『風邪の効用』までだいたい3年くらい

息子が風邪をひいた。だいたい一ヵ月ぶりくらいだろうか。「野口整体」といえば『風邪の効用』だが、今から11年前に自分が整体生活をはじめた頃は風邪を引くたびにこの『風邪の効用』を読んでいた。そうやっては逐一症状の経過を楽しんでいたのを思い出す。

一言でいえば「風邪は身体の自然良能」ということで、風邪をひいて熱がでると、その体温の変化によって身心がゆるむ。それによって、自身の潜在体力が煥発され自然に元気になるという話だ。だから咳をしても熱が出ても静かに経過を見守るような方法を取るのである。

ところがそこから拡大解釈が生じて、「風邪はいくらでも引けばいいのか」と思われることもあるが、そこはちょっと慎重に考えたい。

たしかに本を読めば風邪を上手に経過させる方法は沢山紹介されている。ところが発症してから手を打つようではちょっと遅いのだ。本来は常に身心の平衡が保たれていて、風邪が要らないような生活者であることが最善である。

簡単に言えば「心・体」の両方にしこりがなくていつでも柔らかい状態を目指したい。それには平素における身体感覚の練磨が要求される。整体は「身体の感受性を高度にする」ことが真の目標なのだ。

もう一つ、子供は大人よりも体力があり丈夫だ、・・けれどもそれでいて脆い。風邪の経過でも処置を誤ると、本当に命が危険にさらされる。そういう観点から、安易に「野口整体のやり方で・・」とやろうとすると、無自覚なリスクにさらされることがある。これは誰しもやってみると追々わかる・・。

病症経過を的確に促すには、「身体が読める」ということが大前提で、何事も生兵法はこわいものだ。整体という生き方を実現するには、まず頭の理解に3年、身体ができるのにも、(個人指導や活元運動を続けながら)どんなに早くても3年くらいは見積もった方がいいだろう。

努力してやっとできるようになる、というよりも好きなら自然と続くものだ。好きこそものの上手なれで、やってみたい人はやっぱり先ずは本から入るのがやさしい。何回読んでも記憶から内容が漏れていたり、実体験に照らし合わせてみて「ああそうか」とようやく解ることも出てくる。

ともかく風邪を一度もひかずに死ぬ人などまずいないのだから、誰の手元にも置いておきたい珍書であり、良書だ。実際好みの問題が大きいのだが、一読して損はない一冊だろう。

病症が身心を治している

今日は2才の息子が保育園から早退してきた。昼食、お昼寝のあとで蕁麻疹が出たと連絡があったのだ。保育士さんからは「お昼に食べた物(が原因)ですかね?」と聞かれたけど、どうもそういう感じでもない。念のため脈をみる・・、とやっぱり中庸、というか普通だ。

もしかしたら一昨日、散歩でかなり歩いたからその疲れが出たのかもしれないし、原因は今のところちょっと判らない。ただ一息四脈ならそれでいいではないか。こういう時にはいつも「整体」の見方と一般の方が見た時との「病気観の違い」を痛感するものだ。

野口先生が整体を勧めていくのに取り分け苦心された、というか難儀したと言われているのが「常識」という壁だったと言われている。「常識」というのはそれだけ手ごわいのだ。

多くの場合は病症が出たときだけが「病気」と考えられて、その時を「異常」と診る。ところが整体をやっていくと、そうは観えなくなって来る。「病症が出た時にはもう治った時」と、こういう風に感じる。治り始めの僅かな動きを察知して、その時に「調子が悪い」と感じ、その後症状が出た時にはもうほとんど経過は終わったのだと、こういうことになる。

「その前」に必ず何か調子を乱すショックがあったのだ。それが身体を緊張させて病気の必要性を生んだ。病気のほとんどはそうした未消化のショックやストレス体験を処理するための弛み現象である。病気そのものが治る働きといわれる所以だ。

極論を言えば、何を正常と見て何を異常と見るかという、「正常・異常のライン」をどこにひっぱるかの違いなのかもしれない。

常識的には「病気がなくなることが健康だ」、こういうことになっているが本当に病気をしない人間などいたら薄気味わるいのだ。そもそも風邪だって黴菌が入ったからそれをやっつけるために熱が出るのだから。でもその一方で、「解熱剤」という薬があることを考えると、薬は黴菌に加勢していることになる。そうすると「薬」というのは「毒」ではないか。

こういう風に考えていくと、病気を治そうとしていろいろと手を加えていることの意義自体が疑わしくなってくると思うのだが。ここまで理詰めて考えても「そうは思わない」という人はごくごく「常識的」なのだ。そういう人はそのまま常識というお守り札を持って生きていけばいい。

ところがそういうお守り自体、もともとは人間が作ったものであって、それを握って安心を得ようというのは本来可笑しなことである。

%e5%a4%a9%e5%8b%95%e8%aa%ac「常識」というものは一日でひっくり返ることがある。これに対して真理は不変なものだ。真理と供にあることを選ぶ人は、何もしないで身体の感覚に委ねて生きはじめる。そうやって世の中を見渡してみると、いろいろなところに遍満する「常識の矛盾」に気がつくはずなのだが。

常識は人間が考え造りだしたもの。真理はその人間を生み出したもの。どちらでも選べる自由性を誰にも等しく与えられているのだ。どう生きればいいかなど最初から分かっている、自分の身体感覚に訊ねればそれでいい。

来談者中心療法を考える

去年の今頃はカール・ロジャーズを読んでいた。彼の「来談者中心療法」という手法に感心をもって、整体に反映できないものかと模索したのだった。現在に至ってどの程度仕事に活かされているかはちょっとわからないけど。

技術的なものは何でも勉強したてのホヤホヤでしっくり馴染んでいないもの、またそれが「技」として目に見えている間は使えていないことが多い。学んで、飲み込んで、消化して、すっかり忘れてしまった頃になって初めて身に付いたと言えるだろう。

さて、来談者中心療法とは何かというと基本的態度としては「無条件の肯定的関心」と「共感的理解」を説かれていて、一貫して相手を受容する融和的な姿勢を重視する。

なんでこれが治療になるのかというと、人は無条件に肯定、賛同されるとそれだけでにわかに力が抜けてゆるんでしまうからだ。全ての力は抵抗してくる対象物があってはじめて存在できるもので、相手が対立するほど強くなるが、受容されると消えてしまう。壁だと思って押したら暖簾だったというようニュアンスだろうか。

だからカウンセラーが自分を立てず、また相手の存在も素通りして、どこにも主体を置かないような態度に徹する時、お互いの世界が全一的に融けてしまう。

治療者やカウンセラーの力量というものは知識や肩書ではなく、最終的には良質のコミュニケーションを確立する能力だといって相違ない。これはもはや「人間性」という範疇のものであってテクニックではないだろう。

外からどんな技術を施してみても最終的に治る力は来談者(クライエント)の中にしか存在しない。そのクライエントの力があってはじめて治療者の力も使えるのであって、よくよくそこを考えてみるとどちらの力とも言い難いのだ。

結局のところ他人がいくら気張っても、当人が治る時にならないと治らない。

治る時が来るまでは「ざる」なのだ。どんなに有益なものを目にし、耳にしても、みんな本人の身体を通過してしまう。

逆に言えば、治る時が来たらあらゆる力を自分のものにして治ってしまう。

そう考えると余人ができることは、「その時の波」を乱さないように何もしないで「待つ」こと以外になくなってしまう。東洋思想でいう所の「無為」というものはこれをよく言い現したものだと思う。

ヒーラー、治療者、指導者など、他者をリードする立場にある人は、「自分は相手に一体何ができるのか?」ということを常々考えつづけるものだ。「治療」ということは「何かする」ということと、「何もしない」ということの間にある。

ここでふと思い出して、野口晴哉の『治療の書』を開いたら次の一節が目に止まった。

我治めて治療あり 我慎しみて治療あり。
我 我無くしてのみ治療あり。
治療といへること 我が行うに非ず。人に施すことに非ず 治すことにも非ざる也。
たゞ我 我無くして靖らかなる為也。宇宙の靖らかなる為也。(全生社 p.131)

自分の整体探求もだいぶ遠くまで来たと思ったら、依然としてお釈迦様の掌の上だったという話だった。自らを修めて、他を治める。一体「何」が「何」をしているのかわからない。「治る、治らない」とは如何なることなのか。ここ辺りの問いが整体指導の急所だと思う。

感情というエネルギーの流れ道

体が硬くなる、偏る、こういうことが万病の根源である。一般には「コリ」とか「歪み」という表現が目立つが、何かそういうものが「悪しき現象である」というにおいを整体的立場としてまず排除したい。

「万病」という言葉一つとっても、どうしても「病気にさえならなければ良い(=病気でないことが健康)」という気配が付いてまわる。しかし病気が健康のバランサーであることは、整体をやる方にとって最初に理解していただきたい関門だ。

病気は身体の偏りを正すための特効薬的な働きを示す。中でも発熱はもっとも身近な妙薬と考えて良い。

さて、しかしながらそういう病気の世話にならなければならない身心の在り様というのは、やはり好ましいことではない。最初の硬張りや偏りが「何によって起こるのか」を知ることが整体指導を受けるための第一歩だ。

ひとことに言えばそれは「感情」というエネルギーのなせるわざである。俗にいう「喜怒哀楽」というものが、その通り、感情の発露として身体が使われれば硬張りも偏りも生じない。つまり「泣く、笑う、」といった生理的な動きが理性によって抑圧されなければ、エネルギーは体運動に乗じてひとりでに流れて行って消えてしまう。

問題なのは、人間は社会的生き物であるために感情が発動してもその通りに行動できないことがままある、ということだ。一般社会では、表出しそこなった感情エネルギーは抑えていれば「消えた」と思われるが、生きた身体を観察する立場から言えば「出しそこなった感情」は身体のどこかに仕舞われたままなのだ。

しかも、その仕舞われた感情は時間とともに澱んだり、増幅したり、変性したりして当人の自我意識を絶えず刺戟(時に支配)して来るからそれだけ注意が要る。そうした感情エネルギーの鬱散現象が「病気」、或いは「怪我」と言われるものと思って相違ない。

整体指導ではその仕舞い込まれた感情の「発生した時点」を捉え、消失に向かってリード(誘導)したい。感情の鬱散には様々な方法があるが、怪我をしたり、物を壊したり、兎角破壊的方向に行きやすいのが問題だ。一方では慈善事業のような公的仕事や芸術活動等にも化けるので一概には悪くも言えないのだが、こんな風に体内に感情の不発弾がいくつもあるのが「人間」の実体だという風に私は思っている。

先に書いたような社会的有用性があるエネルギー活動ならば本人的にも問題がなければ放っておいて良いわけだが、自分の身心や外的社会との不適合につながるような鬱滞したエネルギーはやはり整体指導の対象となる。エネルギーの鬱散方法としてよくスポーツなどが使われるが、これも一長一短の感がある。現代的スポーツの多くは「ゲームに勝つこと」が優先されやすいので、必ずしも鬱散になるかというと、たまたま「そうなる」時もあるし、「ならない」時もあるからだ。逆に停滞した感情エネルギーがスポーツの場で「怪我」となって現れるケースが多いのも実状だ。

整体指導はまさしく、身体に沈潜した感情にピンポイントで触れるために存在する。それも「触れた、触れられた」という感触すら残さずに行うのが技術なので、「あそこに行っても何をやっているのかわからない」と思われたらそれはしめたもので、最上だと思う。

兎も角、過去に沈められた感情を浮かび上がらせ、流れ道を作ることさえできれば、もうそこからすべてが変わっていく。指導者の力と言えばそうだし、同様に当人の意志力も要する。心にも体にも平衡要求という力が絶えず働いていて、平たく言えば生命は常に治りたがっているのだ。治るために毀れている。毀れたのだから、もう同時に治って来ているのだと心得るべし。

こんなことを指導の場でも活元会でも、このブログでも、何度も何度も言ってきた事であるが、ここを共有できないと指導にならないのでいつも繰り返している。人間を動かしているのは理性ではなく感情であることが解ると、まず最初に日常における自身の心に対する態度が変わってくるのではないだろうか。整体は「本当に自分を大切にするとはどういうことか」を深く考える場でもある。

気合と勢い

・気合といふこと、操法の大事也。彼の実を虚ならしめ、我の実を彼に移す。彼の実、病気の塊り也、我の実、健康なる正気也。彼吐く時我吸い、彼の吐き切る時我が指に力を入れる、この呼吸適へば、忽ち彼満つ。
これを気合といふ也。(野口晴哉著『治療の書』全生社 p.118)

・私は先生の気合を思い出した。先生の気合は比類のないもので、琴を立てかけ、何本目といって買い合いをかけると、その糸だけがピーンと鳴った。山道で気合をかけると、他の人の声はみんな谷に落ちるのに、先生の気合だけは、遠い山脈に、唸るように、波打つように消えて行った。
そんな気合を、先生はここ(御岳)で会得したのだろうか。(野口昭子著『回想の野口晴哉』ちくま文庫 p.28)

今日は夕飯をすませたあと、子どもと家で気合をやって遊んだ。

整体法には呼吸法が伝わっている。邪気の吐出法、漏気法、深息法、気合法の4つだ。

もしかしたらもう少し、奥義のような秘密裏の呼吸もあるかもしれないけれども、そこまで奥のことは私は知らない。

 

気合法というのは、イエーイという音声を出して、下腹部に強い膨満感を生む呼吸法である。琴やキターのような弦楽器に向かって気合をやると反響するから面白い。

家には琴はないのでグレゴリオチャイムで遊んだ。エーイ!と気合をかけるとイーーン・・と鳴る。

1歳半の子供がキャー!と発声しても鳴るので、波長さえ合えば共鳴することが判った。神秘性はなくした。極めて物理的ではないか。

久しぶりにやってみると、発声とともに仙腸関節がぐーっ引き締まるのが如実にわかった。さらに両足の拇指球がぐさっと突き刺さるような立ち方になる。

 

腰がびーん!っと締まるような感じで、簡単に言うと「やってやろうじゃないか」の心境になる。

整体操法の究極は人間に潜在する力を奮起することなのだ。

こちらの勢いが相手に共振するようにする。

 

相手の勢いを喚び覚ますのはこちらの勢いなのである。

指導する者はそういう「圧縮した力」を瞬時に爆発させる技術が必要だ。

 

さて気合を繰り返しやっていたら、梅雨の鬱滞感もサッパリと消えていた。理屈をこねてもどうにもならない時は、自分で自分に気合をかけてしまえばいい。

本当のことを言えば気合に音声はいらない。いちいち大きな音を立てるのは虚の活かし方を会得するための実を使った稽古である。

 

単なる大声でガアガアいったって、それは形骸化した迷惑行為にしかならない。

実際に気合いと練るには「真剣に生きる」ということに尽きる。

 

裡なる要求を知り、その実現に向けて全生命を傾ける。

詰まるところ気合の要訣はこれだろう。

今を無駄にしてはいけない。

今を生きよう

今という「機」に間に合うからこその機合いなのだ。

神仏の正体

私がお話するのは、いままでの学問的な考え方だけでは考えきれない体の問題なのであります。私たちの胸の中に肺臓と心臓があるということはどなたもご存じですが、それを動かしているある働きがあることには気がつかないでいる。例えば、恋愛をすれば食事がおいしくなるし、好きな人に出会えば心臓が高鳴ってくるが、借金をしていると食事もまずいし、顔色も悪くなってくる。このように恋愛とか借金とかいうものによって生じてくるある働きと、肺臓とか心臓とかいうものが関係ないとはいえない。ところが胸の中を解剖してみても、レントゲンでいくら探してみても、そういうものは出てこない。だから人間の生活の中には解剖してしまったら判らない、また胃袋とか心臓とかいうように分けてしまったら判らないものがある。電報一本で、途端に酒の酔いが醒めてしまうこともありますが、どういうわけで醒めるのか判らない。その判らないもののほうが、却って人間が健康に生きて行くということに大きな働きを持っているのです。(野口晴哉著 『健康生活の原理』全生社 pp.3-4)

生き物を生かす不思議な力

サムシング・グレートとは、具体的なかたちを提示して、断言できるような存在ではありません。大自然の偉大な力ともいえますが、神といってもいいし、仏といってもいいような存在です。とらえ方は自由なのですが、ただ、私たち生命体の大本には何か不思議な力が働いていて、それが私たちを生かしている、私たちはそれによって生かされている、という気持ちを忘れてはいけないと思います。(村上和雄著 『スイッチ・オンの生き方』 致知出版社 p.90)

活元運動を指導し始めて6年余りになるけれども、「活元運動をやると、何がどうなるのですか?」という直接的な質問を受けたことは一度もない。

何だかわからないけれども、お集まりいただいて、手を当て合って、活元運動をして来た。

ところがこの「何だかわからない」というものの中に、生命の働きが内包されている。人の頭でわかるようなものは精々その程度なのだと思ってしまう。

人間が生まれる、ということ一つとってもその活動の実体はほとんどわからない。

一個の生殖細胞がおなかの中で数十兆に膨れ上がり、「その時」になると陣痛がはじまって外界に現れる。

何故そうなるのか、それがわからない。わからないまま、人類創生以来、ひとつも困ることなく命を継いできた。

文明生活はそのわからないものを暴こうとして、生命を捏ね繰り回し、難解にし、調和に抵抗してきた。

調和させよう、させよう、という絶え間ない知的探求が、自然の精妙な均衡を脅かしてきたのだ。

それならば、その「わからないもの」をわからないまま、煥発して、ぐんぐん生きて行く方が都合がいいのではなかろうか。そういう考えが沸いてくるのも自然であろう。

元来、祭りや舞踊、歌にはそういうちからがある。

ただそれには、文化や風土、宗教観、時代性、地域性、いろいろなものが付随してくっついてくる。それらは、相互に対立や矛盾を生む可能性も孕んでいる。

人の「考え方」というものには、対立が付きまとうのだ。

そういういっさいの付属物を剥がし、純粋な生理機能に濾過したものが活元運動であると言っていい。

生き物は、生まれた瞬間から、絶えず「そういう風に」動いている。

何故かはわからない。

わからないけれども、わからないことで一つも困らない。

不自由もしない。

知ろうとすれば、わからなくなる。真を求ればたちまち真に背く。

わからないままでいい、というと全てがわかるようにできている。

むずかしいことは一つもない。

五官に任せれば、全てが一度に手に入るではないか。

感じて動く。

生命体とは、感じて動く感動体なのだ。

認識には誤りがある。

感じ方に間違いはない。

神も仏も、みんな、はじめから生命に宿っている。

その光が、そのまま現れるようにすればいい。

そのためにどうすればいいかも、自分のいのちで感ずればわかるようになっている。

パラダイムシフト

病気を全うする

すべて調和というのは、一つ違っても調和ではないのです。そういうことは体が知っている。

私は、初めは病気を治すつもりで治療ということをやっておりました。そのうちに、人間が病気になるということは全く無駄なことだろうか、と思うようになりました。そう思って観ると、病気をする人は、病気しないといけない状態になっている。そして病気して経過すると、今までの疲れが抜ける。眠っている力が出てくる。ひょっとしたら、病気はそういう居眠りしている力を喚び起すためになるのではないだろうか。

…前屈みの人は、ある状態以上に屈んでくると風邪を引く。それを通ると腰が伸びてシャンとしてくる。そこで、風邪や下痢は体を調整するための働きではないか、それなら人間が病気になるということは、無意味なことではないと思いました。とすれば病気を治すよりは、病気の経過を全うした方がいい。そう思って観ていますと、大部分の人は病気のあと元気になります。けれども、その経過の中でちょっと気が乱れたり、不安な気があったり、臆病な気があったりすると、病気になって却って体が弱る。それは焦るからなのです。

病気を全うするということを考え出したのは、病気を自分の体力で経過した人が、その後みんな元気になるということをみたからです。顔色を見てもスーッと透き通って、濁りがなくなっているのです。

…それを経過の途中で止めたり、抑えたりした人は、病気をやっていよいよ弱くなってくるし、病気をやったあとも濁った顔になっている。そしてまた病気をするのです。本当は病気をやっているうちは蒼くとも、経過し終えたならばスッキリと透き通って、綺麗になってこなくてはならない。働いても疲れない体になっていなくてはならない。それがそうならないというのは、経過を全うさせなかったからです。(野口晴哉著『愉気法 1』全生社 pp.36-38)

以前は慢性病・難病系統の方が一定の割合で来られていたが、最近の方をみていると姿勢の問題や肩・背中・腰周辺の痛みや違和感などを訴えられる方が多い。いわゆる「整体院」の領分という感じを受ける。ホームページの内容が少しずつ変わっているのでその影響だろうか。

身体が硬張って姿勢が偏っているような方は、いわゆる風邪など何年も引いていないということがめずらしくない。手を当てていても、はじめの内は気が通るまで何十分もかかる。ところが数回通ううちに下痢をしたり、熱を出すようになると、そこを境に姿勢が変わってくる。まるで熱で身体のこりが解けていくように、正しい位置に戻っていく。

風邪に限らず病気というのは身体の平衡を保つための調整役を担っている。その病気を「わるいもの」として駆逐していけば、身体は知らないうちに鈍り、老朽化してくる。

何年か前に、すい臓がんの治療中の人を観たら操法の数日後に肺炎を起こして入院してしまった。愉気によって潜在体力が煥発したものと思ったが、その方はそれっきり来なくなってしまったので予後についてはわからない。

西洋医療とは身体の見方、持って行き方、理想形がほぼ真逆なのだ。我々と共有できない部分がない訳ではないが、整体によって丈夫な身体を保つ、育てると言った場合には、どこかでパラダイムシフトを要求される。

うちの整体に関して言えば、30、40代で始められる方が圧倒的に多い。このぐらいが考え方の転換期としてちょうどよいのかも知れない。物事には「その人の、その時」というのがあるのは間違いないが、整体をやるには早いに越したことはない。これはまぎれもない事実なのだ。

ただ歳をとっても頭の柔軟な人は、腰もやわらかい。逆に整体の必要な人ほど身体も考え方も固く、新たな価値観が受け入れにくい。こんな時ほど指導者の力が問われるわけだが、論より証拠で自ら元気な姿を見せることが何よりだろう。

愉気の領分

以前書いた「内外一如」のつづき。

…けれども、愉気をする場合に、そういう外から見えない心の内側のことを頭において手を当てるのと、見える処だけに手を当てて治そうとするのでは大分違ってくる。例えば、相手のいっている言葉じりだけをつかまえて議論したら、その議論に勝ったところで相手は負けていない。くだらないことで上げ足をとられたと思っているだけです。そういうように、見えるところだけで話し合うには、人間にはもっと奥があるんです。だから、その奥にある人間に手を当てることによって、こちらの奥にあるものと交流するのか、それともこちらの手と相手の体とが接触してそこで感応するのか、この二つは似ておりますが違うのでありまして、体に手を当てるだけなら、皮膚の傷は治っても心の傷は治らないのです。人間の体の毀れている中には物理的な打身で毀れているものがたくさんありますけれど、心の打身で毀れているということの方がもっと多いのでありまして、体に手を当てることが愉気だと思っている人は、皮膚の奥になると感じないから治せないのです。

“これは木綿だろうか。御召だろうか、銘仙だろうか”なんて思って触ると、これは銘仙だ、御召だということはすぐに分かるが、その体の中は決して分からない。そうでしょ。自分の注意の集まる処だけしか分からない。それが体の中や心を感じようと思って触ると、体の中や心も感じられるのです。

ただその人の注意や、考え方、感じ方、気の集まり方で、その人の感じ方が違ってくる。だから愉気しても、気なんか感じないという人は、着物しか触らない、「あらウールだわ」と、ウールに愉気しているだけなのです。

ですから、人間に心のあることを知り、更に奥にある生命の働きというものにぶつかるつもりで愉気をして、気が集まると、そういう働きを直接感じるようになるのです。だから自分の中身が拓かれていくと、それに応じて触って分かることが違ってくる。違ってくるとその働きかける場面も違ってくるのです。(野口晴哉著 『愉気法1』 全生社 pp.103-105)

野口整体を受ける方にとっては、やっぱり愉気について関心が集まりやすいみたいだ。指導を受けている感覚を頼りに、自分の家族に手当てをされている方もいる。何故かはわからないけれども、手を当てたり当ててもらうことには本能的な快感が伴う。

古来より「手当て」というものには不思議な解釈がついてまわってきた。「薬も飲まないで、手を当てるだけで何故治るのだろうか」と思われることが多いのだが、実際にやってみるといろいろなことがわかる。まるっと「野口整体」という生き方にシフトするには何年か浸る必要があるが、やがては手を当てることが治療の原型であって、投薬などは疑似治療だと思うようになってくるものだ。

薬というのは論理性の結晶だが、手当てなどは近年になって少しその効能に科学のメスが入ったくらいで全体としては判らないことの方が多い。愉気というものはそもそもが、訳のわからないままやっているくらいの方がいいのだ。アマチュアの場合は特にそうだと思う。鰯の頭も信心からで、お守りでも、お祈りでも、念仏でも、訳がわからないから「効く」のだ。ところがプロになる過程でだんだん訳がわかってくる。この辺りがむずかしいところで、一時的に愉気の力が失われやすい。そこでもう一つやり込んでいくと、もう一度その「漠」とした何かに突き当たる。ここではじめて盲信が本覚に変わる。

そもそもが「病症」や「痛み」などは人間の奥にある生命活動が噴出したものである。表層の痛いとか痒いとかに振り回されている間は、延々と後手を踏むはめになる。できることなら頭が痛くなってから頭を抑えるような間の抜けたことはしたくない。いろいろな身体現象の奥には絶え間なく動きつづける「何か」がある。そしてその「何か」には絶対的な秩序が備わってるのだ。その「何か」がお互いにぶつかり合う様なつもりで触れていくと、純粋な感応が起こる。

不思議なことは何もない。母親が子供を抱いてあやすのと同質のものだ。体の異常を治しているわけではないし、心を癒そうなどとも思わない。ただ抱いている。何万年もそうしてきたのだから、何より事実が証明している。本来は技術とも呼べないようなものだし、当然名前も付いてない。だけれども、命を繋いできた「何か」があるのことだけは間違いない。この力を一応は愉気と呼ぶことになっている。

最初からあるものだけども、それに気づくために修行はいる。それでも修行してこれからそうなるのではない。着眼点が変われば、自分の全部が相手の或る処に集まる。自分自身をよく見てみたって、結局は何が動いているのかわからない。そのわからないもの同士がピタッと当たるようにする。今はそういう感覚で行くのが一番無理がないなと思うようになった。そう言いつつもまだまだ愉気の研鑚の途上である。これというものに執らわれないことが、進歩の秘訣だ。

治ると治すの違い

治ると治すの違い

だから治すということは病気を治すのではなくて、病気の経過を邪魔しないように、スムーズに経過できるように、体の要処要処の異常を調整し、体を整えて経過を待つというのが順序です。

最近の病気に対する考え方は、病気の恐いことだけ考えて、病気でさえあれば何でも治してしまわなくてはならない、しかも早く治してしまわなければならないと考えられ、人間が生きて行く上での体全体の動き、或は体の自然というものを無視している。仕事のために早く治す、何々をするために急いで下痢を止めるというようなことばかりやっているので、体の自然のバランスというものがだんだん失われ、風邪をスムーズに経過し難い人が多くなってきました。しかし愉気法をやって何回か風邪を経過すると、その都度に非常に早く経過するようになり、簡単な変化で風邪を引き、風邪を引くと同時に、或る場所を愉気してもらいたい要求が出てきて、そこを愉気すると皆早く抜ける。だんだんに風邪の宵越しをしなくなるようになっていくわけですが、愉気法以外の方法では、風邪を治した治したとい言う度に、だんだん風邪の経過に鈍くなり、風邪を引いた後も疲れが抜けないのです。愉気法をやると疲れが抜けて体がサッパリし、方々の弾力性が恢復するのに、それが起こってこない。だから同じ経過をしたといっても、自然に治ったというのと、治したというのではかなり違うようです。従って早く治せばいいという考えだけで病気に処することは、別の考え方からいえば、寿命を削る行為ともいえると思うのです。

早く治すというのがよいのではない。遅く治るというのがよいのでもない。その体にとって自然の経過を通ることが望ましい、できれば、早く経過できるような敏感な体の状態を保つことが望ましいのであって、体の弾力性というものから人間の体を考えていきますと、風邪は弾力性を恢復させる機会になります。不意に偶然に重い病気になるというようなのは、体が鈍って弾力性を欠いた結果に他ならない。体を丁寧に見ていると、風邪は決して恐くないのです。(野口晴哉著 『風邪の効用』 ちくま文庫 pp.40-42)

手を当てて(愉気によって)子供の風邪が治ったというとやはり巷ではおどろかれる。一般の方の価値観(常識)というのは、定期的に自分の立ち位置の特殊性を教えてくれるものだ。自分の場合は28歳から整体をやり始めてちょうど十年だが、以来、目薬を差したことがあったが(それも半強制的に)、その他は薬を使ったためしがない。こんなものは自慢でもなければ誇るような話でもない。ただただ天然自然の妙に敬服するばかりである。

しかしながら、愉気(手当て)で治ったということになると、今度は「薬」から「手」の方に信が移りやすい。いわゆる超能力崇拝とか聖人信仰の軽度のものだ。ところが手を当てて治るようなものは、実は手を当てなくても治るのである。それどころか、生きているものはみんな治ってしまう。ただし手の施し方によって、治り方がちがう。プロセス・イコール、結果なのだ。

もとより自然というのは至高のものである。ところが「人間に於ける自然とは何か」と考えると、ただ与えられたままの自然では力にならない。人為の中に無為の自然が現れるように訓練するのである。端的に言えばそれは活元運動だが、日常の中でいつでもどこでも活元運動が発動している人が愉気をする資格を有する人だ。実際にそこまではむずかしいので、手を当てる時くらいは自然に対する信頼の心が現れるようにしたい。それには体験を通じて、自らの自然生命に目覚める以外にない。

もとより身体上の現象にこれから治すようなものは一つもないのだ。痛いといった時にはもう治り始めている。病気と治癒は一つの現象の2つの側面なのである。これが解らないうちは本当の愉気はできない。それでもできないなりにやっていると、或る時にぱっと愉気になっていることがある。「やっている」ものが消えると、人間的な作為や造作がなくなる。その時すべてが上手くいく。雑念で見えなくなっていた秩序がふいに現れるのだ。これを古人は「妄息めば、寂生ず(もうやめば、じゃくしょうず)」と示された。治そうというものが消えたとき、すでに治っているものが出てくる。生命とは須らく任運自在の境に浮かんでいるものなのだ。

子供の発熱の処置

…そういう教育は、繰り返し行われると、潜在意識の中に滲み込んでしまって、滲み込むとすぐ体を支配するのです。例えば、“四十度の熱が出たらもう駄目だ”などと思うと、すぐ元気がなくなり食欲もなくなる。けれども整体に来ている人達には、熱が出て食欲がなくなるなどという人は極めて少ない。「三十八度しか出ない」「まだ九度なんです」ときまり悪そうに言う。「なんだ、あなたの体力はそんなものですか」と言われそうで、四十度を越さないと幅が効かない。事実、四十度を越しますと、親から貰った梅毒のようなものでもなくなってしまうのです。だから子供の病気に高熱が伴ない易いということは、一面、親から遺伝してきたものに対する消毒の意味があると思うのです。だから私は、子供が高い熱を出すと、“これで安心だ”と思うのです。それがなくて大人になってから早発性痴呆になったり、脱疽になったりしたのではたまらない。ところが近頃では、熱のでることまで予防するようになってきました。ひょっとすると、もう二、三十年の内には、二十歳位になって突然気が狂うような早発性痴呆の人達が多くなるのではないか、その他にも、まだいろいろ抱えている病気の消毒が済まないまま成人していくのではないかと、その点では大変怖いと思うのです。(野口晴哉著 『整体法の基礎』 全生社 pp.22-23)

今日は“まくら”の引用文が重厚になってしまった。太郎丸の風邪の経過記事が途中になっていたので、まとめることにした。

結果から言えば発熱はおとといがピークで39.5℃まで上がった。40℃の大台も予期したが、今回はそこまで至らず、しかもデジタル体温計だったので実際はもう少し低めだったかもしれない。

野口先生の時代には「発熱は怖くない、活用すべし」と言ったら方々から非難を受けたそうな。ところが現在は西洋医療でも熱は下げない方がいい(下げるなキケン)ということが、ほぼ明らかになっているみたいだ。ただこれまで発信し続けた「常識」の手前、明言できずにお茶を濁しているというのが実情ではないだろうか。

「真理」は絶対無二だが、「常識」というのは流動的で薄弱なものだ。だがそれと同時に常識は頑迷でもある。常識に抗して地動説を唱えたガリレオはそのために処罰された。常識が覆ってからも、彼が死んでからも刑は解かれず、罪を許されたのはなんと20世紀に入ってからである。権力というのは凄まじい。今だったら天動説が非常識ということになるのだろうが、本当は天も地もはじめから動いてなどいない。発熱に対する「解釈」も似たようなものだろう。熱はただ熱として出ているだけである。

何にせよ現代に至って、それだけ野口整体と一般常識との落差が減ったのは、やりやすい反面やりがいも減じた気がする。カウンター・カルチャーが徐々にサブ・カルチャーになり、メイン・カルチャーとなった時にはその存在意義も消えてしまう。これはこれで寂しい。

少し熱の処置のセオリーを書いておくと、整体では発熱のピークに差し掛かったところで後頭部に蒸しタオルを当てることがある。本来、体力充分であるはずの1歳児ならこんなことをする必要もないのだが、今回は緊張がゆるみきらないので少し熱刺戟を使うことにした。ここからリズムが順になって、経過が良好になったうようだ。

注意したいのは、「子供が熱を出したら後頭部を温める」と覚え込むと、いま実際に、目の前で活動している〔身体〕を見失う。いわゆる自然界には「同じことは二度起こらない」という一大法則がある。その一回性の出会いに対して適合する方法は、過去の知識の堆積から見つけることは不可能だ。

〔今〕を知りたければ、〔今〕から学ぶ意外にない。整体操法とは元来、即興力の連続で構成されているのだ。そのヒントは過去の事例の中にもあるが、過去の中には答えそのものはない。記憶の蔵を漁るのをやめて、いま目の前で燃えている命の色を観ることだ。さすれば今何をすべきかは自分の命で感じ、自分の身体でわかるように出来ている。これがわからないようでは、鈍っているのだ。

他人の自然に立ち入る前に、自分の自然を守ることだ。自分の自然が表出すると、「あちら」と「こちら」の垣根は消える。それは看病、整体操法における基本であると同時に、充分条件でもある。方法論は何処まで行っても方法であり、手段でしかない。手段の奥にある理合いを感じ、そこを出発点として感じ、考える頭が欲しい。そしてその頭が消えさえすれば、愉気は無量の光となる。