睡眠薬と生理痛

僕が野口整体に浸りきりになって7~8年くらい経ちましたが、ほんとに西洋医学の薬にはお世話にならずにこれてます。

整体の仕事をしていて、長期にわたって投薬を受けている人はお身体が変わっていきにくいということもわかってきました。

少し前に安保徹さんの『薬をやめると病気は治る』という本を読んだのですが、やっぱり痛み止めなんかは身体を強く冷やしてしまうので、痛みも消えるけどいっしょに治癒力も失せてしまう、らしい。

以前ペインクリニックに通っている女性が来たときに、どこもかしこも冷えていて、触れているだけでもぞくぞくしたのを思い出した。

また睡眠薬を常用している方というのもいくつか共通の疲労が現れます。

おでこに触れると中が動いていない感じがします。何か前頭葉がぼわん!としてる。

こんな風に、にぶり現象が起きたら自然の力で治るのはむずかしい。

そういえば春ごろに夜何時になっても眠れないので睡眠薬を常用しています、という女性がお越しになった。

病院でお薬を処方されてから、生理痛が辛くなって困ってますと言うことだったのですが初回のときに愉気をしたら間もなくコトっと寝てしまった。

それからご自身でお薬をやめたら普通に眠れるようになって、生理も普通に戻ったという話で、この場合身体がつらかった原因はなんだったのか考えさせられる。

全ての薬には程度の差はあれ依存性があるので、長期間投薬をうけた人はやめようと思ってもなかなかやめられないのが実情らしい。

でもやっぱり何もしなくても元気な人を増やすが仕事なので、お薬に対するスタンスは堅持しないとね。

それを自分の生き様で示すのがお仕事なのですけど。

人にやさしく、自分に甘く

今日は朝から超元気っ子だったので坂道ダッシュしました。帰りに横浜屋でカットスイカを買って、もっしゃもっしゃ食べて夏の終わりを満喫☆(*^▽^*)

時代性もあるかもしれないけど、かつて「スイカをすごいスピードで食べる」、ということをギャグにしていた志村けんさんは偉大だと思う。

「すいかを食べる」は普通だけど

「すいかを食べる+すごいスピードで」、で笑いになる・・ある意味人間心理のミステリー・・。ん、何を言ってんだ俺は?^^;

横浜で活元運動と愉気が学べる野口整体の指導室 せい氣院の

今日は、ご予約なしのはずが(ウチは原則当日予約なしです)、1時に電話が鳴っておひとり急にお越しになることに。

いつも特にどこも悪くないのに通っていらっしゃるAさん。

今日は話す時間がいっぱいあったので、「Aさんはこれといった問題も無いのにどうして通われてるんですか?」って聞いたら、

「ここに来たあとは、人にやさしくなれるから・・*^^*」

確かに身体がゆるんで楽になると、人は何もなくても自然に笑顔がこぼれます。

月をみて泣く人がいたら、それは身体のどこかに泣きたい心があったから。

整体では、いらいらする原因って外にはなく、身体の中にあるんだ~って観ます。

お腹の左側、胃の前くらいに感情抑圧点という急所があります。ここが固くなると気がこり固まってゆるまない。(人によってはおいしいご飯を食べると少しゆるみます^^;胃のそばだからね)

凝固したエネルギーは上手に愉気すると体温で解けて消えてしまいます。

自分の身体が楽じゃないと、人にやさしくするのってむずかしいよね・・。

彼氏とか旦那さんにいらいらしだしたら、爆発する前にせい氣院に来るといいかもね☆

でも僕には爆発しないでね♪

子供の整体

外はすっかり秋の気がそよいじょるようじゃノー。(´・ω・`)

まだ少し蒸し暑いけど、丸亀製麺のカレーうどんを食べてがんばろおーねー

(*^▽^*)いつも白シャツだけどカレーうどんに背中は見せないぜ!(笑)

こんにちは、あさひなです。

今月に入って、夏休みやら、お盆コボンやらで、いつもお越しになっているママさんたちといっしょにこどもをみる日がチラホラでした。

僕は昔はこどもが苦手だった。というか、こどもにいっつもこわがられるのでそんな自分が嫌だったのだ。

そんな矢先、野口先生の語録に

・・・「例えば、子供や動物が懐かないような人、いざという時に自分のことしか考えられない人は(弟子に)とりたくない。」

というのもあって、僕の劣等感は人知れず深まっていったのだ。けど、一生懸命仕事をしていたらいつしか問題は少しだけ解決していたらしいのです。ヨカタ・・。

中学生以下のお子さんは必ずお母さんとセットでみるけど、いつもいつも、こどもの愉気の反応速度にはほれぼれする。

1~2分触れてるだけで、股関節とか肩甲骨がフッとゆるんでさっと元の位置に帰っていきます。

こんな頃から愉気を受けていたらそら僕だって30過ぎてから「野口整体だ!」とか言わない普通の人生だったかもしれない。

まあ、人生の順境も逆境も自分の心が勝手に決めるこった。どちらにせよ等しく意味があるんだろう。

こどもの健康状態はお母さんの意識状態とのバランスをとることが要と思う。

こどもは大人の数倍、心と体が直結している。心理的ショックはしっかり抜いておかないと顔から輝きがなくなってくるのだ。

育児の大変さというのは僕には想像するしかないけど、少なくとも小学校を卒業するくらいまではスキンシップをふんだんにして肌に愛された記憶を沢山残して欲しい。

普段はわかりにくいけど、大人になって逆境になったとき親にどれだけ愛されたかでその人の粘り強さがぜんぜん違ってくる。

ときどきこどものどこに愉気したらいいか?ということを聞かれるけど、どこに愉気したって愛情は伝わるでしょ。

心を鎮めて自分の手に聞けばあとは勝手ににやってくれます。^^

野口先生の愉気の会は始めは子育て中のお母さんが対象だったそうです。

僕もこの愉気は世のママさんにマスターして欲しい。

個人指導を受けている人は愉気の会にも来てみてネ☆(^▽^)

日本もいよいよこれから気の時代に入ります。

みんなが愉気ができるようになったら・・・(3)

近頃また湿度が増してきたせいか、おふとんが重いです。今モワモワ乾燥機中です。(お部屋あついぉう^^;)

でもおふとんが乾いてると寝るときヤッタ!って気がするんだもん☆気持ちいいよね♪

今日は有志の方からオファーをいただいたので午後からいつもの場所で活元会をしました。

はじめはいつもおなじみの愉気法のお話。

現代の感覚では愉気は「不思議なもの」の部類に入るのかもしれません。

「病気も怪我も薬や手術で治すもの」という考え方に浸りきってきた人にとっては、触れているだけで身体が動いて、変わっていく、というのはやっぱりはじめは(?)って違和感があるみたいです。

でも愉気を受けて、活元をやって、整体の考え方が生活の中に浸透していくと、「??どうやら病気は薬では治らない、ら・し・い・」という感覚が体感的に体に入ってきます。

そうして、少し症状の重い風邪でも薬を飲まないで2・3回経過すると身体の治癒力というのが把握できてきます。

野口先生が亡くなられて30余年たった今、投薬を中心とした現代医療のあり方に疑問を投げかける声が少しずつ増えています。

抗がん剤をはじめ、ステロイドや消炎鎮痛剤の副作用が改めて見直され始め、またインターネットの普及で今までは「寄らしむべし知らしべからず」のごとく、全くの受身であった「患者」のみなさんが自分で活路を求めて代替医療に望みを託し、その一つに「野口整体」が求められているという現実があるみたいです。

そんな中で「愉気法」というのが何かの「技術」のように捉えられて、すごい力があるように思われることもあります。

野口整体というのは超能力ではなく、思想と実践が一枚になった生命の「行」である、と僕は学んできました。

段階を踏んで少しずつ、でも着実に野口整体の考え方にシフトしていくことで愉気の響き方も変わってきます。

もう一つはこの世界には「道理」というのがあって、「道理」通りにしか物事は運ばないという法則があります。

自分でこれは「真理」だというものがじつは間違っていると、「奇跡」とか「不思議」なことが起こるんだ、と思うんですね。

愉気をすればどうなるか?というのもやってみて起きたことが真実です。やってみればわかります。

この考え方に賛同される方が会に集まって、野口先生の遺してくれた愉気と活元を取得して人生に役立てていっていただけたら、僕としては嬉しいです。

今月は8月20日(月)にもう一回やります。ご参加いただく方はメールかお電話でお知らせ下さいね。

みんなが愉気ができるようになったら・・・(2)

久しぶりにらーめん一風堂に行ったった。零(ゼロ)という期間限定のプロトタイプらーめんがあったのでそれとめんたいご飯でもぐもぐ・・。((;~;))ムグムグ…

替え玉3回でやめたけど今日はエンドレスで食べられそうだった。いくらでも寝られるし食べられる、身体が休みたがってるんだ。

たらたら書いてたら同じタイトルで3日めになってしまいました。

みんなが愉気ができるようになったら・・・きっといい世の中になる。

そんな気がする、2012夏。

愉気をすると硬直した筋肉が弛んで、眠たくなります。

マッサージとかリラクゼーションサロンでも、揉まれながら半分くらいは眠ってしまった・・という経験のある方はいらっしゃると思います。(僕もあります・・^^;)

せい氣院でも操法を受けてお家に帰ったらコトっと小一時間くらい眠ってしまったという人がいますけど、この眠るっていうのが最終的に整体の技術の仕上げになっています。眠ることで操法が完結するのだ、ぐらいのいきおいです。

なぜなら人間の治癒力というのはちゃんと眠れた時に爆発するからです。

逆に比較的軽い病気から難病にいたるまで、きちっと眠れていないことに端を発するものは少なくありません。

いわゆる自律神経系のバランス欠如が、眠りの質を悪くして免疫力を下げてしまっています。だから風邪をひいて、食欲がなくなって、発熱して、ダルくなって、眠くなる、というのは免疫力を上げるための自然の整体法だ、ということがいえるんですよね。^^

この自立神経系のバランスをつかさどるのが筋骨の部位でいうと「骨盤」です。仙骨や、呼吸活点という骨盤の急所に愉氣することで深い眠りを誘導することができる。

整体っていうのは体をきったりはったりしないので、見る人によっては現代医療や代替療法の中でも「消極的」に見えるかもしれません。

でも例えば、開腹手術っていうのは体を切り裂いているんですよね。麻酔をして滅菌した器具で安全に行ってはいますが、大怪我をしているってことの認識が全体においてぼやけている。このことが僕からするとコワい。

整体というのは身体、生命を徹頭徹尾、これ以上ないくらい大事にします。それは「絶対安静」なんていうイジケた養生観ではなくて、動くべくして動き、休むべくして休む、いかなるときも生命の健全さを疑わずに淡々と息をし続けるということなんですけど。

それを具体的にあらわすといつも、「待つ」という言葉に集約される。その「待つ」は全身の氣を集中させて鎮めて亢める、派手なアクションはないけれど「静中動在り」の、積極的で主体的な「待機」の姿勢だ。

呼吸を深く深く練っていった人の愉氣は、相手の呼吸をシンクロさせて深くします。つまり他動的に安心して待てる身体にしてしまう。

これは愉気法の一つの側面ですけど、こういうことがもっともっと世の中に認知されるようにしていくのも僕の仕事の一つだと、そういうことにしちょる。^^

みんなが愉気ができるようになったら・・・(1)

野口整体は愉気という気の集中・運用法が全ての技術の基になっています。なので愉き法を理解することが整体をやる上で最初の最初にあると思います。

野口先生の本には愉気の説明がいろいろな角度から何度も何度も出てくるので、知識として理解を進めるには先生の著作を読むのが一番確実です。

中でも『健康の自然法』というのは最初の著述に愉気について集約された部分があるのでちょっと書き出してみます。(この本は現在のところ絶版なのです。以下引用)

愉気って何だという質問だが、人間の氣力を対象に集中する方法だ、と考えたら良かろう。人間の精神集中は、その密度が濃くなると、いろいろと、意識では妙だと思われることが実現する。

穏やかな太陽の光でも、集中すると物を焼く。光はレンズで捉えるのだが、気は精神集中によってちからとなる。

それ故、愉気するには高度な精神集中の行えること、恨みや嫉妬で思いつめるような心でない、雲のない空のような天心が必要である。

(以上)

自分の経験でも愉気がピタッと決まるのは頭に余計な考えが浮かばないで瞬間的に没頭できるときです。集中力の密度というのが力の有無を分けるのは間違いないです。

集中力というのだから訓練によって愉気は高めていくことができるのですが、命の尊さをわきまえていれば自ずと気の密度は増してくる。

こういう角度から、気と生命の理解が進むことが本当の人類の進歩じゃなかろうかと思っています。

感応道交

今日は整体のお仕事の後、大口商店街のらーめん屋さんチックタックに行って、なごみCAFEでお茶して、盆踊って帰宅。

今更ですけど盆踊りって日本人の音だ。舞踊って、哲学が人間の肉体上に現れたものかも。民族の知恵の結晶って気がする。

せい氣院の整体では身体が痛みを訴えた原因を突き止めたいのですが、指導室で身体を見ながら、心の話をしようとしてもさっぱりチンプンカンプン???になることも多い。

一般的には整体師っていうのは「体」の知識があって、悪いところを治す人だと思われています。ボキボキのイメージはだいぶ無くなってきたけど・・。^^

だいたい「整体」の定義と言うものもあいまいだろうし、もちろんいろんな整体があってどれも「正しい」ですよね。

僕が学んで愛してきた野口整体は、送り手の気を静かに統一させて受け手の心に響かせる技術だ。

この「響かせる」というのは響かせるものと響くものの間の「繋がり」が前提になってます。

音叉という道具がありますけど、同じ振動数のものを2つ並べて一方を鳴らすともう一つの方も共鳴して音が鳴り出す。

周波数が同じと言うのは整体でいうと僕が気を集中して触れたときに相手の人にも同じレベルの集中した気持ちがあるということ。そうすると心が振動しはじめて体が内側から動き出します。

そのままじっと愉気していると活元運動になることもあるし、抑えていた心が発動して泣いたり怒ったり笑ったりして過去に消化不良になっていた感情が処理されていくこともあります。

こういう状態を整体では仏教の言葉を借りて感応道交とか言ったりもするんですね。

それで、せい氣院に初めてお越しいただくときには「求める気持ち」というのをよく伺うようにしているんです。

弘法さんの言葉に「片方の手では拍手にならない」というのがありますけど、拍手というのは右手が左手が勢いよくあたって(感応して)パンッ!という音になります。

当たり前のことですけど、片手だけではどんなに気を凝らしても音は聞こえないのです。^^;

お互いのなかに同じレベルで求める気持ちがあると、こうやって感応が起こるんですね。

こんなことを気持ちの中に入れておくと、愉気を受けるときも人にやってあげるときも効果が変わってくるかもかもしれません。^^

整体操法とは本気と本気がぶつかることで織り成す魂のハーモニーなのです。^^

どんな音になるのか気になりませんか?

愉気について

ここ数日ラーメンがおいしくてあっちこっちの店に行っっている。普段は玄米と味噌汁を食べないと食事を摂った気がしないような質なのに、最近は汗をよくかいているので無意識に食べてるんだと思う。

家系もジロ系も鶏がら醤油も魚介系もいろいろ食べてるけどやっぱり麺類はおいしいね。僕は子供のときはそーとー偏食で夏はスイカとラーメンばっかり食べていた気がする。

あとビールが好きだったらしいその反動か今は食事にも気を使っているし酒もめったに飲まない。

さて、気の教室では愉気についていろいろな質問を受けますけど、個人整体の時はあれやこれや聞かれることはあまりないナ。

整体は集中して手を当ててますから、終わってからさらにあえて言葉にする必要はないみたい。受けた感覚がそのまま答え、ということなのかも。

しばらく指導に通われている方は、何かきっかけがあるとお友達や家族に手を当てをしたりして私でも愉気をしてあげたらよくなりました、とか話してくれます。

磁石に付いた鉄が磁気を帯びるように、愉気という世界に出入りをしだすと、人間を癒したり守っている気の感覚が太くなってきます。

受けている人は知らない間にそういう感覚が育って愉気ができるようになってくる。

手当て、手かざし、というのは古来からの手法で時代性はあるけど、定期的にテイストを変えてリバイバル版が出てくるのだ。

いわゆる「能力」なので習得するにはお金がかかると思っている人もいるけど、それは水や太陽に値段を付けるようなもので僕は違和感を覚える。

天から授かった命に値段が付かないのと一緒でこれはプライスレスの力、大自然の恵みの力だ。

確かに能力と言えば能力なのだけど、しいていえばそれを集中力というとしっくりくるかな。

愉気の質、というか効果は、瞬間的に、そこに自分の全部を集められるかどうか、という一点で決まる気がする。

だから長くやったからできると言うものでもないし、今日はじめてやった人でもぴたっときまればそういう効果を示す。

人間の可能性という点では面白い世界だし、これからの人類には「気」という感覚をもっと生活に盛り込んでいくことで物事の価値観も、もう少し普遍性のあるところにきちっと収まっていくんじゃなかろうか。

気の教室 はせい気院の野口整体に賛同される方が、そういう価値観を学べるような場にしたいな。あせらず、たやさず、続けていくことがなによりだ。

そういう訳で8月の気の教室は20日(月)13:30~です。

大口活元会と魂とら~めんの話(長い)

人間に魂をいうものがあるか、ありとすれば魂とはどんなものであるか、この問題から取り掛かろう。

商人の認むる魂は宗教家の認むる魂とは違う。武士の見る魂は治療家の見る魂とも違う。

しかし、たましいを見る人間は魂を見ない人間と行動が異なってくる。

あると認むる人は商人なら損、武士なら死にも時に平然と処して慌てないが、魂を見ない人は政治家なら利の為に名を売り、医者なら困っている人に盛るにもその薬の原価計算を忘れない。

魂のある人間の方が魂のない人間よりしっかり生きることができることだけは確かである。それ故、魂のない人があったら魂を持たせなくてはならない。

魂のある人はそう行動すべきだが、魂のない人は自ら持つよう心掛けなくてはいけない。

魂というものは認めればある。認めるまではあってもない。

上の文章は野口先生の『大絃小絃』 の<魂はあるか>という項の書き出しです。

今日は大口活元会でしたが、お越しになった方はお一人(しかも初めての方)でしたので、マンツーマン活元でした。f(^^;)や~マイッタマイッタ。。時間があまったのでご質問に答えるような形であとはずーっとお話をしてたのですが、何故か途中で魂の話なんかになったった。

僕の苦手な分野ではあるけど、「気」と「魂」の話を抜きにして野口整体は語れないのです。気で気を制して、その人の生活に魂がむき出しになっていくようにリードするのがこの仕事の根本理念だ。

そういう意味では整体指導は魂の共鳴、気と気のぶつかり稽古である。ドスコイ!よさこい!

整体指導とはまさに「気合い」だ。気の集中密度が亢(たか)まると身体の奥にある心にも触れることができるし、そうして初めて魂のこもった仕事もできる、と思います。

これを野口整体では「裡(うち)の動きを振作(しんさく)する」という表現をしますが、その人の中心線に向かって真っ直ぐ気を集めていくことで初めて愉気は肉体を超えた力となる。

それを僕はよく魂力とか言ってしまうんですけど・・^^;そうはいっても基本は肉体の観察や操法からはなれないからおかしな方向にはいきにくいし、それが整体の健全さのゆえんだとも思う。

ここで、今度は野口先生の『愉気法1』から・・・

人間は心も体も魂も何もかも一つのものであり、一個のものであります。その一個の人間を研究上の便宜で分けた、その分けたものにとられ過ぎているのです。

<中略>

やはり人間同志が深く理解し合わないと、愉気法が本当の効果を現さないのではないでしょうか。

そういう意味で、一応私達が理解する範囲を、体の面とか心の面とかというように考えないで、生命そのものに愉気していくというつもりになると、もっといろいろな面が拓かれてくると思うのです。

体の面だけのうちは愉気する場所をよりどらなくていけない。ところがどこもここも魂なんです。

<中略>

ただ手を当てるということだけでも、ただ手を当てるつもりの人は、それだけなのです。これは愉気法だと思って手を当てる人は、愉気法になる。

その愉気法でも、体に行うと思っている人は体に効くのです。心に伝えると思っている人は心に伝わるのです。魂を清めると思っていると、魂も清まるのです。

・・・・・・

と、そういう意味では体・心・魂というふうにいろいろわけないで一個の命として一人の人と向き合っていく。そういう姿勢が仕事には直結してあわられるらしい。そして仕事に対する姿勢と言うのはその人の顔つきや生活にも現れるんですね。

公民館でするにはずいぶんディープな話になったけど・・・。いや~密度の濃い時間になったった。^^;

こっからちょっとライトな話。ライトってイチローの話じゃないですよ。軽いほうのライト。^^

そんなディープな活元会のあとで、なんか気のこもったものが食べたくなったので大口商店街の手打ちら~めんチックタックへ。

野口整体 せい氣院の活元運動のすすめ 

ここって、最初入りづらいんだけどお店ん中がいつ入ってもめちゃめちゃキレイ☆

そして、ここの大将はら~めんに魂こめてます。(いや、行けばわかるんです。こもってるんです・・)

チャーシュー?はバラとロースが毎回同じ角度でのっかってきます。(こだわってます)

どんぶりのtic-tacのロゴも毎回同じ角度で出してくれます。(こだわってます:こういうこだわり大好きです^^)

スープはダシが何々で~とかいうのはさっぱりわっかんないけど、まぁ・・とにかく・・・

すっげ~おいしい!

あと仕事柄あっひーが食に求めているのは「気が澄んでいるもの」だ。

都心の一等地なんかで繁盛しているところでも、気の荒れたものを出されてうっかり食べると一気に身体の感覚が悪くなるから要注意なのだ。らーめんに静けさもとめるのほうがまちがってるかもしれないけど・・。

あひ「このお店すっごいこだわってますよね~」

大将「はい、味とかはヤバイです(ニコ)」

あ~わかるわかる~とかいって写真を取らせてもらったのでサイトにアップ!は・・やめとこう^^;

 

ま~とにかく、イカした笑顔に癒されます。

せい氣院に来たら一度は帰りに寄りたいお店 です。

あ~しまった、内容盛りすぎてなにがなんだかわからないブログになったよー。(笑)

来月の活元会は8月20日(月曜日)です。9月は17日(月:祝)の予定です。

参加される方はお電話かHPから予約 してくださいね^^

野口整体 せい氣院の活元運動のすすめ 
行けばわかるんです(笑)

信念はあんまりカタくないほうがいい

明日の活元会用のケーキを焼き終えました。(^▽^)ででん!

野口整体とは自分の力は生きてるうちにきっちり使うための勉強法。そのためにはまず「自分」を主観と客観を交えてよく知ること。

肉体があるから苦しさも楽しさもある。生きてるうちが勝負だ^^

「ゆるむ」ということの大切さが見直されて久しい。考えてみれば高岡さんの「ゆる体操」は戦後から続いてきた力みと努力の神話に一石を投じたコペルニクス的転回の身体論だった。

野口整体でも昔から休息をとるときは一切の筋を緩めることを説いてきた。

身体を観ていても何か一つのことに強く捉われているような人は背骨が1本の棒のようになっています。みているだけでも何か窮屈な世界に自分を押し込めている様でツラい。

過度な執着がもとで人によっては「うつ」といわれるような状態にもなるけど、僕の見立てではそういう病気はこの世に存在しない。

在りもしないものだからうっかりアナタはうつです、といわれて闘病生活なんかを始めるとトコトンこじれる。その気になって「治療」を始めるとエンドレスな投薬の渦に入りこんでやがて知らぬ間に本当の薬病になってしまう。

そこまでいかなくても頑張りすぎる真面目な人なんかは自分がムキになっていることがわからないので、仕事や人間関係でたびたび交通事故を起こしたりもするみたいだ。

予測のできない人生をフリーでチャーミングに生きていくには、背骨の1コ1コがばらばらにはがれて油をタップリさした鎖のようになっているのが望ましい。

時と場合によるが、最近はカタイ信念なんてものも持たないほうがいいとすら思う。信ずるという行為は人間の智的活動を麻痺させるし、念という、いわゆる「今の心」なんていうのもやはり流動的にさらさらと流れているほうが自然であり健全なのだ。

氷と化した心をいかに水にするか?この答えはいつも肉体の中にある。

「心でも体でも、異常を異常と感じたときから治りはじめる」という野口整体の至言があるけど、まずは自分の身体の有り様をしっかり見つめること。これが整体の最初の、最初の、最初の作業だ。

それは「自分」を細やかに見ていくとくことだけど、意外とこの作業を嫌がったり、やろうとしない人は多い。でもここをすっ飛ばして、とってつけたように「野口整体」をやっても野口整体にはならないのです。残念ながら・・・。

千里の道も一歩からで、活元運動でも個人指導でも、「焦らず・走らず・でも止まらず」のこころもちでやっていくと必ず実りの季節はやってくる。

自分の心と体はときどき(できれば毎日)耕していきましょうね。来月の愉気法・活元運動の会は8月20日(月)午後1時30分からです。