雑草

「雑草という草はない、みんな何の〇〇という名前がついている」という言葉を以前どこかで聞いた覚えがある。

実際全ての植物に名前があるかは知らないけれども、考えてみればあさがおとか、なずなとか普段なに気なしに名前を付けて呼んでいる花も本来名前はない。

たまたま和名でそう呼ぶようになっただけで、全ては「草花」であり、その草花も全体の一部である。

その中で人間の生活に近く愛着の対象となったものだけが名前を付けられた。

さて、せい氣院には猫の額ほどの庭があるけれども、この額がちょっと油断するとすぐに雑草で埋め尽くされてしまう。

抜いてもむしっても、どこからともなく生えてくる雑草の強さにはいつも感心する。

ラベンダーやハーブを買ってきて、育てよ、増えよ、と世話してもふと気を離したすきに枯れてしまうのに、である。

そもそもがそこに生えないものを移植したうえに、土の管理がずさんときているのだから致し方ないのだが、それにしても次から次へと湧いて出てくる緑の芽にはやはり無尽蔵の生命力を感じざるを得ない。

一つ一つの個体として見れば萎れたり枯れたりしているのだろうけれども、やはり守られていない種は総じて強い。

淘汰というのは自分に向けられたらこれほど嫌なものはないが、種全体のことを考えればこれあって初めて生存力は喚起される。

そのために温室、日照、土、水、栄養とあらゆる方法で守られて育った種の中には、少し環境が変わっただけで再適応が行われず、そのまま立ち枯れてしまうものが多く含まれている。

これと似たような傾向は他にもある。例えば熱帯魚を放したら死んでしまうような汚水でも、菌やボウフラは湧いてくるのも同じ理屈と思う。

これを人間に置き換えたらどうだろう。

生まれる前から衛生、薬と外からの保護に浸りきり、生まれてからも過剰な栄養、熱が出ても下痢をしてもすぐに薬で抑えてしまう。

熱も下痢も生命の平衡要求によってなされる正当防衛の反応なのに、熱を下げることで病菌やウィルスに加勢し、それらを今度は薬で殺そうとする。

果たして殺菌薬による淘汰の波にさらされた病菌は再適応して、同量・同種の薬では効かない種へと変異する。

ここに病気と医薬のイタチっごっこが生じるわけだが、ともすればその病菌駆逐に囚われて、菌と薬の戦場となっている人体のことは忘れられてしまう。

庭に生える雑草と、人間の知恵で守られた花。

放っておけば淘汰の風がどちらに吹くかは明らかである。

人工花を生かそうとすれば保護の上にまた保護を必要とする。庇えば弱くなり、弱くなれば更に庇わねば育たない。

無論人間には保護が必要である。生まれたばかりの赤ん坊を野風に晒せばひと月と持たないことは誰も知っている。

ただその保護する中にも、相手の中に雑草と同じ強い生命力があることを忘れずにいたい。これを保ち育む考えが育児の中にもあって然るべきだ。

外を改めること以上に、内容の充実をはかることはさらに重要である。

そういう点で医学も衛生法もかなり前から180度の転換を迫られているのだが、いったん社会に深く根をおろした常識や価値観を転換するのは容易なことではない。

生き物の能力というのは使えば増す、使わなくなれば委縮してやがては消滅する。

歩けば脚は太くなる。悩めばそれだけ頭が良くなる。苦しむことでも心が育ち、人の苦しみも我がこととして背負えるようになる。

二千年後の世界まで人間が生きているとしたら、自分の手足を使い、頭を正しく用いて、苦しみを広げることがきちんと行われたためだろう。

熱も下痢も息も脈も考えてやることではないけれども、その考えてできないことをいのちは最初からやっている。

その最初からあるものを活かそうというのが整体の発想である。

これから獲得するのではなく、いま掴んでいるものをみんな手放してしまうと雑草と同じ力が自分の裡から生きてくる。

考えるよりも感じる方がいのちに近い。考える葦である人間も、考えない雑草から学べることはあるだろう。