2日前、ウチの指導室に野口先生の写真がやってきました。(もちろん写真がいきなりドアからコンチワ~って入ってきたわけじゃなくて、いただいたものです。

開業するときに、「やっぱり野口先生直筆の色紙なんかがあるといいよね、あげましょうか~?」と言ってくれた人もいたけど、なんとなくその方とは縁が希薄になって流れてしまった。自分の力量がそこまで及んでいなかったんだろうな。

それから約2年半が経ち、別の経由で写真を頂いたのは僕としては妙に感慨深い。そんな今日は僕には特別な日でもあるのだ。

今から36年前の今日、野口先生がこの世を去られたらしい。その翌年の昭和52年に僕は生まれたので、どうあっても今生では逢えない人だった。逢ってみたい人だったナ・・。

でもそのおかげで円熟期の今の師匠と出会い、次の世代に志を繋いでいけると思えばそれも又よし。

なんとなくで始まったこの仕事も、様々な悩みを抱える人たちが様々な課題を持って指導室にお越しいただいたことで、仕事によって鍛えられ、今日があったりする。

お客さんと一緒にうれし涙を流す時もあれば、なかなかいい結果が出ずにホゾを噛む思いもありで、毎日精進あるのみだ。整体指導は仕事以前に、自分自身の葛藤を制することが最低条件だし、それが全てだったりもする。

自分が整えば全て解決する。そんなことが学べるのがこの野口整体というありがたい世界。「道」はいつでも近くて遠い。遠くて近い。倦まずたゆまずの精神で、これからも一生かけて自分の速度で歩いていければいいと思う。

今夜はカザルスのチェロをかけながら洗濯物を干して寝る。

化膿活点

昨日の庭仕事のあとで夜中に猛烈な痒みにうなされた。毛虫の被害だ。ガーデニングではよくあることらしいのだが、その辺りはまったく無知だったため無防備であった。慣れた方々は暑い日でも長袖を来て土いじりをしている理由がようやくわかった。

虫に刺された時はどうするか?と訊かれれば、まず皮膚科に行くことをお勧めする。自分の場合は研究心から化膿活点という虫刺されの急所を確認したのだが。化膿活点は二の腕の外側にある、別称は上肢第六調律点という。自分の化膿活点はどういうわけか普段はわかりにくいのだが、昨夜はここぞとばかりにゴリゴリに腫れている。昔の人はよくこんな処を見つけたものだと感心した。

化膿した時、毒虫にされた時―化膿活点―

20160611

虫に刺された時、クラゲやオコゼなど毒をもったのに刺された時や、釘などをふみ抜いた時、生爪など化膿を警戒する必要のある怪我などに使うと効果があります。上の写真の場所(上膊部)にコリコリができるから押さえればいい。これは自分で簡単にできます。

ただ、その前に、刺された場処、怪我をした場処の血を、できるだけしぼり捨てること。こうすると、血液と一緒に毒素も洗い流されるからです、愉気をしておくとなおよいが、腫れたのなら、もう心配ない。(野口晴哉著 『整体入門』 ちくま文庫 p.183)

生理学的に説明すれば、いわゆるリンパの流れを司る処だ。操法がきちっとあたれば、細菌の退治やウィルスへの抗体作りを助勢する。普段的には「むくみ」の解消にも使える処でもある。

一節にはマムシに咬まれた時でもここを押さえて助かったという記録まで残っているのだから凄まじい。ただし昔の人の生命力や野生の強さが土台にあることを見逃すことはできない。現代人は絶対にマネをしてはいけない話だ。

季節がら多少需要のある技術と思うので、今月の活元会では化膿活点の稽古をしておこうと思う。

潜在意識教育入門

押入れに積んであった野口晴哉先生の『潜在意識教育』 を最近読み始めた。

まだ途中だけど、「空想は独創への道」という項が読み応えがあって面白い。

―模倣を育てるもの―

どうしてこう偽者が多いのであろう。日本人には本当に独創性がないのだろうか。

という件りがあって・・・

「今あるものは全て先に空想があった」、とも言う。

それは例えば、「コップ」というものを作るのでも「鉱物の中の硝子を熱して器状にしたら綺麗じゃないか?」という「空想」が最初にあったから今こんなにいっぱいあるわけで・・。

そんなこと当たり前でしょ、とかって言ってるけれどもこの「ゼロからイチを作れるかどうか?」に人間存在の価値がある。と、そういうことを言っているんではないか。

じゃあ、その空想する力って何ですか?って言ったときに空想力・創造力・独創力というのはみんな「身体能力」なんだよ、っていうのが野口整体だ。

野口整体は心の学問だけど、心理や精神的な話の中にあって、どこまで行っても身体を離れることはない。それはどこをとっても「体は即心」であるし、「心と体を繋ぐ気」の学問とも言える。

「原発」も余所の国の模倣だから、その実態を全体的に掴めていなかった点が不覚だった。どういう利便性と危険性があるのかということがいまいち判らないまま使っていたということだろ思う。

「じゃぁ原子力がなくなったらどうするんですか?」と心配になる人もいると思うけど、方法はいくらでもあるはずなのだ。例えば、「富士山に登る」んでもいろんなルートがある訳です。でも最初はルートが無かった。そこに一人が道を見つけて、そのたった一つの道に慣れ過ぎていたというだけでしょう?一つのルートに頼りっきりだったから開拓する愉しみを忘れているだけなんでしょう。

でも本当は、人間は新しいこと考えるのが一番楽しいはずなのだ。

そう考えると今の日本の行き詰まり感の発端は、模倣に頼り過ぎたことから始まったわけだし、また身体感覚の衰退に端を発しているといってもいい。

敗戦そのものよりもその後で腰骨、骨盤が弱まり、その結果「空想する力」が虚しくなったことがこの民族にとっては一番の損害である。

そういう時代の流れの中で地震と津波で原子力発電所が損壊したことは私には「偶然」とは思えない。何か成長の糧となりうる出来事なする。この世界は「強い種が残るのではなく、柔軟に変化できる種が生き残る」というのはダーウィンの論である。執らわれがなければ変化というのは愉しいものだ。

この世に真の「教育」というものがあるのなら、先ず子供の空想力を汚さない、潰さないというのが第一義的に守られなければならないのだ。

人の身体から空想したり夢を見る力がなくなったときに、本当の意味でこの人間の世の中は終わるんじゃないだろうか。

民族の強さって煎じ詰めればこの空想力だし、すなわちそれは腰、骨盤の弾力と一枚であるということだ。農耕で鍛えた腰肚文化が零戦もウォークマンも作ったのである。

がんばろうというカラ念仏だけではでは容易にコトは運ばないんだけど、もう一度、神話の世界から国興しをする気で「よいしょー!よいしょー!!」とやればいくらでもいい世の中になっていく気がするのだ。今の日本には何よりそういう空想力が大事だと、そんなことを思い起こした。直地点は潜在識教育の話ではなくなった。

正しく座すべし

下は野口先生の書かれた日本人の座法、「正座」に関する考察の文章です。個人の身心の在り方から、ひいては公(国家)に及ぼす影響までを綴っています。今の日本の様相をみれば、当時19歳の青年の慧眼に愕くばかりです。坐は人格を現します。人格陶冶の第一歩は正しい正座からです。健康生活の基礎としても、正座を励行しましょう。

『正しく座すべし』

(昭和6年[1931年]、野口晴哉 十九歳)

正座は日本固有の美風なり。
正座すれば心気自ずから丹田に凝り、我、神と偕(とも)に在るの念起こる。
正座は正心のあらはれなり。
正座とは下半身に力を集め、腹腰の力、中心に一致するを云ふ。
下半身を屈する時は上半身は伸ぶ。
上半身和らげば五臓六腑は正しく働くなり。
正座せば頭寒にして足熱なり。
正座する時は腰強く、腹太くなるなり。

夫人にして倚座(いざ)を為すものは難産となり、青年にして倚座(いざ)を為すものは、智進みて意弱く、智能腹に入らず頭に止まるのみ。
頭で考へ、行う時は思考皮相となり軽佻となるべし。
倚座(いざ)は腰冷ゆるなり。脳に上気充血し易し。正座して学ばざれば学問身につかず、脳の活動鈍くして早く疲れるゝなり。
須らく倚座(いざ)を排して正座すべし。
倚座(いざ)は腰を高くし且つ浮かすを以て、腹腰共に力籠らず。上半身屈み易く、内臓器官圧迫さるゝなり。

アグラをかくべからず。アグラは胡座と書き胡人即ち「えびす」の座り方なり。日本固有の座り方に非ず。平安京時代の公家の座姿を見よ。なんとその胡座に似たることよ、これ彼らの腰の弱かりし所以なり。
日本人たるもの腰ぬけたるべからず。胡座は下半身を苦しめず上半身を苦しむ、これ正しからざる所以なり。
横座りはゴマカシなり、胡座は横着なり。

正座は正心正体を作る、正しく座すべし。
中心力自づから充実し、健康あらわれ、全生の道開かる。
日本人にして正座を忘るゝもの頗る多し。思想の日に日に浅薄軽佻となり行くは、腹腰に力入らざるが故なり。

物質的文明上、西洋を追求すること急にして、知らず識らず精神的文明上、固有の美を失ひつゝあり。
兎角、一般に自堕落となり、上調子に傾きつゝあり。これ腹力無きが故なり、腰弱きが故なり。
此の時、吾人の正座を説き、正座を勧むるは、事小に似て実は決して小なるものに非ざるなり。

腹、力充実せず、頭脳のみ発達するも如何すべき。
理屈を云ひつゝ罹病して苦労せるもの頗る多し。
智に捉われ情正しからず、意弱くして、専ら名奔利走せるもの如何に多きぞ。
先進文明国の糟粕を嘗め、余毒を啜りて、知らず識らす亡国の域に近づきつゝあるを悟らざるか。
危い哉、今や日本の危機なり。
始めは一寸の流れも、終ひには江海に入るべし、病膏肓に入らば如何ともすべからず。
然れども道は近きにあり。
諸君が正しく座することによって危機自づから去るべし。
語を寄す、日本人諸君、正しく座すべし。
これ容易にしてその意義頗る重大なる修養の法なり。

正座再考

野口晴哉先生の作、『正座再考』です。

正座がもっぱら日本人の基本的な座法となったのは明治以降と言われますが、そのことがもたらす恩恵は少なくありません。「腰の強きは日本人の特色なり」失われつつある日本人の基礎力を復興させたいと思っています。

『正座再考』

(昭和六年[1931年]、野口晴哉 十九歳)

正座は日本固有の美風なり。
世間、腰抜け多きが為か、その後、足が痺れるの、痛いのと、苦情頻(しき)りに至る。されど、正座は足を重ね、脚を折り、その上に腰を落ち着けることなり。腰より上を楽に、下を抑圧することがその精神なり。脚が痛むの痺れるも、命に別条なきなり。潔く我慢すべし。我慢のできざるは、これ弱虫なり、腰抜けなり。力、腰の下に集まりて、丹田自ずから充実し、頭脳静穏となりて、五臓六腑が活動するなり。

偶々(たまたま)、人来たりて胡坐(あぐら)す。何故かと問えば、彼答へて「洋服なればなり、すなわちズボンに皺の寄るを恐るゝるなり」と。されど、斯(か)く手は洋服の持ち主に非ずして、洋服の奴隷に他ならざるなり。何ぞその憐れなる。予輩江戸ッ子には如何にも真似できぬ芸当なり。世相日毎に上調子になり行くさまは、これにても明らかなり。

人曰く、「正座せば脚短くなりて醜きなり」と。
予応へて曰く「足の短き何ぞ醜くからむ、脚短くも腰強ければ宜しきなり。角力(すもう)を見よ」
日本人の脚短きに非ず、外人の脚長きなり。されど人の中心は丹田なり。故に茲(ここ)に力集まりて健康となるなり。
脚の長きは中心、丹田に存せずして股に下がるなり、、されば空間なるが故に力の入れようなし、故に丹田充実の真効は、正座せざるものには味わひ得ざるものなり。人体の中心は丹田に在るが正しく、空間にその中心在るが如きは、正しからざること何人も首肯(しゅこう)し得るべし。力、中心に或らざれば独楽(こま)も回転せざるなり 。

徒歩して疲れたる時、脚を伸ばして寝れば、翌朝なほ疲労去らず、脚を折りて寝る時はよくその疲労を癒すなり、正座は脚を疲れしむるものに在らざるを知るべし。
正座して臍の下を向くは正しからざるなり、病弱なり、不調心なり、フラフラなり。臍が上に向かざれば、正座の効を味(み)得(とく)するを得ず。臍の上向くまで正座すべし。二時間でも十時間でも可なり。長時間、座したとて脚消えて無くなるものに非ず、大丈夫なり、心配無用なり。

腰の強きは日本人の特色なり、これ正座によりて養われたる結果なり。近代の人、腰の弱きは正座を忘れたるが為なり。日本人の国民性は、これらの人より漸次(ぜんじ)去りつゝあるなり。用心すべし。正座すべし。
但し腹に力を入れて気張る必要なし、正しく座せば自ずから気力臍下丹田に充るなり。気張りて丹田に力を込むるは、誤れり。

ただ正しく座すべし。正座せば、疾病に冒さるゝも恢復力強し、正座せざれば老衰す、腰弱ければなり。
腰は即ち生殖能力の中枢なり、老衰とは生殖能力の衰退の現象なり。婦人正座せざれば難産す。分娩の中枢は即ち腰なり。
腰定まざれば信念なし、信念なき人は進化せざるべし。正座し得ざる人は頼むに足らざるなり。
人須(すべか)らく正座すべし、これ日本人たる所以(ゆえん)なり

<以上>