教養

妻から車内暴力のニュースを聞いた。50代の男が電車のガラスを割ったそうだが、昔だったら初老の域でも現代では力の余っている人が多い。

とはいえ火事と喧嘩は江戸の華とかいう古語もあるくらいだから、一口に現代だから…とは言い切れないかもしれない。

無論個人差を無視するわけにもいかないが、人間の生理構造上、暑くなると普段大人しい人でもイライラしやすくはなる。

戦争や内戦をしている地域が赤道付近に集中しているのも、もしかしたらこういう理由によるものかもしれない。

しかし暑いからといって誰もがカッカしているわけではない。涼しいモスクワにだってムシャクシャしている人はいるだろう。

生きものには自分の要求を果たそうという願望があるために、これがスムーズに行動化されないとエネルギーが鬱滞する。

この鬱滞したエネルギーが厄介なもので、そのせいで人間は他の動物よりも余分にイライラしたりカッカしたり、またクヨクヨしたり病気になったりしている。

先進文明国などといわれる地域では、人間がいつしか労役ということを忌避するようになったために、大脳を働かせることで肉体労働から解放されることが幸福だと考えられるようになった。

本来動物である人間は体を動かすことに快感があるはずなのだが、資本家という概念の誕生とともに労働者に対する不利益なイメージが定着してしまったのである。

先にも書いたように、面白いのはエネルギーが余ると余計に暴れたりカッとなったりするばかりでなく、陰気になることである。

子どもの意地悪や告げ口が、学校や親の過剰な行動制限と無関係であるとは言い切れない。

もとから意地悪く生まれて来た子などいない。思いっきり体を動かした後は大抵みんないい子なのだ。

意地悪で病気や怪我ばかりしていたような子供が野球やサッカーをはじめてから快活になった、という例などは上の理屈を裏付ける。

もちろんスポーツをやったおかげで健全な精神が養われた、とか立派な指導者が子供の人格を育てた、という解釈もわからなくもない。

そういう事例も確かにあるだろうけれども、個人的にはそれ以前の生理構造による面が大きいように思う。そして、とかくこちらは見落とされがちだ。

日本の都市型の生活だと大人はもちろん、子供の運動量も生理的欲求に比して圧倒的に少ない。

冒頭で書いた電車のガラスを割った男でも、電車移動ではなく仕事道具一式にお弁当、飲み水を4、5Lも背負って歩いていたら、また話は違ったのではなかろうか。

余剰エネルギーを抱えたままで、みんな仲良く平和に暮らそう、といってもやはり生理的自然に背いているだけ無理がある。

だから現代の場合は道徳や倫理を説く前に、人間の構造の見直しが必要だと思うのだ。その際は客観ではなく、主観から再出発したい。

既存の科学的な理論は後からでも役に立つ。今はそれを一度わきにおいて、現象学的接近法による事実の集積に注力すべきではないだろうか。

我が身つねって…という言葉があるように自分の感覚から丁寧に観ていけば人間に対する理解は今よりももう一つ深化するだろう。

今や情報はいくらでも手に入るのだから、情報などではどうにもならない、自分の体を自分で統制するという内的な教養の方がはるかに価値がある。

それも体温とか消費カロリーとかそういう客観によるものではなく、主観的な秩序感覚や快の感覚によって支えられるものが望ましい。

意識が外へ向かって探し回っている間は自分のことが判らないのである。だから意識を閉じて無意識に聞く。整体であるということは、意識が静まっていることでもある。

だからことさらにヨガや体操などしなくても、生理的欲求が落ち着けば体は自然に整う。すると自ずから自我は沈静化する。それと共に自分と世界の境界を忘れ、いのちの真相が現れる。

この自分とか世界とかを忘じた状態を道元は身心脱落といったけれども、1000年前に広めた教えでも、当時の人たちよりはるかに多くの知識を持った現代人が履行できないでいる。

現代に求められる教養、生きるための教養とはこういうものではないだろうか。