動いているときその人は気の波になっている。
海の波に乗ったときように、今の息の中にも、病気と言われる体の働きの中にも丁寧に観ると快感はある。
病気は恐ろしいという先入主から自由になれば、それは自然に感じられるものだ。自分を捨てて、意識を鎮め無意識に委ねることである。
決してむずかしいことではないけれども、意識の発達した人間が波に乗るには訓練がいるのだろう。
整体法はその訓練そのものである。