ユング心理学における「影」について:整体指導と心理療法のアプローチ法の比較

昨日ミッドライフ・クライシスについて書いた記事でユング心理学の「影」という概念に少しだけ触れたが、実際には今まで否定的にみていた自分自身の資質を認め、受け入れていく作業というのは整体指導や心理療法の治療モデルの根幹をなすものである。

いわゆる自己受容と呼ばれるそれである。

最近は「あるがままの自分を受け入れて‥」という言葉をよく耳にするが、耳ざわりがいい反面、自己受容という作業はなかなかに困難なものである。

ものごと全般においていえるが、嘘というのは案外やさしく、真実は厳しいことが多い。それだけに自分自身が影に追いやった資質に肉薄するというのはそれだけ心のエネルギーを要する行為なのだ。

これについて河合隼雄著『ユング心理学入門』に判りやすい記述があるので、一部抜粋して引用する。

影の内容は、簡単にいって、その個人の意識によって生きられなかった反面、その個人が認容しがたいとしている心的内容であり、それは文字どおり、その人の暗い影の部分をなしている。われわれの意識は一種の価値体系をもっており、その体系と相容れぬものは無意識化に抑圧しようとする傾向がある

…影はつねに悪とは限らない。…それはむしろ、今後、自分のなかに取り上げられ、生きてゆかねばならない面と考えられる。つまり、今までその人として否定的に見てきた生き方や考えの中に、肯定的なものを認め、それを意識のなかに同化してゆく努力がなされねばならないのである。

このような過程が分析において生じるのであって、これを、ユングは、自我のなかに影を統合してゆく過程として重要視している。分析というと、何か自分の心理状態を分析してもらって、分析家に、あなたは何型ですとか、こんなところがありますが、こんなところはありませんかとかいってもらって終わるものと思うひともあるが、そんな簡単なものではない。

自分で今まで気づいていなかった、欠点や否定的な面を知り、それに直面して、そのなかに肯定的なものを見出し、生きてゆこうとする過程は、予想外に苦しいものである。影の自我への統合といっても、実際にするとなると、なかなか容易ではない。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 pp.101-105 太字、改行は引用者)

このように、一人の人格のなかには自分として相容れない異物のような資質があり、それが抑圧された結果として「影」が構成されている。

「マイナスや欠点は本人の努力によって克服すべきもの」という考え方はよく目にするが、こういった「前向きな」思考態度は欠点を欠点のまま受け入れ、上手に活かすという自然体(あるがまま)で生きていく道を死角に追いやることになる。

たとえばここにダイエットに関心をしめす女性がいたとする。するとその女性は「やせればきれいになる」という価値観がつよく入ってる人であるといえる。

そこで仮にやせることに成功して自信を持ったとしても、「やせていない自分像」は否定されたままなのだ。

だからつねに体重の増減によって安心したり不安になったりする気持ちは抜けきらない。

ところが2~3歳くらいまでの子供を見てみればわかるが、子供にはもともとそのような価値基準はないのである。

だからこのような場合、人生上のどこかで「やせていない=バツ×」という価値体系をどこかで持たされてしまったと推測することができるだろう。

そのような場合、理想としてはそうした価値体系を持たされたときまでさかのぼり、そのような容姿の変化で左右されない心の安定感を取り戻すことが自己受容の自然なプロセスである。

少し話はそれるが、野口整体では整体指導という臨床のなかにおいて、「潜在意識教育」ということを中核に据えている。

すなわち意識の深層に格納された、その人の心身全体における調和を阻害する「異物」を消失させることを目的としている点では、ユング派の心理療法によく似た面があるといってよいだろう。

違いをあげるとすればその手法にある。心理療法は言語を主体とし、その補助的手段として箱庭療法や遊戯療法、あるいは体操のような身体的刺激を用いるのに対して、整体指導の場合は言語と非言語の境界が曖昧であり、むしろさまざまな身体的刺激が溶け合って一つの技術体系をなしている点である。

つまり言葉もまた音を媒体とした身体的刺激として考えている面があるし、身体的刺激と言語作用を互いに相乗的に活かすことができるレベルになるまで指導者は訓練を積んでいく。

ともかく方法論はそのように違うにしても、身体上にあらわれた問題に対し、その原因を心の深層部に求めるという点では通底しているのである。

心理面においても身体面においても、表層部へのアプローチに留まる治療法は多数あるが、そのような方法のみでは充分に対応しきれないクライエントに対して上に挙げた2つの手法が有効となる。

逆にいえばクライエントの関心が表層の問題に留まっている段階では、充分に整体指導や心理面接の効果が上がらない、あるいはその真価を活かしきれないケースも出てくるから注意が必要である。ニワトリをさくのに牛刀を用いるようなもので、相手の求めに適った技術で対応するのは治療者の必要とする能力である。

これは整体の技術でいうところの「機・度・間」という言葉でも説明ができる。つまり機会・度合・間合の3要素によって技術の成否は決まるという考え方だ。クライエントにとって適切なタイミングで適量の刺戟を用い、その後の変化を待つ(見守る)という、このバランスを重んじるのである。

一方心理面接においても「機が熟す」という言葉を用いて、クライエントの心的エネルギーが充実し、自身の「影」と対峙できる気力や体力が認められるまで待つことを大切にしている。

いずれにしても相手のなかにある健全な生命力というものをアテにした技術体系であり、その点においても両者を相補的にとらえ理解を深めることでより高次の治療体系を開拓できる可能性を感じさせる。

また理論も大切だが、それを使いこなせるかどうかは個々の治療者の経験にもとづいた力量によるところが大きいのも事実である。内的世界における影との対決を助成できるのは、先にそうした体験を通過したひとである。

生命活動の根幹を司るのが深層心理であるが、そこに関わるためには治療者自らが歩んだ内的世界の散策経験がモノをいう。

フランスの詩人ポール・ヴァレリーによって「自分と折り合いがついた分だけ、人とも折り合いがつく」という言葉が残されているが、己を知った分だけ他者がわかる、というのが人間の特性ともいえる。

つまり豊かな人間関係を気づく鍵はつねに自己の内的世界における対話によって開かれる可能性を秘めている、といっていいだろう。そこで焦点となるのは、それまでそのひとが心の全体性へと向かう動きを阻害してきた「影」という領域と、どれだけ親密な関係を気づけるかどうかにもかかっている。

つまり自身の生み出した「影」はそうした暗いイメージとはうらはらに、その後の人生における光の可能性を宿しているのである。

その光を求めて他者の心理の闇に潜っていく勇気や慈悲といった心は、生命を活かす道を歩むうえで欠かせない共通の態度であろうとわたしは思う。

 

関連リンク 影は心ののびしろ 影をなくした男

ミッドライフ・クライシス(中年の危機)

先日引退表明をされた安室さんについていろいろ考えさせられた。いわゆるユング心理学でいう「中年の危機」(中年というとちょっと失礼な感じもするけれど‥)的な動きを思い浮かべる。

しかしいろんな噂が取りざたされているけれども、「仕事を辞めます」と宣言しただけで自分の顔が朝から晩までテレビに映るような人生というのは、それだけでも相当なエネルギーが必要なのではないだろうか。

それにしてもこんなに女性のファンが多いとは知らなかった。

妻の妹がときどきライブにいったりしてたが、聞いてみたら、なんだ妻も好きだというではないか。

自分と妻と安室さんは同学年である(ちょうど40歳)。孔子は数え年の40歳で「不惑(まどわず)」という理想をかかげたが、実際の40歳はといえばたいてい惑う。

いわゆる40歳を「人生の正午」と仮定して、その時期に前後して起こるミッドライフ・クライシス(中年の危機)といわれる現象である。整体指導を受けに来られる人をみていても、だいたい平均して、30代の前半から40代半ばくらいに第一次の人生の見直しが起こることが多い。

どういうものか簡単に説明すると、20代の後半くらいまでこれが「自分、らしさ」だと疑いなく信じて安定していたものが、40歳前後でもろもろの環境の変化にともなってぐらついてくるのである。

つまり人生の最初のうち(20年くらい)は保護者、養育者、社会的価値観などによって目に見えないレールの上を淡々と生きてきたものが、途中から「これって本当に私の人生だろうか?」という疑問が湧いてくる。

この段階で正直に自分と向き合う作業をはじめると、たいていは過去に失われた自分の目標や夢、それから持って生まれた本来の資質などが記憶の底から浮かび上がってくることはよくある。

これはユング心理学で「影(シャドウ)」とか「No.2(ナンバーツー)」とか呼ばれるものにだいたい相当する。

たとえばある一人の人間の中に「カリスマ・ミュージシャン」という表の顔(仮面:ペルソナ)があった場合に、そうではない自分というのが裏の顔(影に隠れてしまった自分)としてしまい込まれていることがある。

若くて日の出の勢いがあるうちは仮面をかぶって演じ続けることもできるのだが、人生の正午を過ぎ、「残りの人生」という見方が出てきたときに表舞台でうまく生きられなかった自分というのが気になりはじめるのだ。

著名人ともなるとその仮面が理想像にかたより過ぎていたり、プライベートの場でもおいそれと仮面を脱げなかったりなど、自身の自然な自我形成に支障をきたすことも多い。

だから時として「早すぎる引退」というようなことが起こったり、人によっては犯罪的行為とか、命の危険をともなう大胆な行動にまで発展してしまうケースまで散見されるのである。

そうした行為は社会一般の価値観に照らすと「悪しきこと」として処理されることも多いのだが、実はこうした行為こそが一人の人間として心の均衡、あるいは全体性を取り戻そうという重要な動きでもある。だからこのミッドライフ・クライシスを上手に経過することができると、人間性が一つ円熟という方向へ発展したことになる。

だから適切な時期に自我の立て直し(再構成)が行われることが人格の成長過程として大切なのだが、芸能人という職業はともすれば人格を無視された「商品」としての性質も備えている。だから本人の自由意志だけで進退を決定できないという実状もあるだろう。それにしたって、おそらく今回のケースでも本人の中に「もう辞めたくなった」という気持ちが少しずつ芽生え、確立していったのではないだろうか。

まあ人間というのは生きている間は要求し成長を続けるものだから、仮に職業面で「表舞台」を去ったとしても人生の舞台は表も裏もなく続いていく。

彼女の内面で何が起こっているのかは本当のところ誰にもわからないのだが、もっと個人の人生を引きで見ようと思えば、むしろこの辺りが自己実現へ向かう分水嶺といえばそんな気がするのだ。

実際のところ影として生きてきた自分を表の自我に統合する作業は大変な苦痛を伴う大仕事なのである。人にもよるが、一過性に人格の退行現象(子供返り)が起こったり、精神面でも物質面でいろいろな喪失体験を味わうこともある。

大抵の人は40歳になる前から人知れずこうしたことを大なり小なりくぐり抜けてくるのだが、有名税というか、職業柄こうしたごくごく内面の心理的な作業であってもいろいろなシガラミを対外的に処理しなければできないのだから、なおさら大変であろうと思う。今さらながら安室さんを応援したい気持ちはつよくなった。

ともかく何のかんのいっても一人の女性なのだ。一般の方となんら変わらず同じように悩むだろうし、変化し成長していく。10年後、20年後、その後の姿を見ることができたらいいなと思うのだが、何となくそれはむずかしそうな気もする。月並みだけど、残りの活動期間を無事に終えられたらいいなと思う。

関連リンク 中年クライシス ユング心理学における影について

体が整うのは難しい

恐らく、これからのカウンセリングという点では、これは日本ということだけではなくて、世界的に、心と体の問題というのは一番大きな問題になるだろうと、私は思います。その中で外国人の人がすごく注目してるのは、例えばヨガとか禅とか、そういうようなものです。体を整えることによって、だんだん心を整えていく、そういう考え方。

しかし、かといって、これはものすごく難しいことなんです。なぜ難しいかといいますと、私の話を聞いて、「よし、これはうちでもやろう」てなもんで、中学校の生徒をみんな連れて、「座りなさい」なんてやっても、これはまず効果はありません。というのは、「座る」ということは大変なことでして、さっき言いましたように、座るまでにずいぶん仕事があるぐらいなんです。そのときに、ただ中学生を下手に座らしても、その子たちが本当に座っていなかったら、これはやっぱり意味がないんです。中学生は、座らされて「足がしびれるなあ」とか、そういうことばかり思っているかもわかりません。

だから先生自身が、自分が座るということが、一体どういう意味を持っているのか、あるいは中学生に座らせるということに、どんな意味があるだろうか。私みたいに五十の人間が座るのと、何でもかんでもともかく暴れたいと思っている子供たちが座るのと、意味が同じなのかどうか。そういうこともやっぱり考えないといかんでしょう。そういう意味で、のべつまくなしにやって効果があるのかどうか、私は疑問に思いますけれども、ともかく心と体の結びつきというのは、どうしても考えていかねばならないと思っています。

そしてこれは単に、いま言っているように、心と体という意味で、体を体を動かすということだけじゃなくて、私はたとえば、箱庭療法をやっておりますが、箱庭なんていうのも、結局やっぱり体が関係してくるんです。砂が手に触れますね。水でぬらした砂なんかをさわってみる。こういうことが、ものすごく大事なことになっているように思うわけです。(河合隼雄著『カウンセリングを考える(下)』創元社 pp.154-155 太字は引用者)

これは河合隼雄先生が昭和55年、大阪四天王寺において「これからのカウンセリング」というタイトルで話された講演内容の一部です。

個人的に非常に面白い、というか心理学と整体的知見の両方にまたがる核心をついた問題提起だと思うのです。

時代性も大切で昭和55年(1980年)というのはちょうどヨガブームの走りにあたり、これから女性を中心にカラダを通じて積極的にリラックスする時間を取ろうという動きがはじまるわけです。

現在はご承知のようにヨガブームはピーク時よりもやや沈静化して、本当の理解者というかコアなファンを基盤に一定の市民権を保持した状態で安定している。つまり心の問題というのに対して体からアプローチしようという切り込みの使命は果したという形で、「ある程度の」功は奏したとみていいと思うのです。

ある程度の、という条件付けをしたのはやはりそこには非常に高い技術を要するからで、「充分に果した」とは言い難いのも確かでしょう。

体を整えることによって、だんだん心を整えていく、そういう考え方。しかし、かといって、これはものすごく難しいことなんです。」という先ほどの引用以降は坐禅を例にとっているのですが、「何でもかんでも坐っていれば、坐らせれば良いわけじゃあないんですよ」といっているのです。年寄りが坐るのと、思春期の子供が坐るのとではもうそこから意味あいがちがってくる、などともいっています。

つまり本来は心身に絶えず起こってくる諸問題というのは個人をよくみたうえでそれぞれの答えを創造していかなければいけないのです。

その「個人をよくみて」というところで、豊富な経験に基づいた高い技術性が求められます。だからこそ「難しい」ということになってくる。

そういう難しさに的確に応えられる手段の一つとして「野口整体」というのは非常に有力だと私は思います。つまり徹底して「身体の様子からその人を理解する」という態度が「これからのカウンセリング」に表された問いかけに対する答えになっているからです。

実はこの講演が行われた時点で野口先生は亡くなられています(1976年没)から、「これからの」というよりもすでに展開している事実があるのですけどね。ただし野口先生が活躍されていた時期というのは河合先生は主に海外で心理学の研鑚を積まれていましたので、おそらく接点をもつことがなかったのではないかと思うのです。

河合先生ほどの見識でしたら、野口整体の真価を瞬時に見抜いて非常に高く評価されたのではないかと思うのです。

つまり野口先生は最初から心と体を分けて考えるのはおかしい、といっているのですから。自らフロイトに高い関心を示し、自身の潜在意識教育の理論を構築するうえで援用もされていますが、やはり近代科学の問題点というのを早期に看破しています。つまり医学は意志をもたぬ肉体(死体)ばかりを研究し、心理学は言語を中心にして心だけを見ようとする、それだけでは生きた人間を、ましてや個人を充分には捉えきれないよ、といっているのです。

そこで整体指導者というのは何よりも「生きて動いてたえず変化する身体」というのを徹底的に読む訓練をするのです。もうこれだけを生涯突き詰めていく仕事といってもいいくらいです。つまり「個人」という壮大なブラックボックス(クライエント)に対し、一人の人間(指導者)が全存在を懸けて取り組んでいく。

こういう躍動する生命と生命が本気になってぶつかることではじめて「整体指導」はできると考えるわけです。河合先生が難しい、といわれる所以もこのあたりにありそうです。

まずはそういう「指導ができる人間」が育つのがむずかしいですし、またクライエント自身も自分の心身に起こっている表層的な問題からそこまで掘り下げていって、「自らの自己に向かって行く」という態度に至るまでが難しい(稀なのです)。

いわば「需要」も「供給」も潜在していて発生しずらい。かといってそのいずれもゼロにもならないのです。やはり少ないながらも、自身の中にある問題の根本に向き合おうとする人はおられますし、人間存在の矛盾というものに正面からぶつかって生きてゆこうという人も時代・地域を問わず必ずいますから。そういう方の存在によってこういう心の問題とか身体上の難問に応える仕事というのはなくならないで済んでいるともいえますね。

そういう意味でこの河合先生の講演から40年ほど経つ現在、本当の意味で個人に向き合う医術や教育の必要性が浮き彫りになってきていると思うのです。「野口整体」というものに縁を持たれた方は、どうかそういった価値までを射程に入れて取り組まれると実りのある出会いになると思います。なにごとも求める気持ち次第なのですけれどもね。

生きている間に、いのちの奥深さというものをできるだけ追究する学問として、いくら学んでも学びつくせない深みがあります。本当に何をやるにしたって生きている間だけなのですから、どうか自身の身体をもって、自身に内在するちからを実証したいものです。

ただゆるめようとしてもゆるまない

ボディワークの世界は全般に「やわらか」ブームだ。やわらかさこそが身体の理想の状態という仮説のもとに、そのためのリラクセーション法は無数にある。

どれでもいいから自分に合ったものを選んで専心に行えば、適切なプロセスを踏んで心身のゆるみはある程度まで深まっていく。

ところがそもそも「ゆるまないのはどうしてか?」というと、ここにも様々な理由が見つかる。つまり緊張の原因は何かという問いに対する答えだから、これまた無数に存在するのだ。

説明モデルはいろいろあるが、ここでは比較的平易に纏められている成瀬悟策著『リラクセーション』にある緊張の4タイプを次に紹介することにする。

1.「その気」が起こす「準備緊張」

2.習慣化、慢性化する「恒常緊張」

3.状況によって起きる「場面緊張」

4.予期的なイメージのよる「イメージ緊張」

個々の説明はやや専門的になるの割愛するとして、だいたいはその名前の通りと思って大丈夫と思う。この中で人の健康生活を最も侵害しやすいのは2の恒常緊張である、と思う。他の3つは環境さえ変われば解放されるが、恒常と名のついている2のタイプは文字通り解放されることなく何年も何十年も個人の中にあり続ける可能性をもっている。

これをいかにしてクライエントに自覚させ、ゆるめるかというのは心身の健康にたずさわる者にとっての一大テーマであるといってよい。

簡単にいえば身体内外の緊張をゆるませようと試みるとき、その人は「ゆるませようとする自分」と「緊張を生み出している自分」との対立関係に直面することになる。

その結果、身体上の緊張がゆるんでいく過程において、漠とした陰鬱なイメージが沸いて来たり、イラ立ちや焦燥感にかきたてられることを訴えるクライエントは少なくない。

これはアレクサンダー・ローエンも自著の中で繰り返しあらわしているが、身体の緊張の多くは過去に体験した負の情動を氷漬けにして閉じ込めているものだという。だからその解凍をする(筋肉を弛める)という行為は過去に封じた不快体験を一つ一つ味わっていくことに直結するというのだ。

実際にことの真偽を証明するのは大変むずしい話だが、わたし個人の体験からもこの理論は大いに賛同する。つまり身体がゆるみ、治癒力が働き始める前というのはその前兆として非常に重怠い気分に落ち込んだり、癇癪を起しやすくなったりなど、人によって表し方は様々だが今までの安定した自我が揺さぶられ、不安な感覚におそわれる。これは自分が体験してきたことだしクライエントの中にも同様の例を何度となく見てきた。

リラックス体操やヨガ教室などに定期的に通っている人の中には、「そんなことはありえない」と否定される方もいると思うが、それは意識の浅いところでゆっくりと安全に変革が行なわれているのだと推察する。いわゆる気分のリフレッシュとして、サッパリとした気持ちでおわれる気持ちの良いワークなのである。

特に大人数で「場」を作り、全体主義として行われる場合は上記のようなスタイルに収まりやすい。誤解のないように付け加えるがこのようなやり方が悪いとか不充分であるという話ではなく、独自の意義と有用性のあるとても良いものであることには変わりない。

これとは別に個人セラピーのような形式で個別の身体に深くコミットしていった場合に、先に述べたような不安現象は起こりやすい。この負の体験を上手に潜り抜けられると(たいていのクライエントはそうした能力を潜在させているが)、緊張をたえず作り出していた過去の自分の崩壊がはじまり、リキミみやコリから解放された新しい自分にスポットが当たるようになってくる。

多くの代替療法の治療プロセスというのは、こうした活動をいかに支えるか、というのが根幹でその方法や理論は無限にあると思っていいだろう。人によってゆるむための難度もかなりの差があり、概して難しい人ほど時間を要し、抜けた後の解放感も大きい。

その難しい工程を、先ほど紹介した成瀬氏は「自らによる自己変革」とまで表現しているが、これは決して大袈裟な表し方とはいえないだろう。それだけ変わる、治るという動きには心身のエネルギーを要するのだ。

さまざまなリラックス方法をくり返し試してもなかなか思うように成果があがらない、という人はもしかしたら他者の力を借りてもう一つ自己の内面に踏み込んでいく方法が有効なのかもしれない。これもタイミングが大切なのだが、機が熟し「その時」になると自ずからそういう出会いに至る行動を起こし、多くの人が非常に巧妙に治っていく。日頃からつくづく思うのは「人間」の心理も身体も実に精妙に構成されているものだということである。

リバウンド

最近、有名ダイエットジムで頑張った人たちが一部でリバウンドしているという記事を読んだ。昔からダイエットとリバウンドは切っても切れない関係のようだけれど、整体指導・心理療法にもこれと似たような現象はあると思った。

少し近しい業界では、短期間の自己啓発セミナーに行った直後に目をピカピカさせていた人が、1年後に見たらなんとなく元通りになっていた、というような話がある。

ダイエットもそうだが人間が急にガラッと変わったなんていう時には大抵注意が必要だ。最低でも半年・一年は経ってみないことには本当のところは判らない。いや本当は30年とか、その人の死に方まで観ないことには解らない。それくらいの執念で丁寧に観ていくと、「変わった、変わった」と言っても中身は殆ど変わっていないことぐらいは分かる。

一過性のダイエットと同じく、「環境」だけを強引に変えてしまったことで「自我」が適応障害を起こして変性しているだけだったりするのだ。それで結果的にやつれてたり、過剰にハイになっていたりしているだけで、どうも酒に酔っているのとさして変わらないような気もする。当然そのとき全体の調和は消えているのだ。

審美観のマヒしている人たちは「痩せたんだからそれでいーじゃないか」と思うのかもしれないが、「美しさ」の条件の一つに「調和」というのは欠かせない筈だ。

そもそもが、太っている人にはそういう思考形態があり、体癖素質があり、仕事や家庭環境を含めた生活の全体がある。その結果として体がふっくらしているのだから、その全部が調和していて無理がない。場合によってはそれで美しいことだってあるわけだ。

ところが食事と随意筋のコントロールだけに特化して脂肪を減らしたところで、全体としては「何か変になっている」といった妙な印象を受けることがある。だいたい人間の生命活動を支えている99%以上は不随意部分の自然調和機能であり、その不随意的活動を支えているのは無意識とか潜在意識とかいわれる心の深層部にある。

人はしきりに「変わりたい、変わりたい」というが、残念ながらそう簡単には変わらない。それはなぜかと言ったら、健常者の「自我」というのはそれだけ堅牢なのだ。また、そうでなければ、実際困る。

例えば昨日「あなたを信用して仕事を任せませす。」といった相手が、今日になったら「すいません、ボクは今までの生き方はすべて間違っていることに気づきました。今夜からインドに発って瞑想してきます。」とか言われたんではたまらない。そういうことが起こらないように、過去からの続き物としての自我というのがあって、それによって人間はお互いの生活の均衡が保たれているという面がなくもない。

ところが世の中には「二つ良いもの、さてないものよ」といって、そういう自我の安定性が古くなり役に立たなくなりかけている「自分」をいつまでも変えさせない元にもなっている。

そのために表面だけをいくらいじくっても、内から奥から、その人の「定番になっているもの」が出てきてしまうのだ。だから一見簡単そうな相談であっても、他人様の身体とか心理に立ち入るということは一定の覚悟と謙虚さがいる。安請け合いは禁物なのである。

経験の豊富な治療者というのは概して、相手の「全体」をこわさないように、乱さないように、静かに入っていって小さく仕事をすることが多い。少し仕事をして、変化を観る。どんな分野でもそうだが真のプロというのは目覚ましい結果を出すことよりも、大失敗しないことの方がよほど大事であることを知っているものだ。

繰り返すが少しいじっては間をおいて、そして全体を観る。これの繰り返し。そうしていくことで相手の力も有効に使えるし、こちらも時間は掛かるが小さなエネルギーで安全に結果を出すことができる(※ラクをするという意味ではありません)。それは結果さえ出ればその前後は知らん、という帳尻合わせの成果主義ではなく、「何故そうなったのか?」という原因に着眼する求道的精神に起因する。

ありがちだが、「結果」と「過程」の主従関係も見誤ってはいけない。言うまでもなく主体は後者にある。さらにすすんで、その「過程」を引き起こした、大本となっている「何か」を見極めなければ本当の「仕事」というのはできないものだ。ダイエットも整体指導も心理療法もコミットするべきは「結果」ではなく「過程」であり、「原因」なのである。

擬死再生

「修業で山に入るいうんは擬死再生やで」

数年前に関西で山岳修行をしたときに、同行した先輩修行者からいわれた言葉を思い出した。

昨日の「窮すれば…」を書いて読んでたら浮かんで来たのだけど、「擬死再生」というのは簡単に言うといっぺん死ぬということ。これはもちろん比喩として聞かないと大変です。

いっぺん死んで、それで人生はおしまいというのでは修行になりませんから。

だから「擬」死ということが本当に大事で、言いかえると「恰も死んだかの如く」という事でいいですね。

そもそもが何故こんなことを修行者に強いるかというと、その人の人生が「今までの自分」では乗り越えられない局面に差し掛かったことを想定しているのだと思うのです。

変わらなければならない、今変わらなければこれ以上は現実に適応できないというような、いわゆる窮し切った局面。昔の人はこういう時に上手い具合に山に入って、昨日までの惰性で生きてきた自分をいっぺんご破算にして、再生を願う(生命の刷新)。そういう文化が古く日本には根付いていたらしいのです。

整体指導という仕事はこの「擬死再生」を山という環境に拠らずして行なう現代式の神事と思ったらいいと思います。

つまり病気になったとか、精神が病んだという時、大変キツイことだけれども一旦はその全責任を当人に自覚してもらいます。

そうやって日常の空間でありながらも心身を疑似的に追い込んでいくという、「癒し」という表の顔とは裏腹にある所では非常に厳しい面があるわけです。

山の厳しさというのはこれとはちょっと違って、ツルッといったら本当に死んでしまう危険性もなくはありません。修行で命を落としてしまったらそれは「死行」です。もうそれ以降は行ができなくなります。

考えてみると、よく生きるために、変な死に方せんでもええようにと「行」は行うわけですから、模擬的に(それでもかなり大変になる時はありますけれども)死に親しんで、それでギリギリのところで変わっていくという方法があるならそれは理想的です。

もちろん山岳修行がわるいとか、これはそういう話ではありません。ただヘタとやると本当に危ないですから、そのためにきちっとした先達さんがいて、その人に守られ抱えられしながら、フゥフゥ言ってフラフラになりながらも安全に行ができるわけです。

むしろ言いたいのは、整体指導とかカウンセリングいうのはそういう厳しさというかキケン性もはらんでいることを自覚していないと、ある所でびっくりされることがあります。

どちらも上手な先生がやると、非常に効果があります。

よく効く薬だと思ったらいいかもしれません。

それだけ効くわけですから、当然毒性というか、心にも体にも強く作用します。

これが時として辛いんです。

本気でやっていかれた方はみなさん判ります。

ところがそうやって、やっとこ変わっていって抜けた時の爽快感も知っているから整体の指導者もカウンセラーも、そのクライエントと一緒になって耐えて忍んでついていける面があるわけです。よく考えたら山を歩く時の先達さんみたいなもんですね。

先達さんというのは何度も何度も山を登って降りてを経験している人だから、新米行者さんの何がどうツラいかもだいたい判るわけですし、どの辺から楽になるとか、行を終えた時の達成感とかも知っています。

何でもそうですが指導者というのはそうやって先に大変なところを経験して、少なくとも1回以上は大きな「山」を越えてきていることが資格というか条件になりますね。

自然の山もありますし、人生上の山もあります。谷もあるかもわかりません。

そういう所を人知れず越えて生きている人というのはやっぱり「見えない指導力」があるわけです。

そういう人がまず安全な環境を作って、そのなかでわざと苦労をさせて、その苦労を一緒になって味わいながら一緒に変わっていく。死にかけるような思いをしながらフラフラになりながら変わっていく。本当に擬死再生といったら、これほどピタッとくる言葉もないんじゃあないかと思います。

人間が治るとか変わるというのはやっぱり大変なもんだと思います。ユングは自分自身を「魂の医者」と言ったそうですが、やっぱりそこには本当にいのちが掛かっています。

そういう気持ち、畏怖のような念がない人はお山にも入れてもらえませんし、自分の身体にも門前払いを食います。まず誰よりも自分自身を甘くみたらいけない。生命に対する礼というのは易しいけれども、それに気づくには擬死再生の体験が必要なのかもしれない。

窮すれば変ず

「窮すれば通ず」という有名な慣用句の原型が「窮すれば即ち変じず、変ずれは即ち通ず」であることを最近知った。もうちょっとやさしくすると、「困りきったら変わる、変わればなんとかなる」ということだ。

いずれも事態は困り果てた時に思わぬ好転があるという意味に変わりはない。因みに英語の場合は次のように言うらしい。

When things are at the worst they will mend.(物事は最悪の事態に陥ると好転するものだ)

この「変ず」といい「mend」という、その変とか改という動きが閉塞した事態を切り開くための鍵となる。

人が苦境に陥った時によく「成長する」、「乗り越える」という言葉を聞くが、これらの表現はすでに一つの方向に動きが固定されている感覚を覚える。つまりマイナスからゼロへ、ゼロからプラスへといった印象で、これはいわゆる価値観の「居つき」を意味している気がしてならない。

もし居ついたままの価値観でも何とかなるとしたら、その人はまださほど窮した状況にはいないのかもしれない。それならそれで構わないし。

結局のところ「治療」という行為を煎じ詰めると、生体の「変化」を助ける行為ではないかと思うのだ。

その個体が変化しやすい環境を整え、それを守る。

感じとしては、ライ麦畑から落っこちそうになる子供をそっと救い上げて見守るように。そうやって保護し続けることが生命の自由性を最大限に発揮させ、そして変じ、通じることを可能にするのではないだろうか。

だから治療の場ではまず徹底的に安全な環境を作る。そしてその防護壁の範囲内で適量のストレスをかけ、疑似的に「窮する」ように働きかける。その窮する感覚を治療者は共有し、一緒になって変化していく。

非常に抽象的だけれども、これは対話型カウンセリングのような治療モデルをずっと単純化した図式だ。そしてこれは整体指導にも通じる理論であると思う。

理屈はシンプルにまとまったが、これを千変万化する個人の状況に合わせて行えるかどうかは治療者の経験と感性に依拠する。理屈がわからないでやっているよりはずっといいだろうけど、理論と実際は常に一致しない。その一致しないズレの中で誰よりも先駆けて窮し、変ずるのが治療者の役目ではないだろうか。

カウンセリングは植物を育てるように

カウンセリングは植物を育てるのに似ている。この話は河合先生の『カウンセリングを考える(上)』に出てきます。

本の中で不登校の子供を例にとって説明をされますが、世の中にはどうしても学校に行けない子供というのが一定の割合でおられます。本人は「学校へ行きたい」とか「学校には行かなければいけない」と思っているのに、朝になるとお腹が痛くなったり、頭が痛くなったりする子がいるわけです。あるいは、どうしても目の覚めないという子もいるようです。そういうことが次のように書かれています。

これは不思議ですが、どうしても目のさめない子がいます。金だらいの上に、目ざまし時計をのせますね。それを二つやっておいても、目がさめない子がおります。そして学校へ行く時間が半時間ほど過ぎたら、パッと目がさめるんです。これはほんとうにすばらしいものですが、そういうふうな子供に、われわれは学校へ行くというように教えることには意味がありません。

…こういうふうに、われわれは簡単に「教える」とか「しつける」ということは断念しなければならない。そうすると、われわれは何ができるかというと、普通の子供たちはみんな学校に行っているのに、この子はここで学校に行けないのは、育ってくるときにどっかで育ち方がひずんでいるんじゃないか。あるいは育ちそこなっているところがあるんじゃないか。そうすると、その育ってないところをちゃんと育てるように、われわれは育て直すということをしなくちゃならないというふうに私は思うんです。(pp.11-13)

と、ここから話はずっと展開して行きます。

野口整体の場合は始めからそういう「育てる」という態度をはっきりと表明して整体指導の実体を「体育」と、こう現しています。治療といえばもちろんそういう表現も合わなくはないけれども、やっぱり「治す」とか「教える」といった言葉にはどこか強制力というか不自由な感じがしないでもない。もうすでに出来上がってしまった、結果のものをいじくるというか、どこか不自然な感じが私などはするわけです。

ところが「育てる」とか「育て直す」というと、それは生きものが伸びていこうとする自然の力を主体とするよりほかなくなります。そういう態度がカウンセリングをするうえではとても重要なのではないかと、こういう理解でいいと思います。

野口先生は「現代の教育には育がない。教えてばかりだから教教である」と言われたそうですが、「教える」ということでも「治す」ということでも、相手の中にある力とか、刺戟に反応するまでの時間を無視して行なおうとすると、どうしても受ける方は負担が強くなってきます。なんだかわらないけれど、見てもらっていると疲れるというか何か大変な感じがしてくるわけです。

植物に肥料をやっても水を撒いても、それを自分のものにする力というのはやはりその植物の中にしかない。「育てる」というのはその中の力と外の力が二つ合わさって、一体になって動いていく様を上手に現している言葉だと思います。

それと同じように身体を刺戟した場合でも、心に何か言って聞かせた場合でも、そこから相手がどう動いてくるのかをじっと観察して待っていなければならない。そういう「間」という時期が必ずあるわけです。

そうして教育とか治療ということをずっと突き詰めて考えていくと、一つのそういう着地点といいますか、最後に行き着く場が非常によく似ているような気がします。つまり「育ってないところをちゃんと育てるように、育て直す」という方法。植物の場合は育て直しというのは難しいけれども、人間の場合はこれが出来るわけです。逆に言えばこうやってじっくり自我に取り組んでいかないと、いろいろな症状でも心の問題でもどうしても繰り返してしまう。

人間の場合はこうやって丁寧に取り組んでいくことではじめて成し遂げられる仕事があるとも言えます。根本治療というのは誰もが望んでいますが、その実態というとほとんど理解されないのが現状かもしれない。それはまさしく植物を育てるような、非常にひっそりとした愛情を要する仕事という気が私にはします。

自分の力でよくなっていく

野口整体とユング派の心理カウンセリングの治癒過程は、見ていくとよく似たところがあると思います。

それは一言でいえば「無為を上手に使う」ということ。もっと身近に表現すると「そのままでいる」とか、「自然治癒」とか、「何もかもお任せ」みたいな言葉でも良いかもしれない。

これは偶然ではなくて、ユングが東洋思想のタオイズムからいろいろ学んだことと、野口先生が子供の頃から老荘思想に親しんだことに起因します。それぞれ出典が近いので「似ている」のは当然といえば当然なのですけど。

その共通の観点に着目していると「成り行きに対する信頼」とでもいうような、世界と自分を貫く大きな流れ(自然界の秩序)に対する畏敬の念のようなものが「どしん」と、意識のずっと底の方にあって、治療者と患者はその上で一緒に遊んでいるような感覚すら覚えることがあります。

体の問題でも心の問題でも、程度の軽いうちは「何かする」ということでだいぶん解消できます。冷やしたり、温めたりして治るものなら多分やったほうがいいだろうし、話し合いや議論、説教で解決する程度の問題ならお互いに腑落ちするまでどんどんやったらいい。

こういうものは絶対にいけない、ということはないのでいろいろ納得いくところまでやったほうがそれこそ心の面で解決は着きやすい。

それでも、体の問題だとどれだけ薬を使っても、切ったり張ったりしてもどうにもならないという根の深い問題があるし(深そうに見えて浅い場合もありますが)、心の問題ならどんなにいい話を聞いても、説教でも、気分転換をはかっても、解決しない時はしません。

整体指導、心理カウンセリングは大抵「そこからはじまる」、といっていい。

つまり、打つ手は全部打った、万策すでに尽きたりと、という時にはじまる最後の砦と思ってもいいくらいです。

それまでは「何かする」ということでずっと対応してきたものが、ことごとく効果がなくて全部つぶされていく。そうやってその人はどんどん追い詰められていって、とうとう切羽詰って、もう何もできないという所までいくわけです。

そうするとどうなるかというと、最後に「無為(こちらから何もしない)」という方法が残されている。

ただし、本当に何もしないんだったらそこに他人が関わる余地はないし、どんな問題があってもそのまま「ただ生きて、ただ死ぬだけじゃないか」と言いたくもなるわけで、そこをもう一つ進めて考えなければいけない。

指導者とかカウンセラーという人間がそこに関わることで、事態がどうなっていくのか。

それは、一つはクライエントの中で失われかけた「自分に対する信頼」、というのが回復してくということが挙げられると思います。

つまり「相手(自分)の力でよくなっていく」、「その人が自分の力で立ち上がってくる」という、最後の可能性が動き出して来るわけです。

自分の知恵と体力で立ち直ってくるならこれほど良いことはないのであって、そんな方法があるなら最初からやってます、と言いたくもなるけれど、実際一人ではそれができなかった。

そこへふらっともう一人、見守るというか、一緒にその問題を眺める人が傍らに出てくることによって何か変わったことが起こってくる、というのが「人間」の面白いところです。

カウンセリングの場合は、そういう状況にある相手の話を「一生懸命に聴く」という方法でいくわけです。整体だったら、やはり「そこに一緒にいる」、とか何かするにしても「手を当てる(愉気)」というような非常にやさしいというか、ゆるやかな「待ちの態度」で望むことが主になります。

こういう関わり方というのは、他ではあまりありません。一見すると頼りない感じもするし、そこにそんなすごい力があるとは気づかれないことが多い。ところがこういう方法がきちんと最後に残されているというのは、人間にとってすごく有り難いことだと私は思います。これがなかったら、最後の最後のところで人類はみんな救われないとすら思うこともあります。

改めて言葉にすると「無為を体得する」とか、そういうことです。いわゆる自然体、心においても、浮かんで来たことはそのまま、感じたこともそのまま、「受け入れる」ということも余分なくらいに手を着けないでいる。整体というのは、そういう意味で非常に平坦な、安楽の道なんだけれど、それと同時に険しさというか難しさもある。人によってはそれこそラクダが針の穴を通るよりも難しいかもわかりません。

だけれども、「自分の力でよくなっていく」というものが誰の中にもあるのは間違いありません。何パーセントかはわかりませんが、やっぱり万策尽きて、自分で解決していくよりないところまで追いつめられる人は一定数おられます。野口整体もユングのカウンセリングも(名前がないだけで、知らないだけで他にもいろいろあると思いますが)、そういう人にとっては非常に頼りがいのある方法だと思えるのです。

錯覚を起こそう

精神療法家 神田橋條治先生の『精神療法面接のコツ』を久しぶりに読み返した。わりと冒頭の方に明治生まれの奇術師 石田天海師のエピソードが書かれていて、そこを読むといつも自分の仕事の在り方を再点検させられる。

その概略はだいたい次の通りである。師によると「マジック」というのは「現象を見せる」のが本質なのだそうだ。これとは違って「やっていることを見せる」のはジャグラーであるという。ここでいう現象というのは観客の内側に起こるイリュージョンなのであって、このイリュージョンが起こるように誘うのがマジシャンの仕事であるという。

もう少し咀嚼すると、観る側が吃驚したり感嘆したりすることが「実」であり「成果」なのであって、そこさえクリアできれば過度な複雑性や技量は問わない、ということになる。具体的にはマギー司郎さんみたいなシンプルでやさしい芸を思い浮かべると判りやすいのではないだろうか。もちろん技量が要らないからといって“カンタン”という話ではない。どんな分野においてもそうであるように、シンプルな技を目の当たりにするときには同時に長い淘汰の歴史が窺い知れる。

一方で過剰な技巧はともすれば人を悪酔いさせやすい。それもどちらかといえば酔うのは技巧を施してもらう方ではなくて、施す側だったりする。これは楽器の演奏などにおいても見受けられるが、技巧に凝り過ぎたことで本来の曲調が失われてしまうパターンにも通じる。技は目的を達成するための一手段であり、また道具であることを忘れてしまってはいけないと思う。

何故こんな話かというと、整体にも「技」は付き物だからだ。整体の仕事の実態(目的)を突き詰めると対象者がほっとして安心することである。安心すると身体はゆるむ。ゆるみは自然の姿であり、後は「そのまま」いるだけで「時」が治すのだ。そのために高い技術が要るかといえばそうとは限らない。あるならあった方がいいけれど、なくても「ゆるむ」ことは充分あり得る。

と、ここまで書いてきて、整体の於ける「〈技〉とは何か」と思い返すに至った。

煎じ詰めると、こちらの中に起こった「動き」とか「ちから」を相手の裡に波及させることが整体の「技術」だと私は思う。つまりはクライエントの内側に起こるイリュージョンであり、このイリュージョンが起こるように誘うのが整体指導の要とも言える。蛇足になるがイリュージョンには「幻想」という訳の他に、「錯覚」や「思い違い」という意味も含まれる。

「錯覚」を甘くみてはいけない。心の中で「うっかりそう思った」ということは侮れないもので、それは当人にとっては「真実」なのだ。考えてみれば整体も心理療法も事の起こりは「催眠」から出発したものだし、心の転換こそが健康を指導する際の要とも言える。人間の身体上に起こる様々な変化の中には時に奇跡や魔法を想起させるほど劇的なものがあるが、心の仕組みを探求し、解き明かすことが出来れば必ずそこには「理」があり「仕組み」があることが判るはずだ。

この仕組みをどこまでも冷静な眼で、一つひとつの事実を洗いながら解析していくことは、人間を理解し導いていくためには大切なプロセスである。治癒に関わる世界にいると魔法のような現象にはしばしば出くわすが、魔法というのは無知と錯覚の産物である。思わず目を疑うような結果に幻惑されて事実を解析する冷静さを失ってしまっては、「魔法のような技術」にはいつまでたっても辿り着かないだろう。

地道な研鑚、実践と検証の繰り返しこそが、やがては再現性の高い確かな技を生み出す。そしてどの分野にでも見られるように、「王道」と言う時には、それは当人にとって必要な長い長い回り道を意味することが多い。

少し技術の習得論にそれたが、実際に相手の世界に良質の錯覚を起こせるようになれば、それは心身を好転させる手段としては強力な武器になる。そのためには相手には今「どんな世界が見えているか」が推察できる察知と共感の能力も不可欠と言える。最初に感じとり、共感し、相手と一体となってある種のビジョンを生み出すことができれば治療はほぼ成功したと言っても良い。そのための仕掛け(タネ)さえ解ってしまえ魔法はただの技術になり、驚くような現象も平凡な物理変化となる。

整体の名人野口先生の技も「魔法」や「奇跡」と称されたけれど、心の実体をよく理解されていた先生にとっては「当り前の現象」だったのかもしれない。もちろんそこに至るまでには裏舞台に隠された膨大な修業の積み重ねがあったことも思い浮かぶ。私もこれからさらにたくさんの回り道を歩みながら、錯覚を起こす技を育ててきたいと思う。