子どもが少年野球のチームに入ったので父親の私も補佐役として止む無く球界入りを果たした。
生来運動音痴だった私は幼少のころから野球に近づくことなどありえなかったのだが、人間長く生きてみると何があるかわからないものである。
とはいえスポーツに疎かった私にも、ささやかな武道経験がある。高校の時に一念発起して空手の道場に入門したのだが、体育会に対するイメージはこの時に強く形成された。
向こうも商売だったのでそれなりのエンターテイメント性もあったけれども、そこはやはり空手の道場、厳しい所は厳しかった。
人間臭い理不尽さもあったし、後輩の態度が気に入らなければ組み手の場で制裁が行われることもままあった。かと思えば力量次第で下剋上もある。
まあ壮年期の男社会なら意地と面子の張り合いは付きもので、それは当たり前だったのだ。
そんな世界だから少年部の指導など言うことを聞かせるにはガツンと言えばそれで終わりである。
そんな印象しか持ち合わせてなかったものだから、現代のスポーツ指導の環境には隔世の感を禁じ得ない。うわさには聞いていたけど今の指導法はソフトでやさしい。
努めてそうしているのかわからないが、昔だったら「〇〇しろ!」で終わりだったものが今は「〇〇しよう」と語調もやわらかい。
それでもそれなりに秩序が成り立っているのだから、何ごともやってみなければわからないものである。
怒鳴り声とか体罰だとかは軍事教練がそのまま義務教育に流用された昭和の名残りだったのかもしれない。
そういえば最近は根性という言葉も聞かなくなった。
あれほど重要視されていた根性という概念も早晩死語になりつつあるのだろうか。
苦しいことや嫌なことでも耐え忍んでやり抜けば、その先に栄光も成功もある、といった考え方はある時期までは共通感覚だったように思われるのだが、今にして思うとそれも疑わしい。
野口整体では人間が全力発揮するためには自発性が大事であると説く。賃金をもらって担ぐ荷物は重いが、自発的に行くスキーやゴルフの荷物は軽い。一日重荷を担いで歩いてもその足取りは軽快である。
この論法から行けば先に書いたような根性論など全く無意味に思われる。
日本のプロスポーツの世界を見ても、昔ほど泥臭さや汗の匂いを感じさせない選手が増えた。それでいて世界のトップクラスで活躍する人の数は以前より増えている。
こうした選手たちの影の努力や根性を否定はできないが、そういった面を美徳として見せようとしたり、また周囲もこぞって取り上げようとする風潮はだいぶ失せたように見える。
実質的にはどんな指導法でもその是非は当事者に合うか合わないかなので、各々の優劣を一元的に定めることはできない。
とはいえ戦後70年以上が経過した現在は全般的に心の使い方、指導の仕方が洗練されたと言えそうである。
さて、そもそも根性という言葉の定義、ルーツを探ってみたらこれは仏教用語の「機根」という言葉が変性したものらしい。
これは生来の質(たち)とか、その人の持つもともとの性格などを表す意味あいが強かったようである。
少し厳しい言い方だが、素質のない人間はいくらむきになってガリガリ修行してもあさっての方向に突っ走ってしまうのが関の山なのである。
そのために指導者は志願者の機根をよく見極めて、入門の是非から厳しく見極めましょうという考え方があるのだ。
だから仏典には修行者の資質のことを上根とか下根とかに分ける話がよく出てくる。
これが一般用語になるときに転換して、俗にいう「根性」という言葉が出来上がったようだ。
語彙というのは得てして当時の世相や価値観の影響を受けて変質しやすい。だからかつてのような用法でなく、個人の資質にあった教育を施す意味で新たな「根性論」が形成されたら面白いかもしれない。
根性をいろいろ調べていたら『ウマ娘 プリティーダービー』というアプゲにはラストスパートに反映される〈根性〉というステータスがあるらしい。競馬と根性という昭和の風は姿を変えて今日も吹いているようである。