鎧化する身体

アレクサンダー・ローウェンの記事を読まれた方からご質問をいただいた。鎧化した身体という表現について実際に「どのような状態なのか」とのことであった。実は以前にも同様の問い合わせがあったのだが、表現が独特なので気になられるのかもしれない。元を明かせば「アーマリング」の日本語訳である。平たく言えば慢性肩こりもその一例だ。

改めて『引き裂かれた心と体ー身体の背信』を読み返してみると、整体指導の目的と核心を同じくしていることが伺える。全文を取り上げたいくらいなのだが、心療内科の創始者 池見酉次郎氏による本書紹介文「はじめに」の項目だけでも身心が癒えるためのプロセスがよく理解できるので、抑うつ傾向などで悩まれる方にはおすすめしたい。

整体では「治癒」の本質を「敏感な身体を育てる」と表現し、ローエンのセラピーによれば「自我と切り離された身体(≒感情)を再び自我に取り込むプロセス」となる。

もう少し簡略にすると「身体感覚の再建」であり、そこからの「身心一如・自他一如の自覚」である。池見氏は他の著書において「体を通して心に至る東洋的行法」をすすめ、その精髄の一つとして禅を挙げている。禅寺で坐禅と並行して修行される「作務」などはいわゆるグラウンディングに通じるもので、肉体を善用し、積極的に現実にふれていくことで〔今〕という絶対感覚を色濃く養っていくのである。

ローウェンは「人は自分の体を感じることを、とても恐れている」ということを繰り返し強調する。多くの人は硬直した筋肉が抑圧された感情の倉庫であるということを無意識的に感じているために、その倉庫の扉が開かないように意識の光によって固く施錠しているのだ。だから心が癒えていくためには一旦意識の運転を停め、身体を徐々にゆるめつつ自分が無意識層に抑えてきた感情達と一つひとつ出会っていく作業に最終的に突き当たる。

しかしこの作業の難渋さに気づいた時点で、あまりの大変にやめてしまう例も少なくない。感情を浮かび揚がらせながら自身を癒し成長するという道を中断して、また元の硬直した身体とこれまで通りの生活に立ち返ってしまうのである。こんな風に「治る」という動きは苦しさを伴う。一般にセラピストと言う仕事はこの大変な心的エネルギーを要する仕事をクライアントと一緒に取り組んでいく役割を担うものである。

ところで心理療法のカウンセリングが対話を主体とし、またフォーカシングなども主にクライエントの内側で行われる心の作業であるのに対して、ローウェンのバイオエナジェティクスや野口整体の整体操法は身体(および気)を媒体とする所がその特徴である。これはライヒによって提唱された、「人間に対峙するには身心相即的に相対しなければならない」という原理に通じているものだ。

本来やわらかいはずの筋肉を硬直させていくのは、主に対人関係の緊張である。しかしその硬直し鎧化した身体を再び融かしていくのもまた人の心なのである。今の身心の有りようをそのまま受けとられることで、はじめてゆるむ動きが出てくるのだ。しかしこれは徐々に行われることが望ましい。凍傷の治療に似て、急激な温度差は激痛を伴うばかりが、逆に身体を壊しかねないからである。

硬化した範囲と度合によって治癒に要する期間はまちまちだが、この道程を踏まずして身心の全体性を回復することはなし得ないのではないか。畢竟自分で自分の心の深層を明らかにするということだけが真の治癒に至るための根本原理である。このことに気づき、心の準備が出来たときからはじめて治りはじめる。これはまさしく啐啄同時で、機が熟す時に何処からともなく何もしなくてもそうなってしまう。まさしく生命の「妙」である。

時に啐啄というと雛が孵るその瞬間だけに注意が集まりがちだが、それまで親鳥がじっと気を集めて待ち続けたプロセスは見逃せない。クライアントとカウンセラー、患者と治療者、どちらか一方の力で治る訳ではない。気を集め、心の全体を動員して力を尽くすことはお互いの生命に対する礼として弁えたいところでもある。

わけられない

河合 無限の直線は線分と1対1で対応するんですね。部分は全体と等しくなる。これが無限の定義です。だからこの線分の話が、僕は好きで、この話から、人間の心と体のことを言うんです。線を引いて、ここからここまでが人間とする。心は1から2で、体は2から3とすると、その間が無限にあるし分けることもできない。

小川 ああ、2.00000・・・・・。

河合 そうそう。分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。

小川 数学を使うと非常に良く分かりますね。

河合 お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂というと。善と悪とかでもそうです。だから魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にして見ることなんです。障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消して見る。

小川 魂というのは、文学で説明しようとしても壮大な取り組みになりますけれど、数学を使えば美しく説明できるのが面白いですね。

河合 だけど心理学の世界では、魂という言葉を出したら、アウトです。

小川 そうなんですか。

河合 非科学的だと批判されますから。・・・(小川洋子 河合隼雄 『生きるとは、自分の物語をつくること』 新潮社 pp.27-28)

整体指導を受けにあたり、初めのうちは病院との並行利用で通われるケースが少なくない。具体的には皮膚の疾患であったり、頭痛やめまいであったり、何かできものが出来たとか、そういったことをどうやって解消していったらいいか、と悩み考えて調べていった結果いわゆる「ノグチセイタイ」に辿り着いたといような場合にそうなりやすい。

だけれども、整体というのは「その様な生き方」をするための教育が本質であって、「治療をする」ということとは立処を別にしている。生命の自然調和ということをあらゆる思惟と行動の起点に置き、「それを如何にして保つか」ということが主眼である。そのために錐体外路系の訓練として活元運動があるわけで、ここを介さないことには最初の門をくぐった事にはならない。

そこでまず「理解」ありきというのが、現在当院の指針となっている。つまり「病院」とは何をするところか、「整体」では何をやるのか、という分別が曖昧なままでは指導が始まらないのだ。

最初の引用では河合先生が数学を使って「魂」の定義を試みているが、これは数学と文学が相補したような見事な表現だ。つまり魂に限らず、もともと「この世界」というのは分けられないし、分かれてなどいないのである。そこを、文字通り「分別」という思念によって「ひとつ」のものが2にも3にも1000にもなる。「科学」と「認識」は同じ思惟活動の別称なのだ。

つまり常態の身体活動の中から「不快」或いは「悪しき」、「異常」と認めた動きを「疾患・疾病」とみなして、その排斥を試みる。これが「科学的な治療」の正体である。だから熱が異常と感ずれば、熱を排斥する。湿疹なら湿疹を無くそうとする。下痢なら下痢を止める。鼻血なら鼻血を止める。だいたいこういう系統のことである。

ところがこの世界は「生きている」という事実が只その通りにあるというのが実態である。「私がいる」という気配すらないのが「いのちの真相」なのだ。だから治療ということも根元的には「ここ」に帰すことだけを考えればいい。それ以外のものが不要とは言わないし、むしろ大いに要るのだが、最終的に「異常を認め、治す(直す)」という方向だけではどうにもならない根本の問題に必ず突き当たる。

畢竟、思惟の最終着地点と言うのはどこまでも「ひとつ」しかないのだ。言葉にならないそれを強いて言うなれば、「ある」ということだろう。それは時に「いま」と呼ばれたり「わたし」と言ったり、「ほとけ」、「せかい」…など様々である。一切の治療を捨てて「我あり」という言葉に帰結させた整体は「わけられない」ものに気づくことの重大性を諦観している。「ぽかんとする」ことを最初に説くのもそのためである。はじめの一歩が即、真理でなければ「今」に間に合わないのだ。

傍らにいること

傍らにいること

河合 カウンセリングは、ちゃんと話を聴いて、望みを失わない限り、絶対大丈夫です。でも、例えば「先生、次は学校行きますよ」「嬉しい、良かったね」っていうやりとりが何度あっても、やっぱり行けない。それでこちらが内心望みを失うとするでしょう。そうしたらもう駄目なんです。「アカンかったわ」と言われた時に、こちらがちゃんと望みを持っていることが大事なんです。

小川 まだまだ大丈夫っていう、望み。

河合 「行けなかった」と言った時「でも行けるよ」って言うたら、行かなかった悲しみを僕は受けとめてないことになる。ごまかそうとしている。「そうか」と言って一緒に苦しんでいるんやけど、望みは失っていない。望みを失わずにピッタリ傍らにおれたら、もう完璧なんです。だけどそれがどんなに難しいか。・・・ (小川洋子 河合隼雄 『生きるとは、自分の物語をつくること』 新潮社 pp.112-113)

久しく心理療法の記事から疎遠になっていた。この辺りは以前から行ったり来たりと言うか、自分が仕事をしていて対話が中心になる時期と、反対に言葉少なくなる時期が周期的に移り変わることに最近気が付いた。整体指導と心理療法は別々の環境で育った双子のように近い関係にあるが、いずれにしても「何でもよく話す方がいい」、「あまり言葉がすぎてはいけない」という二分法で仕事の良し悪しを評価することはできない。根本的にはクライアントの心に対してカウンセラーが「ぴったり」ついていけることが理想だろう。

上の引用は『博士の愛した数式』の原作者小川洋子さんと河合先生の対談本からの一節だが、この後もクライアントと関係を育てるための内容がつづく。受ける側にせよ、行なう側にせよ何らかの形で「カウンセリング」に携る方はならば一冊精読されるといろいろな面で学びがあるのではないかと思う。

当院には様々な「荷物」を背負った方がお越しになるが、時に自分自身の共感能力の乏しさに落胆することがある。引用の末尾に「望みを失わずにピッタリ傍らにおれたら、もう完璧なんです。だけどそれがどんなに難しいか。」とあるけれども、最初にこの文章を読んだときは「あぁ、そうなんだ」とさらりと読み流していた。つまりはそんなことは「カンタンだ」と思っていたのだ。

実際は「相手と同じ臨場感で、同じ負荷を味わいながら」も望みを失わない、というのが難しい。こちらが問題の対岸にいて「それは大変そうですね」というのと、相手と同じ岸に上がって「ああ、これは確かに苦しい…」というのでは根本的に違う。だから全人格的な治療を志すならば「心のひだ」が発達しないことには何も成し得ない。この辺りは修養あるのみである。

見出しの「傍らにいる」というのは一緒にいながら、努めて「何もしない」という態度だ。この「何もしない、をする」というのが治療の元型であると思っている。相手の潜在生命力に対する絶対的信頼を根底に据えた態度といえる。

自我意識の波を鎮めて、自然生命の波が表出することで、はじめて「治まる」ものがある。総じて整体の技術が「愉気にはじまり愉気におわる」という言葉を、味わい深くかみしめるようになったのもつい最近のことだ。依然としてわからないことは多いけれども、いつだって未完成と言う形で完成されているのが現在である。

「整体」というのも到達すべき目的地ではなく、より良い理想を描きつつ変化・成長していくプロセスの只中にある。そこを生きる者同士が傍らに在ることで、お互いの生命を尊重し合い、また高めていけるのだと思う。本来治す者と治される者は別々に在るのではなく一つの活動体なのだ。礼と惻隠の心がそれを一つたらしめている。「生命に対する礼」の生命が何を意味するのか、深く考える必要があると思う。

ままならぬ人の心 -潜在する心へのアプローチ法さまざま

ままならぬ人の心

人間というものは思いがけない失敗をしでかしてしまったり、してはならないと知りつつやってしまったり、おろかなことを繰り返すものである。われわれは「ままならぬ」のは他人の心と思いがちであるが、自分自身の心でさえ、案外「ままならぬ」のである。(河合隼雄著 『無意識の構造』 中公新書 p.12)

今日は河合隼雄さんの文章から。ここに自分自身の心でさえ「ままならぬ」と表現されているように、ほとんどの人が「自分で考え、自分で行動している」と思っていながら、実際のところでは自分で思う自分というものの認識外、いわゆる「潜在意識」というものに無自覚に支配されて動いている。

だからこそ「自分」の統制からはずれて「思わぬ」ことをやってしまい、本人並びに周囲の人たちまで巻き込んで当惑するような問題事が人間の世の中には後を絶たない。こうしたイザコザの中でも、とりわけ余分なものを見つけだし、その処理を担うことも整体という仕事の範疇として求められる。

簡単に言えばこういうコントロール外の動きをしてしまうようなのは高潮時、エネルギーが余った時に起こる。だからこういう「人間生命の波(バイオリズム)」を読んで、その波に逆らわないように停滞したものは流してやり、破壊的になりそうなものはそこへ少し棹差して流れの向きを変えてやる。文章にするとすこぶる単純だが、これを個々人の資質や状況に合わせて行なうとなると精緻な勘を前提とした実践的訓練を要する。

心理療法において、こうした見えざる心の動きをどのように対処していくのかは知らないが、整体の場合は幸いにして「身体を読む」という技術があり、それがここでは有効に使われる。簡単に言えば、その「ままならない心」というものは体表上には筋緊張として現れるし、内面的には無為動作の偏り傾向として、すまり視覚と皮膚感覚を駆使することで捉えられる。

なんであれ、人間が一生のうちに行う大仕事といえば、やはりこの「ままならぬ自分の心」の構造を自ら解き明かすことだと言っていいだろう。つまりは意識活動の根幹、それも最下層部へのアクセスが求められるのだが、多くの人はここを素通りした「自我」を用いて、外界現象の方にしか認識の光が及ばない。

%e6%ba%80%e6%9c%88整体においては、その潜在化した意識の扉を開く鍵が身体への刺戟なのだ。筋肉を弛めることで、一旦沈潜化した意識はその拘束をとかれ、良いものも悪いものも顕在意識の領域まで浮上してくる。これを私は「感じ直し」の作業と呼んでいるが、これにより「ままならない」領域にしまわれた心のエネルギーは意識の中に統合されて、再び、あるいは初めて自我との対面を果たす。精神の健全さとは、こうした意識の内面の活動を積極的に行えている状況を指すと思っていいだろう。

整体指導者やカウンセラーの個人的力量の問題もあるので、一概にどちらがより有効であるとは言えないが、整体のようにフィジカルな領域を介在せずして癒しを行える傾聴型カウンセラーはすばらしい人間力を有していると思うのだ。

問題は手法の選出よりも個人の力量如何にかかっている。それはリードする立場の方が自分の心をどれだけ理解しているかということだろう。その理解できた領域までが他者を扱える領域ということになる。ままならぬ人の心にどのように取り組んでいくかも、個人の資質によって様々なのだ。私は職業的経験も踏まえつつ、何が人生の妙味かといったらこれ以上のものはないと確信している。

ごく平易に言えば「悩む」ということなのだが、ここで野口先生の「悩むといいことはよいことだ。これあって人間は進歩する。」という言葉が味わいを伴って思い出されるのだ。ものごとの本質をさっと捉える質であったからこその至言であることは明らかだ。そもそもが心の研究というのは個人の内で完結するものなので、「先見の明」という言い方は不適かもしれないが、やはり心理療法的観点から言えば先駆けというに相応しい。整体の真価が求められるのは、東洋の心の世界に着眼が定まる現代にあって、正に「これから」だと思う今日この頃である。

抑うつ -音のならない身体

抑うつというものがあまりにありふれているので、それを「まったくの正常」な反応だとする精神科医も現れてきている。もちろん、その場合、「日常の仕事や職務を妨げない程度のもの」という条件がついているが。しかし、大多数の人々の感じ方や、行動の仕方が、統計上では「正常」をそのように定義するなら、精神的な疎外感や距離感をもつ分裂傾向もまた、それが多くの人に見られ、入院を要するほど深刻なものでなければ、「正常」ということにあるだろう。また今日その発生率がきわめて高く、統計的には、ほぼ現代人の常態になっているような、近視や腰痛についても、まったく同じことが言えるだろう。

…人間をバイオリンにたとえてみよう。バイオリンが正しく調弦されているときは、弦は振動し、音を出す。それで、楽しい曲や悲しい曲、葬送曲や喜びの歌を奏でることができる。うまく調弦されていなかったら、そこからでてくるのは、不協和音だろう。弦がゆるんでいたら、音をだすことすらできないだろう。その楽器は「死んで」いて、反応を示すことができない。それが抑うつの人たちが陥っている状態である。抑うつの人は反応することができないのだ。

%e3%83%90%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%b3反応することができないという点によって、抑うつ状態は、ほかのすべての情動状態から区別される。希望をくじかれている人は、状況が変われば、信仰や希望をとりもどすだろう。落胆している人は、その原因がとりのぞかれると、元気になるだろう。落ち込んでいる人は、楽しみのきざしがみえてくると、明るくなるだろう。しかし、抑うつの人から反応を喚起できるものは、なにもない。むしろ好機が訪れたり、楽しいことがあると、かえって抑うつを深めてしまうこともよくある。(A・ローエン著 『甦る生命エネルギー』 春秋社 p.11)

整体では「身体から表情が消える」ということを最も警戒します。もう少し平たくいえば「止まっている」という状態を解消する、勢いを呼び戻すのが役目です。一人ひとりを丁寧に見てみると、現代社会を生きている人の大半が生理的な動きの大部分を制限されています。それは「感じている」ことを抑圧して、「考え」によって感覚を塗りつぶして生きていくことを半ば強要されているのかもしれません。

「プラス思考」などに代表されるように、「考え」はいくらかでもコントロールできますが、「感じた」ことはどうすることもできないのです。心的ストレスの強い環境にたえず身を置いている人は徐々に筋肉を硬化させ(筋肉の鎧化)、やがては「感じた」ものを認識しない身心を構築していく。これがいわゆる抑うつ症の身体です。

整体の対象となるのは須らくこうした「鈍り」が常住となった身体です。整体操法の目的は一言でいえば「感受性を高度ならしむる」ということに尽きます。ローエンが抑うつの身体を「音の出ないバイオリン」に例えてその回復を目指すことも整体の健康観によく適合しており、興味を覚えるのです。整体という行為は治療というよりは、調弦のような技術といった方が合っています(実際に整体では人体上の急所を「調律点」と呼んでいる)。その人の感覚や感受性の本来のものをいっしょに取り戻していく作業です。

その過程は決して楽なものではありませんが、音の出ない身体で人生を生きることは、「生きていながら生きていない」といってもそう間違いではない。今、「生き生きとしている」ためには、「楽しい曲や悲しい曲、葬送曲や喜びの歌」などを正確な音調で奏でられる身心であることが不可欠なのです。ただし楽器と違うのは、人間は生きており、ものではないということにあります。

直る力はその技術を扱う側にはなく、直されようとする当人の中にあります。失われた身体感覚を取り戻すのは、その人の裡なる要求によってなされるものだし、指導者もまたその要求に応ずるのが仕事のすべてです。要求が出ないうちに何を施しても、これはどうにも何にもなりません。その「時」を見極めて、機に応ずる力が双方に必要です。やはり意識を閉じて、無意識に任せることが要訣といえます。

命はいつだって光を失わないものです。光が見えないのは、意識によって曇らされている時だけでしょう。活元運動の必要性もまたここにあると思うのです。

「感情がわからない」-失感情症(アレキシサイミア)のはじまり

失感情症という病気(心身症の一種)について少し書いてみようと思います。その前に、そもそも「失感情」という言葉自体やや専門的で耳慣れない方も多いのではないかと思います。

簡単に説明すると、その名のごとく個人の意識において感情を失っている状態を指します。「失っている」というと誤認があるかもしれませんが、本来は「感情が身体の中ではたらいていない人」はいないのです。但し当人がどれだけ自身の感情を明瞭に味わえているかは相当に個人差があります。

言語表現としては「嬉しい、楽しい、悲しい(哀しい)、苦しい…etc」などといった「感じ」ですが、特に着目すべきは後に書いたようなマイナスの感情です。こういった不快感(不快情動)が起きた時に、軽度のもの(それも一過性)ならばそのまま「不快」として認知されますが、中程度から重度のものがくり返し沸き起こってきた時に、人によってはそのストレスに対して「感じない」という対応をとる動きが出てきます。

今まで「苦しい、いやだ」と言っていた感情が遮断されて感じなくなるわけですから、当人としては「気にしないようにしている」から、やがて「気にならなくなった」、ひいては「精神的にタフになった」などと思っていることもしばしばです。

こういう方を実際に整体の臨床で見てみると、まずからだ全体に張りがなくぶねっとしています。そして全身的に冷たい感じがして、眼には光がありません。それでは言動まで冒され鈍っているのかと言うと、こちらはなかなか「しっかり」していて外見的には充分な社会生活が送れているケースが殆どです。ですがこれは「心身症」のごく初期の状態と言ってよいでしょう。

整体ではもとより、「本人が身心の異常を感じれば、その時から治りはじめる」と言うほどに、身心の異常感(=身体感覚の鋭敏さ)を尊んでいます。これが鈍ってくるということは、そこから病気の要求(必要性)が起こってきます。つまり病気(の苦痛)によって身体感覚を喚び覚まそうとする動きが出てくる訳です。

ところが西洋医療では多くの場合「治療」と称してその病気の中断ばかりを励行していきますので、身体はますます硬直して自身の感情と理性は切り離されていきます。こうした経緯で「失感情」がはじまり、そして深まっていくのです。

とりわけ、「こんなことでヘコタレてはいけない」、「自分は強い(はずだ)」、「みんな大変なのだから、私だけツラいなどと言えない」という様な態度でまじめにがんばって生活をしている方ほど陥りやすい症状です。しかも当人にとってはそれが自身のメンタリティと一体化してしまい、「当たり前」過ぎて、そのがんばりにも気がつかないこともままあります。

それでいて、生理痛や吐き気、めまい、偏頭痛、湿疹、腰痛などの慢性的な体調不良に悩まされています。「体の不調」は認知していても、心の苦痛に対して感性が働いていない(わからない)、そういう身心の分離が失感情症の現れとして見ることができます。多くの方が「身体の病気」だけに着目して、治療の効果もむなしくなかなか成果が上がらない時に、この「感情に対する気づき」という切り口からその人を観ていくことで、変化が見られることはよくあります。

では実際に「どうやって感情、感受性を取り戻していくか」、ということになるとその方法は多岐にわたります。考えようによっては「いかようにでも、何とでもなる」とも言えますし、相談者によってはこの「感情の回復」こそが生涯をかけての一大テーマともなりえます。ちょっと長くなりましたので、失感情に対応する具体的なセラピーや手法などについてはまた改めて書いてみたいと思います。

身体は、世界を映しだす鏡

もし、体が躍動感を欠いているならば、その人の感動と反応は少なくなってしまう。体が生き生きとしているならそれだけ人は、現実を生き生き感じとり、活動的に反応する。調子よいと感じたり、生き生きとした気持ちを感じる時、世界をよりはっきりと感じとることができるという事実を、私たちはよく経験する。一方、うつ状態にある時には、世界は色あせたものとして映るだろう。(A・ローエン著 『引き裂かれた心と体』 創元社 pp.7-8)

整体が追究するのは感受性の正常化であり、よく「感覚する身体」です。何を感覚するかと言えばそれは身心の快と不快、そこからもう少し丁寧に考えていくとその「快と不快」の両極の中間にある、さまざまな情動の種類を感じられるようにしたい。

身心の問題(病症)の数は無数にあるけれども、その根本的原因は一つです。それは「身体感覚の喪失」であり、「自分が感じていること」がぼやけている状態を指します。そのために整体指導を行うということは、この失われた身体感覚の再生が最重要課題ということになります。

例えば当院の場合、整体を受けたあとで次の指導の時に感想伺うと、「確かに良くなっています」と言う方と、「効果があったのかなかったのか、よくわかりません」と訴える人がいます。もちろん「よくなった」が好ましく、「効果感じられず」がよろしくないと言えばそうなのでしょうが、実は後者の方が自身の身体感覚に正直であることも少なくないのですね。自分の身体に起きていることを、よくよく、丁寧に感じてみた結果の慎重な発言なのだと思います。

実際、失われた身体感覚を取り戻すには時間がかかると思っていた方がよく、それも適切な相手と正しいやり方で行っていかないと効果はなかなか上らないのです。とにかく「快い、気持ちがよい」という感覚を大切に生きていくことが肝要で、セラピーなどでも気持ちの良い動作や気持ちのいい感覚を積極的に味あわせるものは、そうした身体感覚の「鈍り」のメカニズムをよく理解した上でのことだと思うのです。

逆に生育期に苦しい境遇を味わったような人は「自分を鍛えるため」といって苦行的になることも多いのです。ですが、これでは心と体の分離が一層進んでしまいます。人が癒えていくための道は本当に、もっとずっと近いとこ%e8%88%b9%e9%a0%adろにあるのです。今の自分の様子にじかに触れて、自分の要求に蓋することなく、淡々と快を連ねるように動いていくことが整体への近道です。これが信じられる人は、たった今から、少しずつ、楽になるとおもうのですが。

本当に簡単なんですけど、人によっては「むずかしい」と言われることも多いのでもどかしい。もっと説き方と、導き方が上手になりたいものです。

『引き裂かれた心と体』 A・ローエン

健康な人の自我は、身体と同一視されており、病的な人の自我は、体との確固たる同一視を持っていない。アレキサンダー・ローウェン著 『引き裂かれた心と体』 創元社

IMG_3030上記は少し堅めの学術的な文章の引用だが、いわゆる「うつ」や「がん」のような現代的な病の原因を、肉体から引き離された自我(理性)にあることを看破している。

ここでの「肉体」とは「感情を有する生きた身体」のことで、この肉体から意識が離れることは生活から感情体験が薄れていくことを意味しているのだ。

生命活動の根源はやはり感情エネルギーであるといって相違ないもので、感情が希薄になることは生活からだんだんと温度や勢いがなくなっていき身体も固く冷たくなっていきやすい(凝りや冷えの慢性化)。

整体指導の場ではもっぱら身心の深いリラックスを促して、「感情の気づき」を介助することが主眼である。著作の中ではヨガから着想を得たバイオエナジェティックス・セラピー(生体エネルギー療法)という一種の体操(?)が紹介されている。一方野口整体では、この感情の解放を助ける方法に相当するのが活元運動(自働運動・霊動法)にあたるだろう。

ごく個人的感想として、過去4,5年の読書遍歴の中ではこのA・ローウェンの著作は秀逸である。これほど身体疾患と感情抑圧とのつながりを臨床例と供に学術的に述べた本を知らない(知らないだけで他にもきっとあると思いますが)。

洋の東西などという区分はあくまで思想的概念でしかなく、「人間」というのはある面では万国共通なものである。したがってその人間を探求していくとやはり答えも一つに集約されるのだろう。

こうして見ると病むことも治ることも、本来は難しいことは一つもない。頭を休めて、身体の自然の動きの任せる、というそれだけでいいのだから。

ただ「工夫」に慣れ親しみ過ぎた人は、この何もしないで任せる、ということがやっぱり難しいようだ。本来の自然界からみたら本当に可笑しなことなのだけど、何もしないでいるということが何か手持ち無沙汰で不安に感じるらしい。

今までのものを全部手放せば一挙に救われるのだが、それが中々できないのもまた人情である。やっぱり「これまで作り上げてきた自分」を惜しむ気持ちがあるのかもしれない。まずは思い(を断ち)切って活元運動をやってみていただきたい。身を捨てたとき、一体どのように「浮かぶ」のか。ぜひ自己の身心をもって実証していただきたいところだ。

来談者中心療法を考える

去年の今頃はカール・ロジャーズを読んでいた。彼の「来談者中心療法」という手法に感心をもって、整体に反映できないものかと模索したのだった。現在に至ってどの程度仕事に活かされているかはちょっとわからないけど。

技術的なものは何でも勉強したてのホヤホヤでしっくり馴染んでいないもの、またそれが「技」として目に見えている間は使えていないことが多い。学んで、飲み込んで、消化して、すっかり忘れてしまった頃になって初めて身に付いたと言えるだろう。

さて、来談者中心療法とは何かというと基本的態度としては「無条件の肯定的関心」と「共感的理解」を説かれていて、一貫して相手を受容する融和的な姿勢を重視する。

なんでこれが治療になるのかというと、人は無条件に肯定、賛同されるとそれだけでにわかに力が抜けてゆるんでしまうからだ。全ての力は抵抗してくる対象物があってはじめて存在できるもので、相手が対立するほど強くなるが、受容されると消えてしまう。壁だと思って押したら暖簾だったというようニュアンスだろうか。

だからカウンセラーが自分を立てず、また相手の存在も素通りして、どこにも主体を置かないような態度に徹する時、お互いの世界が全一的に融けてしまう。

治療者やカウンセラーの力量というものは知識や肩書ではなく、最終的には良質のコミュニケーションを確立する能力だといって相違ない。これはもはや「人間性」という範疇のものであってテクニックではないだろう。

外からどんな技術を施してみても最終的に治る力は来談者(クライエント)の中にしか存在しない。そのクライエントの力があってはじめて治療者の力も使えるのであって、よくよくそこを考えてみるとどちらの力とも言い難いのだ。

結局のところ他人がいくら気張っても、当人が治る時にならないと治らない。

治る時が来るまでは「ざる」なのだ。どんなに有益なものを目にし、耳にしても、みんな本人の身体を通過してしまう。

逆に言えば、治る時が来たらあらゆる力を自分のものにして治ってしまう。

そう考えると余人ができることは、「その時の波」を乱さないように何もしないで「待つ」こと以外になくなってしまう。東洋思想でいう所の「無為」というものはこれをよく言い現したものだと思う。

ヒーラー、治療者、指導者など、他者をリードする立場にある人は、「自分は相手に一体何ができるのか?」ということを常々考えつづけるものだ。「治療」ということは「何かする」ということと、「何もしない」ということの間にある。

ここでふと思い出して、野口晴哉の『治療の書』を開いたら次の一節が目に止まった。

我治めて治療あり 我慎しみて治療あり。
我 我無くしてのみ治療あり。
治療といへること 我が行うに非ず。人に施すことに非ず 治すことにも非ざる也。
たゞ我 我無くして靖らかなる為也。宇宙の靖らかなる為也。(全生社 p.131)

自分の整体探求もだいぶ遠くまで来たと思ったら、依然としてお釈迦様の掌の上だったという話だった。自らを修めて、他を治める。一体「何」が「何」をしているのかわからない。「治る、治らない」とは如何なることなのか。ここ辺りの問いが整体指導の急所だと思う。

自然モデル

治すためにいろいろな技術を使わなければいけないというのは治療の前段階だ。

真の治療は造作もないことの中にある。つまり一切の作り事を止めること。自然・宇宙の時、摂理に任せ切る。

実際はその「任せ切る」ということも造作のうちだ。だからそういう人間的な「はからい」を全部捨ててしまう。

そう考えると、「何もしないということに全力を懸ける」と言った、心理療法家の故河合隼雄氏の言葉は秀逸だ。

手を出さない、手を着けない。

そうすると、無になるだろうか。

無にはならない。

必ず残るものがある。

自身の「体」と「環境」が残る。

環境は人を苦しめない。

苦しみたい人は苦しむ。苦しむことを止めれば、苦しいは消える。

そういう自由性がいつも、〔今〕、与えられている。

生きているということは限りなく自由である。

本源的に治療と言える行為は、当人にその自由性を気づかせること以外ない。

だけれども、これから自由になろうとすれば縛られる。

今どうなっているか。

感ずれば皆わかる。

行き詰ったら、意識を閉じて、無心に聞く。

しかし聞いているものがあるうちは、最後のところが落ち切らない。

今どうなっているか。

感ずれば即わかる。

自然を体得すれば、もうもとへは戻らない。その瞬間から大安心の生活者だ。