正座再考

野口晴哉先生の作、『正座再考』です。

正座がもっぱら日本人の基本的な座法となったのは明治以降と言われますが、そのことがもたらす恩恵は少なくありません。「腰の強きは日本人の特色なり」失われつつある日本人の基礎力を復興させたいと思っています。

『正座再考』

(昭和六年[1931年]、野口晴哉 十九歳)

正座は日本固有の美風なり。
世間、腰抜け多きが為か、その後、足が痺れるの、痛いのと、苦情頻(しき)りに至る。されど、正座は足を重ね、脚を折り、その上に腰を落ち着けることなり。腰より上を楽に、下を抑圧することがその精神なり。脚が痛むの痺れるも、命に別条なきなり。潔く我慢すべし。我慢のできざるは、これ弱虫なり、腰抜けなり。力、腰の下に集まりて、丹田自ずから充実し、頭脳静穏となりて、五臓六腑が活動するなり。

偶々(たまたま)、人来たりて胡坐(あぐら)す。何故かと問えば、彼答へて「洋服なればなり、すなわちズボンに皺の寄るを恐るゝるなり」と。されど、斯(か)く手は洋服の持ち主に非ずして、洋服の奴隷に他ならざるなり。何ぞその憐れなる。予輩江戸ッ子には如何にも真似できぬ芸当なり。世相日毎に上調子になり行くさまは、これにても明らかなり。

人曰く、「正座せば脚短くなりて醜きなり」と。
予応へて曰く「足の短き何ぞ醜くからむ、脚短くも腰強ければ宜しきなり。角力(すもう)を見よ」
日本人の脚短きに非ず、外人の脚長きなり。されど人の中心は丹田なり。故に茲(ここ)に力集まりて健康となるなり。
脚の長きは中心、丹田に存せずして股に下がるなり、、されば空間なるが故に力の入れようなし、故に丹田充実の真効は、正座せざるものには味わひ得ざるものなり。人体の中心は丹田に在るが正しく、空間にその中心在るが如きは、正しからざること何人も首肯(しゅこう)し得るべし。力、中心に或らざれば独楽(こま)も回転せざるなり 。

徒歩して疲れたる時、脚を伸ばして寝れば、翌朝なほ疲労去らず、脚を折りて寝る時はよくその疲労を癒すなり、正座は脚を疲れしむるものに在らざるを知るべし。
正座して臍の下を向くは正しからざるなり、病弱なり、不調心なり、フラフラなり。臍が上に向かざれば、正座の効を味(み)得(とく)するを得ず。臍の上向くまで正座すべし。二時間でも十時間でも可なり。長時間、座したとて脚消えて無くなるものに非ず、大丈夫なり、心配無用なり。

腰の強きは日本人の特色なり、これ正座によりて養われたる結果なり。近代の人、腰の弱きは正座を忘れたるが為なり。日本人の国民性は、これらの人より漸次(ぜんじ)去りつゝあるなり。用心すべし。正座すべし。
但し腹に力を入れて気張る必要なし、正しく座せば自ずから気力臍下丹田に充るなり。気張りて丹田に力を込むるは、誤れり。

ただ正しく座すべし。正座せば、疾病に冒さるゝも恢復力強し、正座せざれば老衰す、腰弱ければなり。
腰は即ち生殖能力の中枢なり、老衰とは生殖能力の衰退の現象なり。婦人正座せざれば難産す。分娩の中枢は即ち腰なり。
腰定まざれば信念なし、信念なき人は進化せざるべし。正座し得ざる人は頼むに足らざるなり。
人須(すべか)らく正座すべし、これ日本人たる所以(ゆえん)なり

<以上>