躾の時期

人間の自律性を信頼せよ

…もっと子供を信頼し、もっと子供の中にある心を尊重しても良いのではなかろうか。意識による知識が余りに多くなると、本当の心の要求というものは判らなくなってくる。子供の要求だけでなく自分の心の要求すら判らなくなってくる。そういうときは、意識を閉じて、無意識に自分の進む方向を訊くということが必要である。

…子供達が親の不安と警戒の為に、反動から反動へと、心を動かして生きるようになったら不幸である。子供達の乱暴な行為の奥にある、その本来の心の動きを感じられるような心で導いてゆかなければならない。…誰だって見栄を張ったり、お化粧をしたくなる時期がある。それを判っていながら、そのようなことを抑えるだけで、方法を教えないでいる。誰かがその心をリードしなくてはいけない。ところがそれを逆に抑えようとばかりして、却って反動を生みだしている。

…やはり、もっと広く人間の心の構造というものが理解されなくてはならない。みんなが人間の心の構造というものをよく知って、それに添って生活を営むことを考えなくてはならない。(野口晴哉著 『躾の時期』 全生社 pp.57-60)

この数日ニュースを見ていたら、「しつけ」について改めて考えさせられた。基本的には「良いことをして、悪いことをしない」、というのを自律的に行えるようにする教育の総称を言うのだろうか。

個人的には、最近1歳から5歳くらいまでの子供にふれる機会が増えた。そのくらいの子供の世界を見ていると、当然イザコザもあるし物の取りあいもある。だけれども、泣いている子供を気遣う心などは既に見える。そういうものが先天的なものなのか、あとから育ったものなのかは判然としない。だけれども、弱って泣いているような子供をさらにいじめるようなモノはない。何か心配して観ている。やっぱり人間というのは、自分や他人の快感を大事にしようという心がはじめから備わっているのではないだろうか。

それなのに、もう少し大きくなって来ると、いじめの問題なんかが出てくる。それから物を盗るのでも、もっともらしい理屈をつけたりして巧妙になってくる。そういうものが、世の中の問題をややこしくしていることは少なくない。個人の身体の中でも、ごちゃらごちゃら言っているモノの根本が見栄だったり、お化粧だったり、さらにその因は、最初に感じた恐怖や不安だったり、劣等感だったり、というシンプルな不快感である。

もう一つ加えるなら、感情エネルギーの鬱滞がある。子供は動きたい要求の固まりなのだが、小学校などに上がると、まず「ジッとしていなさい」という「教育」が始まる。そうすると抑えられたエネルギーはケンカをするか、物をこわすか、イタズラを空想して実行するか、という反発や破壊的な方向に使われやすい。

やがて、ふっとした出来事から「この子は悪い」という「見方」が出てきてしまう。そういうレッテルを大人が貼ったうえから更生しようということになると、潜在的な心は最初に貼られた「悪い」というレッテルの方へざーっと進んでいく。「俺は不良だ」などといって悪く生まれてくる子供はいないのだから、悪いのは悪くない子供を悪くした大人のアタマの方なのだ。大人の世界の問題もこれらが少し複雑に発育したものが相互に絡まり合っているだけで、根本の感情の動きにはさしたる違いはない。

こうした感情エネルギーの健全な鬱散方法としてスポーツなどがよく採用されるが、実際のところ一面的には有効なのだ。その一方で、ゲームに勝つことに拘り過ぎたことによる、無意味なシゴキや、大怪我の問題なども考えなければいけなくなってくる。さらにスポーツは年をとった人やケガをしている最中はできないものもある。

だからそういう方法ばかりに頼らないで、もっと根本にある心の動きが広く理解されないと、しつけにまつわる諸問題はこれからもずっと消えない。求められるのは「人間」に対する精妙な理解ということなのだが、その一番身近な研究材料は自分の心の動きだったりする。だれにでも良いにつけ悪いにつけ、「ついやってしまう」という心の動きがある。その人の人格の根本はその「つい」の中にある。それは表面的な理性の奥にある潜在的な心なのだが、その人を丸ごと動かす力があるのも、その「つい」の方なのだ。

無理なしつけを強いられた子供も「かわいそうに」と言われている内に、やがては大人になる。まずは心と体の弾力を失わないことは基本だ。自分の心の動きが感じられるための身体の教育と指導者がやっぱり必要なのだ。こういうものはマニュアル化して広く普及しずらいのが最大のネックなのだが、やはり人間の感受性に関する理解は一部の分野では着実に進んでいる気はしている。

これに正確な身体的実践が伴えば、これからの100年でさらに良く変わっていくことも期待できるのではなかろうか。公算は半々くらいの気持ちなのだが、自分の職業的立場から言えば活元運動と正しい動作の実践になる。どこをどう押しても、自分の身体以上の指導力は出て来ないのだから、人のことや先々のことを考えるよりも、今の一挙手一投足に目を付けるのが仕事の根本だろう。

やはり最上のしつけは、自分を治めることだ。一人が一人を治めればいいのだから話は簡単なのだが、これこそが人類発生以来の一大問題である。いつの時代も本当の宗教は必要なのだ。その一方で本来のソレは普及も組織化もできないものでもある。自分の心と体を学ぶには、身体を生理的な側面から理解するのが一番の近道であり、唯一の道なのだ。整体はそのため教科書になる。自分の身体にくっついて動く心が読めないうちは、他人のしつけなどはこわくてとてもできない。いや、自分に言い聞かせているのだがやっぱり「つい」やってしまう。人生にはいろんな邪魔者が現れるが、自分のラスボスはやはり自分だ。

内外一如

質問 愉気に対する理解の仕方で相手の感応が異なるのでしょうか。

答 人間は心も体も一つものであります。心も体も魂も何もかもが一つものであり、一個のものであります。その一個の人間を研究上の便宜で分けた、その分けたものにとらわれ過ぎているのです。

顔が綺麗でも、心がいやしければ、その顔には必ずいやしい動きがあります。どんなに醜くみえても、心の美しい人には美しさが反映している。可笑しな顔をしていても動くと美しいのです。あるいは教養を身につければそれが自然に顔に現れるし、頭の空っぽの人は何も言わなくたって、空っぽでございという顔をしている。だから、心と体は決して別のものではない。別のものと見たり、心があるとか体があるとかいうように考えるのは本当ではない。(野口晴哉著 『愉気法1』 全生社 pp.102-103)

「人間は内面が大事である」とは折に触れて聞く言葉だけども、内面というのは即外面に現れているものなのだ。自分の世界というのは「いま目に映っているもの」が全てだし、これ以外には生涯何も出てこない。

パッと見た時には、いつでもそこに〔今〕のトータルサムが映っている。

そして手を当てるという時には、今度はその手の触覚にすべてが映ってくる。愉気の実習を行うと、人によってはすでに触れていながら、相手のことが「わからない、わからない」といっていることがある。本当は触れた瞬間にざっと全部「わかって」いるのだ。

いま、確かに、見えて、触れられているもの、それが間違いなく今の「その人」だ。

何か裏があるんじゃないかといって、追っかけたり、探ったりすると、すでに見えている、触れられている実態がわからなくなってしまう。

生きているということはいつでも、そのままの自分が、さっと事実にぶつかっている。すると誰もが、そのことがそのこととして、その通りに頂ける様になっている。

余分な荷物を背負わずに、いつも自由に、「さらさらさら・・」と生きるためには何よりまず無垢であるということを大切にしたい。目は騙されない。手で触れたことも騙されない。ちゃんと「全部」がそこに現れているのだ。

先ずはそういう目や手が欲しい。貪りを止めれば即座に真実が現れる。あとはそれ「そのもの」に、ひたすら気を集めていく。愉気の基本である。

のり超える力

治療するの人 相手に不幸を見ず 悲しみを見ず 病を見ず。たゞ健康なる生くる力をのみ見る也。不幸に悩む人あるも、そは不幸をのり超えざるが故也。不幸といふも のり超えれば 不幸に非ず。悲しみとて 苦しみとて のり超え得ざるが故に悲しみ苦しみなれど、のり超えれば悲しさに非ず 苦しさに非ず。のり超えたる苦しさは楽しき也。のり超えたる不幸は幸せ也。のり超えたる失敗は成功の基也。不幸あるも悲しさあるも 苦しさ辛さも 要すればのり超える力無きが故也。のり超える力誘ひ導き、その人の裡より喚び起すは治療する人の為すこと也。不幸も 苦しみも 力を喚び起す者の前には存在してをらぬ也。

病も又同じ。のり超える力導く者の前には 病も老いることも 又無き也。あるはただ生命の溌剌とした自然の動きあるのみ。その故に治療する者は生命を見て病を見ず、活き活きした動きを感じて苦しむを見ず。苦しむを見 悲しみを見 病めるを見るは、それをのり超える力を喚び起すこと出来ぬ也。

それをのり超える力喚び起す為には 治療するの人自身 何時如何なる場合に於ても 自ら 之をのり超えざる可からず。導くといふこと 技によりて為すに非ず 言葉によりて為すに非ず。たゞのり超える力 裡にありてのみ その力 相手に喚び起すこと出来る也。それ故治療するの人 悲しさをもたず 苦しさを知らず 病を知らず 不幸に悩むこと無く生く可き也。常に楽々悠々生きて 深く静かに息してゐる者のみ 治療といふこと為すを得る也。(野口晴哉著 『治療の書』 全生社 pp.58-59)

以前松下幸之助さんの伝記を読んだときに、しばしば他の経営者の悩みに応えるくだりがあった。自身の会社の苦境を何度ものり超えて来た経験が指導料力の源になっているのだ。

ちょっと変わって、江戸・明治にかけての剣豪 山岡鉄舟にもよく悩みを抱えた人が面会に来たそうだである。一緒に座っているだけで心のもやもやが晴れてしまうような力があったようだ。

何にせよ相談相手というのは重要だ。力のある人なら「そんなの大したことない、大丈夫だ」と応えるものも、力のない人は「むずかしい、無理だ、やめておけ」とぱっさりいってしまう。みんな自分の延長として相手の力を測っているのだ。

よく考えれば相談する相手も先に自分で選んでいるのだから、どちらに責任があるかというと答えにくい。力のある指導者を見分けられるのも本人の実力の内かもしれない。

逆に指導者たるものは、自分の裡なる力をつねに開拓しているからこそ人の可能性も開けるのだ。整体指導の場では、時に八方塞り、絶体絶命ともいえるような状況を突破するような人たちをたまさか見てきた。「どっこい生きている」とはよくぞ言ったもので、人間というのはしぶといなと思うようになった。時に「艱難辛苦汝を玉にす」という言葉もあるように、苦境ものり超えてしまえば大輪の花を咲かせるための肥料に等しい。

しかし人に全力発揮を説きながら自分自身の力をどれくらい使っているのか省みると、まだほんの2~3%くらいではないかと思っている。苦労は買ってでもすべしとは思わないが、やはり知恵も体力も追い詰められた時に本当のものが出てくるのだ。

できることならこの仕事を通じて「人間の限界」を見極めてみたいと思っているが、その一方で人間というのはやはり底知れない気がしている。自分の中にまだ見ぬ力を感じているし、気がつけば知らない間に相手の力も信じられるようになっていた。生きている人間の中には強い弱い、大きい小さいというもので測りきれない「何か」がある。

畢竟「健康」とか「幸せ」というのは、裡なる力を積極的に使いつづけている状態を指すのだ。だいたい地球上で人間ほど変幻自在な生命もないのではないか。その自在さを余すことなく使い切ってこそ整体をやった甲斐もあるだろう。力は生きている内に使うものだ。休むのは後でいくらでもできるのだから。

汗を冷やさないよう

実際、汗で冷えるのは困る。たとえば、夏になると、赤ちゃんが汗をかくので、風通しのいい所に寝かせて置きますと、熱も汗も出ないで、肺の中心が侵される中心性肺炎になって死んでしまうことがよくあります。風通しのいい所に寝かせて、汗をかくのがいけないのです。汗の処理というのは考えているより重要なもので、なぜその処理が必要かというと、冷えると内攻するからです。活元運動をやって汗をかいて、そのまま拭かないでいたというようなことも、場合によっては体をこわす因になります。(野口晴哉著 『体運動の構造 第一巻』 全生社 p.21)

仕事が終わってから保育園に太郎丸を迎えに行くと、なにやら空気がひんやりしていた。日中はだいぶ日が照っていたけれども、夕食後にまた買い物に出たら風が冷たいではないか。ということで、くどいようだがまたまた「汗の内攻」の話である。

とにかく汗を冷やすと、ガクーンっと調子を崩す。キケンなのだ。時に赤ん坊や幼児はかなり重篤な状態になるので、とりわけ初夏と秋口の汗をあまく見てはいけない。風が冷たく変わったら湿った肌着を取り替えたり、風が直接体に当たらないように上着を羽織らせるなど細かい気配りが必要だ。

整体が説く「健康生活の原理」というのは、案外こういう微細な身心のケアだったりする。派手さはないのだが、効果は高い。しかし日常的すぎるので有難味はない。よって実践する人も少ないのが悩みだ。

実際は、覚え込んだ知識を掘り起こして駆使するというよりは、身体感覚の向上が主眼である。しかし「整体」という感覚が充分育つにはそれなりに時間が掛かるのだ。特に乳幼児のケアなどは緊急性が高いので、こういう系統は大人の方に注意を喚起するようにしている。

すでに汗を冷やして諸々体調を崩してしまったという場合は、直ぐに温めて汗を出すことだ。やり方は先日の記事に書いたので、ご参考までに。今日は窓を閉めて寝よう。

感応道交

だから“胃袋を治すにはどうしたらいいか”と訊かれても、私は、胃袋など観ていない、気のつかえを観ているのです。気のつかえを通るようにする、鬱散するようにする、足りない処には巡るようにする。私の観ているのは気だけなのです。レントゲン写真を撮ったら、こんなふうに曲がっていたとか、こんなふうに影が出ていたとか言っても、それは物の世界の問題なのです。気の感応が気で通れば、どんなに曲がっていても真直ぐになるのです。頭の中の細胞がああなっている、こうなっているといっても、そんなことは問題ではないのです。

手を当ててよくなるものはよくなるが、よくならない感じのするものもあります。それは気の停滞、つかえなのです。つかえて気が動かなくなってしまうと、冷たく感じるのです。冷たく感じられた場合はもう駄目です。そうでなければみんなよくなってきます。だから体に現れて、物として動くのはそのあとのことなのです。自分に必要な物は気が集めるのです。そして体をつくっていくのです。だから体を無理に治す必要はないのです。つかえが取れれば整っていくのです。必要な物があれば集めてくるのです。生まれたときから、いや、お腹の中にいるときからそれをやっています。自分の体は、そういう力がそうやってつくってきたのです。(野口晴哉著 『整体法の基礎』 全生社 pp.39-40)

「気」を意識的に観るようになってから、この数日視界が開けた気がしている。一時期は「気」みたいな漠としたものは観察の対象から外していたけれども、最初に全体の雰囲気を観たうえで、そこから「勢い」の出るように誘導していく視点は大切だ。

ただし「気を観る」といっても、身体を観ていることには変わりはない。自分の場合は目に見えないものが見えるわけではないので、やっぱりこれまでと同じ様に物理的に身体を観ているのだ。

ところが人の関心の置きどころというのは面白いもので、体に関心を持てば体の形が見えるし、心に関心を持てば心の状態が捉えられる。気に関心を持てば、やはりその人の雰囲気とか勢いがダイレクトに感じられる。

最終的に「気力」とか「勢い」さえ出てくれば、どんなものも乗り越えられるのだ。是非善悪を超えたところで、とにかく「俺はやれそうだ」という「気」にさえなればいい。漠とした観念論のようだが、その一方で人間の「意欲」も「ガッツ」も物理的な体勢が精神に反映された結果である。因みにガッツ(guts)とは「はらわた」という意味でもあるらしい。

気と身体というのはちょうど、水とコップのような関係にも見える。器が四角なら水も四角になる。同じ様に、円なら円に、瓢箪に入れれば瓢箪の形になる。当り前だが水ばかりいくらこねくり回そうとしても整えることはできない。目に見えないものも、見えるものも、扱う時には同じ一つのモノなのだ。

実際の臨床では気とか身体とか心とか、どこかに固定的な視点がある訳ではない。集中状態にある時を後から想い浮かべると、見ている自分も対象となる相手もいない。一緒になって何かが動いているような状態だ。感応道交という言葉があるけれども、こういう状態をいうのかなと思った。

心 気 体

<気>
私はそうして心や体の働きをつなぐものは何かを観てまいりました。元気とか、不機嫌とか、気という言葉はいろいろに使われておりますけれども、さて、その気とは何かというと、なかなか答えられない。外国の人達は、オーラとか、ミトゲン線とかいう言葉で説明しておりましたが、それを丁寧に観ていきますと、それらはみんな体の中にある細かい物質の分散なのです。

しかし、私のいう人間の気とは、そういう細かい物質の分散ではなく、分散する力なのです。必要なものを集めてくる力、不必要なものを捨てていく、分散していく力をいうのです。細かく分散されたもの、それが気ではないのです。物質を吸収したり発散したりする力、それが気である、心と体をつなぐ力、それが気なのです。だから精神の集中の密度が濃くなると、気は旺んになります。体を動かすことが活潑になると、気も旺んになります。

整体指導の技術の基は、この気をどう使うかということだけで、心とか体とかそういうものにはこだわらない。気の停滞、気の動かし方、気の誘い、気の使い方といったように、体に現れる以前のもの、物以前のものを、物以前の力で処理していく、それが技術の基になります。(野口晴哉著 『整体法の基礎』 全生社 pp.38-39)

この1、2年ばかりは「気」については何も考えていなかった。飽きてしまったという感もあって、もっぱらフィジカルの研究に没頭していたのだ。

当然だけど「気」の方ばかりを先立てて研究していても限界があるし、かといって物質的アプローチだけで人間を観つづけるには説明のつかない動きが山ほど出てくる。やっぱり目に見えないものも大切だ。

だから「気」というものは理解しきれるものではないけれども、放っぽっておいて良いということもない、と思う。いまのところ、「もの」と「気」は同じひとつのことだということで研究している。

気で気を誘導するうえで邪魔になるのが、随意筋の緊張である。整体操法を修得するには、身体をつくるのに10年、それから技術を身に付けるのに10年で、計20年という話を聞いたことがある。

どんな職業においても「技術」を行うには、まずそれが可能な身体にならなければならない。整体の場合は差し詰め「気の身体」というようなものだと思うのだが、その習得方法がずっとわからなかった。

今の年齢になって気づいたのだが、「わからない」、「できない」ということはワクワクするものだ。成長の可能性を突き付けられているのだから。逆にできるはずのないものがスラスラできてしまっている時は、やはり何かがズレているのだ。これはこれでオカシイ。

気の話から観念論に流れたが、気と肉体、技術はすべてリンクして同時的に学べるというのが、ここ最近の発見であり、おどろきだったのだ。人間の探求には終わりもないし限界もない。これ以上ないくらいおもしろい世界なのだ。

汗の内攻

 四月も半ばになると、温かさを通り越して、少し暑い感じの日があり、そして翌日は、また寒くなるというようなことがあります。すると予定していたようにドカドカと、病気が増える。これは明らかに汗を出して、そのまま冷やしたためです。そういうことが毎年あるので、今日は汗の話をしようと思います。

…汗をかいて冷たい風に当ると、風邪を引く。寒いから風邪を引くわけではない。汗をかいたのに、それを冷やして風邪になるのです。そういう風邪は“汗の内攻”というべきもので、ドカドカと熱が出て、汗をかいてしまえば、自動的に治ってしまうのです。その汗を冷やすと、いろいろな変動がおこりますが、またその汗をドカッと出せばそれっきりよくなります。

冬の風というのは、真向かいに受けると、心臓に影響があります。向かい風が悪いのです。ところが、暖かになってからの風は、背中に受けると内攻しやすいのです。夏は背中の風を警戒し、冬は向い風を警戒するというのが、吾々の常識になっています。

…それでは、汗が内攻すると、どういうような徴候が起こるか。

先ず、だるい、手足が重い、皮膚が硬張る、筋肉が痛む。また呼吸が苦しくなる、体がむくむ、妙に眠くなるというのも、みんな汗の内攻の徴候なのです。汗の内攻は、必ず呼吸器に影響があります。(野口晴哉著 『体運動の構造 第一巻』 全生社 pp.19-22)

一昨日汗の処置について書いたので、文献でおさらいした。毎年初夏になるとこの作業を一回はやっている気がする。

「汗を冷やした」と言った時に原因としてダントツにあがるのはエアコンです。電車などでは早々とクーラーが掛かっていたりするので、通勤途中でかいた汗をそのまま冷やして体調を崩すことが多い。そのままうっかり寝てしまうと余計にこたえる。眠ってしまうと体温調整が行われにくいので、無防備になる。特に着衣が湿っている時は風に注意したい。

それから寝冷え。春は寝入りの時間帯に比べて明方が冷えるので、できるだけ外気の寒暖差に冒されにくいよな環境を心がけよう。

さて一度引っ込んで内攻した汗を出すには、後頭部を蒸しタオルで温めるのが有効だ。だるさが抜けるまでタオルを絞りながら繰り返し当てていく。そうするとどこかで皮膚が弛む感じがわかるので、そうしたらそこでやめる。朝晩行えば1~2日くらいで汗の内攻によるダルさは抜けてしまう。

経験がないのだが、サウナも良い気がする。古来から「温熱療法」というのは形を変え、姿をかえて何度となくリバイバルされてきたものだ。それだけ「冷やす」というのは万病の種なのだ。汗は身体を冷やすために出るんだけど、その性質と処置は知っておくといい。

春から初夏にかけての「汗」の処置

先週のことだったが太郎丸が汗を冷やして風邪を引いた。とても暑い日で保育園で外遊びの後に汗を冷やしたらしい。

こんな風に一度出た汗をそのままにして、風にあたると、冷えて内攻する。整体では晩春とか秋口になると汗の処置をよく指導するのだ。

一般的には汗が身体に及ぼす影響はほとんど知られていないけれど、「汗の内攻」は風邪や肺炎のもとになるから軽視してはいけない。とくに月齢が浅いと重篤な状態にもなりかねないので、特にこれからは窓からの風やクーラーには注意が要る。

予防策としては、汗をかいたらすぐに拭くことだ。そして肌着も替えること。あたり前すぎで有難味がないんだけれど、実生活の場で本当に役立つ知恵はこういうものだったりする。

すでに調子を崩してしまった場合には、お風呂で身体を温めれてやればいい。そうやって引っ込んだ汗がまた出てしまえばいいのだが、知らないと割とめんどうな体調不良に発展しやすい。

とりわけ子供の風邪を扱う上で、こういう「汗の処置」を知っているかいないかで経過がだいぶ違う。たったこれだけのものでも、嗜みとして覚えておくといい。

眠りの質

弛めるためには眠るということが一番役に立ちます。皆さんは整体指導というと、操法して弛めるつもりになっておられるが、操法してひと寝入りしたあとの体の状態というのが大事なのです。操法する場合に、必ず相手は眠るものとして、その眠りをどう活かすかということで進めていく。このことを知っているか知らないかで、上手か下手かに別れるのです。つまり整体では、眠りということを弛みの一番の代表として、操法の中に取り入れているのです。

ほんとうに深く眠れるようにさえすれば、あとは何も要らない。あとは自動的に恢復するように人間の体は出来ているのです。だから眠りの問題をもっと研究する必要がある。(野口晴哉著 『体運動の構造 第一巻』 全生社 p.66)

よく「寝ても寝ても寝足りない」などというように、同じ人であっても睡眠には長短の波がある。一般には長く眠れることが良いと考えられがちだけど、睡眠時間が長いのは身体があちこち偏って疲労しているのであって実は良い状態とは言えない。逆に全身くまなく疲労して眠ると短時間で済むのだ。

自身の体験として、大学時代に日曜日になるとまる一日空手の強化練習に出ていた時期がある。夕刻に練習が終わると駅まで歩いて帰るのもイヤになるような疲労度合だったのに、次の日は必ず日の出と同時に目が覚めるのが不思議だった。今から考えると、全身クッタクタになるまで使い切ったことで眠りが異常なまでに深かったのだ。あんなに身体を傷め付けるような練習(?)はもう絶対したくはないけれども、体験知としてはいい学びになった。

整体では身体を傷めずに、繊細な刺激を使ってその人なりの偏り疲労を正していく。これによって眠りが深くなるわけだ。しかもそういう状態が何日もつづくように身体感覚を発達させるのが目的である。

今から思うと、仕事を始めた当初は身体の固い人が来るととにかく「ゆるむ」まで粘ろうとして苦労していた。現在は拙いながらも「眠り」を技術として使うことを覚えたことで相手も自分もあまり疲れなくなったのだ。最近は特に、「技」というのは「力」の対極にあることを噛み締めている。

一点注意が要るのは、眠りが短くなると「眠れなくなった」と心配されることがある。巷では「睡眠時間」を重視する傾向が強いので当然と言えば当然だが、とにかく眠りは「時間」ではなく「質」に依っている。これを説明ではなく体験として理解していただけたら、一回の操法がきちっと当ったと思っていいだろう。

起きている時間の効率化は多くの方が取り組まれるのに対して、眠りの効率化は盲点になりやすい。ところが古来から一流と言われるような人たちはみんな眠りを大切にしてきた。一日の過ごし方は人生の縮図と言われるが、充実した一日は深い眠りからはじまる。だからこそ眠りの質を高める整体操法は「人生を充実させる技術」だと言えるのだ。

悩みが消える眠り

筋肉が緊張すると、体が硬くなります。弛むと柔らかになります。体中が硬くなっているときは緊張しています。体中が弛んだときは弛緩しています。そして、弛めているのに弛まないところがあれば、それは異常です。例えば、会社が終わったあとでも会社の仕事が頭から離れないでいるときは肩が弛まない。胸椎の五番から上が弛まないのです。それが異常なのです。そういう場合には、目が覚めても、体の疲れがとれていない。だから眠いのが続いて、もう一度寝直さないと目が覚め切らないのです。
もう一つは、腰椎の一番が硬直している場合で、この場合も、同じように弛みません。ところが深く眠ると、腰椎の三番が弛んできます。三番が飛び出しているうちは、深く眠っていないのです。だから腰椎一番、三番を観れば眠りの状態が判ります。(野口晴哉著 『体運動の構造 第一巻』 全生社 pp.65-66)

最近、整体の途中で受けている方がよくコクッと寝てしまう。仕事の時間的制約を考えれば決して褒められた技術ではないのだけど、眠くなってしまうのだからしょうがない。

上手な身体使いというのは「使い方より休め方」で、ゆるみの良い身体ほど、いざ使うときに無理・無駄なく全力が出せるようになっている。だから整体の技術というのは、おおむね、身体が弛むような刺戟を使うことで成り立っているのだ。

引用に出てくる胸椎五番というのはだいたい肩甲骨の間、中でも一番狭い辺りだ。現代人の疲労傾向として、この五番から上が硬いというのは非常に多く見受けられるのだけど、この硬さが進行してくるとやがては「うつ」とか「ノイローゼ」の状況にもなってくるから注意が要る。

うつは「心の病」という風に括られがちだけど、やはり身体の疲労状態ともリンクしているのだ。身体が上手く弛めば、そういう心的疲労も解消されるようになっている。

そして身心が弛むには「眠り」が重要だ。デール・カーネギー氏の『道は開ける』でも悩みを解決する良策の一つに昼寝や早寝などの「眠る習慣」を挙げている。それでは、ただ眠れば何でも良いかというと、そこで「質」という問題を無視できない。

この眠りの質を高める、ということが整体では重要な仕事だ。整体は「受けた直後」ではなく、「一晩眠った後の身体」で仕事の質が判る。次の日起きたときの身体を観ることが出来れば研究がはかどるのだけど、それはできない相談なのでなるべく前回からの経過を聞くようにしている。

共通して言えるのは指導中にふっと眠ってしまった方は、それ以前の「悩み」が消えている。当初は不思議に思っていたが、よくよく考えれば、問題事とか悩み事の正体は「思念」なのだ。眠りというのは尊い。どうにもならない問題をあれやこれ考えはじめたら、身体をよく弛めて深く眠ることを心がけたい。