波のことは以前にも何回も扱っている。同じこと同じテーマで繰り返し書きたくなるのも波のせいだろうか。
なんというか、人間に波があると知って生活するのとしないのではだいぶ違う。
ある時は何もしなくても気分が良い。体力もある、無限に何かをやれそうな気がする。こういう時は晴れた日に快を感じ、曇りを疎ましく思う。これを高潮という。
またある時は何もしていないのに起きられない、意欲も出ない。物事を良い方に考えられない。晴れた日は疲れを覚え、曇りに安息を見い出す。こちらを低潮という。
どうしてかはわからないけれども、ともかくそういう構造をしている。
整体法ではさらに気の波、水の波と一人の人間に二種類の波を見ている。
一方が気分の波、もう一方が生理の波。
前者が10日で振幅するのに対して後者は7日であるという。
今の私が体を観てもそこまでわからないけれども、体量配分計という足裏の重心位置を測定する機械で一定期間測り続けると、その重心位置の移動が数値化され波形が見えてくるというから客観性は実証されている。
注意したいのは高潮期は「好調」という意味ではないということだ。高潮期は普段あまりしないようなウッカリや怪我も起こりやすい。
低潮期はそういう意味では堅実な期間で、ルーティンを淡々とこなせるという点では安心できる。
地球の自転公転、月の満ち欠け、潮の干満に良し悪しがないように、人間にもそういう波があるのだという話である。
ただ社会生活という中である個人を見た場合、結果的にそうした位相が良く見えたり、悪く見えたりするというだけのことなのだ。
この低潮・高潮の波をうまく掴まえることができれば、対人関係でも余分な衝突や軋轢を減らすこともできる。
子どもを叱るのも、夫に文句を言うのでも、奥さんに頼みごとをするのでもこの波を無視して行うから期待したことと反対の結果が生じることもざらである。
低潮期に叱れば萎れてしまうが、高潮であれば反発する。低潮期に頼めばこちらの要求も通りやすい。
また高潮期に文句を言えばふくれるに決まっているのに、それを知りながら敢えて言ってしまうのは自分にも波があるからである。
自分が自分の波を知らず支配されているうちは、他人の波を活用することも難しい。
どちらにせよ土台難しい話なのだが、波を活かすための一つのコツがある。
多くの場合高潮期にある人は活力を感じる反面、落ち着かない、やけにソワソワするので冷静になろうと努め余計にイライラする、低潮期にある人は意欲の減退が気になり動かなければ、働かなければと考えやすい。
しかしこれを波だと理解していれば高潮期は眠りが少なくとも動きたいように動き、低潮期は意欲と力の及ぶ範囲でできることをやってやり過ごせばいい。
どうせ人間は眠り続けることもできないし、起きて働き続けることもできないのだから。
波を知ろう、使いこなそうとするとかえって頭を熱くして裡なる要求がわからなくなる。
整体でポカンとすることを繰り返し説くのも、こうした波を含めてただ自身の裡なる要求と親しくあるためなのだ。