信念はあんまりカタくないほうがいい

明日の活元会用のケーキを焼き終えました。(^▽^)ででん!

野口整体とは自分の力は生きてるうちにきっちり使うための勉強法。そのためにはまず「自分」を主観と客観を交えてよく知ること。

肉体があるから苦しさも楽しさもある。生きてるうちが勝負だ^^

「ゆるむ」ということの大切さが見直されて久しい。考えてみれば高岡さんの「ゆる体操」は戦後から続いてきた力みと努力の神話に一石を投じたコペルニクス的転回の身体論だった。

野口整体でも昔から休息をとるときは一切の筋を緩めることを説いてきた。

身体を観ていても何か一つのことに強く捉われているような人は背骨が1本の棒のようになっています。みているだけでも何か窮屈な世界に自分を押し込めている様でツラい。

過度な執着がもとで人によっては「うつ」といわれるような状態にもなるけど、僕の見立てではそういう病気はこの世に存在しない。

在りもしないものだからうっかりアナタはうつです、といわれて闘病生活なんかを始めるとトコトンこじれる。その気になって「治療」を始めるとエンドレスな投薬の渦に入りこんでやがて知らぬ間に本当の薬病になってしまう。

そこまでいかなくても頑張りすぎる真面目な人なんかは自分がムキになっていることがわからないので、仕事や人間関係でたびたび交通事故を起こしたりもするみたいだ。

予測のできない人生をフリーでチャーミングに生きていくには、背骨の1コ1コがばらばらにはがれて油をタップリさした鎖のようになっているのが望ましい。

時と場合によるが、最近はカタイ信念なんてものも持たないほうがいいとすら思う。信ずるという行為は人間の智的活動を麻痺させるし、念という、いわゆる「今の心」なんていうのもやはり流動的にさらさらと流れているほうが自然であり健全なのだ。

氷と化した心をいかに水にするか?この答えはいつも肉体の中にある。

「心でも体でも、異常を異常と感じたときから治りはじめる」という野口整体の至言があるけど、まずは自分の身体の有り様をしっかり見つめること。これが整体の最初の、最初の、最初の作業だ。

それは「自分」を細やかに見ていくとくことだけど、意外とこの作業を嫌がったり、やろうとしない人は多い。でもここをすっ飛ばして、とってつけたように「野口整体」をやっても野口整体にはならないのです。残念ながら・・・。

千里の道も一歩からで、活元運動でも個人指導でも、「焦らず・走らず・でも止まらず」のこころもちでやっていくと必ず実りの季節はやってくる。

自分の心と体はときどき(できれば毎日)耕していきましょうね。来月の愉気法・活元運動の会は8月20日(月)午後1時30分からです。