リミット

一昨年の今頃、河合隼雄さんのカウンセリング関係のものをよく読んでいた。そこで初めて個人セラピーにおける「限界」という言葉を知ったのだった。これはカウンセラーの仕事の限界も表すし、人間一人の力の限界を知るための表現でもある。

身体の調子を崩す原因は十人十色、千差万別で、「この人はなぜこうなったのか?」と絶えず考えつづけるのが整体の仕事だ。ただ、そうした中にもやはり定番型というのがあって、「他人のストレスを過剰に請け負ってしまう」という方が一定の割合でいらっしゃる。

つまり、体力的、時間的、精神的にここまでならできるけど、これ以上はできない、という「線引き」が曖昧な人のケースだ。「良い人・やさしい人」として歓迎もされる反面、最終的には個人的にも人間関係においても無理がたたってきてしまう。

いわゆる心理的な問題なのだけど、整体指導の場合は心も体も区別なくその人の悩みに取り組んでいく。そして何故かはよくわからないが、腰がやわらかくなると、どなたでも無理なく自己主張ができるようになってくるから不思議だ。そして自分の感じたことを表現し、行動に移す習慣が付いてくる。

他者との対話力を養う前に必要なのは、自己との対話なのだ。まずは思考ではなく感情の動きの一つ一つに学んでいくことから始まる。心は自分の限界点をちゃんとわかっているからだ。そのために頭を休め、心を落ち着かせる所までが当院の仕事のリミットだったりする。そこから先はやはり指導を受けられる方の領域なのだ。いつもついやり過ぎるので、自分に言い聞かせているのだと気がついた。

ドンスィンク ジャスツフィール

ホームページに「ココロとカラダ」と表記しているので、来院される方はある程度心の準備をして個人指導に臨まれる。ところがお会いしてみると、「心の定義」は個人個人みなバラバラなのだということをいつもいつも思い知らされるのだ。

特に、心理療法やカウンセリング、ヒーリング・セッションなどを受けてから来院される方は、ある程度「自分で自分の分析は済んでいる」と思っていることが多い。ところが〔身体〕を媒体としてやり取りしていくと、自分のことを「考え」ては来たけれども、「感じる」方はサッパリなのだ。つまり「分析」といったって遊びみたいなもので、何にもなっていないのである。

誤解のないように補足するが、心理療法や精神分析を否定する気は全くない。しかし実際にカウンセラーがこれらの技術をプロのレベルまで身に付けるには多くの時間と体験を必要とし、またクライエントにとっても大変な心的エネルギーを要するものであることを知っている。それだけに、そう簡単に「解りました、治りました」などといったものの大半は「にわか」なのである。

話を戻すと、「心」というのはおおまかには「理性」と「感情」に大別されるが、実際の心にはそういう境目がないから厄介だ。例えば、「ごはんが旨いか不味いか」、というのは本人が主観的に「感じる」働きだ。ところが「不味い」と感じても、直後にその栄養価とか、値段の高い安い、あるいは会食の席であるとか、そういう理由から合理的に「考えて」食べ出すと、最初に不味いと感じたモノがぼやけてくる。

つまり、この場合は理性が感覚を磨滅させたのだ。ではそれによってすっかり感覚上の問題が解決したのかというと、最初に感じた不快(不味い)というのはやはり心のどこかで生きている。そして身体上には、その感じた方が現れるようにできているのだ。疾患や怪我というものは、みんなそういう系統の現象といえる。

仮に「泣こう」ということをいくら考えても、泣きたくなるような情動が起こらなければ、本物の涙は出ない。このように「考え(理性)」というものの生理機能に対する影響力というのはほとんど0(ゼロ)なのだ。

だから整体指導で取り組むべき「心」というのは、常に感情を中心とした精神の動きである。全般に身体の調子がすぐれない、という方は理性に偏り過ぎて、感性の方が眠っている。いくら「心、心、」と謳っても、その定義が正確に共有されなければ一向に仕事が始まらないのだ。

最初に「感じる」という出発点があって、そこから思い、考えることが出てくる。感じることを主体として生きる手段というのは、分析ではなく、内観であり、言葉ではなく、沈黙である。ただし、その内観とか沈黙に誘うために「言葉」は有効な手段として使われるべきなのだ。

つまり「考えないで、感じよう」、と。それをさらに雄弁にしようとするとやっぱり、「黙」になるんだけどね。

良寛さんにみる潜在意識教育

今日は潜在意識教育に因んで、良寛和尚の逸話から考えてみようと思います。その前に「良寛さんて誰?」ということもあると思いますので、そちらの説明を先に少し。

良寛和尚は江戸時代後期のお坊さんです。もともとは庄屋の跡取りになる予定だったのですがこれを辞して、厳しい僧侶の道に入って修行をされたそうです。晩年はやさしい和尚さんとしてとくに子供たちに慕われ、日が暮れるまでかくれんぼをしたり手まりで遊ぶこともあったと言われています。

その良寛さんが、あるとき弟の長男(甥)の放蕩を正して欲しいと頼まれた際に、本当に「自然」な方法でそれを行ったというエピソードがありますので、この話を引いてみましょう。

佐渡を望む出雲崎の生家は弟の由之が継いでいましたが、その長男(良寛の甥)の馬之助は大変な放蕩息子で、思い余った由之の妻、安子は、良寛さんに「馬之助に厳しいお諭しを」と頼み込みました。

安子の願いを引き受けた良寛さん、久しぶりに生家を訪れました。その夜、和尚を交えて久々の家族団欒となりました。次の日も次の日も馬之助も伯父(良寛)と酒を酌み交わし托鉢や子供達の話に花が咲きましたが、弟夫婦が期待していた肝心のご意見は一言もありません。

四日目の朝「やっかいになったな、それではおいとましますわ」

呆気にとられている由之夫婦を尻目に、玄関の上り段に足をおろし、「すまんがこの紐を結んでくれんかのう」老僧が腰を屈めるのに難渋している姿を見ていた馬之助は、「ハイ」と一言のもとにとび降り、良寛さんの足元にかがみ込み、良寛さんの細い足首に草鞋の紐を結び終えようとする時、馬之助は首筋に熱いものを感じました。驚いて顔を上げると、良寛さんの目に涙が一杯たまっています。

「ありがとう」ひとこと礼を言って、良寛さんは生家の玄関を出て行きました。不思議なことに馬之助の放蕩は、その日を限りぷっつりと止んだそうです。(『井上義衍提唱語録 併般若心経講説』より)

はい、心情的にはよく解る話ですね。ですけれどもこんなことが本当にあるのかというと、あり得るけれどむずかしいだろうなとも思う。やっぱり修行というのはこういう力を生むのかな、とも思います。

昨日まで、「人間は変われるのか」を書いてきましたが、河合隼雄さんの見解もお借りして、「とにかくガラ!っとは変わらないけど、でもやっぱり変わっていく。」そんな話でした。

今日の話はそれとは真逆のような逸話です。

あることをきっかけに心象がぐーっと変わってしまう。人間にはこういうこともやっぱりありますね。多くの場合は「偶発的」に起こるけれど、整体指導ということになるとこれを「必然的」に引き起こすのが職能的な「技」ということになると思います。おそらくこれに近い職業として「コーチング」などが少し共通しているかもしれませんけど。それでも整体ではこれが百発百中であることが求められるんですね。感情の基本的な性質や方向性がわかれば、ある程度の所まではできると思いますが・・。

野口先生の言葉には「心の角度をフッと変えると、人間はその全部が変わってくる」というものがあります。さらに、「相手に押しつけてはならない、相手自身が自発的に、自分の考えで行動するようにしむけることだ」と、こういう風に説かれています。一般に躾や努力で矯正的にやっていることは、どうしても反対の要求や空想を生むようになっていますから。強く押さえれば押さえるほど、圧縮されたエネルギーは噴出の場を探すようになってしまう。噴出されないものは、自分を中から「壊す」働き(病気)に変性するものもあります。

ですから、そういった方向ではなく相手の「中身」がさっと変わってしまう方が、お互いに心理的な負担がないのですね。教育や躾の現場ではありがちですが、最初に「悪い」ところを掴まえたうえで「良くしよう」とすると相手は自分の根本に「悪い」があると空想してしまう。元々人間の中には善も悪もないのですけれど、「ちゃんとしようね」という言葉を聞くと、やはり自分の中にだらしのないものを連想してしまう。

良寛さんの例では、相手の悪態を対象にしなかったことが一番の功徳になったということになるのでしょうか。「善悪を思わず、是非をかんすることなかれ」という禅的な態度は、人に最初に具わっている「天心」という心、生命の無為的な「秩序」へと向かわせるのかもしれない。これはまた「相手に対する無条件の肯定的関心」を説いたカール・ロジャースの来談者中心主義も彷彿とさせます。

ただしこれが、いわゆる指導する側の「テクニック」のようなものでないことは明らかです。人を良きに導くということは、自分自身の潜在意識が簡潔になっていないと、他者の中に清浄な力があることが信じられない、という事がここで出てくるわけですね。実は良寛さん自身が出家をされる前は、名家の跡取りとして教育を受けるかたわら遊蕩にふけったこともあったと言われています。ですからそういう所を自分自身で越えてきた力が、無暗に人を処罰しないような寛容さをもたらすのかもしれません。

ですからとにかく丁寧に自分の心に取り組んだということが、結果的に人を癒す力を生んだと言っていいと思うのです。宗教家の仕事としてよく「世界平和」を求められる節がありますが、最終的には自分を修め、後に他者も治め、ということに落ち着くのかもしれません。整体を行っていると、つい「相手の問題」に取り組む方へ流れやすいのですが、「潜在意識教育」といったときに一体「誰が、誰を」教育するのか、という所はよく考える必要があるのですね。それでは今日はこの辺で。

人は変われる(続き)

今日も河合隼雄さんの『心理療法序説』の続きです。

ただ、ここで注意を要することは、成長の過程ということを、一直線の段階的進歩のイメージのみで把握してはならない、ということである。成長を一直線の過程として見ることはわかりやすい。自分はどこまできていて、それに比して誰はどのあたりであるのか、などと考える。それはともすると到達点の設定ということまで考えることになり、「到達した人」に対する限りない尊敬心を誘発したりする。時には「自己実現した」人などという表現に接して、驚いてしまう。ユングが個性化の過程として、過程であることを強調するのは、そこに「完了」ということはあり得ないと考えるからではなかろうか。

もちろん、成長の過程を、一直線のイメージで描くことは可能であり、それはある程度必要ではある。しかし、それがすべてと思うと、とんでもない誤りを犯すことになる。人間の成長は考える際に、直線のイメージだけではなく、円のイメージで把握することも大切だ。すべてははじめから、全体としてあり、成長するということは、その全き円をめぐることで、言うなれば同じことの繰り返しであったり、、どこまでゆくやらわからなかったり、しかし、全き円の「様相」はそのときどきに変化してゆく。それは成長というより成熟という言葉で考える方がぴったりかも知れない過程である。

一直線の成長イメージで人を見るとき、人間は直線状に配列され、上・下関係が明らかになる。治療者はクライエントよりも高い到達点にいて、後からくる人を指導する。果たしてそうだろうか。遊戯療法の過程で、われわれは子どもから教えられることがある。子どもの知恵がこちらよりはるかにまさっていることを実感することもある。心理療法家というのは、相手から学ぶことによって、相手の成長に貢献していることがよくある。このことは、単純な直線の成長モデルによっては理解し難い現象である。そして、そのような、ことに心が開かれていることが、心理療法家には必要なのである。(『心理療法序説』 岩波書店 pp.283-284)

さて、「人間は果たして、変われるのか、成長できるのか?」という命題を考えています。例えば「適応障害」といわれる疾患(心の病)があります。これを解消するには、「適応」するのが難しい「環境」の方を変えるか、適応できない現在の「自我意識」が変わるのか、といういずれかの対応になると思います(投薬などを除けば)。そして後者の方法からは、「成長しよう」という心の方向性が見えてきます。

では「成長」って何?というと、ここが大事な所で「こうなったら良いのだ」という雛型がないのが心の問題の多様性に繋がっていると思うのです。明らかな「スタート地点」があって、そこから「ゴール」に近づいて行くだけなら比較的カンタンなのです。それは迷いようがない「直線的」な世界ですから。あっちにいけばいい、という。。ところが生きている人間の実相というのはそんな風にはなっていないですね。いつだって〔今〕の自分は完成している。完成しているんだけど、次の瞬間にはもう、あれ程完璧だった自我意識はもう変わってしまう。

例えば小学生の頃の時の自我というのは、確かにあったと言えます。だけど現在同じものを出すことはできない。では何時消えたのかというと、「あの時」という境目がない訳です。過去・現在・未来がずっとつづき通しの〔今〕に生きている。〔今〕は完璧なんだけど、それが絶えず変化している。「完成」と「過程」という、2つ並べると矛盾するようなものが、一つの矛盾もなく併置されているのが〔今〕の心です。

ここで、禅の『臨済録』に出てくる公案、「途中に在って家舎を離れず」というところを思い浮かべます。〔今〕というのはみんな行の途中なんです。途中なんだけれども、一つも「家」から離れない。スタートもない、ゴールもない、向かって行くような目的地がない。ところがそれが次々と相を変えて、一つも後を残さない(無相の相)。邪魔にもならない。そういう切り離された自在性がずっと今の心、ということですね。

そのように考えると引用文の、「人間の成長は考える際に、直線のイメージだけではなく、円のイメージで把握することも大切だ。…」から始まるところが、すらすらと肯えると思います。「変わって、変わらず」、そして「教えていることで、教えられる」という。心の中には、白とか黒とか、そんなはっきりとした「一線」はないんですね。だからそこがいいと言えばいい。整体指導も心理療法もそういう心の自由性と不安定さの間で仕事をしているという気もします。

引用の最後に、「心理療法家というのは、相手から学ぶことによって、相手の成長に貢献していることがよくある。このことは、単純な直線の成長モデルによっては理解し難い現象である。そして、そのような、ことに心が開かれていることが、心理療法家には必要なのである。」と、書かれています。だから単純に、上位の立場にたって、相手を「こちらからあちらに導けばいい」という、二元的な方向性で行なう訳ではないということです。一つ言えることは、とにかく心には「良い方へ、良い方へ」という「向き」はあると思って良いのでしょう。整体指導でも、それがあるからお互いに大変だなと思いながらも「手伝って」いけると思うんです。理論的な落とし所が見つかったので、また実践に戻ろう。河合さんの『心理療法序説』はもうちょっと続くかもしれません。今日はこの辺で。

人は変われる

昨日さらっと取り扱ってしまったけど、「人間は変われるのか」という話は心理療法の急所だった。整体の潜在意識教育でも、「人格の変容・成長」はその人が本当の意味で「治るか治らないか」をわける分岐になる所でもある。今日はまずいろいろしゃべる前に、河合隼雄さんの『心理療法序説』から引用してみます。

4 心理療法家の成長

心理療法を行なう上で、もっとも重要なのは「人間」としての治療者である。従がって、治療者は常に自分の成長ということを心に留めておかねばならないし、またそのようなことを考えざるを得ないように、クライエントがし向けてくれる、と言っていいだろう。クライエントは心理療法家にとっての教師である。

治療者の人間としての在り方といっても、いわゆる「人格高潔」などという理想像を掲げるつもりはない。しかし、ユングの言っている「個性化の過程」ということは参考になるだろう。まず、この世に生きてゆくために必要な強さをもつ自我をつくりあげ、その自我が自分の無意識に対して開かれており、自我と無意識との対決と相互作用を通じて、自分の意識を拡大・強化してゆく。無意識の創造性に身をゆだねつつ生きることは、相当な苦しみを伴うものであるが、それを回避せずに生きるのである。このことをクライエントに期待するのなら、治療者自身がその道を歩んでいなくては話にならない。(『心理療法序説』 岩波書店 p.282)

この先にいくと、心の成長や自己実現の実際について書かれています。長くなるのでそれはまた明日以降に引くことにして、この文脈から言えることはまず「人間は変わる(成長する)」可能性を内在させているということですね。「何をもって成長か」と考えると一言では括るのがむずかしいけれども、この場合は「自我と無意識との対決と相互作用を通じて、自分の意識を拡大・強化してゆく」過程を指す訳です。まちょっとむずかしいので分解してみます。

「自我」というのは生まれてから(あるいは受胎前から)〔今〕までに作られた、かつての環境に適合する意識のことを指します。「無意識」というのはそういう表層的な意識ではなくずっと奥に隠れたようになっていて、全き人格へと向かう要求を備えているものですね。簡単に言うと「成長したい」、とか「もっと良い人格になって存分に生きたい」という意欲の水源みたいなものでしょうか。

ただ考えてみると、人間の活動を広く見渡した時に、成長欲求とか、自己実現の要求を伴っていないものはないと思います。と言うことは、人格の変化というのは「整体指導」とか、「心理療法」とかいう限られた場所だけで行われる「特殊」なものではなくて、多くの方に日々展開されている「日常」の中で絶えず微量に繰り返されていると言っていいのかもしれません。

では「整体指導の役割って何?」というと、その「成長」を、他力を伴ってより積極的に主体性をもって行うということ、と言えるでしょう。整体のとっかかりとしては「病気」、というのが鍵になることが多いのだけど、この病気というのを西洋医療では「命を脅かす可能性をもった活動であり、人体上から速やかに排除すべきもの」としか見ない訳です(大まかに言えば)。ところが野口先生という方は「これは生命の全体性から見れば、むしろ積極的に平衡を保とうとする大切な働きである」と看破した。「病気が生命維持に貢献している」という、いわゆる「コペルニクス的転回」みたいなものですね。それも子供の直観的に、生命活動の真相を徹見した訳です。

そしてこれと同じ見方をユングもしていた。それもほぼ同時代のことです。河合さんは別の著書で「人が治るということは、本来しんどいことなんです。」と言っていますけど、つまりそれは病的な痛みとか、不快感にも広げてみることが出来る考え方です。痛いから、〔今〕治っている、ということですね。さらさらさらと横滑りで話の焦点がずれてしまったが、とにかく「人は変われる」、あるいは良くも悪くも「変わっていってしまう」、ずーっと同じなどとということはありえない、と。こういうところで一応の昨日の疑念に対する着地点までは来た気がする。ここから面白い話になるのだけど、今日は早めにパソコン閉じて休みます。つづきはまた明日。^^

変われるのか 変われないのか

最近の研究テーマというか「人間というのは結局変われるのか、変われないのか」ということを深く考えていた。野口整体の根幹は「潜在意識教育」で、これが抜けてしまうといくら技術で身体を整えてもまた戻ってしまうのだ。だから基本的には自我意識の変容、成長ということが伴わないと、仮に「治った」としてもまた元に戻ってしまう。

それではどの辺まで変わるのか?ということなのだが、当然自分自身の変化の幅でしか他者はリード出来ない。一般に言う「性分」とか「性格」、「気質」など表現は諸々あるとして、自分が整体指導を受けてきた経験からも言えるのだが、「自分で自分をこうだ」と無意識に思っていることはなかなか変わらない。逆に言えば自我がしょっちゅうコロッコロッと変わってしまうようでは、自他ともに社会生活全体がままならなくなるだろう。昨日まで知っていたAさんが、今日になったら全く違うAさんになっていた、というような事が横行したら個人にも公にもさまざまな支障が出る。だから自我というのは生来強固な造りになっていると言えばそうなのだろう。

だからといって、「変わらないのか」と諦めてしまえば心理療法も整体指導も成り立たない。そう言う観点から、「変わる」も「変わらい」もなく続けていると、やはり何かが違ってくるのも事実だろう。実はこの辺りの所は河合隼雄さんの著作からヒントを得ながら、ある時期から熱心に取り組んでいるのだが・・。「人間が少しでも変わるというのは大変な事なのです。」という氏の弁は、実体験から出てきた重みのある言葉だ。

人間は「変わらない」ということと「変わる」ということが両方矛盾なくあるというのが実態かもしれない。臨床ではそう思って見ていくとお互いにとって一番負担がないし、長期にわたって同じ人に粘り強く取り組める心構えにもなる。具体的な方法としては「待つ」という技術になる。治療の方法論で「何かする」ということは沢山あっても、ただ「一緒にいる」ということはなかなかやれない。実際のところ「何もしない」ということが、生命の成長要求を一番シンプルに発現させる方法という気もする。天心で行う愉気というのがその象徴かも知れない。

治療者が相手の「自我」というのを掴んでいるうちは、そこに執らわれてどうにもならないということがやっぱり出てくる。だからその「どうにかしよう」ということがなくなれば、元来自然の相というのは次々を変わっていくものだから、その力をそのまま使えるようになるのではなかろうか。そう言えばこの辺りのことは河合さんの『心理療法序説』という本の中に、「自然モデル」という表現で著されていた。また復習してみようかな。いつもながら書いていると、どこからともなく答えが出てくるから不思議だ。誰だか知らないけど、「無意識」はありがたい。

多動症

さ、きのうのつづきです。

活元会の後で、大口のこだわり空間喫茶店『ミカンバコ』でお客さんとお話してたのですが、

雑談の中で、

多動症のこどもはどうしたらいいのでしょうか?

というお話があがったのですが、

そういえば去年の6月頃なぜか、子供をみて下さい、というご相談が続いたときに多動症の相談も一回あったのを思い出しました。

(思えば、去年の6月って地震のあとですね・・)

そのときは、結局お母さんのお話をよくうかがってお子さんにはまったく触れずにおわったのですが、

今は何事もなかったかのように元気にされてます。もちろん「治療」もしてません。

多動症・・・

注意欠陥他動性障害

まぁ、「じっとしてられない」、「一つのことをがんばれない」、「よくものをなくす」、「さわぐ」・・・とかまぁ、それっていわゆる普通の「コドモ」じゃあねぇかって話なんですよね。

だいたいこういうものまで「病気」として扱われるような時代のほうが「オトナげない」気がする。

そして治療だとかいって、いろいろやるわけですよね・・

ん~・・・・・・

ま、私なんかもよくものをなくしますしね。

 

先ずは、いろいろいじくるその前に、

お父さんと、

お母さんが、

ニコニコしてね、

泣いて笑って怒って泣いて(あ2回泣いた)、それで朝起きたら一生懸命働いて、夜はみんなでぐっすり眠って、って生活していれば、

子供はそれでホントに幸せだし、まっすぐ育つと思う。

しいて言えば、それが一番の「治療」じゃないでしょうか。

そうは言ってもね、

人間というのはそう単純な生き物ではないから、

愛ゆえに、

母は苦しまねばならぬ。

愛ゆえに、

父も悩まねばならぬ。

そう、みんな愛深き故の、

不安や期待ですけど・・

こどもを、

信じてあげようぜ。

それも、

「自分の子供」だから、

むずかしんですけどね。

(・▽・)demoダイジョーブ!

愛と心理療法

かつては蔓延する偽スピリチュアルに辟易していたので、仕事をはじめるときには「フィジカルに徹す」と誓ったものだ。しかしながら臨床の場になるとやっぱり肝心なのは目に見えない部分であると思う。結局のところ「整体」といえども、最後は心で心を満たしていく世界なのだ。相手が治る時には自分も癒されている。自他の「境界」があるうちは魂の救済はできない。

ところで痛みや症状は「無意識と意識のズレ」を知らせる警報のようなもので、これを無やみに止めてしまうことは道路の信号も標識も見ないで車を走らせているようなことになってしまう。病気も怪我も苦しい現象ではあるけれど、これあって人は成長するようにできている。

生活するその人を丸ごと観るという取り組み方は心理療法と整体の共通点である。人の命や人生に直結した行為だけにカウンセラーや整体指導者の倫理観とか道徳観念が問われる。自分の価値観で人を導くのだから責任は重い。

そんなことを考えながら黙々と仕事をしていた矢先、本棚の奥からM.スコット・ペックの『愛と心理療法』が出てきた。英題は “THE ROAD LESS TRAVELED” 「行く人の少ない道」。これを大学時代に結構な情熱を傾けて読んだものだった。

赤ペンと付箋が所せましと置かれ、10年前の自分に対して「この人は心理療法家になりたかったのではないか」と郷愁にかられた。かなり大胆に言えば人生は成育環境で9割は決まってしまう。もちろん完璧な親などいないのだから家庭での教育だけで十全な人格に育つことはむずかしいとしても、自分の心の穴が理解できていない間は人生の岐路で何度もつまずいてしまう。

愛と憎の念が潜在意識でこんがらがっていると、豊かな人づきあいがわからなくなってしまうのだ。この世は人を信じて生きられれば楽なのだが、それをゆるさない記憶がこびりついている間はいつまでも生きづらい。「あなたはあなたでいいのよ」と言われなかった人ほど、心のどこかに愛に対する懐疑や怖れが潜んでいる。野口整体の愉気にはそういった傷を癒す力があると言ったら過信だろうか。

気がついたら自分の半生をを振り返る作業にもなったが、人生は一見無軌道ようでも見えざる道がある気がした。潜在意識の御業なのか。人の一生に寄り道はあっても無駄はないと思った瞬間だった。