11月30日の活元会ではひきつづき『ユング心理学と現代の危機』を教材として使いました。
一日の太陽の運行にもたとえられる人間の一生は、その前半と後半では目指す目標が異なってくる。
人生前半の目標は、まず成人としての「自我」を確立することであるが、この自我とは「自分である」、「私」という意識であり、外部の世界や内的な情動を感じ取り、自らの行動を決定する一貫性を持った主体である。自我には能動性があり、現実に適応しつつ、積極的に自分の欲望を実現させていこうとする傾向がある。まず第一にこの「能動的自我」を確立することが先決である。……
人生後半の目標としての「個性化」
……ユングは、人生前半の課題は外的世界、つまり現実社会に目を向け、社会の中に基礎を築くことであるが、人生後半の中年期以降は内面世界に目を向け、自己の内的な基礎を築くことが課題であると述べている。具体的に言えばそれは、ユング自身が行ったように、自らの無意識と向き合い、そこから湧き出るさまざまな情動やイメージを自我によって意識化し、それまで無意識(無自覚)であった部分を統合する作業である。そして失われた活力を回復し、より柔軟で安定した人格に成熟させることである。ユングはこれを「個性化」(Individuaition)と名付けた。いわばユングが無意識との対決を通じて、自らを癒していったプロセスそのものであるとも言え、きわめて一面的であった自我が無意識の内容を受容し、より「全体性」へ向かうことを意味する。言い換えれば、それは本来の「自分自身」になることであり、生まれつきその人に内在する可能性が、最高度に実現してゆく過程と言える。それが中年期以降に明確な形で生じてくる、というのがユングの主張である。「個性化過程」の不可避性
……こうした中にあっていつまでも若さに固執し、獲得した対象を失うまいと、必死に執着したらどうなるであろうか。中年期の危機はますます深刻になると思われる。したがって中年期を境に人生後半に向けて生きる「態度の変更」が不可欠になると言えよう。それは「外的世界」の充実から「内的世界」の充実へという方向転換である。
現代は経済的利益と物質的豊かさが無上の価値とされ、人々はその獲得に鎬を削っているが、「個性化」はそれとは正反対に、無形の、内面的成長や心の豊かさを追求する道である。つまり物質的、金銭的欲求から離れて、「本能的自然」「自然な心」へ回帰する方法である。……(前掲書 pp.116-120 一部太字、グレー文字は引用者)
今回もユング心理学で説かれる人生の前半・後半の役割と「個性化」の過程がテーマです。
人生をおよそ40歳をふしめに前半と後半とに分け、その中間地点にいわゆる「中年の危機」というターニングポイントを据えるという、ユング独自の人生観について言及・解説したものが上の資料です。
この本の出版が2001年ですからそれなりに「時代考証」も配慮しなければなりませんが、今日の日本でもこの理論に則した「生き方」はまだまだ多いように思われます。
一方では、近年は人生の前半期に「自分というもの」とか「自分はコレで(生きて)いく」という確たる自我が出来上がっていない人たちもちらほら見受けられます。
つまり引用にある「自らの行動を決定する一貫性を持った主体」というものがよく定まらないままに中年期を迎え、その結果として「発達障害」のように、固定的視点を持たないために「揺れることもできない」ほどやわらかい人たちもおられるようです。
いずれにせよ中年期を越えていく際にはこの「精神の危機的状況」というのは避けられないようであり、誰にでも平等に訪れる人生の苦境といって差し支えないものと思われます。
ユングの場合では、この時期に相当な「苦しみ」体験があったことがその記録(『ユング自伝』など)からも想起されるわけですが、言うなればこの中年の危機を乗り越えることで、ユングは〈ユング自身〉になったということもできるでしょう。
ではそれまでの彼は何だったのか、といえばやはり彼自身の半生であったことは間違いありません。けれども、それは顕在意識のみが表舞台で躍進していた人生であり、「わたしが生きている」という自我が主体の人生です。
換言すると「こうしたい、こうなりたい、こうあらねばならない‥」というような、どこまでも意識の統制下(個人的思考の枠内)の生活が展開され、そのためにどうしても広がり性に乏しく、また直線的であり、そしてときに排他性のつよいものにもなり易いことが危惧されます。
結果として人生の「目標」も固定的になり、また「成功か、失敗か」という二分法の生き方 ―少し前に流行った「勝ち組・負け組」という人生観はこれにあたる― に自らを閉じ込め呻吟するような人生にもなりかねません。
このような状態はいわば理性的自我の過剰亢進および、身体性・感受性の「鈍り」状態を意味し、やがてはその閉塞感を打破すべく「こころの病」にかかるのはむしろ「身心が健全さを発揮しようとする動き(病気であり治癒)」と捉え直すこともできるのです。
裏を返せば、中年期にあって自分の中にそれらしい動きが出てきたら「いまようやく治癒がはじまった」「いよいよ〈自分自身〉になる時が来たのだ」とある種の期待感を抱くのもいいだろうし、「自分の中にもまだ揺れて変化していく余地(こころの伸びしろ)があった」ということを肯定的に受け入れつつ静かに見守るのも一つの方法ではないかと思うのです。
また引用内にある「本能的自然」「自然な心」とは野口整体でいうところの「天心」にあたるものと考えることができ、さらにそこへ「回帰する方法(=個性化)」の具体的手段が愉気や活元運動である、という理解を付与するもの面白いでしょう。
このあたりにも野口整体のいわゆる、「病気は身心を治すもの(健康の自然法)」という風邪の効用的な心身両面にわたる傷病観が適用できるものと思われます。
またこのような〈いのち〉に対する深い信頼に拠った思想は、生命の根源に一定のレベルまで迫ることで必ず突き当たる一塊の真理ということもできるでしょう。
いわば活元運動は時として「病を誘発する劇薬」の役目を担います。先にも述べた通り病気は「好転反応」と呼ばれることもあり、こころとからだの自然良能を顕す生命現象です。そして多くの場合、「治る」というはたらきには「苦しみ」を伴うものなのです。
これは心理カウンセリングにおいて初回から回を追うごとに病的気分が深まっていくことにも相通じる、病気と治癒を同一視する死生一元の世界観ということができます。
当然のことながら、これらの手法を用いる際には治療者と被治療者の間に「病気現象の中に健全さをみる」という価値観が共有されなければ、その結果はまるで見当違いの方向にあるようにも誤認されかねません。
野口晴哉先生は「そもそも病気は治すものではないし、(その仕組みを充分理解したうえでならば)恐れるものでもない。むしろ人間に潜在する力を発揮させるべく使いこなすものである」と述べています。
このような巨視的な位置に立って自身の生命と人生を眺望し、「中年の危機」を新たな視点で見据えることで、後半期を迎えんとする自らの生命にこれまでにはなかった第三、第四‥の価値を創造していくことができるでしょう。
またこれは中年期ということに限定せずとも、いま危機的状況にあるすべての人がその「病の創造性」を豊かに開拓することで、「苦境の中にも愉しみを見出す」という矛盾を遊ぶことができるのではないかと思います。
最後に「病は治すものではなく、こき使うものである」という言葉は体験知であることも強調しておかなければならないでしょう。
特に野口整体は知識の枠組みには収まりきらない、生命智ともいえる非言語的哲学です。このあたりのところは活元会にご参加のみなさま各自において、一歩一歩、参究されたいと思います。
(この記事の参考図書)