うつは心の風邪か

体が風邪を引くように、心も風邪を引く。うつは「こころの風邪」みたいなもの。そういうフレーズをときどき目にする。

だいたいが「風邪」も「うつ」も定義があいまいなのだ。だからそうだといえばそうかもしれない。

おそらく「うつ」という病気が重篤なものになると相当に苦しいから、「今は苦しいけど、ちゃんと養生すれば必ず治りますから」という、心ある人からの励ましではないかと思っている。

野口整体の『風邪の効用』という本があるけれども、これによれば風邪は体の自然良能、すなわち発熱・発汗・下痢等々‥症状はいろいろあるが、その風邪を途中で止めないでしっかり経過すると身体の偏りは消失することを説いている。

もうちょっとわかりやすくいうと、自分の力で自然に体は整うってことを意味しているのだ。

ここでいう「偏り」って具体的にどういうことかと言えば、「骨格の位置」とか「重心バランス」のことである。

つまり発熱と発汗で筋肉がゆるむから骨格が正常な位置に戻るし、筋骨のバランスが整えば内臓機能も正常化し、そして最大化するのだ。

それなら、「うつ」にもそういう自然良能の力があるのか?と問われれば、それは間違いなくある。

「うつ」状態が体と心の偏りを正している、と考えて相違ない。

だいたい人間が治る時、というのは全てにおいて苦しみを伴うものなのだ。

「苦しいから治っている」といっていいだろう。

風邪もそう、そうなのだ。

「うーん…」と寝込んで唸っているときに、必ず身体のどこかが治っている。

共通しているのはうつでも風邪でも必ず、過去に何らかの「不快」を味わっているということだろう。「その時」の情動が消化しきれずに、体の内、あるいは心の中に居座っているのだ。

それを遅ればせながら、1年後でもいい、いや10年、20年後でもいいから身体上に表現して、感じ直して、苦しみ直すことで心身ともにクリアになる。

心でも体でも、きちっと病気をすることが治るためには必要なのである。

ときどき心理カウンセリングを受けた後で「具合が悪くなった」とか、「かえって気分が落ち込んだ」とかいうことが起こるのは、過去に感じ、出しそびれた不快情動が記憶の底から浮かび上がってきたからだと言える。

感じはじめたらそれから何日後か何週間後かはわからなけれども、やがては消えていくのだ。

暗がりに繁殖したカビとかキノコがお陽様にあたると消えてしまうように、心の底にも意識の光が指し込むとクリアになる。

ただまあ、人によってはそういうカビとかキノコみたいな不快な情動体験が「生きがい」とか、「生きるための燃料」みたいになっている人もいるから、心の治療というのはむずかしいのだが‥。

場合によっては、少しくらい偏りがあった方が「人間味」がある、と言えなくもない。

まあでも、せっかく心の風邪を引いたのならこれを上手く使わない手はないだろうと、わたしなら思う。

風邪をきちんと経過したあとは身体がさっぱりする。

これと同じように、うつを経過したあとで、今までとは違った創造的な自分だけの人生の道が拓けた、という例を、日々の臨床でたまさか見させてもらっている。

いずれにせよ病気は外から無理やり治すものではない。

「いのち」という全体性の中でその目的を正しく理解し、善用するべきだ。

苦しいときはその苦しさの中心を見据え、本質を見極めようとする態度を学ぶことである。

やがて必ず、その病の中に「道」が見えてくる。

失感情の治療を考える

最近になってようやく自分の失感情傾向がわかるようになった。

思春期前後に深いストレスにさらされた体験が大きいと思うが、20~30代はほぼまるまる「失われた感情」と「身体感覚」を取り戻す作業に明け暮れた。

学生時代に競技カラテの道場で来る日も来る日もぼこぼこ!になっていたのも、あれは今にして思うえば緩慢な自傷行為であった。大けがをして辞めるに至ったが、まああれぐらいで済んでよかったと思うべきか。

空手のあと今後の人生まで含めて大きな影響をもたらしたのは「野口整体」だろう。人を倒す技の修練を断念したのちに、人の苦しみを共感する道を歩み始めたというところが「物語」である。

思えば失われた感情と身体感覚を取り戻すために、身体に取り組んで来たのだ。

野口整体の愉気や整体操法が現代的に最もその力を示せるのは、「失感情」に対する対応ではないかと思っている。

日々くり返される荒んだ刺激によって麻痺した心の感度は、身体を媒体にして伝える慈しみと癒しの心によって息を吹き返す。

釈迦の慈悲もキリストの愛も人間の救いを象徴するものだが、その根底にあるのは相手に対する深い理解と共感の精神である。

もともと健全であるはずの人間の心を麻痺させるのは、その身の内に偏りを抱えた人間の所業である。その反面、その凍りついた身心に再び血を通わせることができるのもまた人の心なのだ。

愉気は人と人のつながりを象徴する概念だが、現代にこそ愉気の精神は重用されるべきだろう。

野口整体ばかりが全てではないが、その根本精神には汎用性と不変性がある。身体と社会から失われた感情を取り戻し、心と体、人と人、その「つながり」を取り戻す道としてその有用性を実証し、後世に残したいものである。

再びユング自伝

ユングの自伝をまた読みはじめた。

個人的には子どもの頃のエピソードはなかなか読むのに苦労する。というか、まあ訳本なのでどうしても読みがぎこちなくなる。

それはそれとして、やっぱり青年期以降、それから独自の精神分析態度による治療理論を構築していくプロセスは圧巻である(自伝1のⅣ精神医学的活動のあたり)。

その当時、いわゆる「精神の病」というのは医師でも手が付けられないものだったらしい。昔の早発性痴呆(今でいう分裂病、統合失調症)はライ病患者と同様に、治療者とともに町はずれに隔離しておくしかなかったようである。

そう言えば、黒沢明の映画『赤ひげ』にも精神疾患の娘が離れの小屋に滞留させられていた。自然科学が未発達な時代にあっては、このような対応は致し方なかったのかもしれない(現代の「カガク」的な対応が良いとは決して思わないが‥)。

兎も角、そのようないわば常識やタブーに対して、はじめてユングという人物が斬り込んだ。心に深いこじれや偏りを抱えた人たちが訴える妄想や苦しみを一所懸命に聞いてみると、その病的な態度の裏にある本当の「理由」が明らかになって、治っていくのである。

それは革命的なことだったのだ。

それというのも苦しんでいる人を捨て置けない「いきさつ(=人生の物語)」がユングにはあったわけで、他者の治癒に関わることが自身にとってのやすらぎだったのではないかと思われる。

野口整体の野口晴哉先生はその圧倒的な技量と人徳ゆえに治療を求める人があとを絶たず、そのあまりの多忙さを見かねた周囲の人が「少しお休みになられては‥」と進言したところ、「僕が休まるのは苦しんでいる人に手を当てている時なんだ」と答えられたそうである。

人間の世の中には「支えているつもりが支えられている」ということはよくある話で、臨床においても治療者と患者の立場がときどき入れ替わりながら治療が瀬妙に進んで行くようなこともなくはないのである。

まあとにかく、ユングこそが人類の心の多重性を明らかにした立役者である。

一方で、「身体を媒体として意識に切り込んでいく」という点で方法こそ異なるが、野口整体も人間の潜在意識を重視した点は一緒である。

いずれにせよ治癒の鍵となるのは、どれだけ深く患者に「関われるか」だろう。

それには治療者自身が自分の心の真底まで降りていく勇気と訓練は欠かせない。

こんなことを書いていたら、20年前、自分の通っていた大学の学部長(文学部)が講義の最中にぽつりといった一言を思い出した。

「人間が一番深い」

限りある時間の中で、どこまでその深さに踏み入って行けるだろうか。

自分とは何か。

達磨大師は「お前は誰か!」と詰め寄った武帝に対して、「不識(知らない)」と言い切ったが、その判り切れない自分の中にいつだって無限の広がりがある。

自分が何者か、

これを知らずに死んでいくのはまこと惜しいことである。

禅、瞑想、活元運動などを日課とし、意識を閉じて無心に聴く訓練の必要をくり返し説くのもこのためだ。

古来から多くの宗教家が心の世界を独自の主観を磨くことで明らかにしてきたが、ユングも近現代における貴重な心の導き手の一人であることは間違いない。

むりしないほうがいい

この仕事をして、つくづく無理は禁物だと思うようになった。

いわゆる「病気」というのはみんな無理がたたったものだが、じゃあ無理ってなんだろうと考えると、その定義はなかなか多様になりそうだ。

私が思うに「自分に対する背き」、これが無理である。

本当はこうしたい、だけどそうできないのが世の中だ。

だからどうしても自分の本心良心に背いた言動が求められるのが実社会の常で、これがいわゆるタテマエ社会である。

心理学で「ペルソナ(仮面)」といわれるものはこのタテマエが複数あわさって形成されている。いわばその人が演じることを強いられている社会的な役割のことだ。このペルソナがなければ世の中は大変なことになってしまう。

たとえば警察官が誰も見ていないからと言って信号無視をしたら職務怠慢になってしまう。

あるいは医師が自分の嫌いな患者に対して治療を拒否することだって、道義的にも職業的義務の観点からゆるされない。

だからタテマエとかペルソナがしっかり働いているからこそ、社会秩序が一定に保たれているといえばそうなのだ。

こう考えていくと「無理をしない」ということは、そういうタテマエ・ペルソナを破って放縦になるということになる。

それではまずいではないか、と思われるかも知れないがこれが案外そうでもない。

それがいわゆる「趣味」とか「道楽」という枠組みの中で行なわれていれば大きな問題はないのである。

いわゆる「羽目を外す」ということもそうだが、いつも固い枠の中で生活している人が時間と場所を区切って、普段は行えない動きをすることは精神衛生上たいへん有益なのだ。

ところがペルソナの強い人というのも世の中にはいるもので、そういう人は1日24時間、1年365日、立場を離れても強固な仮面をかぶったままの生活をしている。

一般には先ほど挙げた警官のような固い職業の場合はそのような傾向になりやすい。他には教師、医師、それから宗教家など、いわゆる「善」に偏りやすい立場にある人は注意が必要である。

ガンとか肝硬変のような身体が冷たく、固くなる病気になるときは仮面のしたの素顔(本心)を忘れていることが多い。

そして病院ではレントゲンやMRIに心は写らないために、こうした心理的な多層構造はすべて無視されたまま、投薬その他の「科学的」治療が施されるのが常なのだ。

これで「治りますか?」と問われれば、理屈の上から言えば「治らない」はずなのに案外治っているところが人間の複雑性を物語っている。

これは病症体験によって自身のこれまでの生活態度や生き死にに対する価値観を更新したためである。言い変えれば病症体験を通じて「改心」される人が一定にいるからだ、と私は考えている。

見方を変えれば、そこまで生死のキワに追い詰められなければ変われないのが人間のかなしい性(さが)とも言えるだろう。

できれば軽度のうちに自分本音に耳を傾けて、仮面の下にも新鮮な風を入れてやることが望ましいことがわかるはずだ。

一方で、実は自分の素顔に気づくことにもリスクはともなう。

具体的には、今まで確立してきた社会的立場を危うくしたり、家族のパワーバランスがくずれたり、といったことが多いけれども、生きている以上はこういう「ゆらぎ」が絶えず(できれば小規模に)行なわれて日々新しい自我意識を保ちつづけることが求められているのだ。

頑なな心は「固定的」にはなるけれども、それは「安定的」という状態からは遠ざかる。

雨垂れは石に穴をあけ、海水は岸壁をも削る。しかし水が破壊されることはない。概して固いものは短命であり、やわらかいものには永続性がある。

よって心の中にも水のような自在な流れがあれば、喜怒哀楽を流転しながらも身体の弾力は自然に保たれる。

これは逆もまた真であり、身体を柔らかく保てば精神にもそのゆるみは波及するのだ。

これは精神身体現象、身体精神現象と呼ばれるもので、身と心は不即不離なのである。

いずれにせよ、心にも体に過剰な無理をかければ自我意識の達成感と引き換えに、命を縮めることにはなるだろう。

与えられた命を如何にすべきかはそれこそ個人の自由であるが、経験上、自分にも人にも「ムリ」はすすめられなくなった。

ペルソナを強化させるのが世の「教育者」の務めなら、ペルソナの拘束をゆるめて、からだの自然に身を任せる時間を提供するのが私の「反・社会的」な役割りである。

マジメな人もそうでない人も、ときどきは仮面をはずして、自分の素顔に新鮮な空気を吸わせてあげたいと願っている。

あさりちゃんコンプレックス

子供のころの思い出になるが、家によく『あさりちゃん』が転がっていた。

『あさりちゃん』とは、勉強が苦手だが運動が得意で元気な「あさりちゃん(小4)」と秀才だが運動オンチでちょっとイジワルな姉「タタミ(小6)」を中心に物語が展開するホームコメディ漫画である。

今にして思えばこれが高度経済成長期の一つの典型的家庭ではないかと思っている。

お母さんはいわゆるオニババ的な顔を持つ存在感のある母であり、父はと言えば登場自体が他の三人よりずっと少なく、育児にも家庭にもほとんど関与していない。それでいて、毎日会社に行ってお給料だけを淡々と入れるマジメなお父さん像である。

仕事で30~40代の方とお話すると、存外この「父親不在」という家庭環境に育った後、いろいろな面で苦労をしいられたようなケースによく出会う。

もちろん各ご家庭で人間模様はさまざまなのだが、「お父さんが〈父親〉をやっていない」家に育った人は中年期以降のぐらつきが大きいように思える。

元来、「父」の役割というのは社会規範の象徴、代弁者である。

だから子供が何か自主的に行動すると言ったときに「ここからここまではいいけれども、これ以上はダメだ」ということで、ピタッとした枠をその子供に与えてやらなければならない。

ところがその当時のお父さんというのは会社勤めに時間と体力の大部分を奪われ、またGHQによる家父長制度の解体の余波も手伝って、家にはいても家庭的役割としては「いない」に等しいのである。

そういう「忙しさ」のために子供には申し訳ないとも思うし、そのぶん顔を合わせればできるだけ「理解のあるやさしいお父さん」になっていることも多い。

そうすると今度は母が父親の役割もやらなければならなくなり、必然的にオニになる頻度も増え、結果家庭は常に母性も父性も欠乏気味になる、という構図である。

もともとが日本は母性原理の強い国であるために、メンターのような役割にある人は父性的な厳格さが求められる傾向にある。

具体的には、ズバッ!とモノを言ってくれる心の指導者というのは常に需要があるのだ。

また父親というのは「厳しい社会規範」としての役割だけでなく、男性的包容力も求められる。

こんなことを仕事の合間にもやもや考えているうちに、自分の今やっている職業はこういう社会的役割を担っている面が結構あるなと気づいたのだ。

ただ「包容力」という点では全くもって心もとないし、この辺りはもっと「人生」を学ばないといけないなと思う。

現代的にはイクメンなんていう新しい父親像も生まれているので、当然あさりちゃんの頃とは「家庭」も変わってきているだろう。

生まれ育った家庭環境と身体は切り離せない。次世代の身体はどのような家庭像を表現するのだろうか。

やさしさに包まれたなら

なんだかんだ言って「やさしさ」は大切だ

「やさしさとは何か」と考えていくといろいろな定義が生まれそうだが、ここではいわゆる母性原理のようなもの指している、と思う

整体指導という「人を癒し育む」仕事においては父性も母性も同等に大切なのだが、現代(戦後)の日本社会では父性がますます希薄になってきているために、メンタル系の指導者には「コワモテ」の人が目立つ

具体的に言うと、占い師などでも「あなたはこういうところがダメ!今日からこうなさい」などというような、ズバッと言ってくれる人の需要が一定にあるのだ

そもそも父性と言うのは実社会の厳しさを象徴し代行するのが役割である

つまり家庭という外界から閉ざされ保護された領域内おいて、父親は疑似社会的な役割を担い、子どもに適度なストレスを与え鍛えていくのが理想だ

しかし人間の成長には父性も母性もバランスよく求められるのは当然で、あまり男性的な論理性や合理性の枠を押しつけられると人間はやがて野性味が薄れ、しなびてくるものである

たまごを孵(かえ)すためにはそうしたストレス以前に程よく快適な温度が必要なように、「いのち」を生かすためには快と安堵が基点になる

今にして思うと30代は自分自身が父性を求めていたせいもあって、仕事の態度にも固さが目立っていたのではないかと思う

しかし西洋で生まれ発展してきた「カウンセリング」に関心を持ち始めたあたりから、治療現場における「やわらかい母性」の価値を新たに認識し始めたのかもしれない

以前ある心理臨床家の言葉で「(治療者たるもの)自分の人格的偏り、治療の偏りに敏感であれ」というものを読んだことがある

だからって自分の「偏り」が解消されたなどとは思わないが、何かしらの見えないコダワリが一つはずれたのだとは思いたい

くり返すが、何ごともバランスが大切なので「父母性のどっちが‥」という言い方はできないけれども、ともかく今は「やさしは大切」と思った、ということに留めるつもりだ

人間は誰しも「無自覚の偏り」の宝庫である

道に完成はないのだ

三年寝太郎に学ぶ非努力的な問題解決力

先日禅仏教の本を読んでいたら、日本の民話『三年寝太郎』が出てきた。そういえば題名こそ聞いたことはあるけれど、詳しいことはよく知らない。「三年寝太郎って何?」ということでいろいろ調べてみると、ユング心理学における夢分析や共時性とも関わりの深い面白い逸話のようである。

wikiによるあらすじはこちら

旱魃に苦しんでいた村で3年間眠り続けた寝太郎という男がいた。仕事を何もせずただひたすら寝続けていた寝太郎に周囲の者は怒っていたが、寝太郎がある日突然起き出して、山に上って巨石を動かし、その巨石が谷に転がってぶつかり続け、ついには川をせき止め、川の水が田畑に流れ込んで村が救われる。寝太郎は3年間ただ眠り続けていたのではなく、いかにして灌漑を成し遂げ、村を旱害から救うかということを考えていたのであった。

こうして内容を知ってみると、いかにも日本的な感性を匂わせている気がする。ここでさらっと「日本的」などと言えるほど異国文化を知っているかといえばそんなことはないのだが‥まあともかく。

日本語には「果報は寝て待て」「待てば海路の日よりあり」「下手の考え休むに似たり」「笑う門には福来る」「棚からぼたモチ」などなど、うっかりすると単なる僥倖だのみともとれそうな諺が面白いほど存在する。言うまでもなく、これらに共通して言えるのは「何もしない」ということから生まれる思いがけない有益性を暗に示唆していることである。

ここでいう「何もしない」ということは、現代的には「考えない(考えすぎない)」と置き換えてもいいのではないかと思う。

最近は「瞑想」関連の本がたくさん出ているけれども、その背景には日々課される学業や仕事の重圧の前に「考えに考えた」結果フラフラになってようやく生きているような人がいかに多いか、ということがうかがい知れるだろう。

現代は小学生でもストレス性の腰痛になったり精神科で抗うつ剤を出されているのだからそれだけ状況は深刻である。また私のところに相談に見える人の中には、中学・高校から進学(高学歴)コースに乗ったことをきっかけに、徐々に、あるいは急激に心身のバランスを崩したというような方もいる。

こんな風にいわゆる学歴社会に象徴される知識偏重主義が生み出した現代的心の病の象徴が「うつ」ではないだろうか。

また、全ての人がそうではなかったかもしれないが、私が受験生だった頃は「睡眠時間を削る」というのは受験にまつわる一種のスタンダードであった。ただ後になって東大や京大に受かったような人にお会いすると、そんなに寝ないで勉強して合格したような話はあまり聞かないのだが‥。

そもそもが人間の体構造上、「寝ない」ということで得られるような成果はほとんどが近視眼的な目標に限られるだろう。なおかつ、そうした「努力」は外界における有益性を追求し過ぎた結果、個人の内的な(心の)世界や価値観に照らすと「有害な行為」であることも少なくない。

具体的いうと、仮にスポーツや学業で高い成績をあげても、もともとの本人の資質や価値観とはかけ離れた人生を生きている場合などがそれである。

また楽器演奏の世界では本当に小さな頃から取り組まなければ、その道の第一線で活躍するのはむずかしいようである。そのため「自分らしさ」もよくわかない幼年期の頃から、親の価値観に順じて半ば強制的に取り組む人も少なくない。そのせいか演奏家の方が青年・中年期あたりで心のバランスを崩して(取り戻して?)カウンセラーのもとを訪れる例もままあるようである。

概して「努力」というのは意識的に自分をコントロールして、やや強引に目標に向かわせる行為だ。しかし東洋思想においてはこれとまったく対極に位置する、「何もしない」という無為的態度を重んじる向きがある。老荘の曰く「無用の用」などにも常識的価値観を顛倒する妙が現れている。つまり何かしらの問題に直面したときに、あらゆる工夫を放擲して臨む「あるがまま」という在り方が代々珍重されてきたのである。

またこれに関連して、インド生まれの宗教的哲人クリシュナムルティによる「ものごとは努力によって解決しない」という言葉も思い浮かぶが、ここにも東洋的叡智が結晶化してよく現れていると思う。

ここで改めて三年寝太郎の物語に立ち返って考えると、毎年旱魃で苦しんでいる地域ならばそれこそ「寝る間も惜しんで」治水整備に力を入れる、というのがいわば正当な合理的努力である。もちろんそのようなことはさんざん取り組んだうえでの話だと思うが、このように「よく考えて」とる行動というのは「自我」という有限な(ともすれば卑小な)枠組みの中での思考的生産活動である。

一方寝太郎の取った行動は、合理的観点からみれば極めて非生産的な行為である。ところが結果としてそれが高い生産性のある行動として結実し、目に見える現象の世界においては「わずかな労力で村を救った」という事実がこの物語を結んでいる。このような場合、心の世界においてはむしろ「大仕事」が行われたとみるべきだろう。

うっかりしているとこの話は、パッと見「何が言いたいのか」わからない。昔話としては、わかりやすい教訓めいたものが見出しにくいのである。またいわゆる「マジメ」な人に言わせれば怠惰を助長するような間違った話ともとられかねない。

しかしよく考えてみれば、このような状況下で三年も寝転がっていることが果たして楽なものであろうか。もしかしたら寝ているくらいなら何かしら「努力でも」していた方がよほどラクではないかとも思える。「寝ている」という行動を選択した時点で既になかなかの大人物だと言えそうである。

ところで、実はこの物語を西洋のフロイト、ユング、アドラー等によって近現代に確立された深層心理学的な観点から考えてみると、なかなか興味深い内容に思える。

つまり「私」の中(こころの深層部)には私(=自我)を超えた大いなる智慧が潜在する、という考え方が両者を結ぶ共通項なのである。

念のため少しだけ心理学創世記の流れを簡単に表すと、中世以降、理性と合理的精神をあらゆる文化的発展の中心に据えた西洋において、まずフロイトが「無意識」を発見したことで西欧社会にセンセーションをもたらした。

後にその弟子筋のユングは、個人が明確に意識しずらい、心の無意識領域にこそ人生を拓くための強力な心的エネルギーが潜在していることを見出し、なおかつ自分自身がそのエネルギーの流れに順じて人生を全うすることで、範を示したのである。

この無意識の扉を開く鍵となるものが、自我意識の活動レベルを下げる「催眠」や「瞑想」、そして意識の半覚醒状態に現れる「夢」などである。因みにユングは時期を違えつつもこれらの全てにつよい関心を示し、ある程度の実修も行っていた。

この中でもとりわけ「夢」は誰もが身近に感じられるものだが、それだけに学術的には重要視されがたい向きもある。だが、その夢を湧出する「眠り」という行為は人間が意識の覚醒時には知り得ない「こころの深層部」とつながれる極めて貴重な時間なのである。

寝太郎がもし寝食を忘れて、昼夜を問わず働くことで治水が成って村が救われたというのなら、それはそれで美談には間違いないだろうがドラマ性は乏しいだろう。

そうしたいわゆる根性論は戦後以降の日本では特に好まれてきたが、往々にして挫折や悲劇性もつきものである。つまりやってもやっても、そのつど自然災害や人的障害によって道を阻まれ、下手をすれば事故などで命も落としかねない。

概して場当たり的な「努力」に目が眩んでいる時というのは、「人間の中に蔵された人智を超える存在」が死角になっている。物事には期せずして「やめたら、できた」ということはよくあるもので、このようなことは多くの方が日常生活の中ですでに経験済みのことと思われる。

そうかといって、「ただ」寝転がっていれば物事が万事解決するかといえば、そのようなことは断じてないことも周知の事実である。それだけに、このあたりの「人為」と「無為」のバランスというのがまた微妙にむずかしいものがある。

これについてユングは、知的にも文化的にも高い水準を持つ東洋の一部の国が経済的発展や自然科学の発達が遅れたのは、この無為的態度に偏り過ぎたことが原因ではないかと推察している。

このようなユングの意味深い考察から比すれば非常に稚拙ではあるが、私は最近、努力と非努力は5:5くらいの割りで執り行うのがよいのではないかと考えている。つまり一日の中に何もしない、ぼんやりとするための時間を積極的に設けるよう「努力」したらよいのではないか、というものである。

これに気がついたときは我ながら斬新な視点を確立できたとよろこんでいたのだが、古語にある「人事を尽くして天命を待つ」というのはまさにこのことを言っているのではないかとすぐに気がついた。

この様にこころのことを勉強していくほどに、古人の知恵には感嘆させられることが多いものである。とりわけ東洋の中でもいち早く西洋文明に感応し近代化を成し遂げた日本において、三年寝太郎の無為的態度を科学的に考えることは、現代の行き詰まりを打開し有意義に生きるためのヒントを見出す契機になるのではないかと私には思えるのである。

『こころの読書教室』を読む

目の前のクライエントさんのことは、いくら本を読んで探してもどこにも書いていない。それは本当にその通りなので、とにかく「ひとりの人」が来られたら「一生懸命その人の話を聴く」というのが、カウンセラーに残されているたった一つの武器と言えるかもしれない。

だからといって、読書が心理臨床に全く役に立たないかというと、これは役に立とうが立つまいが「是非とも読むべき」で、プロならば読まなければならない。いや、実際は大いに役に立つはずだ、と私は信じている(ただ、ほっとんど読めていませんが‥)。

カウンセラーにとっての読書は、例えるなら消防士さんが毎日筋トレをするようなものではないだろうか。筋トレさえしていれば人助けができるという訳ではないが、基礎体力は絶対にいるし、有事に備えるプロ意識の具現化という観点からも必須だろう。

とりわけ「こころ」を中心として人間の全体に向き合う「治療者」にとっては、読書は日々の食事や睡眠、呼吸と同じように当り前のことだと思う。

著者の河合さんが冒頭に言う、「(みんなもっと本を)読まな、損やでぇ」と投げかけた言葉のウラに、そんな含みを推理した。

読了後、何よりうれしかったのは「治癒」という現象の論理性に、非常に安定的な「枠組み」が構築されたことだった。つまり「〈治る〉とはこういうこと」、「こうなれば〈治る〉」ということの必要十分条件が立体的に捉えられたのである。

一方でモノゴトには安定的になり過ぎるとかえって死に近づく、という逆説的な面があるので(←動的平衡)、構築された理論に対して「本当にこれでいいのかな?」という第三者的な批評の慧眼はいつも開いておきたい、とも思っている。

話は行ったり来たりするけれど、この『こころの読書教室』が新潮文庫に入る前のタイトルは『心の扉を開く』(岩波書店)だったという。

「読書」という行為は心の深層へ通じる扉を開き、私自身が普段は心の下層に眠っている〈わたし〉に出会うこと。

またそこからさらに進んで行った先に、〈たましい〉とか〈いのち〉などと呼ばれる、生命の全体性と深くつながるための儀式によって人は癒され成長して行く、ということまでを示唆している。

ちなみに「心」から「こころ」へと表現が変わったのは、精神の領域をより広範囲に求めるという目的で、もとは夏目漱石の小説にならったそうだ。

さて、本書においてそのこころ(=無意識)の扉を開くための水先案内人として、適任と思う書物を全四部構成として一部当たり5冊ずつ。「まずはこれを読んでください」と紹介してくださっているので、それが計20冊。

これに加え、「もっと読んでみたい人のために」という括りで、さらに5冊ずつ。だから総計で40冊が掲載されていることになる。

一冊ごとに河合さんならではの読みの深さを背景に、優しいユーモアを織り交ぜた書評が豊かに綴られており、どれをとっても「あー、コレはぜひ読んでみたい」と思わせてくれる。

そして一部を読み終わると、氏の伝えたかった大切な「想い」が知らない間にこころの中にそっと贈られている、といった印象だった。

本書を通じて、「人間」というもの、そしてその人間が生きている「人生」という事実がいかに多面的かつ多重構造的であるか、ということを教えてもらった感じがする。

世間では時折り、「目的を見失うな」という言葉を耳にするが、目的が単一的かつ固定的であれば当然それだけ迷いにくくもなるし、進歩も早い。

ただしそれは人生50年などと言われていた時代なればこそ、有効な助言であったのではないだろうか。

いまや半数以上の方が長寿を保証されたかのような現代社会にあっては、むしろ人生の意義を多面的に捉え、いかに有用な道草を食うかということが来るべき死をより豊かに完成させるためには大切な「プロセス」になるのではないか、とも思える。

しかし体力的にも経済的にも、そして時間的にも限界のある人間にとって、自分の足で歩める「道」には限度がある。

当然のことながら性愛や生死にかかわる事象など、あまりにリスキーなことは理性的に避けなければならないし、そんな風に何かと制限つきの娑婆にあって、「本を読む」ということは(仮想とは言え)こころの体験値を安全に増やしてくれるありがたい行為であることは間違いない。

まあ、兎に角、「読まな、損やでぇ」という河合さんのユーモラスな愛情表現ともとれる一言に、本書の主旨はギュッと濃縮されている。紹介された本にはこれから一冊ずつご挨拶をして、丁寧に語り合っていこうと思う。

そして40冊分の物語を体験した後で、私自身が一体どんな〈わたし〉と出会うことができたのか、それが今から楽しみである。

アントロポゾフィー医学

2月4日(日)、大倉山に出て『アントロポゾフィー医学から見た青年期の精神疾患』を聴講してきた。

アントロポゾフィー医学とは、、、シュタイナー教育から派生した医療体系といっていいのだろうか…。詳しいことは何も知らず調べずで行ったので(モノを習うときはこれが一番イイのだ)、まあホントにおノボりさんの感覚で楽しかった。

後日調べまして、正しくは↓↓のようなもの、だそうです。

アントロポゾフィー 医学 とは ルドルフ・シュタイナー 博士( 1861〜 1925) によって 始め られ た アントロポゾフィー( 人智 学) を 基盤 として、 イタ・ヴェークマン 医師( 1876〜 1943) の 協力 の 下 に 創始 さ れ まし た。 精神 の 内 なる 発展 と 魂 の 変容、 そして 健康 と 病気 に関する 認識 と 理解 を 深める こと で、 今日 の 医学 を 拡張 し、 真に ホリスティック な 取り組み へと 導く もの です。

山本忍. 三分節で考える病の意味: 甲状腺の気持ちを考える (Kindle の位置No.16-20). Magnolia books. Kindle 版.

自分は野口整体を標榜している関係でこれまで何度も「シュタイナー」を勧められているのに、聴いても読んでもアタマに入ってこないでいつも挫折している。

自分の国語力の低いこともあるが、シュタイナー学は峻厳な霊峰の匂いがする。だから生半可な気持ちではご縁にならないのだ、と勝手に結論付けていつも横目に通り過ぎてばかりなのだ。

かといって巷でライトに薄められたものを読んでも誤解や曲解が増えるだけだろうし、消化力のない胃袋に栄養物をつめ込んでも具合が悪くなるだけだろう。そんな理由から今回も「匂いを嗅がせていただいた」くらいだと思っている。

さて、講師の方は三名おられたが、自分が出られたのは時間の関係でお一人目の精神科医の塚原美穂子先生の講義だけだった。結論から言えば、のっけからおしまいまで「釘づけ」だったのだが。

先生によるとシュタイナーの言葉で年を追うごとに確かに「うん、そうだ」と実感されるのは、「医療とは、(詰まるところ)教育である」ということだそうである(おっしゃったことと記憶が違ったら申し訳ない‥)。

確かに、具合が悪くなってから、病気になってから、「さあ、これをどうやって治しましょうか‥」というのはどこまで行っても後手に回って、生命をリードする立場には至らない。

心の自然を保ち、体を損なわないように生活する態度を自ら学んで身に付けなければ、生命のはたらきに振り回されているうちに一生は終ってしまうのだ。

だから最終的に「教え、育む」というプロセスによって医療は完遂されるべきだ、とこういう結論になるのはよく考えれば自明の理である。まあ野口整体にも通底する理念だ。

それから、一度受けた教育というのはそれが良くとも悪くとも、破壊される(その影響下から脱する)のに30年はかかる、との由。

確かにそうなのだ。

自分の経験からいっても、だいたい小4からおかしなことになったのだが、当時を10才とすると、現在が40歳。今ようやく頭の中の氷が溶け始めた感覚がある。

いろいろな人にお会いした経験から鑑みると、40歳で「治りはじめ」たら、まあ〔中程度〕だと思う。

もちろんもっと遅くたって、いや遅ければ遅いで「治っていく過程」は素晴らしいことだし、早いから良いとも悪いともいえない。

治る時というのは必ず「その人の、その時」、なのだ。

そして治すのはいつも「環境」である。

環境などというと誤解を受けそうだが、それはいわゆる転地療養みたいに水と空気のイイところで、という話ではなく、患者がのびやかに安心していられる環境ということだ。

信頼できる人や信頼できる場所の力で生命の自由性ははじめて開かれる。

つまりコワゴワ、ビクビクするような「場」では自然治癒は起こらないのである。

そういう「治癒の場」を、何もない所にでも生み出す力を私は講師の塚原先生から感じた。立ち上がって話し始めた瞬間から治す人の雰囲気である。

個人的にはこれだけで充分な体験だった。音楽療法は体験できなかったので、またいずれ縁があれば。しかし最近とくに精神療法の世界にはノスタルジーを感じる。自分が受けたかったのは、施したかったのは、こういうことなのだ。

今回の体験で難しいシュタイナー学にも親近感を感じることができた。理解には程遠いけれども、どのような形であっても医療の世界に可能性を感じられることはうれしい。

活元会 2018.1.18:「心の時代」における野口整体の役割

今日は活元会でした。

ちなみに今年三回目です。報告してませんでしたが‥。

教材は昨年に続いて『ユング心理学と現代の危機』です。今年からは安藤治先生の【「心の時代」と現代心理学】 の項に入っております。

「心の時代」という言葉がささやかれて久しいと思いますが、およ20世紀末から西洋を中心に「心の問題」に如何にして取り組むかということが折に触れ議論されつづけてきました。

そのような土壌の中から一部の有識者層によって東洋宗教に目が向けられ、その修行法(禅、ヨーガ、気功など)の中から宗教色を排した「ボディワーク」という形で「心の治療」として取り入れられて既に一定の効果を挙げてきています。

そういった経緯の中で「野口整体」(の活元運動)というのも、近代化(西洋化)によって身体性が半ば荒廃した現代日本において、潜在需要が高まっているという見方ができるわけですね。

とにもかくにも「人生をどういきるか」ということに答えるものを人類はずっと探し続けて来た、といっていいでしょう。

欧米の場合は中世以来「キリスト教」という大きな枠の中で(宗派ごとに多少の協議の差はあるにせよ)、かろうじてそれが行われてきたのですが‥。

そうして近代、それから現代という流れの中で徐々にキリスト教は求心力を失い、それにとって代わるように「科学」が台頭したわけです。

そして今日、その科学が人間の「生きる、死ぬ」という根源的な問いに答えるだけの力を有さないことが明らかになったことで、いわば右往左往しているのが欧・米と、その「薫陶」を受けた東洋の中の一部諸国ということになります。

そこでいま重要な鍵とみなされているのが、「身体」です。

20世紀の先進(と称する)諸国ではこの身体が過度に軽視され、近代科学的理性によって蹂躙され続けてきました。

しかし実際はこの「身体」にこそ全人類を救う鍵がある、ということに時代が気づき始めたと言えます。

すなわちこれを「どのように教育するか」によって、人間の生きざまというのは、天地ほどの差を生む。そういう事実がアカデミズムの俎上にあがったということは非常に大きなことです。

活元運動をやるにしても、こういう社会的意義というのを知った上でやるのと、そうでないのではやはり入れ込み方が違ってくると思いますので(少なくとも僕の場合はそうなので)、せい氣院ではその辺の予備知識にこだわるという結果になっています。

理屈は大切なのです。

その一方で論より証拠、という言葉もあります。

東洋宗教は「知行合一(陽明学)」「教行一致(天台宗)」など、理論と実践の整合性を重んじるものですから、両輪のバランスを失わないように次回以降も坐学と実習半々で引きつづきやって行こうと思っています。

今日はお茶の時間も若干楽しかったです。

次回の活元会は1月27日(土)です

(今日のおすすめ図書)