身体を聴く

昨年晩秋あたりから精神療法の世界にどっぷりだった。吾ながら「深みにはまる」という言葉がぴったりの状態だと思う。

2009年の開業からおよそ5年くらいは野口整体一本槍で来て、開業前からの修業期間を含めれば10年ほど没頭していたことになる。

10年なら「修業歴」としてはさして長くはないと思えるが、ウラシマ症候群とでもいおうか、主観的には長いこと社会一般の価値観から隔絶していたような気もする。

いわゆる「ノグチセイタイ」というのは宗教なのである。だから教義という「枠」の中に入門する意志のある方以外は指導の対象にならない。例えるなら、禅門では修行者を「叩く」という指導法がまかり通っているが、あれを外でやるわけにはいかないのと同質の「壁」がある。

精神療法の代名詞とも言える「カウンセリング」はいわば、そういう異界と一般社会の橋渡しをしてくれるありがたい存在なのだ。

整体の臨床でもやはり対話は生命線である。「決め手は、対話力」なのだが、もう少し正確に言えば大切なのは「聴く力」だ。これがなければ、畢竟、人の心に関わる仕事はできない。カウンセリングはこのあたりのノウハウが100年に渡る厳しい学術の世界で切磋琢磨されてきた経緯から、学びの宝庫となっている。

具体的に自分が何を学んでいるかといったら、もっぱら「共感能力の育成」に心血を注ぐ日々だ。かなしいかな自分は元来未熟な人間である。だからスタートの時点で一般の方に大きく遅れをとってしまっているので、とにかくマイナスからゼロ(平均)の水準までは早いところ持っていきたい、というのが本音なのだ。

そんな「回り道」を逍遥しながら、あらためて自分の母国である整体の世界にたち帰ってみると、「背骨を読む」という技術はかなりのアドバンテージがあることに気がついた。

人間は恥ずかしければ赤くなり、怖ければ青くなるように、身体にはいつも本心、本音というものが現れている。だからそういう身体を観察する力を高度に発達させることは、心をリードしようとする職業では有力な技能なのである。

逆に身体を読む力の正確さを増していけば、裡なる言葉を聴きとる際に力強に支援してくれる。先に意識の「深いところ」で繋がったうえで、話を聴くのだから、理解のズレを小さくしてくれると思う。

一方で、人間が人間を「知る」ということは、不可能に等しいことも忘れてはならない。臨床において理解の「勇み足」だけは許されないもので、それだけに言語と非言語、両方から良質の情報を集積する能力は頼もしい存在なのだ。

一周回って元の位置に帰ってきた、という感覚だが懲りずにまた旅には出ようと思う。我が事ながら「かわいい子には旅をさせろ」といった感じで、いくら遠出をしても「野口整体」という親元からいっこうに離れることができない。「大きい世界」であることを、年々歳々思い知らされている。

またこれだけ親がしっかりしていると子供達は自由に創造性を膨らませることができるのだから、ありがたいと思う自分もいる。

活元会 2017.12.9:暗示からの解放

12月9日の活元会では野口昭子著『回想の野口晴哉』ちくま文庫 から資料を抜き出して(下はその一部)使いました。


……「或る日、包丁を持った男が玄関に上がり込んで、

“ここは俺達の縄張りだ、何で挨拶に来ないのか!”と怒鳴っていた。弟子がオロオロして飛んで来たので、僕が出て行くと、男はもっと凄んで、畳に包丁をグサリと突き立てた。僕は咄嗟に

“この手が離れない、離そうとすると、ギューッと握ってしまう、離して見給え”

と言ったら、ほんとうに離れなくなってしまった。

“この尻も畳にくっついてしまう。立とうとすればするほど、ピタッと畳にくっついてしまう。さあ、立って見給え”

と言うと、歯を喰いしばって立とうとするが、どうしても立てない、そこで、

“警察でも呼ぼうかな”

というと、泣き出しそうになって、

“何とか、カンベンしてくれ”

と言うんだ。可哀想になって、

“二度と来るな”

と、ポンと手を叩くと、ふっと元に戻り、コソコソ帰って行った」

私はびっくりして、「それは催眠術の一種なの?」と訊いた。

「不動金縛りの術っていうんだ」

と何でもないように言う。一体、何時、何処で、こんな術を習得したのだろう。

“私も修行してできるようになりたい”と言うと、先生はまったく意外な返事をした。

「修行なんて無駄なことさ。みんなお互いに暗示し合って、相手を金縛りにしているじゃないか、自分もまた自分を金縛りにしているじゃないか。

人間はもっと自由は筈なんだ。だから僕のやってきたことは、人を金縛りにすることではない。すでに金縛りになっているものを、どうやって解くかということだ。

暗示からの解放だよ」

そのころ先生は講習会を開き、「全生」というパンフレットも出したが、その説くところは、生を萎縮せしめるすべての既成概念を打破することであった。……(野口昭子著『回想の野口晴哉』全生社 pp.45-46 太字は引用者による)

すでに金縛りになっているものを、どうやって解くか

小説調にサラサラサラと綴られていますが、わたしはこれこそがいわゆる野口整体の「核心」だと思えてなりません。

人間の健康や幸福というものをずっと突き詰めていくと、早晩「根本の原因は何か」ということを考えさせられるはめになります。

そうすると、本来自在であるはずのその人の自由性を制限しているモノは何なのか?それは潜在化した「もろもろの観念」ではないか、ということがだんだんと浮かび上がってくるものです。

その潜在しているものを掴み出し、言語化することで形を与えて、意識の俎上に挙げてしまうとその時点で力を失わせることができるのです。

これが「整体指導」とか「精神療法」と言われているものの実体、正体だと思うのです。

それはいってみれば「鍵」のようなもの。

心の中にある観念の中で、その人の「枷」になっているものをはずしていくための鍵を見つけたいのです。

そもそも鍵というものは鍵穴から入っていける大きさで、中の構造にぴったり合う形を取り、そして右か左か正確に回す力を加えることで、小さな力でも開けることができます。

逆にこうした条件をすべて満たさなければ、どんなにつよい力を使っても鍵は開きません。無理やりこじ開けようとすれば、扉は開くどころかこわれてしまいます。

だから心の病でも体の問題でも、その「鍵」が見つからなければ本当には治らないのです。

ところが実際は鍵が見つからないままに、あれもこれもと色々なことをやって結果的に心や体をこわしているものが「治療」、としてまかり通っているようなことも少なくありません。

本来であれば、治療とはその人の身心全体に起こっている問題の構造をよく理解し、固有の正しい方法を見つけ出して適用する、ということが求められているのです。

面白いのは、ふつうの鍵はたいてい一つですが、生きた人間の臨床における「鍵(刺戟方法)」はいろいろにあって良いところです。

例えばそれが言葉(対話や催眠術)であったり、また手技による身体への刺戟であったり、他にも味や香り音楽、などなどなど‥、その気になれば五官を通して感知されるすべての刺戟を鍵として活かすことができます。

このことを精神科医の神田橋條治氏は「一木一草、これ治療である」という風に表現されています。

とにもかくにも、そうやって「生を萎縮せしめるすべての既成概念を打破すること」がその人の治癒力を最大限に活かす「鍵」たり得るのです。

つまり「暗示からの解放」というたったひと言、それだけのことなのですが、臨床の場ではそこに至るまでにものすごいドラマが生まれることがある反面、時にはお互い知らぬ間に「自由になっていた(=治ってしまった)」、何ていうこともあります。

いってみれば「病気」というのは「観念の化けたもの」と言っても相違ありません。

おそろしいのは、どんな人の「言葉」にも生殺与奪のちからがあるということです。知らないうちに余分な観念を植え付けてしまうことも沢山ありますし(これが多い‥)、その観念を取り除き自由にするちからもある(こちらは技術が要る‥)。

「コトバ」というものは、良くも悪くも「劇薬」なのです。

それだけに使い方を正しく学んでいくことで、すばらしい「治療薬」にもなりえます。

一方で「こころの構造」というのはとても複雑でわからないことだらけ。それだけに暗示をかける時はみんな知らずにポンポンかけているものが、いざそれを解こうとするとプロの専門家であってもむずかしい場合があるのですね。

「敵を知り己を知れば‥」という諺がありますが、〔人間〕に取り組む者はまず自分を知らなければ話にならず、いやそれ以前に人と「お話(対話)」ができないのです。だからいまのわたしは、人の鍵に取り組むまえに、まず自分のこころに掛かった鍵を見つけよう!と日々精進している次第(つもり?)です。

次回の活元会は12月14日(木)です

(この記事の参考図書)

活元会 2017.11.30:人生の前半・後半それぞれの役割―人格成長としての「個性化」の過程

11月30日の活元会ではひきつづき『ユング心理学と現代の危機』を教材として使いました。


人生前半の目標

一日の太陽の運行にもたとえられる人間の一生は、その前半と後半では目指す目標が異なってくる。

人生前半の目標は、まず成人としての「自我」を確立することであるが、この自我とは「自分である」、「私」という意識であり、外部の世界や内的な情動を感じ取り、自らの行動を決定する一貫性を持った主体である。自我には能動性があり、現実に適応しつつ、積極的に自分の欲望を実現させていこうとする傾向がある。まず第一にこの「能動的自我」を確立することが先決である。……

人生後半の目標としての「個性化」
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活元会 2017.11.16:人生の危機の克服

前回の活元会ではまた『ユング心理学と現代の危機』を教材として使いました。

本書内の「ユングの「精神的危機」と個性化過程  5 人生の危機の克服」の部分には、ユングが自ら精神の危機的状況に陥った際、他者の手助けを借りつつも自分の力で乗り越えて行くプロセスが綴られています。

このように自分の心と体に主体的に取り組んでいく姿勢は、整体指導に求められるものと少し似ています。野口整体の整体指導とユング派の精神分析の共通項は、クライエントが自分で治っていくという点にあると言えそうです。

精神的危機の克服

精神科医であるユングは、心の病をはっきりと自覚した時、自らその治療に取りかかった、まず今までの半生を振り返り、特に自分の幼児期の記憶に注目してみた。これは、心の病の原因が幼児期の親子関係や外傷体験にあるとするフロイトの理論にも従ったものであろう。しかしそこからは何も得られなかった。そうするうちに、10歳から12歳頃夢中になっていた「石積み遊び」のことを思いだした。ユングは自宅のそばのチューリッヒ湖の岸辺に行き、いろいろな形の石を拾い集めて、家や城や教会のある村を作り始めた。先述のように、その頃ユングは開業医として自宅で患者の診療を行なっていたが、診療の後あるいは昼休みの時間までも、時間が空けばすぐに湖岸に行き、建築遊びに没頭した。
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影をなくした男

シャミッソー作『影をなくした男』を読んだ。

wikiによるあらすじはこちら

物語の主人公シュレミールが自分の影を大金(無限に金貨が出てくる袋)と引き換えに悪魔に売り渡したことからさまざまな出会いと別れ、そして深い自己内省の後に開かれる第三の道。

まさしく個人の人生の縮図として象徴化された物語といえる。そこで、シュレミールが手放してしまった「自分の影」とは一体何を象徴しているのか?という深読みが他の本やネット上でよくなされている。

心理学的に読もうとするならば、まず「影」といった場合それは「心の中に潜在する上手く生きられていない自分」を指す。

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河合隼雄著『中年クライシス』を読む:心でも体でも病症が人間を整え丈夫にする

開業当初はあまり年齢層が絞れていなかったが、現在せい氣院に通われている方は30代の前半から40代の半ばくらいの方が圧倒的に多い。

ときおり還暦を控えたような方も来られるけれども、だいたい3~5回(2~3ヶ月)通ったあたりで当初の主訴が解消されると同時に「卒業」されていく。

その主訴というのも腰痛や動悸、息切れ、血糖値の異常といった年齢相応のトラブルに対して、病院の処置に満足がいかずに来院されるというケースである。

整体操法によって「首尾よく治ってしまった」と言えば聞こえはいいけれど、こうした年長の方々に対して「その先」の可能性を感じていただけないのはやはり力不足なのだろう。

これとは対照的に、永続的に指導に通われているのは「自分自身に取り組んで、可能性を掘り起こしたい」という要求を感じさせる壮年期の方々である。

これがいわゆるミッドライフ・クライシスとか中年の危機とよばれる、精神的「ゆれ」に脅かされやすい年齢層の人たちだ。

ただし、この「中年の危機」は中年に限定されるかというと、そうでもないことに最近気がついた。というよりもそもそもが「中年」の定義自体が曖昧と言えそうだ。

ユングに倣って言えば、人生を日の出から日没に例えて40歳を〔正午:中年の真ん中〕とした。

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活元会 2017.10.19:ユングが直感した西洋的自我(理性)の限界性と身体(感覚・感情・無意識)に秘められた可能性

今日は活元会でした。

いつもいいますが長く続けている方は運動が変わってきます。だいたい腰椎部の芯から動くようになってくると、「ああ、それっぽいなー」という感じがします。

長いと言ってもそもそもうちの会自体が古くはないので、3~4年くらいですけれど。

それでも新しい方が来てはじめられると、前から来られている方には年季を感じます。私は三日坊主の王様みたいな人間ですが、こんなときはやっぱり「継続」って大事だなって思うものです。

さて、今日の教材は前回に引きつづきこちら。


『ユング心理学と現代の危機』湯浅泰雄、高橋豊、安藤治、田中公明の四氏の共著 河出書房新社。

前回は高橋豊氏のパート「ユングの「精神的危機」と個性化過程」の最後のところを使ったのですが、今回は改めてこれはもう一回読み直そうということで頭から使うことにしました。

ユングの無意識体験(予知夢)というところですが、ここはユングが第一次世界大戦に先立っていろいろな悪夢を見る話です。

いわゆる理性を主体とした西洋的自我の限界と行き詰まりを早々に予見して、その暗々裏に肥大していく人類全般の危機的状況をいかにして打開すべきかというテーマでユングの個人的思索がなされていく、その序章です。

本の題名はユング心理学と現代の危機、と銘打ってあるわけですが、私としては「日本の現代」に限定して考えるのがライフワークみたいなものですね。

近代以降の日本は理性(頭)に偏ったことで感覚や感情(身体)というものがだんだん希薄になってきているのが実状です。

そこで「野口整体」というものがその感覚・感情というものを呼び戻すための手段として使われるのが、一つの有効な利用法であると考えています。

とりわけ都心にあっては自身の感覚に沿って体を使うということが少ないものですから、活元運動で五感をよく目覚めさせて、生活することで頭と体のバランスをとっていくとちょうど良いのではないかと私は思っています。

年を取っていても、病気があっても、体力がなくても、活元運動はできますから身に付けておかれて損はないものです。自分の体の可能性を開拓していきましょう。

今月は次回が最後、10月28(土)です。

活元会 2017.10.14:「個性化」とは?人生の後半に充実感を持たせるための大切なプロセス

昨日は活元会でした。

今回の教材はこちら。


『ユング心理学と現代の危機』河出書房新社

著者は複数、湯浅泰雄、高橋豊、安藤治、田中公明の四氏。うち、高橋豊氏のパートから。

テーマは「個性化」です。

まず「個性化」というのが少し専門的ですから、これについてまず河合隼雄先生の『ユング心理学入門』より引用してみると、

個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程を、ユングは個性化の過程(individuaton process)、あるいは自己実現(self-realizaation)の過程と呼び、人生の究極の目的と考えた。そして、われわれが心理療法において目的とするところも、結局はこのことに他ならないのである。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 p.220 太字は引用者)

と、このように書かれています。

この「自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程」というのをもう少し平易に表現すると、

自分の人格の成長を思って努力している過程」というような表現でもよいと思います。

この個性化こそが心理療法の目的である、というのが河合先生(元はユング)の論です。

そこで「どのようにしてその個性化を行なっていくか」ということが問題になるわけですが、ユングは自身の精神的危機を乗り越えて行く過程で「ヨーガ」を活用したと言われているのです。

つまりユングは当時の西洋にしてはかなり前衛的な試みとして、身体を通じて心の再編を行なうための実践的方法を追及していました。

そこに一つの強力なガイドとなったのが東洋思想と、東洋的な身体行法であったと考えられています。

当然ユングは年代的にも地理的にも日本の活元運動の存在は知るよしもありませんでしたが、この意識を閉じ、無意識に任せて行う活元運動は、自我を高次の全体性へと向かわせる手段として、非常に適しているものなのです。

野口整体には「全生」という、心を自我という枠から解放して命を全うする生き方を推奨する、教義があります。

これは先に挙げた心理療法における個性化、あるいは自己実現という概念と目標をほぼ等しくするものです。

当会の場合は、その「全生」あるいは「個性化」という方向へ生命を向かわせるための大きな推進役として「活元運動」を位置づけています。

何ごとも「目標をどこに置くか」で着地点は変わるものです。

志ある方は「よく生きる」という目標をもって、全身のちからを抜き、意識を鎮め無心のちからを体得しましょう。

次回、次々回の活元会は、10月9日(木)、28日(土)です。

動悸息切れにも必ず原因と治し方はある

だいたい年に2、3回だろうか。原因不明の動悸息切れのご相談をいただく。

「求心」を愛用する人もいぜん多いみたいだが、飲みつづけることに疑問を感じていろいろな治し方を探すうちに、ごくまれに「野口整体」に辿りつくらしいのだ。

そもそもがドキドキしているのだから、言わずもがなというか「不安」とか「心配事」がこころの底に潜伏している。そういう例が8割以上だと実感している。

ところが当の本人はというと「特に、悩んではいないと思うのですが‥。」という反応もめずらしくない。

いわゆる心身症とか離人症に類する徴候である。

しかしながら、不思議とこの手の相談は愉気だけで収まってしまうことがままある。

これを仮に精密検査なるものを通して、原因を追究し、それから治療法を定めて、効果を測定し、とやっていたら何年もかかってしまうかもしれない。

その点、からだというのは刺戟に対して実直だ。

ただし愉気で治った場合、本人は何がだめだったのか、なぜよくなったのか理性で納得できずに終わってしまう。

無意識層に漠とした安心感が沸けばそれで良いのだから、こちらも主命は果たしたといえるけれども、仕事としては画竜点睛を欠いたような不全感が残る。

つまり「またくり返すのではないか」という禍根を残しているのだ。

漠とした不安を漠としたまま解消するというのもわるくはないけれど、やはりお互い因果関係を理解したうえで治療を完了させたいものだ。

原因をたどっていくと「生い立ち」は外せないのだが、それがわかったからといって何がどうなるわけでもなく‥。

時計の針は先にしかすすめないのだから、「これから」豊かな人間関係をたくさん築いていくことが建設的態度といえばそうだ。

「今」が大切、というか人間だれしも「今」しかない。

少し横道にそれるが、心理療法では「実存分析」という学派がこのような考えで取り組むようである。

誤解をおそれずごくごく簡単に説明すると、人間の一生さまざまな問題、悩み、苦しみがあるけれど、つまるところ「今、気分が良いのか悪いのか」それだけではないか、といった見解である。

こうして見ると「こころ」というのは過去から現在まで体験してきた折々の色彩がすべて一層に映し出されている映写機みたいなものだ。

だから身体を通じて「うん、これでいいんだ」というピタッとした刺激が伝わることで、こころに掛かっていた緊張のが鍵が外れてしまうのだ。

結局、因果性というか治癒のメカニズムは説明できないのだが、赤ん坊が母親に抱かれることで体重が増えていくのと根本は一緒だと思う。

見てもらうとか、見守られる、ということは治療の原点である。

それなら、同じ病気をくり返したってまた手を当てればいいだけである。

その度に愛情の過不足が調整されていく。

そう考えてみると、病気というのは人と人をつなぐ役割もあるのかもしれない。

何より手を当てると意識が静まる。

これによって複雑に入り組んだ精神的葛藤が平癒に向かう、というのが自論だ。

エビデンスもなにもあったものではないが、何ごとも論より証拠、結果が全ての理屈である。

身体というのは、何層にも重なり複雑化した精神を「現在の姿」という一枚にまとめて表現してくれる。

そこが心理療法と比べた場合の、整体の大きなアドバンテージだろう。

もちろん全面的な整体優性論を説くつもりはなく、整体の特性の一つだという程度に留めておきたい。

安心感というのは身体現象であるということを知っておくだけで、治療法のはばが広がることを言いたかった。

やはり「こころ」といっても「からだ」といっても、それは一つの活動体の別の呼び名なのだ。

ユング心理学における「影」について2:影は心ののびしろ

…このような影があってこそ、われわれ人間に、生きた人間としての味が生じるのであって、ユングも「生きた形態は、塑像として見えるために深い影を必要とする。影がなくては、それは平板な原型にすぎない」と述べている。影のないひとは、いかに輝いて見えても、われわれはその人間味のなさにたじろぐことだろう。

シャミッソーの有名な「ペーター・シュレミール」のお話は、影を失った男の悲哀を、うまく描き出している。この素晴らしい物語の最後に、シャミッソーは、この物語を皆さんにおくるのは、人間として生きるためには、第一に影を、第二にお金を大切にすることを知って欲しいためだと書いている。

これをみて、筆者はある精神分裂病のひとの夢を思い出した。夢のなかで、このひとは、自分の影が窓の外を歩いてゆくのを見るのである。自分の影が自分のコントロールを離れて、一人歩きを始めたら全く危険きわまりないことである。

分析を受け始めると、ほとんどのひとがこの影の問題にぶち当たる。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 p.102 改行は引用者)

※塑像(そぞう)粘土・油土・蠟ろうなどを肉付けして造った像。銅像などの原型としても造られる。

心身に起こるさまざまな病症はもとをたどっていくと、自身の心の全体性が躍動しないことで「よく生きられていない」という、深層心理の問題が契機となっていることは少なくない。

このような個人のなかにおける「よく生きられていない部分」のことをユング心理学では「影」と呼んでいる。そしてそれをいかにして認め自身の心に統合していくかというのが心理療法の、特に初期における治療の焦点である。

ところが影というものはそもそも、物体に光があたった時にあらわれる必然の現象である。それだけに影を統合し消失させようとする行為は、その母体の存在をも危うくさせる可能性にさらされる。

また引用文に「生きた人間の味」というふうに表現されているとおり、影はいわばその人の隠れた持ち味でもあるのだ。

芸術家などはこの影を原動力にして創作・表現活動をしている人がほとんどであるために、そうした職業にある人が精神分析を受ける際は、事前に治療者とクライエントの間で入念な話し合いが設けられるのが常である。

整体の臨床においてはどのように対応していくのか、ということを考えてみると、もちろん個人ごとに全くことなるオリジナルの対応をそのつど生み出していくことは当然であるが、人間の精神と肉体の間にある共通の反応を理解し活用することはとても有効である。

まず基本的な話として「受け入れる」という行為は身体上に硬張りや固さがあるうちはできない。うらを返せば、身体の硬張りを上手にゆるめることさえできれば、その治療は半分以上成功したといっても過言ではない。

そこで「いかにゆるめるか」という問題に直面するのだが、整体指導といっても心理療法といっても、実際にクライエントの内面にまでおよぶ変化を引き出すものは技術以前の「何か」によるところが大きい。

その何かのなかに雰囲気や環境というものもふくまれる。

まず人がゆるむために欠かせない条件の一つに「安心」があげられるだろう。ほっとするとか気持ちがよいと心から感じられる雰囲気や環境がまず最初にクライエントの人格を受け入れ、それによってクライエント自身が自分を受け入れるという筋道を学ぶことができるのだ。

だから強力な影(実生活にあらわれていない自分)からの圧迫に悩み苦しんでいるひとに出会った場合、わたしは「抱える能力」を有した心の豊かな人との積極的な交流をすすめることが多い。

つまり自分で自分を受け入れるためには、まず自分以外の人に受け入れられる必要があるのだ。

そうして「あるがまま」、本当にちからが抜けきったときにあらわれる無垢な自分像というのを少しずつおもてに出してくことで、影の統合はむりなく行われていく。

先の引用に示されたように、もちろん容易なことではないけれども‥。かといって不可能なことでもない。俗にいう「いい年の取りかたをした」などという表現は、影の統合がうまいぐあいに行なわれた人を讃えるほめ言葉のようにも感じる。

実際には自身の「影」とは分離したまま、「陽の当たっている自分」だけで生活を営み比較的穏便な生涯を終える例も少なくないのだが、必要なひとは「悩む」という動的な葛藤状態へ自ら向かい、影との対決を余儀なくされる。そのあたりは無意識の要求に委ねられていると考えて良いだろう。

基本的には人間の無意識層には人格の全体性に向けて変容・成長して行こうとする要求が内包されている。だからそうしたもともとの要求が自然に花開くような環境を与えることで自然治癒力も最大限に発揮される。

そういう意味では人が癒えていくためには必ずしも「専門的な治療の場」が必要かというとそうとも言えない。

じっさい影の統合にやっきになっている間はむずかしかったものが、旅行のようなレクリエーションの場でふいに緊張がゆるみ、そこからスムーズに自我の再構成が行われるような例も存外多いのである。

このような治療なき治療、一見して何もしていないような行為のなかにも自由で開かれた「場」というのが展開することで思わぬ治癒効果をもたらす。これは人間のなかにもともとよくなる力が備わっていることの証明でもある。

良き治療者はそうした生命のもともとの力を発揮させることだけに専念し、何もせずとも快方へ向かうことを最良の方法と考え、実践するのである。何故そのようなことが可能であるかといえば、影こそが成長の種だからであろう。

よく生きられなかった部分というのは、うらを返せばその部分をひっくり返すことで光に転ずる、つまり影をパートナーとしてその人の人生を充実させることができるのだといえる。そこで治療者はクライエントに対し影のマイナス面を伝えると同時に、「可能性」を得心させることができれば心身両面の治癒は大きく進展する。

軽微な視点の転換ではあるが、病症と対立し、こう着状態を生まないためには重要な技術である。病症を味方につけ、影を善用する、こうした態度は個人が心の全体性を取り戻していくうえで非常に重要な条件の一つ言えそうである。

 

関連リンク ユング心理学における「影」について:整体指導と心理療法のアプローチ法の比較 影をなくした男