のり超える力

治療するの人 相手に不幸を見ず 悲しみを見ず 病を見ず。たゞ健康なる生くる力をのみ見る也。不幸に悩む人あるも、そは不幸をのり超えざるが故也。不幸といふも のり超えれば 不幸に非ず。悲しみとて 苦しみとて のり超え得ざるが故に悲しみ苦しみなれど、のり超えれば悲しさに非ず 苦しさに非ず。のり超えたる苦しさは楽しき也。のり超えたる不幸は幸せ也。のり超えたる失敗は成功の基也。不幸あるも悲しさあるも 苦しさ辛さも 要すればのり超える力無きが故也。のり超える力誘ひ導き、その人の裡より喚び起すは治療する人の為すこと也。不幸も 苦しみも 力を喚び起す者の前には存在してをらぬ也。

病も又同じ。のり超える力導く者の前には 病も老いることも 又無き也。あるはただ生命の溌剌とした自然の動きあるのみ。その故に治療する者は生命を見て病を見ず、活き活きした動きを感じて苦しむを見ず。苦しむを見 悲しみを見 病めるを見るは、それをのり超える力を喚び起すこと出来ぬ也。

それをのり超える力喚び起す為には 治療するの人自身 何時如何なる場合に於ても 自ら 之をのり超えざる可からず。導くといふこと 技によりて為すに非ず 言葉によりて為すに非ず。たゞのり超える力 裡にありてのみ その力 相手に喚び起すこと出来る也。それ故治療するの人 悲しさをもたず 苦しさを知らず 病を知らず 不幸に悩むこと無く生く可き也。常に楽々悠々生きて 深く静かに息してゐる者のみ 治療といふこと為すを得る也。(野口晴哉著 『治療の書』 全生社 pp.58-59)

以前松下幸之助さんの伝記を読んだときに、しばしば他の経営者の悩みに応えるくだりがあった。自身の会社の苦境を何度ものり超えて来た経験が指導料力の源になっているのだ。

ちょっと変わって、江戸・明治にかけての剣豪 山岡鉄舟にもよく悩みを抱えた人が面会に来たそうだである。一緒に座っているだけで心のもやもやが晴れてしまうような力があったようだ。

何にせよ相談相手というのは重要だ。力のある人なら「そんなの大したことない、大丈夫だ」と応えるものも、力のない人は「むずかしい、無理だ、やめておけ」とぱっさりいってしまう。みんな自分の延長として相手の力を測っているのだ。

よく考えれば相談する相手も先に自分で選んでいるのだから、どちらに責任があるかというと答えにくい。力のある指導者を見分けられるのも本人の実力の内かもしれない。

逆に指導者たるものは、自分の裡なる力をつねに開拓しているからこそ人の可能性も開けるのだ。整体指導の場では、時に八方塞り、絶体絶命ともいえるような状況を突破するような人たちをたまさか見てきた。「どっこい生きている」とはよくぞ言ったもので、人間というのはしぶといなと思うようになった。時に「艱難辛苦汝を玉にす」という言葉もあるように、苦境ものり超えてしまえば大輪の花を咲かせるための肥料に等しい。

しかし人に全力発揮を説きながら自分自身の力をどれくらい使っているのか省みると、まだほんの2~3%くらいではないかと思っている。苦労は買ってでもすべしとは思わないが、やはり知恵も体力も追い詰められた時に本当のものが出てくるのだ。

できることならこの仕事を通じて「人間の限界」を見極めてみたいと思っているが、その一方で人間というのはやはり底知れない気がしている。自分の中にまだ見ぬ力を感じているし、気がつけば知らない間に相手の力も信じられるようになっていた。生きている人間の中には強い弱い、大きい小さいというもので測りきれない「何か」がある。

畢竟「健康」とか「幸せ」というのは、裡なる力を積極的に使いつづけている状態を指すのだ。だいたい地球上で人間ほど変幻自在な生命もないのではないか。その自在さを余すことなく使い切ってこそ整体をやった甲斐もあるだろう。力は生きている内に使うものだ。休むのは後でいくらでもできるのだから。